新井田さゆりさん/声楽/カリアリ夏期国際音楽アカデミー/イタリア・カリアリ

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。

 

新井田さゆりさん
新井田さゆりさん

新井田さゆりさんプロフィール
高校3年で歌を始める。鹿野道男先生に師事。現在、東京音楽大学大学院声楽専攻オペラ研究領域在学中。2008年イタリア・カリアリ夏期国際音楽アカデミーでペギー・ブーヴレ氏に師事。2006年より三年連続特待給費生。2007年東京音楽大学卒業演奏会、同年第77回読売新人演奏会、同年埼玉新人演奏会に出演。また、JT主催アフタヌーンコンサートに2回出演。


-簡単な自己紹介をお願いします。

新井田 高校3年生の6月に声楽を習い始めて、それから東京音楽大学の声楽演奏科コースに入りました。現在は、大学院の2年生です。声楽専攻オペラ研究領域に在籍しています。

-高校3年生で歌を始めるまで、専門的に歌を学んだことはなかったんですか?

新井田 はい、なかったです。

-では、高校3年生のときに歌を始めたのはどうしてですか?

新井田 中学と高校が特別音楽に力を入れている学校で、合唱発表会があったんです。そのときに東京音大の先生が合唱指導にいらして、その先生が私の声を聞いて「音大に行ったらどうだろうか」と言ってくださり、その言葉を聞いて、私にもできるならやってみたいな、と思ったのが歌を始めたきっかけです。

-今もその先生に習っているんですか?

新井田 いえ、違います。そのときにその先生に東京音大の鹿野道男先生を紹介していただいて、高校3年生の6月にゼロから習い始めました。

-6月に始めて、それで声楽演奏科コースに合格したというのはすごいですよね。

新井田 もうとにかく必死で勉強しました。始める時期も遅かったので、2月の入学試験までの8ヶ月間は死に物狂いで、脇目も振らずに勉強しました。楽典などの基礎知識もなかったし、ピアノも弾けなかったんです。そうして必死でやっていると、自分でもみるみるうちに声が伸びていくのがわかりました。

-ええ、ええ。

新井田 もし声楽演奏科コースが無理でも声楽科コースで通るだろうと思えるくらいまでは成長していました。その頃は、人前で歌うということも全くしていなかったので、入学試験でも全然緊張しなかったんですよね。それがよかったのか、無事に合格しました。大学入学後の2年間はサボっていて、とても不真面目な生徒だったんです(笑)。でも、大学3年のときに釜洞祐子先生と出会い、先生の手ほどきで音楽の素晴らしさや楽しさを知り、自分で勉強していくことの大切さを知って、今では歌なしの人生は考えられないというぐらい歌を優先しています。

-今まで勉強は大学で主にされてきたんですよね?

新井田 はい、大学で全部やってきました。

 -そうすると海外の講習会に参加されたことはありましたか?

新井田 いえ、ないですね。

-今回、海外の講習会に行きたいと思ったのはどうしてですか?

新井田 アンドビジョンに私の友人が勤めていまして、その友人に留学を考えていると相談したら、いろいろな情報をメールマガジンというかたちで定期的に送ってくれたんです。それで、海外に行きたいとのは思っていたんですが、具体的にどの講習会に参加したいということはなかったんです。そんなとき、たまたまメールマガジンで今回のカリアリの講習会が紹介されていて、講習会の内容うんぬんよりも「サルディニア島に行ける」、「世界遺産の素晴らしい地中海を望む美しい街で講習会ができます」という謳い文句に私は食いつきました。それが一番の動機ですね(笑)。

-海外に行かれたことはありましたか?

新井田 いえ、今回が初めてでした。

-興味があった国はありますか?

新井田 漠然と行くならヨーロッパ圏がいいなと思っていたので、特に国は決まっていなかったです。それから、今、学校で主に勉強している音楽がフランス音楽だったので、フランス語やフランスの文化を知りたいなと思いました。カリアリはイタリアですが、今回の講習会は講師人がフランス圏ということで、それにも興味を持ちました。

ペギー・ブーヴレ先生のレッスン
ペギー・ブーヴレ先生のレッスン

-ペギー先生のレッスンの雰囲気はいかがでしたか?

新井田 ペギー先生って見た目はすごい声を出すんだろうなって思うくらい立派な体格の方なので、私自身はわりと痩せ型なこともあって、ペギー先生との体格の差に度肝を抜かれてしまって、先生についていけるのかどうかすごく不安だったんです。でも、ガイダンスが終わって、先生に挨拶に行ったら、すごく優しい笑顔で迎えてくれたので、安心しました。レッスンもとっても丁寧に教えてくれましたね。もともと日本で勉強してきた声の技術を活かしながら、先生がそれに上乗せしてレッスンしてくれるという感じでした。あまり否定はされずに、褒めて伸ばすタイプの先生でした。

-レッスンで印象に残っていることはありますか?

新井田 ペギー先生が自分で歌って見せてくれるのがとても印象的でしたね。もしかしたら言葉の壁があったからかもしれませんが、理屈とかではなく、英語でもフランス語でも伝わらない部分があれば自分を見本にして見せてくれる、それを真似してみなさいという教え方がとっても印象的でした。

-先生の声はいかがでしたか?

新井田 とっても「ビューティフル」、美しい声でした。低いところから高いところまでムラなく出ていて、音楽に対する知識もすごく豊富で、オペラや室内楽、他の歌曲など、声楽と呼ばれるジャンルならどの曲を持っていっても、それこそミュージカルナンバーを持っていっても、ちゃんと教えてくれる人だと思います。

-新井田さんはどんな曲を持っていったんですか?

新井田 私はプーランクのオペラの声を全曲とリゴレットを持っていきました。

-今度の卒業試験の曲も教えてもらったんですよね。

新井田 教えてくれました。先生の持ち歌なのかわからないですが、私のやりたい曲の主人公の心情になって指導してくれて、素晴らしかったです。うまく説明できないのですが、苦しみの中で愛しているって言いながら死んでいくシーンがあるんです。それを先生がやってくれたんですけど、そのときに椅子の上からズルズルと体を落としていって、「愛してる」って言うのよ、って。そしたら、先生がずり落ちすぎて立ち上がれなくなっちゃって、みんなで助けて、「大丈夫ですか? 先生!」って、起こしたんです(笑)。すごく楽しかったんですが、それぐらい先生は真剣に教えてくれたんですよ。

-先生のレッスンを受けている人は何人くらいいましたか?

声楽レッスン後にみんなで!
声楽レッスン後にみんなで!

新井田 私を含めて9人ですね。日本人が私を含めて2人、中国人が1人、フランス人が3人、ギリシャ人が1人、ナイジェリア人が1人、韓国人が1人。歳はだいたい23歳か24歳でした。

-聴講はされましたか?

新井田 聴講するようにと先生が言ったので、常に部屋には9人生徒が揃った状態で、1人が歌っているのをみんなで聴いていました。

-聴講というスタイルはどうでしたか?

新井田 とっても刺激になりました。自分が教わっているときにわからないことでも、他の人のレッスンを聴講することで、客観的に見えてわかったり、あるいは自分がやっているときに、他の子たちが見て盛り上げてくれて、それによって自分の中で眠っていたテンションみたいなのが出てきたりしました。とても情熱のあるレッスンでしたね。毎回、朝からテンションアップで、先生が言ったことをきちんとできた子がいたり、望んでいる声が出たりすると拍手して盛り上がっていました。

-すごいですね。

新井田 はい。それをいろんな科の子が噂で聞きつけて、歌のレッスンはほとんど満員、日によってはレッスン室に入りきれないくらいギャラリーが増えたときもありました。それくらい明るいレッスンだったんですよ。本当に幸せな一時でした。みんながみんな音楽を楽しんでいる感じがうれしかったですね。

-そういうことって日本ではなかなかないですよね。

ペギー・ブーヴレ先生
ペギー・ブーヴレ先生

新井田 ないですね。多分、ペギー先生の人柄だと思います。さすがですよね。

-レッスンは何回くらいあったんですか?

井田 1時間のレッスンが1人最低4回はありました。朝の10時に始まって、2〜3人受けて、みんなでお昼ご飯を食べに行って、2時くらいからまた2〜3人入って、5時くらいまであって、そのあとは解散か、それぞれ自主練をするという感じでした。

-レッスン以外の時間は練習したという感じですか?

新井田 そうなんですけど、ここだけの話、練習をせずに、みんなで遊びに行くこともありました(笑)。5時にレッスンが終わるので、6時くらいに待ち合わせをして、そのまんまバスで海に行ったりしました。

-他の受講生と仲良くなれたんですね。

ランチタイムにみんなで!
ランチタイムにみんなで!

新井田 本当にとても仲が良くて、みんなで朝ご飯を食べて、レッスンを受けて、海に行って、またみんなで夜ご飯を屋上で食べて……。寮に屋上があって、隣接してキッチンがあったので、そのそばでみんなでご飯を食べました。

-海外の人と仲良くなるコツは何かありますか?

新井田 基本の挨拶をちゃんとすることだと思います。会ったら「Ça va?」って、毎回挨拶していましたね。それから、リアクションをちゃんとするということです。少しでも相手の言っていることが分かれば、「あなたの言っていること、すごくわかるわ」というリアクションをすれば、あなたに対して理解を示しているのよ、あなたととても仲良くなりたいわ、という感じが伝わると思います。今回はみんなその空気を出していて、誰一人として人見知りする人もいなかったんです。とても幸せなことに、みんなと仲良くなりたいと思ってくれている人たちばかりだったので、みんなのおかげで仲良くなれた感じです。

-その人たちとは今も連絡を取っていますか?

新井田 はい。全員と連絡先を交換して、パソコンでメールを交換しています。

-あまり練習はされなかったですか?

新井田 いや、練習もちゃんとしましたよ。学校の中に練習室がいくつかあっって、先生は「聴講するように」と言っていたんですが、あまりにも声の質が違う人や、自分はソプラノなので、メゾの人がレッスンを受けているときはレッスン室を外れて、練習していました。

-どのくらい練習できましたか?

新井田 望めば望んだ分だけできましたね。

-部屋はけっこう空いていたんですか?

新井田 そうですね。歌なので、アップライトでも、あるいはピアノがなくても、発声だけできればいいので、空いている部屋があれば、スタッフの人に頼んで鍵をもらって練習することができました。

-環境はいかがでしたか?

新井田 環境は何の問題もなかったです。窓を開ければ涼しくなるし、窓を開けていても誰にも文句を言われませんでした。

-カリアリの街はどうでしたか?

新井田 坂道がすごく多くて、凸凹した街でした。あるときレストランにご飯を食べに行ったときに、お店が坂道の途中にあって、机と椅子が斜めっていたんですよ。それで、友達が「こんなに斜めっていたら、食べられない、まっすぐにしてほしい」って、お店の人に言ったんですよ。そしたら、お店の人が「いや、それがこの街だから」って。「斜めなのが、この街の特徴よ」と言われました(笑)。いい意味でそんなふうにおおらかで、みんなが街に沿った生き方をしていました。

-景色はいかがでしたか?

新井田 きれいでした。海外に行ったことがなかったので、他の国と比べられないのですが、建物がすごく美しい造りで、どこを撮っても絵になる街でした。

-移動はどうされていましたか?

新井田 バスです。一度故障で停まってしまったときがあって、その日は歩きました。坂道がすごいんですよ、途中に休み休み歩いたので、バスだと10分くらいのところが30分くらいかかりました。

-バスのチケットはどうされていましたか?

新井田 学生寮のすぐ目の前にキオスクがあったので、そこで7日間乗り放題で10ユーロのバスカードを買いました。一度バスに通してから7日間有効で、7日間は乗り放題なので、学校に行くのにももちろん使いましたし、他にもスーパーやレストラン、海にもバスで行きました。とても重宝しましたね。

-バスのダイヤの乱れはなかったんですか?

新井田 ありました。あったんですが、バスの本数がわりと多かったので、あまり困ることはなかったですね。全く時間通りには来ないんですけど、その分思わぬところで拾える感じです。電光掲示板にあと50分後にバス来るって書いてあるのに、すぐ来たりするんですよ。電光掲示板の意味が全くなかったです(笑)。

-バスはわかりやすかったですか?

新井田 はい。日本みたいに親切に停留所のアナウンスはないので、自分で風景を覚えてここで降りるんだなと覚えなければいけませんが、日本と同じようにボタンを押して、降りるという意思表示ができます。ただ、運転はすごく荒かったですね(笑)。でも、歩行者を大切にするんです。ちょっとでも道路を渡りたそうな人がいたら、どんなにスピードを出している車でも停まってくれるんですよ。それは日本と全然違いますよね。運転は荒いですけど、みんなマナーはよかったです。

 -外食ではどんなものを食べたんですか?

新井田 イタリアン料理です。ピザやカプレーゼというイタリアのトマトのサラダ、あとはラザニアやフンギといったパスタ料理ばかりでした。

-おいしかったですか?

新井田 おいしかったです。特にチーズがとてもおいしかったです。ただ、サラダが日本と違って味がないんですよ。オイルで食べるんですよね。だから、ドレッシングを持っていったらよかったかなと思いました。

-いくらぐらいでしたか?

新井田 だいたい1人20ユーロいくかいかないかくらいで、結構高かったですね。なので、ほとんどスーパーで買って自炊しました。

-スーパーは寮の近くにあったんですか?

新井田 はい、徒歩圏内で行けるところにありました。とても大きいマーケットなので、ほとんどのものはそこで揃えることができました。寮はキッチンは付いていたんですが、フライパンなど一切の調理道具がなかったので、みんなで割り勘で買いました。

-仲が良い人がいてよかったですね。

新井田 本当にそうですよね。あとは、日本人がすごく多かったのも、他の科の子と仲良くなれたきっかけです。

-学生寮は安全でしたか?

新井田 それぞれの部屋に鍵が付いていて、外に出るときは鍵を受付に預けるシステムでした。帰って来て、鍵を受け取るときは、自分の鍵の番号を言わなければいけないので、それで棟のセキュリティーが守られていたんだと思います。

-生活面で困ることはありませんでしたか?

新井田 なかったですね。お湯がちゃんと出るシャワーもありましたし、お水も出るし、トイレも水洗トイレですし、冷蔵庫もあったし、電気も点くし、窓もあったし、すごくきれいな部屋でしたね。

-受講者はみんなそこに泊まっていたのですか?

新井田 はい、そうです。カリアリの講習会に参加していないバカンスで来ていた学生も泊まっていて、一般公開で宿泊施設として使っているようでした。話してみたら音楽と関係ないことをしていて、「何でここに泊まっているの?」と聞いたら、「ここはみんなに宿泊を開放しているんだよ」と教えてくれました。そんなふうに普通に観光に来ていた友達もできました。

-何語で話したんですか?

新井田 その人はアラブ系のイタリア人だったので、イタリア語でお話しました。

-イタリア語も話せるんですね。

新井田 学校が全部イタリア語だったので、イタリア語も使いました。寮の友達と話すときは、フランス語や英語だったんですが、お店やレストランやバス、あとスーパーでは全部イタリア語でしたね。

-語学はどのくらい勉強されたんですか?

新井田 フランス語は一応半年間、語学学校に通っていたんですが、それ以外の英語やイタリア語は、学校で文法を習う程度なので、自分でもよく話せたなと思います(笑)。

-英語はけっこう話せますか?

レッスン風景はこんな感じです
レッスン風景はこんな感じです

新井田 聞き取れはするんですけど、返せないこともありました。でも聞き取れたときはリアクションをするので、みんなと仲良くなれましたね。話が通じていると、みんな話しかけてくれるんです。私たち日本人でも、話しかけたときに向こうが“なんて言われたんだろう”って顔をしていると、ちょっとコミュニケーションがとりづらいなと思ってしまって、話しかけづらいと思うんです。“わかっているよ”っていうのをオーバーなくらい出せば、向こうも話しかけてくれますね。

-留学中に困ったことはありましたか?

新井田 特になかったです。バスが途中で停まってしまったときはかなり焦りましたけど、一人じゃなかったので、みんなで仲良く歩きましたし……。一人ではあまり行動しませんでした。なるべく現地のことをわかっている子や、言葉がわかっている子と一緒に行動するようにしていました。

-快適に過ごせたんですね。

新井田 困ったことと言えば、私の帰る日、7日の日曜日に、ちょうどローマ法王がサルディニア島に来まして、一切の交通機関が使えなくなっちゃったんです。ローマ法王を崇める人たちで道路が塞がってしまって、学校から寮に帰れなくなってしまったんです。警察に頼んだんですが、警察は対処してくれなくて、遠回りすれば寮に戻れる感じだったので、人だかりを避けて、こっちの方向だろうと感覚だけで帰りました。遅くなってしまうと、飛行機間に合わなくなってしまうので、必死で帰りました。街のみんながお祭り騒ぎで、いくら私が「寮に帰りたい」ってイタリア語で言っても、全然聞いてくれなくて、むしろ「一緒に盛り上がろう」みたいな……。結局、無事に寮に着いて、目の前の広場から空港行きのバスに乗ってなんとか間に合いました。

-カリアリの人たちはどんな人でしたか?

新井田 おおらかで、陽気でした。みんな笑っていましたね。日本人とかわかると、「ちょっと待ってください」とか「また来てください」とか、話しかけてくれました。

-治安はどうでしたか?

新井田 悪くなかったです。日本と同じような感じでした。悪い人も、ジプシーも、物売りもいなかったです。カリアリはリゾート地だからか、平和な街でした。

-日本と違う点を何か感じましたか?

新井田 大きいお札を嫌うことです。2ユーロくらいの買い物に10ユーロを出してしまうと、もうダメです。「両替してこい」って言われますね。面倒くさいみたいで、おつりをくれないんですよ。一度、43.75ユーロくらいの買い物をしたときに50ユーロで払おうとしたんです。でも、お店の人は0.25とか0.55といった細かいところを払ってほしかったみたいなんです。私はお札しか持っていなかったので、すごく嫌な顔をされて、おつりを小銭で渡されて「グラッチェ(ありがとう)」って言ったんですけど、「アリヴェデルチ(さようなら)」って言われました。普通、ありがとうって言ったら「プレーゴ(どういたしまして)」って返ってくるんですけど、さようならと返ってきて、寂しかったですね。

-他には何かありましたか?

新井田 参考になるかは分かりませんが、イタリアだからといって、コーヒーが特別おいしいということはなかったです。日本のほうが凝っているんじゃないかと思いました。

-向こうの方がこだわっているのは伝統料理なんでしょうか?

新井田 こだわっているというより、普通に味を付けたのが、めちゃめちゃおいしいんだと思います。隠し味っていう感じの味ではなくて、ただ素直にトマトの味がおいしいとかチーズがおいしいとかパンの生地がおいしいとかパスタの生地がおいしいとかそんな感じでした。

-日本食はありましたか?

新井田 中華料理とか日本料理とかどうやらあったらしいんですけど、私は行かなかったです。

-演奏会はありましたか?

新井田 先生たちの演奏会があって、すばらしかったです。ハープやフルートなど、歌以外のプロの演奏会になかなか行く機会がないので、すごくよかったです。

-どこで行われたんですか?

新井田 カリアリの学校のそばにある劇場でした。普通のホールで、真っ赤な絨毯でオペラ劇場のようなところでした。二階建てで、ほんとに広い劇場でした。先生たちの演奏会だけでなく、残っている学生はみんなそこで演奏会をしたようで、「すごくよかった」って後からメールで聞きました。

-留学して、成長したなと思えることはありますか?

講習会の友達と共に。
講習会の友達と共に。

新井田 世界の広さを肌で感じたのは、自分にとっていい経験になりました。自分が幸せな環境で暮らしているということも、日本にいるとわからなくて、世界にはいろんな人がいることを知りました。今回は、音楽の留学ということで集まっているので、それなりに裕福な方も多いのですが、その国その国で、国ごとに文化があって、歴史があって、そんななかでその子たちが育ってきて、生きていく術を学んでいるということが分かりました。

-なるほど。

新井田 一緒に話していても、日本では理解できないような言動や、おやって思うようなこともあったんですが、それはその子たち独自の国民性なのかなと思いました。例えば、日本人はとてもおとなしいと言われるじゃないですか? 私も言われたんですよ、「おとなしいね」、「なんでもかんでも『うんうん』って感じだね」って。それって、やっぱり国民性というか民族性ですよね。いろんな国の人たちと知り合えて、日本人ってそうなんだなって思いました。自分が意志の弱い人間なんだと、自分を知る機会になったと思います。

-参加してよかったと思う瞬間はありますか?

新井田 私が日本で勉強しているということをわかってくれた、ことですね。

-それはどういう意味ですか?

新井田 日本でもこういうふうに音楽を勉強している人がいる、ということを分かってもらえたことです。ヨーロッパの音楽をやっているわけじゃないですか? 日本人がイタリア語で歌って、フランス語で歌って、ドイツ語で歌って……。向こうの人は、言語に対するそういうストレスもなく歌っている。言葉も国も違うけれど、同じ楽譜を見て同じような勉強を日本でもしている女の子が一人いたのよ、と思ってくれる。自分の声で自分の歌を歌うことによって、友達ができたことがすごくうれしかったですね。言葉がわからなくても同じ曲を歌っていることで、心を通わせて音楽を楽しむことができたのがすごくうれしかったです。

-留学前にしておいたほうがいいてことはありますか?

新井田 語学ですね。もちろん全然わからなくても、困ることはないんですよ。なぜなら、結局は音楽で分かり合えるからです。不思議なんですけど、音楽は音を出すだけで、言葉が分からなくても分かり合えるんです。でも、自分の意思を伝えたり、相手の意思を全部わかりたいって思うときに、語学って必要なんです。どんなに大変でも時間とお金をかけて、語学は準備したほうがいいと思います。これははっきり言えます。付く先生にもよるんですが、付く先生が英語もOKなら、英語とイタリア語、カリアリに行くなら、できればフランス語、英語、イタリア語の3カ国ですね。

-今後留学を考えている人にアドバイスをお願いします。

カリアリ劇場にて
カリアリ劇場にて

新井田 勇気を持って、とにかく行くことですね。行くか行かないかって迷っている人に対するアドバイスというよりは、とにかく行けっていうアドバイスです。どんなに他の人が経験を細かく語ったとしても、行ってみないと、自分が経験してみないとわからないと思います。私もわかりませんでした。だから迷っているなら、行くべきだって思いました。

-短期の留学でしたが、身になることはありましたか?

新井田 ありました。私はたった1週間だったんですけど、自分の性格が変わるというか、すごく成長を実感しました。なぜなら、日本にいると刺激ももちろんあるけれど、それに慣れてしまっているんですよね。例えば、外国人が突然「ハロー」って声かけてくるわけじゃないし、誰か困っている人がいても声をかけるわけじゃない。でも、それが外国では当たり前なんですよね。ちょっとでも目が合えば「サヴァ?」と声をかけてくる。そのときに、自分一人で何かを思っていても仕方がないと思うんです。元気なら元気、元気がないなら元気がないと、どんどん自分を出していかないといけない。話しかけられたくなかったら、話しかけないで、という態度を出せばよくて、中途半端はよくないんです。でも、日本人ってどうしても中途半端にして、それが一つの礼儀みたいになってしまっていると思います。濁して、自分の意見をはっきり言わないほうがいい、そういう環境で育ってきている分、成長できることも、どうしてもそこでストップしてしまうんです。海外に一人でぽんと行くことで、そういうことに気がついて、全然違う自分が出てきちゃうんですよ。

-なるほど。

新井田 もちろん、成長するもさせないも自分次第なんですけどね。一緒に参加していた子も、「自分を出すことが恥ずかしくなくなって、分け隔てなく自分を出せるようになった」って言っていました。そういうふうに自己表現に対する考え方が1週間でだんだん変わってきて、「日本に帰ったら強くなっているかもね」なんて、笑って言っていました。

-へー。

講習会終了の最後の夜...
講習会終了の最後の夜...

新井田 でも、日本に帰ってくると、また日本に慣れてしまって、やっぱり日本の生き方になってしまうんですよね(笑)。でも、それはそれで、この国での生き方なんだな、と、そういう考えもできるようになりました。

-音楽に関してはいかがですか?

新井田 そうですね。本場の人に褒められるっていうのは、うれしいですよね。

-今後の活動の予定を教えてください。

新井田 この留学を活かしていこうと思っています。来年も海外で勉強したいなって思うくらい、海外が好きになっちゃいました。すごく楽しみです。自分もとにかく勉強しなくちゃな、と思うことができました。

-今日は本当にありがとうございました。

 

吉原未穂さん/ピアノ/モーツァルテウム音楽大学夏期国際音楽アカデミー/オーストリア・ザルツブルグ

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。

 

吉原未穂さん
吉原未穂さん

吉原未穂さんプロフィール
東京学芸大学G類芸術文化課程音楽科ピアノ専攻卒業。同大学大学院修士課程教育学研究科ピアノ専攻修了。修了時に、「特に優れた業績を挙げた奨学生」に認定され奨学金を授与される。大学院修了演奏会に出演。第7回日本ピアノ教育連盟オーディション入賞者演奏会出演、第45回・第46回全日本学生音楽コンクール東京大会入選。2008年日本シューマン協会設立35周年記念「ローベルト・シューマン音楽コンクール」ピアノ部門第2位(優秀賞)。2009年ザルツブルク・モーツァルテウム音楽大学国際サマーアカデミーにてフランク・ウィバウト氏に師事。同講習会で、選抜者演奏会(アカデミーコンサート)、修了演奏会出演し、ディプロムを取得。

-まずはじめに、吉原さんの簡単なご経歴を教えてください。

吉原  東京学芸大学芸術文化課程ピアノ専攻を卒業後、同大学院修士課程を修了しました。

-今までに、海外の講習会に参加された事はありましたか?

吉原  いえ、今回が初めてです。

-今回、モーツァルテウムの講習会に参加してみようと思ったきっかけを教えてください。

吉原  フランク先生が日本にいらした時、マスタークラスを受講したのですが、とても素晴らしいレッスンを受けさせていただくことが出来たので。

-フランク・ヴィバウト先生とは、どうやって出会ったのですか?

吉原  鎌倉で、先生のマスタークラスを受講させていただいた事がきっかけです。

-日本で一度、レッスンを受けられたとのことですが、海外で講習会に参加されてみて、違いはありましたか?

吉原  ザルツブルクという自然に恵まれた素晴らしいモーツァルテウムの環境でしたので、いつも以上に音楽へ対して真剣に向き合うことができたと思います。

モーツァルテム音楽大学
モーツァルテム音楽大学

-今回の講習会は、だいたいどのくらいの人数が参加されていましたか?

吉原  ピアノだけではなく声楽や他の楽器の方もいらっしゃいますので、全体としては何千人という単位でしょうか。私が受けたクラスは15人でした。

-この講習会では初日にオーディションがあると思うのですが、15人中合格されたのは何人ですか?

吉原  先生のクラスは、今年は全員合格したようです。

-オーディションの様子はどんな感じでしたか?

吉原  先生のお部屋の前に全員集合して、呼ばれた人から一人ずつ中に入り、面接を受けつつ曲を弾くという形でした。

-オーディションは、どのくらいの時間でしたか?

吉原  人によっては、2曲弾いていた方もいらっしゃいましたが、だいたい1人10分程度でしょうか。

-1曲全部弾くという形ですか?

吉原  はい。先生から何を弾くか聞かれまして、その曲を最後まで弾かせていただきました。

-緊張しましたか?

吉原  そうですね。でも、先生が笑顔で迎えてくださったので、思っていたよりは、リラックスできました。

-オーディション合格後、レッスンのスケジュールはどんな感じでしたか?

吉原  まずオーディションが終了した直後に、レッスンスケジュールが貼りだされました。私は1番目だったので、心の準備も出来ないまま、オーディションが終了して1時間後にすぐレッスン開始でした(笑)。これが月曜日で、火曜日にアシスタントの先生のレッスンが入り、水曜日にもう一度先生のレッスンを受けました。そのときに、アカデミーコンサートに出てみないか、とお声をかけていただいたんです。そして、アカデミーコンサートのため、金曜日に特別レッスンを入れていただきました。

-では1週目から、先生のレッスンが3回もあったんですか!お忙しいスケジュールだったんですね。

吉原  そうですね。1週目でアシスタントの先生のレッスン1回も含めて計4回もあったので(笑)。次の週の月曜日が、アカデミーコンサートだったので、その午前中にも先生がレッスンをしてくださいました。そして、1日置いて水曜日にももう一回。

-レベルに応じて、アシスタントの先生のレッスンのほうが多くなることもあるんですか?

吉原  たぶんそうなると思います。

-レッスンの内容は、どんな感じでしたか?

吉原  先生が、今日は何をもってきたの?と聞いてくださるので、今日はこれですと、用意していった曲を1曲ずつ見ていただく形でした。だいたい、1回のレッスンで1曲1時間です。ソナタのときは半分ずつに分けて、今日は1楽章と2楽章を、という感じでしたね。

-レッスンの雰囲気はいかがでしたか?

吉原  先生は穏やかで、温かいアドヴァイスをくださいます。豊かなイマジネーションをお持ちの先生ですので、「こんな弾き方もあるよ」と、たくさん提案していただいた感じですね。その中から自分に合うものを取り入れていくという形でした。

モーツァルテウム音楽大学
モーツァルテウム音楽大学

-ピアノの弾き方など、基礎なことで指導を受けられたことはありましたか?

吉原  とにかく、「脱力」のことをおっしゃっていました。音楽に沿った体の使い方をしなさいということですね。音のイメージに合った響きを出すために、こういう体の使い方をしてみたら、とか。

-なるほど。先生は、どんな方ですか?

吉原  穏やかで温かく、すごく優しい方です。生徒想いの先生で、アカデミーコンサートに生徒が出る時には、必ず聴きにきてくださりアドヴァイスをくださいました。

-素敵な先生だったんですね。クラスは、どの国の方が多かったですか?

吉原  日本人は5人ですね。その中にはロンドンで先生に習っていらっしゃる方もいました。あとは、アシスタントの先生がスペインの方でしたので、スペイン人がすごく多かったです。

-スペイン人の方のレッスンは聴講はされましたか?

吉原  はい、皆すごく熱心でしっかり準備されていました。

-外国の方の演奏を聴くことは、刺激になりましたか?

吉原  はい、皆それぞれ素晴らしい個性を持っているので、それが音楽として伝わってきまして大変勉強になりました。

-先生のレッスンは、何語で受けられたんですか?

吉原  英語です。

-期間中は、皆さんどこで練習されるのですが?

吉原  モーツァルテウムの練習室を予約して使っていました。

-練習室は何室くらいあるんですか?

吉原  正確な数はわかりませんが、新校舎、旧校舎と、それ以外の場所にもそれぞれ練習室がありました。

-かなりたくさんあったんですね。では、予約が全く取れないということはなかったんですか?

吉原  それはなかったのですが、常に誰かが使っている状態でしたね。

-吉原さんは、1日どのくらい練習されましたか?

吉原  わたしは4時間確保しました。うまく調整して、レッスンの時間と重ならないように使っていました。

-練習時間は確保できたんですね。レッスン以外の時間は主に何をされましたか?

吉原  主に聴講ですね。

-ピアノ以外にも聴講されたりしましたか?

吉原  いえ、ピアノ以外は残念ながらできませんでした。自分の先生のレッスンの聴講がほとんどでした。ただ、他の先生のクラスの修了コンサートを聴きに行くことはできました。また、アカデミーコンサートも、何日か聴きに行きました。

モーツァルテウム音楽大学国際サマーアカデミー
モーツァルテウム音楽大学国際サマーアカデミー

-他には何をして過ごされましたか?

吉原  近隣の観光を少ししました。旧市街にお買い物に行ったり、学校のすぐ裏がミラベル庭園だったので、お昼ご飯を持って、ベンチに座って食べたり・・・。とにかく環境がすごく良かったですね。

-治安はどうでしたか?

吉原  悪くないと思います。怖い思いをしたことは、一度もありませんでした。

-街の人たちは、英語で話しても大丈夫でしたか?

吉原  はい。どこのお店に行っても大丈夫でした。日常生活で、困ることはほとんどなかったです。

-現地の食べ物はいかがでしたか?

吉原  基本的においしかったです。あと、スーパーでも何でも買えますし、マックも便利でした。

-マクドナルドですか。日本のものと味は違うのですか?

吉原  サイズが大きかったですね。でも、意外とリーズナブルに食べられたので良かったですよ。練習で遅く帰ってきたときには、スーパーが閉まっていることもあったので、便利でした。

-スーパーが早く閉まるということを、他の方からもよく聞きますが、実際いかがでしたか?

吉原  詳しくは分かりませんが、8時には完璧に閉まっていたと思います。

-日本とは違いますよね。生活面で何かびっくりしたことはありますか?

吉原  特にびっくりしたことはなかったですね。バスなども、遅れるものだと覚悟していたんですが、意外とちゃんと時間通りに来てくれましたし。

-では、日本人にとって住みやすい所なのかもしれませんね。

吉原  ええ、私にとっては、とても居心地がよかったです。

-宿泊先は、どういうところだったんですか?

吉原  わたしは学生寮に滞在していました。

-寮の中は、どんな雰囲気でしたか?

吉原  練習室もついていますから、モーツァルテウムに参加している生徒さんで、あふれているという感じでした。いろいろな国の方がたくさんいて、にぎやかでしたよ。

-お部屋はシングルルームですか?

吉原  はい、一人部屋で、お風呂もちゃんとお部屋の中にありました。驚いたのは、廊下をはさんで部屋のすぐ向かい側に、キッチンも一人ずつ完備されていたことです。まさに、ロッカーのような感じですね。ロッカーを開けると、冷蔵庫とコンロが出てくるという感じです。好きな時間に気兼ねなく料理が出来るので、とても便利だと思いました。

ザルツブルグの街
ザルツブルグの街

-それは便利ですね!では、ずっと自炊されていたんですか?

吉原  はい、少し・・・(笑)。なかなか忙しくて・・・。

-他の方とご飯を食べに行ったりはされましたか?

吉原  ええ、同じクラスの生徒全員で、先生と一緒にご飯を食べに行ったりもしました。

-他の国の方とも交流する機会があったと思うんですが、日本人以外の方とお友達になったりしましたか?

吉原  そうですね、話す機会はありました。同じクラスのスペイン人の子達と、英語でお話したりしました。

-外国の方と接してみていかがでしたか?

吉原  やはり、同じ目的を持って集まってきているので、親しくできました。でも、自分の英語力が不足していたと痛感しました・・・。

-語学力の必要性を感じた、ということですね。

吉原  はい、すごく感じました。勉強しよう!というきっかけになりました。

-頑張ってください!海外の方とコミュニケーションをとるにあたって、うまく付き合うコツなどはありますか?

吉原  やはり恥ずかしがらずに、自分から話しかけていくことでしょうか。

-他の国の方は、どんどん話しかけてこられましたか?

吉原  ええ。みんな温かい人たちで、良く話しかけてくれました。でも、何せ私が英語が少ししかできないので、うまく返せなかったりして・・・。もっと話したかったな、と思います。

-年齢層としては、若い方が多かったんですか?

吉原  そうですね。やはり大学生が多かったです。下は18歳くらいからですね。

-期間中は何か困ったことはありましたか?

吉原  特になかったんですが、一度熱を出してしまって・・・。2週目のアカデミーコンサートが終わった後、ホッとして気が緩んだのか、体調を崩してしまいました。その日が、ちょうどクラスの修了コンサートの日だったんです。でも、日本から持っていった薬を飲んで、いったん部屋に帰り横になっていたら、良くなりましたけど。やはり、薬は持っていってよかったな、と思いました。

-大事にいたらなくて良かったですね。

吉原  はい。海外で一人だと、いろいろ不安になりますからね。意外とハードな2週間でしたし(笑)。

アカデミーコンサート
アカデミーコンサート

-アカデミーコンサートに出演された感想は?

吉原  コンサート会場が、旧モーツァルテウムの校舎の中にある、「ヴィエナ・ザール」というホールでした。ここは、白が基調で金色で装飾されている、いかにもヨーロッパの宮殿という感じの、とても素敵なホールで、とても感動しました。そして、皆さんが本当に上手でしたし、すごく勉強になりました。

-クラスから何人くらい選抜されるのですか?

吉原  クラスによって全然違うんです。私のクラスは5人くらい選出されました。アカデミーコンサート総出演者数はピアノだけで20人くらいでしょうか。コンサートは、数回開かれました。たとえば1日目はピアノは何人、バイオリンは何人というようにプログラムされていました。私が出演した日は、ピアノばかりの日でしたけど。

-他の方の演奏を聞いて、どんなことをお感じになられましたか?

吉原  やはり皆さん、きちんと準備して来られているな、ということを感じました。皆さんすごく熱心でしたし、自分に合った先生をきちんと選ばれていましたね。

-やはり先生との相性は大事なんですね。

吉原  はい。2週間、その先生とのレッスンがメインになりますので、相性は本当に大事だと思います。

-吉原さんは、良い先生と出会えてよかったですね。今後、ヴィバウト先生に師事されたいという、ご希望はありますか?

吉原  そうですね。また先生の日本でのマスタークラスを受講させていただきたいです。またモーツァルテウムにも参加できたら、と思っています。

-今回初めて参加されてみて、ご自分が一番変わったと思うことは、どんなことですか?

吉原  まず、私は、日本では知らない人にはあまり積極的に話しかけたりしないタイプですが、いろんな人に話しかけるようになりました。やはり、わからないことが多いので、自然と積極的にならざるを得ませんよね。

-音楽面だけでなく人間的にということですね。

吉原  やはり、黙っていても何も進まないので、自分から、とにかく動かなきゃという感じになりました。

-なるほど。音楽面ではいかがですか?

吉原  自分の目指していく音楽の方向性が定まったということが大きいですね。あと、他の生徒さんが演奏していた曲を聴いて、自分もこの曲をレパートリーにしたいと思ったり、こういう演奏の仕方いいなって思ったりして、新たな目標もできました。

ザルツブルグの街
ザルツブルグの街

-今後、海外でレッスンを受けてみたいと希望されている方々に、準備しておいたほうがいいことや、アドバイスがあればお願いします。

吉原  まずは、しっかり語学の勉強をしておいたほうがよいです。あとは、事前につきたい先生の情報を、出来る限り集めておくことが必要です。音楽観が合わないと困るので、前の年に行かれた人がいたら、その方からお話を聞いて情報収集をしておくべきですね。どんな曲を持っていったらいいかなど、そこまで調べられたら、安心してレッスンを受けられると思います。

-では、生活面で、これは持っていったほうがいい!というお勧めグッズは?

吉原  やっぱり薬ですね。あと、簡単に食べられるレトルト食品や加工食品もあると便利です。私は一応、ある程度は日本から持って行ってたんですよ、いざというときのために。体調を崩して外に出られないときとか、レトルトものなどがあると安心でしたよ。あと、スーパーが早く閉まってしまって、何も買えなかったときなどに便利だと思います。

-周りにお店はありましたか?

吉原  寮の近くにはスーパーがありましたし、学校の近くにはパン屋さんがありました。あと、学校の中にも学食があるので、食べるのに困るということはありませんでした。

-では、最後になりますけど、吉原さんの今後の音楽活動の目標をお聞かせください。

吉原  やはり、たくさんレパートリーを増やして、演奏会などをしていけたらいいなと思います。実は、来年リサイタルをやるんです。今回教えていただいた曲を中心に、プログラムを組んで演奏していこうと思っています。今回の経験を生徒の指導にも生かせていかれたらと思っています。

-素敵ですね!ご活躍をお祈りしております。今日は本当にありがとうございました!

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今後のコンサート予定
2010年5月4日 千葉市美浜文化ホール・音楽ホールにて「吉原未穂ピアノリサイタル」
日本シューマン協会(ムジーク・ミルテ)主催を開催予定。

プログラム: シューマン 「森の情景」
シューマン  ピアノソナタ第1番 
シマノフスキ「マスク」よりドン・ファンのセレナード
ドビュッシー 前奏曲集第2集より 「花火」  他

霧生ナブ子さん/ジャズシンガー/アメリカ・ニューヨーク

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロに皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでご活躍中のジャズボーカリスト霧生ナブ子(キリュウナブコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ボーカリストとしてニューヨークで活躍すること」についてお話しを伺ってみたいと思います。

ー霧生ナブ子さんプロフィールー

ジャズシンガー霧生ナブ子さん
霧生ナブ子さん

尚美学園短期大学・作曲科専攻卒業後、ニューヨーク市立大学ジャズヴォーカル専攻卒業。クイーンズ大学大学院ジャズヴォーカル専攻修了。ビー・バップの伝道師として知られるジャズピアニストのバリー・ハリス氏の影響を強く受け、彼のジャズコーラス隊にも参加。そのグループでニューヨークの「タウンホール」や「シンフォニック・スペース」等の大劇場で公演。96年に渡米以来、ニューヨークのジャズクラブ「レノックス・ラウンジ」、「コープランド」などで定期的に活動を続ける他、ニューヨークのテレビ番組にも出演。2002年には有楽町朝日ホールにて霧生トシ子・コンサートで日野皓正(Tp)と共演し、同年にはジミー・ヒース(Ts)をゲストに霧生トシ子、太田寛二、アール・メイ(b)、ジミー・ラブレイス(dr)、デビット・ギルモア(tap)と共にクイーン大学でコンサートを行った。ニューヨークのブルーノートにて「J-JazzSisters」として公演も行う。アルバムは「シンキング・ラヴ」など。

ー  音楽に興味をもったきっかけを教えていただけますか?

両親が両方とも音楽家(*)で、小さい頃から音楽が家中に溢れていたんですよね。それで音楽は自分の無意識の環境にあって、一生懸命やっている意識はなかったです。どちらかというと子供の頃は演劇をやっていて、お芝居をずっとやりたかったんです。だから、小さい頃の夢は女優さんになることだったんです。
*)お母様が霧生トシ子さん、義父様が太田寛二さん

ー  それがどうして音楽の方に向かおうと思ったんですか?

10才の頃からNHKの劇団のオーディションを受けて、それからずっと高校3年生になるまで演劇やっていました。ホントにホントにお芝居が大好きで、毎年夏に公演やったりとかしてたんです。でもその中で音楽は自分が力をいれて一生懸命やらなくても人より優れているという感じはありました。例えばオーディションなんかでも一曲歌うと受かってしまうみたいな感じがありましたね(笑)。もちろん歌う事は好きで、何かあると歌って人の気を引いてしまうところがありましたね。その後も同じような事があって、日本の音大を卒業した後、マスコミ関係の会社に勤めていたことがあるんですけど、その会社の面接試験も一曲歌って受かってしまったと思います(笑)。会社の面接でも特技は?って聞かれますよね。ジャズを歌っていると言ったら、何かできる?って聞かれたんです。そのまま、アカペラで一曲歌ってその度胸を買われたんでしょうね。それで受かってしまった。私にとって音楽は、歌は最後の手段という感じなんです。

ー  それが音楽のプロになろうかと思ったのはどうしてなんですか?
 

Singing Love
大好評のCD「Singing Love」

19 才か20才ぐらいの時にインドに旅行に行ったんです。たまたま母が、私の義父と旅行に行く事になっていたんです。ところが彼が仕事で遅れてしまって、行くと言っていた予定の日にいけなくなってしまったんです。その結果私が母に誘われて、一緒に親子でインド旅行することになったんです。その後、義父が来てからは、途中で分かれて、最後に一人で日本まで帰ってきたんですよね。その時に、ある街からニューデリー(注:インドの首都)まで一人で電車に乗っていたんです。そこでたまたま隣に座ったインド人の女性がいました。もちろんその時は普通の音楽学校の学生の頃でしたし、英語なんかも話せませんでした。でも、その女性が非常に親切で、こちらの片言の英語でも一生懸命聞いてくれて、「何やってるの?」とかいう会話をいろいろしていたんです。私が音楽を勉強しているんだ、という話をしたら、いきなりその女性がその場所で、本当にいきなりインドの歌を歌ってくれたんです。本当にびっくりしてしまいました。日本の感覚からいったら外人が旅していて音楽勉強しているからと言って日本の歌はこうですよなんて、歌わないじゃないですか。だから本当に感動してしまって、その歌に心を打たれたんです。彼女に何回も歌ってくれる?といって歌ってもらい、その場で急いで楽譜に書いて、リズムや歌っている言葉をカタカナで聞こえた通りに書いて、何遍も歌っているうちに、歌を覚えちゃったんです。それで二人で一緒に歌ったんですね。そしたらその人が今度はびっくりしてしまってたんです!インドの言葉なんかもちろん知らないし、英語も分からない子が、いきなりインドの歌を、訳も分からない日本語のローマ字みたいな見たこともない文字でざーっと書いてあって、でも歌は一緒に歌える、みたいな事になったんですね。それですごい意気投合してしまったんです。道中二人でその歌をワーっと歌って、心は一つみたいな感じになったんですね。その時に歌ってすごい!と思ったんです。それで歌というのは人の壁を越えるというか、魔法のような力があるなと思ったんです。そういう訳で、歌の素晴らしさを知った経験を生かし、いわゆる「うまいシンガー」になろうというのではなくて人に何かを伝える、「メッセージを伝えるシンガー」になりたいなと思ったんです。日本の感覚でいうと歌がうまくないとシンガーではないという感覚があると思うんです。それまでは歌は好きでしたが、自分の中ではコンプレックスじゃないですけど、特別うまいと思ったことはなかったんです。特に音楽の環境に育ってきているのでやはりうまい下手はわかるんですよね。自分の中に特別歌がうまいとか歌の才能があるなんて思ったことはなかったけど、歌の意味とかすごさがその時に分かったので、だったら歌ってもいいかなと思ったんです。歌をうまく歌うなら自分のやることじゃないというか。歌って技術だけじゃないと思うのです。うまいとか下手じゃなくて、100人いたら100人の声でみんながそれぞれ話したりするのと同じように、それぞれの人間のドラマがあってそれを歌っていい、そういうものだと思うんです。それがインドで分かった、歌手になろうと思った大きなきっかけだと思うんですね。多分音楽って、日本でもこれだけカラオケが普及していて、みんなが歌っている中で心が通ったり、誰かが歌っているときにみんなで拍手をしたり、みんなで歌声をシェアするみたいなところがあると思うんです。そういうのがうまい下手ではなく、歌にはあるんです。もちろん、うまい人が喜ばれたりするんですけどね(笑)。だからもちろん一生懸命やってうまくなった方がいいですけど(笑)。

ー  感じる部分というのはうまい下手ではないですよね。そういう音楽性をお持ちの中で、ジャズになっていったという理由はあるのですか?お母様はもともとクラシックをなさってらしたんですよね?

ええ、母はクラシックをやっていたんですけど、母はジャズが好きで、一応そういう続きじゃないですかね。たとえば、今の義父にピアノを教えてもらったりして、それがたぶん私が、16歳、17歳とか。だからジャズが何、とかそういうこともわからなかった。普通に子供が習い事に行かされるじゃないですか、まず子供がそれが好きかどうかわからないけど、とりあえず剣道行ったら竹刀持って、っていうような感覚で、ジャズって言うものが私の中に入ってきたんです。

ー  じゃあ、根本的にクラシックとかポップスが入ってきたわけではなくて、いきなりジャズが入ってきたんですね。

でももちろん、その前にクラシックもピアノも習っていて、子供のころから、それこそ2歳、3歳のころから、ピアノを、祖母もピアノの先生なんで、習っていて、そういう意味でも物心つく前から発表会をやっていたりとか、中学校、高校のときはバンドをやっていたりとか、キーボードやったり、オリジナルを書いたり、普通に音楽をやってましたよ、今の日本の若い人たちがやっているような、音楽活動みたいなこと。それこそ、『平凡』『明星』とかのコードが書いてあるのを見て、弾いたりもしてましたね。音楽が例えばやっぱり八百屋さんの子が野菜に詳しいのとおんなじで、普通に考えてなくてもいろんな知識とか情報がわかるような感じでしたね。なんでジャズに意識を向けてきたかって言うのは、やっぱり、ジャズピアノを先に弾いたからなんですね。ジャズはいまだに、1930年代、40年代の曲がスタンダードとして歌われているんですね。例えばスタンダード曲の『My Fanny Valentine』は日本では良く知られていて人気でみんなが歌ってるんだけど、それぞれの歌手が自分の解釈で、自分のライフを下に歌ってるんですよ。だから雰囲気が違ったり、テンポが違ったり、それぞれ料理の仕方が違うんですよ。おんなじ曲を歌っているんだけど。それが例えば白人の世界だと違ったり、黒人の世界だと黒人ぽかったり。みんながそのただ違うだけじゃなく、その上、歌の内容によって、悲しい歌だったりするとみんなその人生の中での苦しい重いって言うのが出てきているというか、ライフの瞬間を見せてくれるというか、その歌自体にいろんな人が歌ってきた歴史と、その手垢がいっぱいついている、そういう重たさがあるんですよ。そして今度は自分が歌うことによって、歌のストーリーに魂(スピリット)を吹き込むんです。自分がただ歌ってるんだけど、もっと歌が持ってる不思議な魅力というか、いろんな人に語り継がれてきた、歌い継がれてきた重みで、今度は自分の体と声を使って、そのストーリーを語るみたいな。そういう意味では、そこがジャズの面白さとでしょうか。

ー  プロになろうと思って、アメリカに行こうとした渡米のきっかけは何ですか?

普通に会社で仕事3年半ぐらい勤めてたんですけど、仕事がきつくて、体を壊して入院して、そのときに病院のベッドに寝ながら、天井見ながら、窓の景色見ながら、いろいろ考えたんですね。勤務先の社長さんに頂いた御見舞いの花とか眺めながら、自分は何をやってるのかな、と思って。これだけ自分の時間とエネルギーを会社に費やすんだったら、ちょっと自分のためにやってみたらどうなんだろう、って思って。それがひとつの大きなきっかけだと思いますね。それとみんながとにかくNYいいよ、NY行ってみれば良いじゃん、っていうのでまず一回NYに旅行で来ってみたんですけど、やっぱり一目瞭然で、ちょっと普通に入ったバーで歌ってるおばあちゃんなどのジャズも、歌ってるのがレベルがものすごく高いくて、違うじゃないですか、全然。で、目からうろこのように、もう感動して、涙がいっぱい出て。これは今まで私が日本で、私ジャズやってますって歌ってたのはなんだったんだろう、って感じで。これじゃいけない、って。なんて私って、なんちゃってジャズをやってたんだろう、って。本場での洗礼ですね。これはマズイと思って。で、どうにかして、こっちに来るような方法はないかなと考えて、それから具体的に学校について調べたり、ビザのこと調べたりして、英語学校を探してまず留学しました。

ー  とにかくニューヨークに行きたかったっていうのがあったんですね。

一番最初は「ニューヨークが一番いいじゃない?」、ていうような感じで肩押されて、「そんなもんなの?」と思いながら行って、初めてその衝撃に出会って、そのショックを受けてからは是非NY行こうっていう思いですね。

ー  実際ニューヨークについて音楽活動をされていくわけですが、行かれてからご自分の音楽のスタイルって言うのはどうやって作っていくものなんですか?

私が思うには、とにかく人間関係、ミュージシャンの中に自分の環境ををおくということ。もちろん学校には行くべきと思います。大学でジャズを専攻し、たくさんの音楽理論とかジャズの歴史とかを習ってきたけど、やっぱりそれだけじゃダメなんですよ。それだけじゃ生きた体験にならない。それはほんとにジャズの場所に行ってそこにいて歌っている人たちと話して、その人たちがどういう人生を歩んできたのか話したり一緒にご飯を食べたり、そういうところでいろいろ学んでいくことってたくさんあると思います。

ー  コミュニケーションをしながら自然に出来上がっていくって、ことですよね。
 

ニューヨークジャズシンガー
ニューヨークのクラブにて

自分は吸収しようと思って行くわけだけど、ただ、テクニック的なことを学ぶってだけじゃなく、ジャズは特にアメリカのカルチャーなわけだから、黒人の歴史とか、彼らがたどってきた道などももちろんそうだし、教会の歌ももちろんそうだし、それがジャズと繋がり、ここ(NY)に来て、こうやって生活して、その人たちと一緒に歌ったりしてやっていかないとわかんない。日本でやってるだけだと全然違うと思う。やっぱり練習してうまく洗練されたものというよりは、私が今までたどってきた生活観からでるジャズだっていう部分を強調して行きたいと思ってます。

ー  技術じゃないって部分ですよね。

もちろん技術もあると思います。やっぱり下手だったらどうしようもないし。そこのところで技術的には日本人的にコツコツ、ここはやらなきゃいけない、ってやってきたというのがあるんですけど、人にはみせないような、それがないとなきゃダメだとは思うけど、それ以外の部分をコツコツやっただけじゃ、ジャズの味は出ないと思うんですよ。

ー  そういう部分では外国人と一緒に演奏する部分でも日本人とやるよりも、外国人と一緒にやるほうが吸収することが多いってことですよね。白人、黒人、ヨーロッパ人、NYにいるといろいろなジャズが吸収できると思うんですけど、それもまた違いますか?

それはそうだと思います。ほんとに違いますね。私はハーレムに住んでいるんですけど、そこら辺のバーに行くとやっぱりそういう人が好きそうなジャズがかかってるし、例えばダウンタウンいて、白人の人が多いところだと、歌詞の歌ってる英語とかも違いますよね。そういうのは本当に語学が出来ただけじゃ分からないじゃないですか、歌詞を聞いていて、アメリカのジャズのスタンダードのその曲をどの人が歌っているとかは関係なく、楽譜とか、英語とかを見ただけでも、これは黒人の人が作った歌だ、白人の人が作った歌だってわかりますね。それぐらい違うんですよ。言い回しとかで。でも違うけど、やっぱり人間だから同じ曲を同じスピリットで歌うわけだけど。女の人が去って行っちゃって、男の人が飲んだくれている、みたいな。同じ内容で歌ってるんだけど、語り口調とか黒人と白人だと違ってきたりするんですよ。そうなるといわゆる学校で英語を習ったっていうのじゃ無理ですよね。それを知るっていうことと、それを自分がジャパニーズでアメリカでジャズを歌うって言う特殊さををひしひしと感じるわけですよ。それはもう、日本で黒人の人が演歌歌手としてデビューするのと同じことなんですよ。でも、もし、日本で黒人の人が、生まれ育ってて日本語にアクセントもなくて、ゴスペルのようなスピリットをもって歌ったら結構感動するかもしれないじゃないですか、それと同じように、私は日本人だけど、やっぱり自分の中でジャズに対しての敬意もあるし、自分の生きてきたライフの中でいいと思ってきたことを表現していくっていうことは、私の中で子供のころにやっていた演劇というのと深いつながりがあるんですよ。

ー  それはどういう点でですか?

演劇は自分の感情を表現するんですね。台詞をかたるでしょ。歌も台詞と同じようにストーリーを語るんですよ。歌ってるときに自分が語っている言葉が嘘じゃいけないから、その言葉どうりの気持ちがなきゃいけない。演劇をやってた瞬間にすごく感覚的に似ているんですよ。

ー  舞台の上ではその歌詞の人になりきるということですか?

歌が持っているストーリーを語るという感じですね。役を演じるというよりは歌を伝えるんだけど、何かの役をやっているときと似ている感じですね。

ー  舞台の上ではいろいろ考えるというよりも自然に出てくる感じですか?

歌のときは、結構自然にでてくることもあるし、例えばその歌が自分の体験に基づいてというよりは、友達の体験ですごい悲しい思いをした人がいたことを考えて思い出して歌うこともあるし。

ー  感情とか感受性を感じながら歌うということですかね?

そうですね。やっぱりメッセージですね。

ー  音楽活動をして、歌をやってて良かったな、もっとも興奮する瞬間ってどんなときですか?
 

ジャズシンガー
ニューヨークのクラブで活躍中

やっぱりジャズの面白いところはあんまり決めない所。突然名前呼ばれて、ステージ上がって、初めましてって言って、この曲ね、って自分なりにリードしてやりますよね。初めてそこで出会った人達なんだけど、それでいきなり音楽を作るわけですよね。そこで一つになるときに、すごい興奮しますね。瞬間っていうものにとても敏感になるんですよ。人間生きてて、朝起きて夜寝て、っていう繰り返しで流れていくけど、よく言うことだけど、その瞬間はもうないわけでです。たまたま居合わせた人と、たまたまその瞬間に一緒に舞台をやって、もうその瞬間は二度とないわけじゃないですか。それがとても暖かく心が通じて、うまく言ったりするととても嬉しいというか。例えばこれが他の音楽ジャンルだったらやっぱりすごい繰り返し練習して、同じメンバーでどんどん上達していって、到達するって言うんだと思うんですけど、そういうのとはジャズは全然違うんですよね。そのためには、自分が一人で磨いていないといけないんですよ。みんなが自分自身を磨いて、一緒に乗っかったときにそれぞれが、自分が自分がっていうんじゃなくて、人のを聞きながら輪を作っていくみたな。

ー  自分を鍛えるというのはどういった面でですか?

もちろん、技術面もそうだし。もちろん知識というかジャズのことを良く知らないといけないんですよ。じゃないと人がやってることもわからないし。ジャズは即興だから、みんなが舞台に乗ったときに、ツーといえばカーという感じでやっていくわけですよ。ツーを知らないとカーが出せないんです。ツーをたくさん知らないといけない。そのためには自分を磨いて、いろんな人の音楽を聴いたり、、勉強したりして、その瞬間でコミュニケーションをお互いに取るんです。こうだ、っていわれたのを応える感じで音楽を出すとコミュニケーションができて、お互いにそれがわかると、すごい感動ですね。そいういのは例えば、日本のコメディアンがみんなが知っているようなネタを言って、例えばドリフだったら、「八時だよ、」って言ったら「全員集合、」って言ってね、といわなくてもみんなが言っちゃうみたいな、そういうような面白さがジャズにはたくさんあって、それが面白いんですよ。それが分かると見る方も分かってもっとジャズは面白いんです。だからもっといろんな人に知ってほしいと思いますよね。

ー  日米の観客の違いってありますか?

そうですね、やっぱりこっちと日本とでは違いますけど。やっぱりまずは英語ですよね。これは多分日本の人は、ジャズ歌ってる人はいっぱいいると思うんですけど、日本だけしか知らないでやっている人は、やっぱり知識が浅いというか、もちろんみんな頑張って勉強しているんだろうけど、こっちで生活しシンガーの人たちのワークショップのお手伝いをしたりしていると、最初に言われるのは、そこなんですよね。日本人はみんな器用で、音楽のこともわかってるんだけど、英語を日常使っていないから、気持ちが伝わらないんですよ。その気持ちの差が、そういう人たちが歌うと、必ず指摘されていますね。もう少しがんばれば本物に近くなるというか。

ー  海外でミュージシャンとして活躍する秘訣、条件というのは何かあるのですか?

日本人として、特有の謙虚さ、慎むことが美しい、みたいなものを変えないとダメですね。そこを変えていかないと、もっとやっぱり頑張って自分でどんどん前に出て行かないと、ずっと認めてくれないから。逆に日本だと前に出ると叩かれるけど、こちらでは前に出ないと目にも止めてもらえないし。そこはやっぱり違うものだと思ってやっていかないと難しいと思います。

ー  将来の夢はありますか?

やっぱり、世界に通用するジャズシンガーとして、日本人代表としてやっていければと思いますね。

ー  海外で音楽の勉強を考えている人にメッセージを頂けますか?

とにかくやり続けること。諦めないでやり続ければ必ずその先があります。

 

敦賀明子さん/ジャズハモンドオルガンプレーヤー/アメリカ・ニューヨーク

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロに皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでご活躍中のハモンドオルガンプレーヤー敦賀明子(ツルガアキコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ハモンドオルガンプレーヤーとしてニューヨークで活躍すること」についてお話しを伺ってみたいと思います。

ー敦賀明子さんプロフィールー

ニューヨークのオルガンプレーヤー敦賀明子さん
敦賀明子さん

3歳の頃からオルガンを始め、高寺文子氏、セキトオシゲオ氏、当麻宗宏氏に師事。大阪音楽大学時代にジャズに目覚め、ジャズピアノを大塚善章氏に師事。卒業後ピアニストとして関西一円で活動を始める。その後、ハモンドオルガンを独学で学び、2001年に本拠地をニューヨークに移す。ピアノをSir. Roland Hanna、オルガンをDr. Lonnie Smithに師事する。同年にハーレムの老舗オルガンクラブ、“SHOWMANS”(ショーマンズ)でレギュラー出演する。Grady Tate (Drums, Singer)、Frank Wess(Ts,Fl)、Paul West(Bass)などと共演する。Grady Tateのグループではリンカーンセンターの野外コンサートやブルーノートなどのジャズクラブに出演。2003年3月、Time Out New Yorkで将来有望なオルガンプレイヤーとして紹介される。同年5月には初帰国ライブを行い、SwingJournal, ジャズ批評で紹介される。2004年春にM&Iからアルバム「ハーレムドリームズ」をリリース。 翻訳の仕事も手がけ、「Hammond Organ Complete: Tunes, Tones, and Techniques for Drawbar Keyboards(Dave Limina著)」をATMから2004年秋に出版した。現在NYで最も注目を受けているオルガンプレイヤーの一人である。


ー  もともと音楽に興味をもったきっかけを教えていただけますか?

3歳の時に、ある日エレクトーンが家に来て、運んでくれた楽器屋さんが簡単な曲を弾いてくれたんです。それを聴いて、なんて素敵なんだろう、と(笑)。もともと音楽を聞くと喜んでいた子供らしく、子供のころ、テレビの音楽にあわせて手を叩いたりとか、歌を歌ったりとかが大好きだったそうです。それで親が何か習わせてみようかな、と思ったらしいんです。家が狭いからピアノは無理だけどエレクトーンならいろんな音が出るし、ということで。それで、エレクトーンを聞かせてもらったのが格好良かったので、私も習ってみたい、と近所の音楽教室に通い始めました。

ー  そのときはジャズとかクラシックとかこれをやりたいとかそういうのはありましたか?

全然ないですね。ピアノの先生がエレクトーンも教えていたんです。エレクトーンを扱っているけどピアノの本をやったりとか。最初はピアノの本だったんだけど、そのあと世界の小唄みたいな、全集みたいなものをやったんです。それにコードネームが書いてあって、それを弾く、っていう感じで。何かその中に、今思えばジャズの曲も入っていたと思います。そのあとの先生が、エレクトーン専門の先生でした。エレクトーンはグレードがあるんですけど、グレード試験受けるときに一番最初にはまったのがフュージョンです。先生の息子さんがドラムをやっていて、フュージョン聴いたり一緒にバンドをやったりしていました。高校の時に専門コースに通ってたんですけど、エレクトーンプレイヤーの方に習っていました。 Giorgia on my mindを楽譜で弾いていたんです。それとかマンハッタンって曲。今思うと結構Jazzyな曲が好きになって、こんな感じの曲をもっと弾きたいって言ったら、ジミースミス(Jimmy Smith)聴いたらいいって先生に言われて聞いてみました。教室にライブラリーがありレコード聞いてみたんです。そしたら何じゃこりゃっ!って(笑)。先生は、彼は素晴らしい!って、すごい熱く語ってたんですけど、最初はなんかねえ、すごいなあ〜、って感じでした。音の洪水って感じです。全部同じ音だし。こういうのもあるんだな、って思いました。それまではハモンドオルガンって言うのを聴いたことがなかったんです。それで、これがハモンドオルガンって言うのか、と思って。

ー  ではその頃からハモンドオルガンをやり始めようと思ったのですか?

いや、その時はやるんなら作曲科に進みたかったんです。ところが、高校三年の時にエレクトーンの先生から紹介してもらった先生が、作曲にはコネがないみたいだったんです。なんかその先生もすごい面白い先生で、音大出たら、お見合いの時に便利だから、って言って音大を薦めるんです(笑)。最初、武庫川女子大学の音楽学部とか山手短大ってとこがあって、そこの音楽科とか、とにかく作曲科に行きたかったんです。でも先生が、「音大」ってついてたらお見合いの時に強い、っていわれて(笑)。今は分からんかもしれないけど、大きくなったら分かる、と言われて(笑)。それが高3の5月だったんです。それまで一度もピアノを弾いたことがなかったんですよ。それで、エレクトーンの月謝もすごく高かったし、3人兄弟で私が長女なんですけど、それ以上に私にばっかりお金かけるわけにはいかなかったんです(笑)。それで、音大に行くっていったら、本当はトーンとか、それぞれ違う先生につかないといけないわけです。でも、その先生の場合は全部まとめていくら、って感じで、なんでも教えてくれて。なんか考え方とか変わってて面白かったですね。受験のためだけに習いに行っていたんですが、緊張して会いに行ったら音大言ったらお見合いの時便利だよって言われて(笑)。それで習いに行くようになって、ピアノは全然やっていなかったからそこからソナチネを始めて。エレクトーンはちょっと休んで。

ー  それで、音大に入ってから何故ジャズに目覚めたんですか?

クラシックで音大に入ったんですけど、みんな上手だったんで、これはついていけないなと思って(笑)。私が習った大学のピアノの先生が、私が前にエレクトーンをやっていたというので、手の形がどうとか、手の形が悪いとかいつもネガティブなことばっかり言われたんです。私はクラシックがやりたいと思って学校に入ったのに、なんかやる気なくなってきて。そうじゃなくてもピアノは鍵盤が重たいからしんどかったんですよ。なんか手にしっくりこないというか。ずっと練習してましたけど。でも、そのころからエレクトーンもまたやり始めていました。それは将来のためにヤマハのグレードを取っていたほうが良い、と思ったからです。その頃のヤマハというのは、グレードが上がるにつれてジャズの曲が多くなっていったんですね。一人ビックバンドって感じでした。エレクトーンがもっとシンセサイダーみたいになってて、ブラスとか、ストリングセクションとか。で、試験受けるときにジャズの曲を弾いた方が.....受かりやすいって聞いたんです(笑)。また学校にもライブラリーがあったので、オスカー・ピーターソンとか聴きました。その頃、子供の頃から一緒にエレクトーンを習っていた友達がジャズピアノを習い始めたんですよ。大塚善章さんに。面白いなって思いました。あ、そっかって思って。それで、音大を卒業してヤマハのエレクトーンの講師になったんです。講師になったんだけど、やっぱりグレード試験ちゃんと受けようと思ったんです。3級まで言ったのかな。指導グレードと演奏グレードというのがあるんだけどそれを全部取りました。そのグレードを取る少し前に私も大塚善章さんにジャズピアノを習いに行ったんです。面白いって思って。そのころ世の中がバブルで、新人のお仕事が一杯あったんですよ。ソロピアノで。私の友達は結構きれいで社交的だったんで、あっという間にそういう仕事をゲットしたんです(笑)。大阪は特にだと思うんですけど、どこでもそうかもしれないけど、ちょっとかわいくて、社交的な人のほうが仕事が取れるんだと思います(笑)。誰かのサブとか。彼女は彼女ですごく自分のサブを探してたんですよ。で、彼女は私に無理やりサブをやらせようとしたんです(笑)。あ、その前に、大学時代に近所のピアノバーみたいなところがあって、ピアノ喫茶みたいなとこですけど、そこに弾きにいってたんですよ。なんちゃってピアノで、ジャズみたいなものを一人で弾いたりしてましたね。

ー  じゃあ、ジャズは大学のときからやっていたんですね。

そういえばしてたんですね。楽譜を見たりしてやってました。

ー  何か惹かれたものがジャズにあったんですか?

クラシックが面白くないから(笑)。

ー  では、ジャズは面白かったですか?

面白かったです。アドリブとか弾けるし、自分で作れるし。

ー  敦賀さんはハモンドオルガンプレーヤーですが、あまりこの楽器に親しみのない方もいるので、ハモンドオルガンというものを簡単に説明してもらっていいですか?
 

ハモンドオルガン
ハモンドオルガン

ハモンドオルガンは、時計職人のローレンス・ハモンドという人がアメリカで発明した電気オルガンで、時計のぜんまい仕掛けと同じなんです。オルガンの真空管を使用し、パイプオルガンをもっと家庭用にできないか、というコンセプトで作られました。ぜんまい仕掛けの技術を利用して、パイプオルガンを小さくして、キーを押したら、接点が7個あり、ドローバーといういろいろな音に切り替わるものがあります。それを引き出すことによって、いろんな音が作れます。またレスリースピーカーという、スピーカーの上に羽がついているスピーカーを使用します。この羽を鳴らすんですが、この効果は簡単に言うと扇風機のそばで、わ〜って言ったら、振動音が出ますよね、あんな効果があるんですね。
注)Hammond Organ Complete: Tunes, Tones, and Techniques for Drawbar Keyboards(Dave Limina著)敦賀明子さん翻訳

ー  ハモンドオルガンに惹かれたきっかけを教えていただけますか?

日本でジャズピアノの仕事を始めるようになって、大阪のあるところで、レギュラーをやっていたんです。そこで、ジャムセッションをやっている、ということで、ジャムセッションに行き始めたんです。その時に、オルガンやってる人がいて、カッコイイなと思っただけど、オルガン一人で弾いてても、他の人ができないから、ピアノを一生懸命やっていたんです。レギュラーとかジャムセッションをその頃毎日やっていました。それでそこがブルーノートの前だったんで、ブルーノートからアフターステージの人が一杯来たんですよ。それこそ、ロイ・ハーグローヴ(Roy Hargrove)とかグラディ・テイト(Grady Tate)もそこで会いました。そのときはピアニストはたくさんいて、ピアノは順番があまり回ってこなかったんですけど、オルガン弾いたら、オルガンを弾ける人あんまりいなかったので、ずっと弾けたから、それでオルガン弾き始めたんです(笑)。そこで東京から来ていたドラムの人にオルガン上手ですね、と言われて(笑)。そうなんや、って思って(笑)。昔からやってたし、ピアノと違って、オルガンは鍵盤軽かったので音出すのに苦労しないし。子供の時からやっていたから、手になじむという感じです。

ー  そのように日本でプロでやっているにも関わらず、何故渡米しようと思ったんですか?
 

ニューヨーク・オルガン敦賀明子さん
ニューヨークを生きる

同世代の友達があるときを境にみんな留学でアメリカ(ニューヨークとボストン)に行ったんです。結構それで、アメリカに遊びに行くようになりました。丁度そのころ大阪でグラディ・テイト(Grady Tate)と会ったんです。そのときジミースミス(Jimmy Smith)と一緒に来ていたんですが、オルガンも弾くって言ったら、オルガンなんか嫌いだ、ピアノやれ、って言われて(笑)。その頃グラディ・テイト(Grady Tate)さんは半年に一回ぐらいは来ていたので、もう一回会って、聴いてもらったら、もうニューヨークに来たら良いのにって、言われたんです。そのときはそう言われましたし、ニューヨークに友達がいたし、1年に1回ぐらいはニューヨークに遊びに行っていました。友達はそれなりにニューヨークで演奏活動をしていたんで、行く度に私もやってみたいな、ここに来たらすごい楽しいことが待ってるんだろうな、と思いました。1年位だったらいけるかな、お金ためて、と。バイトもして、お金も貯まったので、それでB3(注:オルガンの型)を買うか、ニューヨークに行くかちょっと迷ったんですけど、どうせだったらニューヨークに行ってみようと思ったんです。

ー  そのときは音楽活動を目的としてニューヨークに行かれたんですよね?

そのときはオルガンをやろうと決心していました。日本ではホームプレイヤーとしてやることがなくて、特にオルガンは誰かのバンドでサイドメンでやるということがほとんどなかったんです。私は人のバックでホンピングするのが好きだったので、そういう勉強をしてみたいな、とも思っていたんです。アメリカに行ったら一杯ミュージシャンもいるし、人のバックで演奏する機会もあるだろうと思ったので。

ー  ニューヨークは本場という意識はかなりあったんですか?

ニューヨークは流れてる空気も違ったし、ここにいるだけで、自分がすごい成長できるんじゃないかと思ったんです。

ー  敦賀さんの自分の音楽スタイルはどうやって作っていくのですか?

自分がそのときに聴いているもので、こんな風にやってみたいな、って言うのがあったらまねしてみたりですね。スタイルというよりも、ニューヨークに来てびっくりしたんですけれども、みんなオルガンに合わせて踊るんです。ニューヨークに来てすぐ位の事だったんですが、ハーレムの125丁目のシーフードレストランで、ボーカルの人の曲で、すぐにギグをやったんですよ。今も一緒にやっているサックスの友達が、ここでやっていくなら絶対オルガンやで、っていうんで、なんで?って聞いたら、ベースプレーヤーがいないから、って(笑)。ベースプレーヤーを探すの大変な街だから、オルガン弾いていたら、ベースもできるし、ピアノもできるし、絶対こっちのほうが仕事ある、って。私自身はそんなこと全然考えてなくて、お金が尽きたら帰ろうと思っていたので。そのときはふ〜んって思って。それで、Showmansに行くのに、最初怖いから、ボディガードを連れて行ったら追い返されて、というかいいように断られたんです。それで二回目に、女なら良いだろうと思って、友達の女性を連れて、入らせてもらったんです。それでそこに結構二人で通ったんです。そうしたら店の人が目をつけたみたいで。

ー  お客さんのふりをして通ったのですか?

ええ、もちろんギグ取ろうと思っていました。お店の人も覚えててくれて、それから一人で行ったりとか。そしたら友達がこれ絶対ギグ取れる、と言い出したんです(笑)。もう一息だと言うんですね。グラディ・テイト(Grady Tate)も連れていこうと言って一緒に行ったりしました。たまたまボーカルの人が来たので、じゃあ3人でやったらということになったんです。お店の人が 3人だったらやらしてあげる、って。それでShowmansに行き始めて、結構すぐに違う曜日にも行き始めたんですよ。多いときだと週に3日ぐらいレギュラーで貰っていました。そこで知り合った人からも別のギグをもらったんです。その後、引越しをしたんですけど、何で引っ越ししたかって言うと、オルガン運ぶには車じゃないと無理ってことが分かって(笑)。最初は地下鉄で運んだんですが、本当に大変でした(笑)。それで車持ってないなら、アクセスしやす場所に引っ越したほうがいいな、って。本当に重くて、一度運ぶと体中に青あざできるぐらい重いんです(笑)。それも重すぎて誰も手伝ってくれないし(笑)。今はもう少し軽くて音がいいキーボードがあるんで、それを使ってるんですけど。

ー  現在は日本人や外国人と演奏しているわけですが、一緒にやっていて、人種の違いはありますか?

ニューヨークはいろんな人種の人がいますよね。白人とか黒人とか。ついこないだも私以外全員黒人っていうバンドでやったんですけど、その時になんだか彼らはすごいなって思ったんです。雰囲気が、なんていうのかな、フィーリングって大切だな〜、って。それは例えば、外国人が演歌を歌います。でもなんとなくフィーリングが出そうで出ないじゃないですか。そういう感じでなんですよ。そのときもちろん私は頑張ったんですけど。これは外国人が津軽三味線をやろうとしてもなかなかフィーリングが出ないのでと同じで、私が演歌やって、歌は下手だけど、ここでこぶしの一つでも聞かせれば効果的だとか、下手でもフィーリングだけは伝わるって言うかそういうのは分かるし出来ると思うのです。それはやはり小さいときから演歌を聞いてきたからというのと、そういう日本の文化で育ったというのがあるんだと思うんです。やっぱり私達外国人の日本人がジャズをやるっていうのもそういうことなんだろうなって思ったんですね。でも外国人が日本の演歌をやった時に、違う感性で同じものをやるとそれが結構面白かったりするでしょう。だから結構外国人の私たちがジャズを弾くってことは、アメリカ人からしたら違う観点でジャズの物事を私たちが捕らえていて、それはそれで面白いと思っていると思うんです。

ー  演奏中にうまくフィーリングが出ないなと考えているのですか?

いやもう頑張ったのに何か、自分の中ではこういう風に弾きたいって言うイメージがあるんです。例えばジミースミス(Jimmy Smith)のキーンて弾くおいしいとことかね。それを弾こうと思うんだけど、でもその時に、一緒にやっているエリック・ジョンソンがギターが、一音ガーンって弾く音のほうが私がやるよりも格好良いんですよ(笑)。

ー  どうしてそういう差が出るとお考えですか?

やっぱり、一つは文化の差。そして、彼らは一音にこめる感覚って言うのが、すごいフィーリング持っているのにも関わらず、すごいリラックスしてるんです。フィーリングとか、パッションで弾く日本人のプレーヤーもいると思うんだけど、なんとなく、頑張ってます!っていう感じに終わってしまう人が多いと思います。何が違うかって考えると、アメリカ人の場合は、すごいがーっと集中して演奏に入ってるんだけど、その間もリラックスしてるんですよ。肩の力が抜けてるんででしょうね。何でかというと、やっぱりアメリカの人たちは、最初からそういうフィーリングを持ってるからだと思います。日本人だと、そういうグルーブのフィーリングを、ジャズのフィーリングを身に着けるところから始めるじゃないですか。日本人とアメリカ人のテクニカル面での差はないと思うけど、フィーリングの違いですね。確かにオルガンって難しいのもありますけど。ハモンドオルガンは右手でメロディー弾いて、左手でベース弾いて、ベースペダルで、左手で弾いてるベースに、例えばウッドベースを弾いてるときに、立ち上がりがありますよね、ああいうのをベースで弾くんですよ。ちょっと練習してなかったら、バラバラですね。

ー  ちなみに練習はどのくらいなさるんですか?特にプロになったあとなんかどうですか?

ニューヨークに来て、一番思ったのが日本でいかに練習してなかったか、って事ですね。アメリカに来てから本当に一番必要なのは練習だったと思いました。ニューヨークの人たちはみんな本当に練習してます。例えば、DR.ロニースミスというオルガンプレーヤーに、オルガンを個人的に聞く機会があったんですけど、一日中弾いてますね。テレビ見ながら(笑)。オルガンをテレビの前において、テレビ見ながらずーっとオルガンを弾いて手を動かしています。テレビが面白くなったら、オルガンの手を止めて、テレビの音を大きくして(笑)。あれ見てたら、人生観変わりましたね。私はテレビ見ながらやるんだったら、集中してがんがんやったほうがいいのでやり方は違いますけど。DR.ロニースミスの場合は、とにかく楽器に触れるということが大切だと言って、朝起きたらまず楽器に触れる、夜寝る前は楽器に触れる、という生活ですね。楽器とともに生活という感じですね。     

ー  音楽活動をやっていく上で、何かこだわりみたいなものはありますか?
 

ジャズオルガン
ジャズオルガンプレーヤー

人が踊れないような音楽は絶対しない、ということです。楽譜にかぶり尽いて、聞いてる人がリズムにあわせて体が揺れないような音楽は絶対にやりません。

ー  日本とアメリカのお客さんの違いって何ですか?

アメリカのお客さんというのは反応が、日本のお客さんに比べてダイレクトですね。良かったらわーって言うし、あんまり良くなかったら、すごい喋るんですね。こっちが気分良く弾いていたら、それに対する反応というのはすごいダイレクトですね。去年日本でCD(注)が出て、日本でライブツアーをしたんですけど、その時にやっぱり日本のお客さんは国民性の違いだと思うんだけど、奥ゆかしいというか、でも実は喜んでいる、という感じがありますね。日本で嬉しかったのは、最初にみんなすごい固い表情で見てるんだけど、だんだんお客さんの表情が和らいでいくのを見るのがすごく楽しいです。国民性の違いというのは面白いですね。
(注)「ハーレムドリームズ」(2004/05/19発売)

ー  音楽をやっていて一番やっていて良かった、興奮したと思う瞬間はどのような事ですか?

やっぱりすごく良いメンバーと、すごく良いお客さんが聞いてくれるところで演奏して、ものすごくビートが気持ちよくて、このままやめたくないなって思うときですね。

ー  それはバンドのメンバーにもよりますか?

オルガンは自分自身の負担が大きいので、サポートしてくれるとうれしいですね。そういう意味でメンバーによって気分は変わってきますね。グラディ・テイト(Grady Tate)のバンドでもやってるんですけど、彼とやるときはいつも楽しいです。彼はすごいんです。ボーカルのバンドでやることが多いんですけど、やっぱり彼はジャズの生き字引みたいな人で、持っている引き出しがすごく多くて深くて一緒に演奏していて楽しいです。ジャズのことを知り尽くしたっていうか、アイデアもそうだし、本当にスキャットずっとしても、その抑揚のつけ方とか、引き込まれるような感じがあります。自分が上手になったような気がする位です。そのくらい違うものですね。バンドとしての質も一気に上がります。

ー  ニューヨークで受けた影響って何かありますか?

ビートや音楽に対する気合という事に影響を受けましたね。やっぱりいろんなところからニューヨークに音楽をやりに来ている人が多いので、みんな生きていくのに必死です。ギャラも多いわけではないし、そうなると自ずと競争も激しくなります。そうするとやっぱり音楽に対する情熱がないと生きていけない。もちろん情熱があっても上っていけない人は一杯いますけど。

ー  敦賀さんにとってジャズや音楽とは何ですか?

自分の人生です。Dr.ロニースミスなんかは、「人生を音にしろ」って言ってますし。

ー  カッコイイですね。そういう人生を歩んでいる方の将来の夢はどのようなものですか?

私の音楽で、聞いてる人がハッピーになって、幸せな気分になってもらいたい、ということですね。

ー  海外でミュージシャンとして、成功する秘訣ってあるとお考えですか?

人に誠意を尽くすことだと思います。いくらうまい人でも、やっぱりいい加減な人はそれなりになってしまうと思います。日本もアメリカも一緒だと思うんですが、人間として必要なことだと思います。グラディ・テイト(Grady Tate)もそうなんですが、ジャズを育てよう、っていう意識があるんですよね。有名でも決して威張ったりするわけでもないですしね。人間として成長することが成功することの条件なのでしょうね。

ー  今後の敦賀さんの演奏活動をお聞かせいただけますか?

(2005年)来月8月にリンカーンセンターでアフターアワーズで1週間トリオで出ます。エリック・ジョンソン(ギター)とビンセント・エクター(ドラム)と一緒です。8月末から日本にツアーで帰ります。こちらはエリックジョンソンと田井中福司さんの3人で。普段は、私のバンドって言うのが2ヶ月に1度クレオパドラーズニードル(Cleopatora's Needle)でやったりたまにスモーク(Smoke)やショーマンズ(SHOWMANS)などでやっています。

ー  今後海外で勉強しようと考えている方にメッセージをお願いします。

日本でできることは全て日本でやってからアメリカに来たほうが道は早いと思います。例えば、アメリカに来てもすぐに人と演奏できるぐらいの技術を身につけておくなどです。アメリカに来て一から学ぼうとすると、言葉の問題とか、生活に追われたりとかするからです。アメリカ来て、人と演奏して、言葉が通じなくてもなんとかなる、って言うぐらいのレベルにするといいと思いますね。これが一からだったらもっと時間がかかるだろうし。日本で習えることは日本で習って。ジャズだけではなくて、クラシックでもそうなんですけど、まったく初心者でアメリカで来るというのはお勧めはしないですね。日本でやることはやって、ある程度経験を積んでからの方がいいと思います。

ー  仕事を得るのはコネクションが多いですか?

やっぱりコネクションが多いですね。だからみんなに誠意を尽くしていれば、話が周ってきますよ。嫌な人でもニコニコして。私はなかなかできないんですけど(笑)。言葉ができなくて、向こうも何を言ったらいいか分からないということもあったんですね。笑顔は世界共通、たまに彼女はアホかって言われることもあるらしいんですけど(笑)。やっぱり女は愛嬌ということで(笑)。

ー  最終的にはジャズならアメリカに行ったほうがいいんですかね?

自分の音楽のスタイルさえできたら、音楽をやるのはどこでいいとは思うんですけれども、ジャズをやっている以上は、一度はここの街のもつムードを経験するのは、絶対プラスになるでしょうね。

ー  ありがとうございました。
 

奈良希愛さん/ピアニスト/ドイツ・ベルリン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はヨーロッパ各地、アメリカに留学経験があり、現在ベルリンと東京を中心に大活躍されているピアニスト奈良希愛(ナラキアイ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学をすること」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います(インタビュー:2005年12月)。

ー奈良希愛さんプロフィールー

ピアニスト奈良希愛さん
奈良希愛さん

東京藝術大学卒業。ベルリン芸術大学首席卒業。同大学院国家演奏家コース首席修了。マンハッタン音楽院大学院プロフェッショナルスタディーコース修了。マンハッタン音楽院室内楽科助手を務める。全日本学生音楽コンクール全国第1位、シュナーベルピアノコンクール、ブゾーニ国際コンクールなど多数のコンクールで上位入賞。ロベルトシューマン国際音楽コンクールピアノ部門、日本人初の第1位金メダル優勝。ドイツ学術交流会、文化庁芸術家在外研修等奨学生。ドイツ国営放送局主催アイゼナハ/ヴァルトブルグ城演奏会、ボローニャ国際ピアノフェスティヴァル、NHK-FM名曲リサイタルなど、世界各国の音楽祭から招待。ベルリン響、ツヴィッカウ響、新日本フィルなど内外のオーケストラと共演。ソロ活動の他にトーマス・ティム(ベルリンフィル第2バイオリン首席奏者)、アンドレアス・ティム(ベルリン交響楽団首席チェロ奏者)とピアノトリオを結成し、各地の音楽祭から招待。現在、日本とベルリンに主な拠点を構え、世界各国で演奏活動を展開。指導者としても各地で公開講座、コンクールの審査を行う。音楽雑誌『ショパン』にエッセイを連載中。2006年4月より相愛大学音楽学部専任講師に就任。


—  簡単な略歴を教えていただいてよろしいですか?

奈良 東京藝術大学を卒業後、ドイツ政府の奨学生としてドイツ・ベルリン芸術大学に行きまして、そのまま大学院まで行きました。その間にスペインの音楽院やイタリアでプライベートレッスンを受けた後、1年間ほどマンハッタン音楽院で実習をやりながら大学院に通って留学は昨年終わったところなんです。

—  いろいろな国に行ってらっしゃいますが、ドイツ以外の所にもいろいろ行きたかった、ということですか?

奈良 最初はヨーロッパに留学したいなという漠然とした気持ちがありました。そして、先生とのご縁や奨学金をいただけることでドイツに行きました。ドイツものを勉強しているうちにスペイン音楽に興味を持ちました。スペイン音楽というのは、ヨーロッパ内とはいえドイツとは社会や文化が違いますので。そこでピアニストの熊本マリさんにお手紙を出してお返事を頂き、彼女の先生をご紹介いただいて、スペインに行くことになりました。また一方ではイタリアのカトリックな宗教的なものにも興味がありまして、カトリックの聖地であるローマに行きたいなということで先生のご縁があってイタリアに行ったのです。アメリカは最初そこまで希望していたわけではないのですけれども、ヨーロッパでは勉強させてもらったと思っていましたし、アメリカの先生がずっと前から大陸の違う国でも文化があるということを肌で感じたほうがいいよ、というふうにおっしゃっていましたので。でもアメリカは学費も高いし、あんまり乗り気でもなかったしちょうどテロもありましたが、大学の方から奨学金が出るということでそれでは行って来ようかなと1年間行きました。

—  一番最初に音楽に興味を持ったきっかけというのを教えていただいてよろしいですか?

奈良 年の離れた姉がいるのですけれども姉がピアノを弾いていまして、家に楽器はあったんです。音楽一家ではなく、代々法律一家でした。ただ楽器に対して興味を持って、よく自分で作曲までいかないけれど歌詞を付けながら音を鳴らしてピアノをおもちゃとして遊んでいました。そこが音楽との出会いの最初かもしれません。

—  2歳くらいからピアノをやっていらっしゃるのですよね。

奈良 母が一応バイエルだけは一緒に弾きながら教えてくれたのですけれども、それ以上は、母は全く素人ですので限界が生じました。幼稚園の先生がどうも私は耳がいいらしいというようなことを感づいて音楽教室にでも連れて行ったらどうかというふうに言ってくださったのです。それで私を音楽教室に連れて行ったら楽しんでやっていたということで音楽を習い始めたのです。

—  それではクラッシックから入っていったということですか?

奈良 バーナムとかトンプソンというのがありまして、一応姉が習っていたからかもしれないですけれども古い楽譜があってそれを始めて、バイエルから取り組みました。

—  例えばポップスとかジャズとかそういうものに小さい頃は興味は持たなかったんですか?

奈良 もしかしたら答えになっていないかも知れないんですけれど、ピンクレディーとか良くそういうレコードなどは聞いていたんですけど。ピンクレディー以外は歌えないかな(笑)。

—  いろいろな国に行かれていますが、音楽をやるにあたってそれぞれ良い点悪い点というのはありますか?

奈良 これは人それぞれなのでご縁があるかによりますし、それを私のところで強く言うことはないのですけれども、私はヨーロッパのほうが長かったのでアメリカよりヨーロッパの方が、相性が合うタイプではありました。世の中にはアメリカの方に先にご縁がある方もいるし行きたいと思う方もいるから私は比べる気はないんですね。要は行きたいと思った所にタイミングよく習いたい先生がいるということが大事だと思うのです。みんなが行くからというよりは、自分が行きたいという理由が本心である場所を選ぶべきだと思います。     

—  本当に縁がある場所に行くのがいいのではということですね?

奈良 縁とあと相性ですね。行きたいという気持ちがなければいけないと思います。とりあえず行ってみるだったらとりあえずの結果になると思います。

—  スペインやイタリア、ドイツと比較してなにか個人的にここは良かったな悪かったなという点はありますか?

奈良 私は比較的いい先生にお目にかかったものであんまり悪い点はなかったのです。そういう意味でどこの国でも補う形であったのは確かですね。長所がそれぞれ違うので。ドイツで習った先生はすごく学者的、教育者的なタイプであり、ピアノという音楽、クラッシック音楽はそれだけが幹のように生えているわけではなくて、宗教的なものが背景にあり国民の感情とか過去の歴史があるという事を私は学んだんですね。日本だったら次々にエチュードをこなしたり試験に向けてやっぱり練習したり、何かにつけてピアノのソロばかりに頭がいきがちでしたけれど、クラッシック音楽というのは何かから派生しているものなのだなという事を、ヨーロッパに来て初めて納得したというのがあります。理論的なことはすごく強くドイツから学んだのですけどスペインやイタリアはラテン系なのでどちらかというと感情に結びつけるという、頭だけではいけないものを補ってもらう形で学べたと思います。アメリカはまた大陸が違うと、こんなに違うのかという感じでした。やや日本に似ているのかもしれないけどクラッシックに関しては歴史がヨーロッパと比べるとそんなに深くないので、また違うエンターティメント的な華やかさをアメリカは持っているのだなというふうに思いました。

—  ヨーロッパは過去の歴史・文化の中から出てきたものがあるけれどもアメリカはエンターティメント性が強いというのが一番印象的な事でしょうか?
 

ドイツ・ピアノ
ドイツと日本で大活躍

奈良 アメリカはどちらかというとアメリカナイズされているなと私は思いました。アメリカはもちろんヨーロッパを高く評価していますけれども、自分は強い国だということを分かっていますから自分達は決して間違っていないというのを信じています。だからちょっとギャップがありますよね、正直。

—  ヨーロッパからアメリカに行かれるとちょっと引いちゃうところがあるのですか。

奈良 私はちょっとじゃなくて、「・・・ああっ」というような。

—  かなり。

奈良 好みの問題もあるのですけど、アメリカはどちらかというと最後にワーッて華やかに終わるほうが好きで、ヨーロッパはどちらかというと演奏が終わった後でも余韻を楽しんでからやっと拍手が出るほうが好きという感じです。私はヨーロッパが長かったのでヨーロッパタイプの音楽の方が好きなだけです。

—  海外で仕事をすることで日本人が有利な点、不利な点はありますか?

奈良 私は、個人的には、就職はかなり不利ではあると思うのです。クラッシック音楽を学ぶのにどうして日本人から学ばなきゃいけないんだ、と。ヨーロッパ人には誇りがありますし現にそれはそうですよねと思う時はあるのです。だからかなりの覚悟で行かなくてはいけないと思います。コンサートについては、良かれ悪かれ日本人でもヨーロッパのお客様は音楽が好きな人が来てくださるので、自分達でプログラムを考えて日本的なこの曲を弾いたらお客様が集まる、とかそういうビジネス的な世界を考えなくていいというのがありますね。     

—  そうなんですね。

奈良 ホールは大きい所はないのですけれどもヨーロッパの音楽活動はそういうところはありがたいです。演奏活動だけに集中できますし、それで音楽好きなお客様が来てくださるので。日本でいうとお客さん来るかしらとか大丈夫かしらとかそういうのありますけど、そういう精神的負担が全くないんですね。

—  それはすごいいいことですね。

奈良 そうであって欲しいのですけどね日本も。

—  そうですね。

奈良 だから日本人だからという心配はなくコンサートは行えます。

—  演奏の演目でも日本だったら明らかに受ける曲というのが結構あってそれをプログラミングされる場合が多いと思うのですけれど、ドイツだと、例えば現代曲でもお客さん集まるのですか?

奈良 そうですね。そんなにたくさんは来ないかもしれないですけど、ある程度は来てくださりますね。私は一応主催者と相談しますけど9割5分問題があることはなかったですね。問題があるとしたらちょっと長すぎるとかそれ位でしょうか?

—  それはいいですね。先日、チェコの音楽家と話しをしていたのですけどチェコでは新しい曲は難しいと話していたのですよね。だからやっぱりドイツはまた違うのでしょうね。

奈良 もしかしたら私がベルリンだったからかもしれません。オペラを初演するのにベルリンが会場としてまず第一候補になりますから。実際音楽に関しては敷居が高くないのかもしれない。

—  お客さんも本当に音楽が好きな方が普通にいらっしゃる。通常自分の生活の中で音楽があるという感じなのですね。

ドイツでの演奏会
ドイツでの演奏会

奈良 そうですね。音楽が好きで逆にチケットもそんなに高くないので、街に音楽が溢れていますし何か音楽に対する近さはあるんでしょうね。

—  ドイツの方たちはいわゆる大音楽家であれ、中堅であれ、まだ一番下の人たちであれ、威張って俺は音楽家だぞ見たいな感じではないのでしょうか?

奈良 人それぞれでいらっしゃると思うのですけど、教師にしろそうかもしれないのですけど、海外の先生というのはまず1度は演奏を聴いてくださるので、敷居は高くはないと思いますね。とにかく自分がやっている仕事に対して誇りを持ちますからプライドはあるかもしれませんけど、変なプライドはないかも知れないですね。

—  生徒がやりたい事を非常に受け入れてくれるということですよね。

奈良 そうですね。

—  奈良さんにとってクラッシックや音楽とは何でしょうか?

奈良 私は結構あんまり模範になるタイプじゃないのですけど。何度もやめようと思ったタイプですので。私は大学も本当は音楽大学に行く予定じゃなかったんですね。まあ音楽嫌いじゃなかったのですけど、どうしても練習練習というのが嫌になって。高校3年生まではそれで悩んだりして続けてはいたのですけど、高校3年生の時に我が家が代々法律一家だった事も手伝って、法学の道に進もうと決めたんですね。そちらの方が実力がはっきり出るから楽かなと。頑張ったら頑張った分比較的すぐ結果が出るかなと思いまして。それで音楽を専門的にするのはやめようと思って記念にと、全日本学生音楽コンクールというのがあるんですけどそれを記念受験したんですよね。最後どこまで頑張れるかって。本当は東日本大会本選の奨励賞というのを狙っていたんです。奨励賞取るのでも大変だったので。そうしたら賞状はいただけるんですけど、本選受賞者演奏会に出なくていいんですよね。そしたらセンター入試にかかれるのでそれを狙っていたら、ちょっと頑張りすぎちゃって全国1位になっちゃったんです。それで音楽をやめるのを断れない環境があったんですね。

—  もうやれよと周りからでしょうね。

奈良 嬉しかったんですけどちょっととまどいがあって、それがかなり長い間続いていました。やっぱりどの道を行くにしても悩みますよね。何かあった時にああやっぱり法律の道に行った方がいいかなと、去年位までずっと悩んでいたので。

—  まだ悩んでいるのですか?

奈良 分かりませんね。私にとっては音楽も魅力でしたけれど、18才の時に決断した法律の分野というのはそれなりに魅力や憧れがあって、将来の確定は言えませんけどかなり悩んでいたのは事実です。法律の分野は『正しいのはこれだ』というのがハッキリしていて、周りからの評価が確実で楽ではあるんですよね。自分のやりたいことをやっていても評価が比較的複雑ではないというのがあって。音楽などの文化というのは何か経済的な問題が社会であると最初に消されてしまうものだと思うのです。その中で無理して生きるのもどうかなと、そういう現実的なことも考えちゃったりして。それだったら資格をとるという意味で法律を勉強しようかなと思っていたんです。でも音楽は今まで続いていて、何かそういう仕事があって喜んでやる自分がいるんだから続けられるまでは自分のテンポで続けようかなと思っています。

—  今はまだ音楽のほうが魅力的なのですか?

奈良 音楽がまだ運良くご縁が切れてないんです。切れたら辞めようと思っています。今のところ細々と続いていて喜んでやっている自分がいるのでやっているという感じではあるんですね。法律も難しいですから。

—  どちらも難しいですね。そういった方に次の質問をするのは非常に変な感じがするんですが、今後の音楽家としての夢というものがあれば聞かせていただいてよろしいですか?

奈良 私は運良く素晴らしい先生方にご指導いただきました。その先生方はいろいろな意味で人間としても評価が高く尊敬される方ばかりなんです。皆さんやっぱりお年ならではの人格です。私は自分にあったテンポで足りないところを勉強しつつゆっくりでもいいから人間として上を目指すような人生が送れたらな、音楽的にもそれは焦らずに人との出会いに関係していけたらいいなと思っているんです。あとは必要に応じて、私が学んできたことのいくつかを次の世代に残していければいいなと思うんです。

—  演奏家という部分ももちろんありますけど、教育者という部分をかなり思い描いているのですか?

奈良 教育はかなり。演奏家一本で絞ろうとはゆめゆめ思っていませんし、そういう活動だけにこだわっているつもりはないんです。教えるというのは教わることでもありますから教えるのは大好きです。ただ教える立場になるにはやっぱり自分の器が必要なので常にそっちを求めていくというのはありますね。

—  マンハッタン音楽院でアシスタントとして教えていた経験というのはかなり役に立つのでしょうか?

奈良 そうですね。いろんな意味でとても勉強になりますよね。楽ではないということを学びましたし、面白いということも学びました。

—  プロのミュージシャンとしていろいろと演奏活動をされていると思うのですけれど、プロになる理由や条件、それは精神的にでも技術的にでもいいのですが、そういうものはあると思いますか?
 

ドイツ・ピアノ
シビアなプロの世界で活動中

奈良 私もよく分からないのです。どうして今まで続いているのだろうと思っているんです。ある種人生いろいろ勉強する段階、いろいろ補填する段階、プロとしてやっていく段階というのは何かそういうフレーズがあると思うんですね。その切り替えの時に立ち止まらないで進んでいくということの方が大事なのかなって思います。留学して学生生活ってやっぱりすごく楽ですし魅力的ですし、特に海外で勉強だけに集中できるのは良いのですけれど、次のステップに行くというのもタイミングが大事なのだと思います。私もコンクールを過去にたくさん受けていましたが、コンクールをあまり長く受けているよりはある程度で見切りをつけて次にシビアな演奏活動で揉まれるという方が大事だと思いますね。私は個人的には5年も10年もずっとコンクールに出ていたら、それまでに取っていたコンクールの価値もなくなってしまいますし、取りすぎというのは逆にどうかなと思います。コンクールが全てだと一生懸命頑張っても、何年か後にはまた同じコンクールで次の優勝者が出てしまうわけですから難しいと思います。

—  いくらコンクールで優勝したとしてもそれが全て仕事につながるか演奏活動につながるかというのはもちろんないわけですよね。

奈良 またコンクールって微妙な曲目でいけちゃうんですよね。基本的に演奏活動として求められるのはどれだけレパートリーがあるか、代役などの話があった時にどれだけ準備が短い期間で出来るか、訓練ではなくて先生のそういう鍛えられ方が大事になってくると思います。コンクールというのは準備入念にしていけますが、そこから先はすごく人間的な社会が待っているというか、そこから先をどうするかが問題になると思いますね。

—  最後になりますが、海外で今後実際に勉強したいと考えている方がたくさんいらっしゃるのですがそういう方に対して何かアドバイスみたいなものがあればお願いしてよろしいですか?

奈良 語学は必須だと思います。語学は足りない、余るということは絶対ないです。語学はあんまり甘く見ないほうがいいです。1回目のレッスンから、また次のどこかの公開レッスンに行くという時もやっぱり英語プラス母国語というのは最低でも出来たほうがいいと思うのです。それとあまり人と自分を比べるのではなくて人の努力は人の努力として評価してまた自分でまた別の孤独な作業も我慢できること。敵を作れという意味ではなくて、あんまり人に頼りすぎるのはどうしても一歩出す勇気が半減してしまうと思います。ある程度本当に自分のやりたい道が見つかったら割り切って自分が進んでいかないといけないのではと思います。特に留学って期間が限られちゃうからそれはあんまり怖がらずに向かう方向に行ったほうがいいかなと思います。

—  留学するということに関してはどうお考えですか?

奈良 ご縁があれば構わないと思います。ただ本人が留学したいという気持ちが強くなかったら、周りや親が留学というレールを敷き詰めると、留学してから一人でくずれてしまう子も多いので。

—  実際に留学して現地でくずれていく方というのを見ていますか?

奈良 偉そうな言い方かもしれませんけど、留学してきて有名で天才少女とか言われて出て行った人は世間にもまれることに慣れていなくて、すぐしょげちゃうし、「何でそんなところで?」というのはありました。やっぱりどうしても周りのガードが強かったのだなというのが。だから世間にもまれる時に、自分で対応が出来ない、あまりにも出来そうにない時は本当に親離れ子離れじゃないですけど自分でやるということを強めにしていかないといけないと思います。いつまでも親はいませんし恩師はいませんからやっぱり自分で出来る余裕がないと。すごくシビアな言い方かもしれませんけど。

—  本当にそのとおりだと思います。奈良さんは、現地でくしゃんとなって日本に帰っちゃうという方も結構見ていらっしゃるのですね。

奈良 日本に帰れればいいのです。帰れない方がいらっしゃるんですね。私は日本を捨ててという気持ちはさらさらなかったし、いずれは日本でも活動をと思っていたので。日本で大学まで行きましたしいずれは日本のためにと思ってましたので。私はすごい希望を持って海外に行くのは大事だと思うんですけど、ただそれが意固地になるようだったらあんまり意味がないと思います。ある程度人間挫折のあとに頑張ってまた這い上がるというのが本当の勉強だと思うので、そういうところは自分に厳しく自分に甘くというのをうまくやったほうがいいかなと思います。

—  本当にありがとうございました。

奈良希愛さんのオフィシャルホームページ
 

井上智さん/ジャズギタリスト/アメリカ・ニューヨーク

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでトッププレーヤーとしてご活躍中のジャズギタリスト/コンポーザーの井上智(イノウエサトシ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ニューヨーク・ギタリストが歩む道」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います(インタビュー:2005年9月)。

ー井上智さんプロフィールー

ジャズギタリスト井上智さん
井上智さん

神戸出身。同志社大学在学中から関西を中心にライブハウスやコンサートで活躍。1989年、ニューヨークへ渡りニュースクール大学ジャズ科でジム・ホールに学び音楽的・精神的に影響を受ける。同校卒業後、ニューヨーク市立大学院でロン・カーターに学ぶ。以後、ニューヨークのジャズシーンで、ジム・ホール、ジュニア・マンス、フランク・フォスター、バリー・ハリス、ジョン・ファディスなどのトップ・ミュージシャン達と共演。教則ビデオ「ジム・ホール/ジャズギター・マスタークラス」全三巻、「マジカル・ギター・テクニック/ビル・フリーゼル」の音楽監督を務める。現在、ニューヨークで最も注目されているギタリストの一人として活躍中。ニュースクール大学ジャズ科講師。ジャズライフ誌に「毎月増えるスタンダード」を好評連載中。現在までにリーダー・アルバムを 4枚発表。


—  最初に、音楽に興味をもったきっかけを教えていただいてよろしいですか?

井上 家に音楽が、レコードが普通にかかっていて、兄貴がフォークソングを聞いたり、親が音楽好きだったので普通に家に音楽が流れていたんですね。それで普通にレコードを聞いたりしていました。オルガンは習いに行っていたかな。ヤマハ教室に。そんなにまじめにやって無かったですけどね。

—  勉強みたいな感じでしたか?

井上 お習い事という感じ。子供の頃に。小学生三年の話ですね。すぐやめちゃったけど。

—  すぐやめちゃったんですか (笑)

井上 ほんま二、三年で辞めたかな。それから、高校行きだしたぐらいでやっぱりロックに目覚めたかな。親戚のいとこが同じ高校に行っていて、僕が一年の時、文化祭の体育館でロックバンドとして演奏したんです。それがすごくてがーんとショック受けて。それ結構大きいですよ(笑)。

—  本当ですか (笑)

井上 それで高校二年の時ロックバンドやりはじめたんです。

—  音楽に目覚めたけれど、井上さんは音大とかではなく、いわゆる総合大学に行っていますよね。

井上 同志社行きましたね。

—  その時は音楽のプロになる気だったのですか?

井上 全然、そんなまさに今自分がやっていることをやろうという計画は全然無くて。

—  本当ですか。

井上 なんか僕らの頃って、勉強させられてとりあえず大学行けみたいな感じあるじゃないですか。あまり将来の事考えずに。まあ行ってから考えろみたいな。で、同志社行ってそこで軽音楽同好会に入りました。そこでロックやりだして。

—  そこでもロックだったんですか?

井上 ロックですよ。

—  ずっとロックですね。

井上 ずっとロックです。ロックなんですよ。

—  それは面白いですね。

井上 面白くないですよ。昔はもう大体一緒。ロックからみな入ります。ロックギタリストが多かったんです。今はそんなにロックギターは人気ないかもしれないけど。その頃は若者がバンドやるし、ハードロックとか。まあぼくがやってたんはブログレ。

—  ブログレですか。

井上 ちょっとクラッシックも入ってたり、ジャズの要素も入ってたけどいろいろ面白い感じで。

—  なるほどなるほど。その時も作曲とかもされていたんですか?

井上 いや。してないですね。

—  じゃもう完全にコピーバンドという感じですか?

井上 コピーバンドですね。

—  でその後にずっとこうだんだんジャズに興味をもっていくと思うんですけど。

井上 ええ。それでなんか大学四年ぐらいの時かな。なんか音楽やりたいなというのがあって。

—  それは、プロとしてですか?
 

ニューヨーク・ジャズギター
音楽でささやく

井上 プロとしてです。普通に就職したくないなというか、反抗期がその頃から。なんか、ちょっとこのまま就職してはいかんのではないかなと思って。そして、まじめに音楽やギターをやってみたいなと思って。で、その頃にジャズスクールに行きだしのかな。

—  そうですか。

井上 なぜジャズスクールかというとやっぱりその頃クロスオーバーが、今でいうフュージョンかな。クロスオーバーが流行っていて、興味をもったんです。それは結局ロックとジャズのクロスオーバー、ロックとジャズのフュージョンだった。それで、これはちょっとジャズを勉強しなきゃ理解できないと思ったんです。京都のジャズスクールに行きだして、そうこうしているうちになんか演奏の仕事が入ったんですね。

—  いきなりですか。相当優秀ですね。

井上 とんでもないです。ジャズスクール一年くらい行って、その一緒に行っている人がキャバレーで演奏してて、ちょっとやると言うので僕が一緒について行ったら、君明日からおいでって他のバンドで言われてしまって。そのまま就職せずに大学は卒業してしまったみたいな感じですね(笑)。

—  就職活動もせずに。

井上 全然してないです。そのまま卒業してしまった。

—  その後、どのように渡米しようと思ったんですか?

井上 京都でいろいろライブハウスみたいなところでやったりしてて、まあジャズに、フュージョンよりもジャズそのものに興味を持ったんですね。まず25歳くらいのとき1ヶ月だけニューヨークにひたりに行ったんです。

—  音楽にひたりにですか?

井上 音楽にひたりに行ったんです。ジャズを聞こうということで友達と行きました。30日滞在のうち毎日毎日、よなよな出かけてのジャズ三昧でした。それはもうジャズクラブとかコンサートとかいろいろです。

—  毎日。30日間ですか?

井上 30日あったから、40回くらい聞きにいきましたね。昼間もライブ聞けたりするから。観光客ならではのパワーですね。

—  どうでした?その時。

井上 いやもうすごかったですよ、カルチャーショックが。結局外国も初めてだったからそういうのも全部含めて文化の違い、言語の違い、音もすごいし。

—  それはやっぱりもう自分には持ってないというものがやっぱりあったんですか?

井上 いやもうそれは全然持ってない。

—  なるほど。

井上 すばらしいプレイでしたね。

—  本当にそうですよね。すばらしいプレイヤーが目白押しでいますもんね。ニューヨークというところは。

井上 日常でやってますから。

—  なるほど。

井上 まあショックを受けて帰ってきたんですね。

—  その後どういうふうに?

井上 また関西でずっと演奏ライブやってましたね。また、ギター教えたりしながら。その後再度、ニューヨークに6ヶ月行ったんですよ。4年くらいたってからかな。

—  ずいぶん時間があいたんですね?

井上 そうですね。85年やったかな。日航機が落ちたときかな。阪神が優勝したときです。その頃だと思います。その時に当時の観光ビザで最高が6ヶ月だったかな。ちょっとまあ6ヶ月だから生活になりますよね。

—  ええそうですね。

ニューヨークでひた走るジャズギタリスト
ニューヨークでひた走るジャズギタリスト

井上 その6ヶ月でまたいろんなハプニングがあったというか。1回目行ったときはわりと聞くばっかりだったけど、2回目は実際、ブルーノートで演奏する機会とかあったんです。

—  へえー。

井上 ストリートミュージシャンをやったり。ブルーノートにちょっと日本人フェスティバルみたいなのやっていたり、ハーレム行ったり、いろんなところで演奏で花開いたというか。

—  それはどうやってこう、なんと言うんですかね。自分を…

井上 売り込んでいったかということですか?それはもうジャムセッションとかありますから。当時ブルーノートのジャムセッションに入っていましたしね。特に楽器を持ってジャズをやる、そういう場所が今でもありますけども、今より多かったかもしれませんね。そういう所に行くと同じ志の人達が集まっているわけですよね。世界中から。で、いろいろ情報交換して、そしてまた仕事でギターが要るからお前やれとか、そういうことが結構ありました。それでなんか俺ひょっとしたらニューヨークでいけるかも。なんかいけんじゃないかな、みたいな、そういう幻想をいだかせてくれたというか。

—  へえー。すごい。

井上 ラッキーだったんです。

—  ラッキーだったんですか?

井上 はじめに一ヶ月行ったときの下見があったから立ち回りもよくて、それなりにできましたしね。最初の1ヶ月、その後の6ヶ月のニューヨーク滞在の間に京都で自分でも演奏していましたからね。

—  それをニューヨークで再現ですか?

井上 ニューヨークで通用したこともあるし、通用しなかったこともある。まあそれでもいろいろ演奏の機会はあったんですね。

—  それで音楽でいけるなというふうに思ったんですね?

井上 通用するというか、まあ、ここで何とかアルバイトしたりとか、何とかなるんじゃないかみたいな感覚でしたね。生活して音楽勉強していくことが出来るんじゃないかみたいに思っていました。ただ、6ヶ月行って帰って来た時は、そんな計画は無くて、またやっぱり行きたいなというだけでしたけど。

—  そうなんですか?

井上 ニューヨークで生活しようなんか、そういう発想はなかった。

—  そうなんですか。

井上 ただ6ヶ月行って、なんとかなりそうなんかな、とかそんな気がしたんですね。そしてその後やっぱり関西に戻って演奏してました。しばらくして、もう一度、行こう。アメリカに行くなら今のうちだぞ、みたいな。どんどんいろいろ関係が出来てきてだんだん動きにくくなってくるでしょ。若いうちかなということで。

—  渡米をしたいと決めたのはどんなことですか?

井上 やっぱり6ヶ月のニューヨーク滞在がすごい自分の中にあったんやろうね。そこでいろいろな何かがパンと開いたんです。チャクラが開いたというか。やっぱり自分を鍛えたいというか、多分6ヶ月いたときに、短期間の6ヶ月しかいないというふうに自分で決めているから、すごい自分で動き回ったんだと思う。

—  生活でだらだらするのではなくて、音楽活動することを決めているから。もうがーんと来たわけですね。

井上 さあ行くぞ。やるぞ。みたいな。気合が入ってたんでしょうね。結局そういう新しい自分を見たのもあったのかもしれん。自分で自分に驚いたというか。自分がそういう環境にあると頑張る。ニューヨークで頑張る。ちょっと逆境といったらおかしいけど、言葉もそんなに流暢に通じるわけじゃないし。そういうところに自分を置くと、逆にこう頑張るというのがあるのかみたいな。そういう性格というかね。そんなこともあって、ニューヨークにもう一回行きたいというのは持ってたわけです。行くのだったらはやめに2、3年行って勉強して、帰って来ると。2年という事やったんだけど、これが今引き継いで16年(笑)

—  なるほど。最初は音楽学校に行かれたんですか。

井上 いや。それが行ってないんですよ。

—  音楽学校に行ってないのですか?

井上 行ってない。一年くらいは。ビザが丁度、切れる頃にやっぱりこれは音楽学校でビザ出してもらおうかということになって、ニュースクールに行ったのですね。

—  ジャズを学ぶには非常にいい学校ですよね。

井上 ビザだけのためにいったんですよ(笑)。

—  ビザだけのためとは思えない位、いい学校ですけどね。

井上 僕も良く知らないから(笑)。行ったらとても良かったですね。それでこれはもう卒業しようと思いました。

—  そこで恩師に会われたわけですか?
 

ジムホールと井上さん
ジムホールと井上さん

井上 そこで恩師に会いました。ジムホール大先生に。

—  なるほど。そうやって、だんだんアメリカ人を中心に外国人と演奏活動を主にやり始めるわけですよね。日本人と演奏する場合と、外国人と演奏する場合の違いはありますか?

井上 あんまり違いないですよ。

—  ないんですか?

井上 ない。相手が日本人だったら日本語でコミュニケーションするだろうし、アメリカ人だったら英語でする。それだけの違い。

—  ニューヨークに住んで、一番受ける音楽的な影響というのはどういうものでしたか?

ジムホールと井上さんの打ち合わせ
恩師ジムホールとの打ち合わせ

井上 いい影響も悪い影響もあるでしょうね。都会ですから。結局たくさんミュージシャンが集まっている所でやるわけですよね。他の分野のアーティストも含めて、結局層が厚い。たくさんのミュージシャンが切磋琢磨しておる。となるといろんな所でいろんなミュージシャンがいて、又レベルも高いし。まあ低い人もいるんですけれども、結局上から下までのレンジが広い。層もジャンルも。本当にそこらじゅうで日常に音楽が溢れているというかね。だからそういうところに自分を置くことによって、自分で自分のケツをたたくことが出来るかなみたいな。もともとレイジーな性格ですから。それに、学校に行って、ジャズギターだけでなく総合的な音楽の歴史とか、理論もそうですけれども勉強しなさいと言われないとしない科目ってありますよね。例えばコンポジション(作曲)だったり、イヤートレーニングだったり、ミュージックヒストリー、ジャズヒストリー、アンサンブル、アレンジメント、編曲ですね、そのような科目も良かったですね。ジムホールとかそういういい先生に出会えたというのも、ニューヨークでないと実現しない影響というのでしょうか。それと、もっと練習しないといかんなみたいな(笑)。

—  ニューヨークに行くミュージシャンの方はもっと練習しなきゃいけないと思うようですね。

井上 なんかミュージシャンは一日じゅう音楽の話をしてるみたいなところがある。人のライブ聞きに行ったりとか、自分で演奏したり。歴史的にジャズの大きなムーブメントが起こった町ですからね。そういうのが残っているんでしょうかね。雰囲気、空気がね、ジャズの。

—  日本にいたら受けにくい刺激ということはあるのでしょうか?

井上 わかりやすい話で言えば、アメリカ人がお琴を学ぼうとしたら、たぶん日本に行くみたいな。アメリカでも邦楽は学べるやろうけど、日本にいったらその周りにある文化や背景や歴史もね。

—  なるほど。文化とか言葉とかそういうもの全部すべてを一緒に学びに行かないと分からないということですもんね。

井上 そうですね、ジャズの場合アメリカで生まれた音楽ですし、まあ層が厚いですよね。層が厚いというかほんと豊富ですよね。そこらへんにあるわけだから。そういうところにミュージシャンが集まるし、世界から集まってくるし、そこでこう刺激を受けるんかな。

—  一番影響を受けたのはジムホールですか?

井上 いやもうジムホールのレッスンは目からうろこですね。もともと自分がジャズ、やりだすようなきっかけになった人ですから。

—  井上さんは、音楽というもので自分を見出していったと思いますが、その音楽やジャズというのは井上さんにとって何でしょうか?
 

ニューヨーク・ジャズギター
さまざまな思いを胸に。

井上 自己表現の手段。自己表現の手段やし、それはまた自分が演奏したり作曲したり演奏する時にミュージシャン、他のミュージシャンと美の追求を楽しむというか、何かを作りまたオーディエンスとも一緒に作り上げるという楽しみでもありますよね。いまや自分にとってそれが生活の糧でもありますけど(笑)。

—  そうですよね。

井上 そうはいっても結局、音楽に出会えてよかったと思いますね。ジャズに出会えて。

—  音楽は言葉で言えるようなことではなく、お客さんに聞いていただいて、こういうことを自己表現したいんだなというふうに分かって欲しいということですよね。

井上 そうですね。結局メッセージがあっても音で伝えるわけですから。小説家は小説で表現するし、ミュージシャンは音楽で表現するんですね。

—  一流のプロになられて、今後の人生まだまだありますけれどもどういうような夢をもっていらっしゃいますか?

井上 ミュージシャンとして、ギタリストとしてもっともっと成長したいですね。あと作品発表したいし、アルバムも作りたい。今の自分のバンドでもっと活動したいですね。

—  なるほど。海外でミュージシャンをやって活躍する秘訣、成功する秘訣ってあるとお考えですか?

ニューヨーク・ジャズギター
ジャズギターにかける思い。

井上 成功する秘訣があったら教えて欲しい(笑)。まあ自分がやっている経験から言うと、そうですね、いいものをよい形でプレゼンし続けたらいいんじゃないですかね。結構、日本でもそうだと思いますけど、頑張るというか、すぐ結果は出ないけども、やっぱり長く続けることじゃないですか。長く長く続けられるような環境に自分を置くことが大事ですね。あとやっぱり、実力社会でははったりのないところでの実力がいるし、また一人だけでは音楽はできないので人間関係もあるし、そのへんをクリアしつつ、自分を積極的に動かす。特にニューヨークなんかでは積極的に動けば割とレスポンスがあると思います。なんかいっぱい若い人が来て、まあ僕もまだまだ若いと思っているんですけど、いっぱい20代の人が来て良く相談や、ギター教えてくれとか来るんですけどね。でも頑張って自分の殻打ち破ってそこに行こうという人はやっぱり、そういうパワーを逆に俺がもらっている気がする。友達ばかりで集まってしまってなんかするんじゃなくて、知らない人とも出会って新しいネットワーク作ったりすると良いでしょう。

—  なるほど

井上 やっぱりニューヨークは人に会う場所でありますよね。僕も学校に行ってよかったのは、同じような事考えているいろんな人に会うことでしたね。

—  なおかつその学校以外でもいろいろな所にジャムに行ったりですよね。

井上 そう。ジャムに行ったりとかね。学校に行っていると、まあ忙しいですけどね。宿題とか。それに、秘訣というのは多分自分のスペシャリティーというのを知ったらいいんやろうね。

—  スペシャリティー?

井上 自分しかないこととか、自分の切り口といったらおかしいけど、そういうのあるでしょ?

—  他のミュージシャンと差別化するということですか?

井上 差別化というかミュージシャンだけではなく、例えば自分が映像の得意なミュージシャンだったらそういう切り口とか流れとか、コンピューターの操作が得意とかそういう自分のスペシャリティーを何かみせれるということだと思います。

—  海外で勉強したい留学をしたい、短期も長期もいらっしゃると思うんですけど、そういう方に何かアドバイスみたいなものがあれば教えていただいてよろしいですか?

井上 すごい応援しますよね。やっぱりいいことだと思います。見聞を広めて。アドバイスとしては、その留学する国の言葉を事前に出来る限り勉強しておくと、時間的に得なんじゃないかな。行ってからね。英語だけを学びに行く人は英語を学ぶだけでいいのかもしれませんが、音楽を学びにいく人でも英語はいるわけだし、例えばクラシック音楽をドイツに学びに行くのであればドイツ語をしゃべったほうがいいだろうし。言葉でコミュニケートするわけだから。それが苦手で引っ込み思案になりたくないよね。それに出来が悪くてもやたら先生に食ってかかるとか。お前もういいというような(笑)。日本の子はおとなしく聞いてる。まあ今の日本知らんけども、やっぱりクラスルームをアクティブにしたほうが先生も喜ぶし。意味の無い質問することは無いけど、やっぱりなんか食い込んだほうがいいんですよね、アメリカの学校は。

—  日本人って授業では結構おとなしいですか?

井上 かもしれませんね。

—  言葉ももちろん出来ないでしょうし。

井上 相手が私のこと見てくれないの。みたいに待っている場合があるから。待ったら駄目ですね。

—  実際井上さんもニュースクールで教えている立場としてそういうことを感じるということですね。

井上 そうですね。やっぱりインパクトを先生に残す生徒はなんとなく分かりますよね。気合出しているなと。

—  そうするとやっぱりこいつはかわいがってやろうと。

井上 かわいがってやろうかというか、まあなんでしょうね。やっぱりインパクト残したほうが得やろうね。何かとね。

—  そうですよね。頭に残りますもんね単純に。

井上 先生もうれしいしね。

—  やっぱりうれしいですか?

井上 そりゃやっぱり授業終わって話しかけてきてくれるとね、質問とか。

—  いわば質問はどんどんしたほうがいいと言うことですよね。意味の無い質問は先ほど言ったように止めた方がいいでしょうけど。

井上 質問だけじゃなくて積極的に参加するとかね。クラスルームをアクティブにすることが大事ですね。

—  わかりました。本日はありがとうございました。

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【井上智カルテット~メロディック・コンポジションズ・ツアー 2007】

6月11日(月)京都:ルクラブ 075-211-5800
6月12日(火)神戸:サテンドール 078-242-0100
6月13日(水)大阪:ロイヤルホース 06-6312-8958
6月14日(木)石川:西田幾多郎記念哲学館 076-283-6600
6月15日(金)福井:響きのホール  0776-30-6677
6月16日(土)鈴鹿:どじはうす 0593-83-5454
6月18日(月)今治:ジャズタウン・プレイベント 会場ジャムサウンズ 0898-33-3023
6月20日(水)大分:ネイマ 097-567-1517
6月21日(木)熊本:エスキーナ・コパ 096-322-5353 
6月22日(金)宮崎:Cafe B-flat 0985-28-8456
6月23日(土)東京:金魚坂  03-3815-7088予約制 
6月24日(日)甲府:コットンクラブ 055-233-0008
6月25日(月)東京:Body&Soul 03-5466-3348
6月26日(火)舞浜:イクスピアリ 047-305-5700
尚、詳しい時間や料金などは各会場に直接、お問い合わせ下さい。
ツアー全体のお問い合わせはS&J ASSOCIATES(076)222-5960

 

外川千帆さん/伴奏ピアニスト/ドイツ・ミュンヘン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回ドイツで伴奏ピアニストとしてご活躍中の外川千帆(トガワチホ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2010年12月)


ー外川千帆さんプロフィールー
Image東京芸大附属高、芸大、芸大大学院修士課程ピアノ専攻卒業。ロータリー財団国際親善奨学生、文化庁在外派遣研修員として、ミュンヘン音楽大学、チューリヒ音楽大学歌曲伴奏科卒業、演奏家資格を得る。ミュンヘン音楽大学の伴奏員を在学中から2007年まで務める。第73回日本音楽コンクールにて、コンクール委員会特別賞(共演賞)を受賞。第6回国際フランツ・シューベルトと現代音楽コンクールのリートデュオ部門と、フーゴー・ヴォルフ・アカデミー国際リートデュオコンクールにて第3位を受賞。第4回ヒルデ・ツァデック国際声楽コンクールにおいて公式伴奏者。ルードヴィヒスブルク音楽祭等、ヨーロッパや日本で演奏活動を行っている。これまでに歌曲伴奏をH・ドイチュ、白井光子&H・ヘルの各氏に師事。


-まずは、簡単なご経歴を教えてください。

外川  東京芸大の附属高校から芸大ピアノ科に進学し、大学院まで進みました。大学院在学中に、ミュンヘン音大の歌曲伴奏科に留学しまして、ミュンヘン音大と東京芸大の両方を卒業しました。ミュンヘン音大に在学中から、伴奏助手として働き始めたのと並行して、チューリッヒ音大に入学し、月に1週間ほどレッスンを受けていました。チューリッヒ音大を卒業した後、子供の出産を経て、2007年まではミュンヘン音大で伴奏助手をやっていましたが、今はフリーで働いています。

-音楽を始められたのはいつですか?

外川  4歳です。私は、岩手県出身なのですが、母がピアノ教室をやっていましたので、まずはそこで始めました。

-ご自分からやりたいと言って始めたのですか?

外川  4歳だったのでよくは覚えていませんが、そうかもしれないですね。生まれたときから、身近にピアノはありましたし。近所の子どもたちがレッスンを受けているのを見ているうちに、弾き始めていたんじゃないでしょうか。母が熱心に勧めたわけではなかったと思います。

Image-小さいときから練習量は多かったんですか?

外川  いいえ、いなか育ちなので、本当にのんびりやっていました。 東京とか大きな都市だと、皆さん子どもの頃からすごく一生懸命やるじゃないですか。私は競争する相手もいませんでしたから、本当にのんびりと・・・。ほかの方のインタビューを読むと、皆さん素晴らしいですよね。

-そうだったんですね、それは意外です。中学校までは普通の学校だったんですね。

外川  高校も1年間は普通高校に行っていました、芸大付属高校には入り直した形です。

-芸大附属高校に入るまで、お母さんのレッスンを受けていたんですか?

外川  最初の頃は母に習っていたんですけど、親子だと難しいものがあるので、すぐに近所の先生に習いました。母の先生に当たる人でした。あと、東京の先生が出張レッスンに来てくださったり、こちらから出向いたりしていました。

-東京の先生にも習っていたんですね。

外川  小学生の時、ヤマハの音楽教室が、東京からの先生を呼んでレッスンをするというのを始めたんです。それがきっかけですね。そして、芸大附属高校の話も出て、受験してみようと。受かったら受かったで、皆さんすごく素晴らしくて、場違いなところに来ちゃった!と焦りました。(笑)

-本格的にピアノをやっていこうと思ったのは、芸大附属高校に入学してからですか?

外川  受験するときです。それまでは、どういう風に練習したらいいかとか、みんながどういう風に受験対策しているかとか全然知りませんでしたから。「朝9時に試験で弾かなければならない場合、5時から練習開始するべき」みたいなこととか、ソルフェージュのスキルとか、初めて本格的に教えていただいて。入学してからは、周りにすごく刺激されました。

Image-高校に入ってからの練習量はどのくらいでしたか?

外川  クラブ活動がないので、学校は午後1時とかの早い時間に終わるんです。なので、寮に帰って3時くらいから練習を始めて6時くらいまでやって、夕食を食べて7時くらいからまた3時間練習して、という感じですね。中には、お風呂に入ってから、1時、2時までやっている人たちもいましたよ。

-始めはキツかったですか?

外川  今、思い出せないくらいキツかったですね。お友だちとの楽しい思い出ってないんですよ。他の人たちも、自分の音楽に気持ちが向いている人たちばっかりだったので。学校終わったら、まっすぐ帰って練習、朝は授業が始まる一時間前から練習って感じでしたね。特に、私は全然余裕がありませんでしたから。

-高校生の時はコンクールなどには出られたんですか?

外川  いいえ。あの時代は、芸高に通っている生徒がコンクールに出るというのはタブーのような風潮があったんですよね。出るなら、絶対に賞を取らなくちゃいけないみたいな。

-それでも出られている方はいらっしゃったんですか?

外川  一人だけだったとおもいますよ。受けることも秘密にしていたと思います。

-大学に入られてもそういう感じだったんですか?

外川  いえ、大学に入ってからはみんな出ていましたね。私も、日演連の新人演奏会のオーディション等を受けたりしました。でも、私の場合は、大学に入ってからは伴奏のほうを沢山やりたくて。声楽の方の伴奏を主にやっていました。伴奏のほうではずいぶん色々なオーディションやコンクールに出たりしました。

-実際にプロを目指そうと思い始めたのはいつくらいですか?

外川  大学に入ってからですね。高校には声楽科がなかったので、声楽を勉強している人に出会ったのは、大学に入ってからだったんですよ。声楽科に友達がたくさん出来たこともあるのですが、伴奏をやっていくうちに、どんどん楽しくなってきまして、伴奏のお仕事が出来たらいいなと思うようになりました。

Image-伴奏の魅力は何でしょうか?

外川  もともと、ソロとして、舞台で弾きたいと思わなかったというか・・・。それよりも、音楽と言葉が密接に結びついていている声楽の伴奏をすることが、おもしろいと思い始めたのです。どっちかというと演劇作品に近いというか、ピアノとは違って言葉を使いますし、言葉と音楽で表現することに魅力を感じますね。演奏会の形態もそうですけど、一曲一曲が短くて、いろいろな情景が変わっていくこともおもしろいと思います。
 
-なるほど。さて、外川さんがドイツに留学されたのはいつのことですか?

外川  大学院に入ってからです。大学院受験は自分では試金石だと思って望みました。これでだめだったら自分はここまでだ、と言うことにしようと思って。でもおかげさまで合格できたので、大学院に入ってからは、もう伴奏をやっていこうと、授業などもその方向のものばかりとっていました。留学を考えたのはそれからです。私のソロピアノの先生も、伴奏をやることについては、理解してくださっていましたので、リートの先生を紹介してくださるなど、手助けをしてくださいました。

-ミュンヘン音大を選んだきっかけは?

外川 語学留学で一ヶ月ミュンヘンに行ったことがあったんですけれど、街がすごく好きになったというのが一つの理由です。 でも、直接のきっかけになったのは、東京で鮫島有美子さんとそのご主人であるヘルムート・ドイチュ先生の公開レッスンを受けさせていただいたことですね。 そのドイチュ先生がミュンヘン音大の先生だったのです。そこで先生にいろいろご相談させていただいて、具体的に留学することに話が進んでいきました。あと、たまたまミュンヘン音大で、歌曲伴奏科ができた年だったので、タイミングも良かったこともあります。

-音楽留学の前に、ミュンヘンで語学留学を経験されていたんですね。

外川  はい。フルタイムコースがあるのは大きな都市しかなかったので、ミュンヘンを選びました。ミュンヘンは、比較的安全な街ですし、地方の都市という感じで小さくまとまっていて住みやすかったので。その時は、語学学校で手配してもらったアパートで、同じ学校の人とシェアして一ヶ月生活しました。

Image-では、ミュンヘン音大に留学されたときには、語学では困らなかったんですね。

外川  一ヶ月みっちりドイツ語を勉強したのは大きかったですね。 いただいた奨学金も、何に使ったかと言えば、ほとんど語学に費やしました。時間があるときに個人で習ったり、できるだけコースに通ったりしました。ピアノの人って、一人でこもって長い時間練習するじゃないですか。なので、意識して勉強しないといけないと思ったのです。よく、「現地の友達と話していると、すぐ覚えるよ」って言われますけど、それだけでは足りないですよ。友達と話していてもなかなか直してくれないですから(笑)。高校生とか、若いうちの留学ならそれもアリかもしれませんが、私は26歳になってからだったので。

-ミュンヘン音大では、語学の試験はあったんですか?

外川  私のときはなかったです。今はあると思いますけど。

-留学はどのくらいの期間だったんですか?

外川  間が開いていますけど、計4年です。Aufbaustudium(大学院課程)は2年間ですが、途中1年間は芸大の大学院のために帰国していましたので。また、ミュンヘン音大卒業後に、スイスのチューリッヒにも2年通いました。本当はミュンヘンの後、カールスルーエ音大に行きたかったのですが、ドイツの教育システムでは、一番上の段階を卒業していると、他大学の同科には入れないのです。なので、聴講生という形で入ったのですが、ちょうど良く先生がチューリッヒで教えることになったのです。チューリッヒはスイスですから、また学校で勉強できるということで、そちらにも通いました。

-クラシックを勉強するに当たって、ドイツの良い点と悪い点を教えてください。

外川  ドイツの音楽ひとつにしぼって勉強したいという方には、すごくいい環境だと思います。ただ、大学で勉強するプログラムでは、グローバルなことはあまり学べないように思います。ドイツの大学では、ひとつのことをじっくり深く勉強する傾向なので、時間がかかるように思います。歌に関して言えば、ドイツの先生が専門的に教えられるのは、やはりドイツのものになりますので、フランス音楽もイタリア音楽も突き詰めてというのは難しいかもしれません。伴奏に関しても、たとえばアメリカだったら、リートのみならずオペラとか、いろいろな国の音楽を広く浅くやる傾向がありますが、ドイツではそこまでは手広くないように思います。日本でやってらっしゃる方のほうが、フランスやイタリアの音楽を知っているかもしれないです。

-外川さん個人にとってはいかがですか?

外川  わたしはドイツリートを勉強したいと思って来たので、良かったと思っています。

-どういう経緯で、伴奏の仕事に就くことになったんですか?

外川  大学内で募集があったのです。オーディションに応募して、採用していただきました。

-実際伴奏者として仕事をしていく上で、一番大事なことは何でしょうか?

外川  まずは、歌い手とのコミュニケーションですね。人間的にオープンであると言うことが大事だと思います。そうじゃないと、二人で一緒に音楽を作ってはいけませんからね。言葉でコミュニケーションするときにも、オープンでいるって言うことは大事ですね。でも変に主張しすぎると嫌われますけど(笑)。

Image-相手の気持ちを受け入れてコミュニケーションを取っていくということですね。

外川  そうですね。いろんなタイプの演奏者の人がいますから、一概にこうするべきっていうのはないと思いますが。あと、やはり一番は演奏です。歌の人を支えられるような演奏ができるか、いろんなジャンルや音楽様式を理解していて、それぞれの音楽を表現できるか・・・、つまり技術ですよね。

-プロの演奏家を目指して、留学を希望している人はたくさんいますが、ずばり、プロになれる人となれない人との違いは何だと思いますか?

外川  難しいですね。いろんな要素がかみ合っていますから・・・。もちろん第一前提は技術ですが、ほかにも大事なことは意識じゃないでしょうか。プロとしてやっていくという、強い気持ちを持っていることが大事だと思います。せっかく技術を持っていても、そこに甘んじないで、限界を突き抜けてまでもやっていこうという意識がないと。プロの音楽家は、気持ちも生活も、すべてが音楽に向いている人だと思います。たとえ子供を持って家庭と仕事の2足のわらじを履いている状況でも、いかなる状況でも、です。

-外川さんがプロとして意識していることは?

外川  今、プロとアマチュアには、大きな差がないように感じています。特に伴奏は、大学に出ていなくても、技術があればできますからね。経験がものをいう仕事でもありますから。私自身は、自分の演奏に対しては、表面的ではない、心をこめた自分の納得できる演奏ができるようにと思っています。なおかつ歌手の方を支え、引き立て、より良いものをと思っているので、いつも、120パーセント以上の用意ができている状態でなければと思っています。

-ドイツで、プロの音楽家として活躍していく秘訣は何でしょう?

外川 アジア人だからといって、あきらめずに、躊躇せずに前に進んでいくことですよね。自分には出来ないのではないかって思うときでも、もう一歩勇気を出して進んでいけるかどうかです。あとは、人間としてオープンでいることですね。日本人は控えめですけれど、そういうのは美徳とされないし、むしろ印象が悪くなってしまうので。最初は難しいかもしれませんが、失敗しても次があるという強い気持ちを持っているくらいがちょうど良いように思います。
 
-外川さんは、くじけそうになったりしたことはありましたか?

外川  いつもですよ(笑)。

-そういうときに立ち直る方法は?

外川  主人が韓国人の歌い手なのですけど、彼のポジティブさにはいつも助けられています。ドイツに限らず、今では世界で日本人より韓国人の方が成功しているのではないかと思うのですが、アイデンティティが強い国民性なのですよね。自分に自信を持っているというか、ちゃんと自己主張できる。彼は、オペラ座で働いているのですが、他のドイツ人と対等にやっていかなきゃいけないので、かなり自己は強く持っていますね。留学したことのある方なら、中国や韓国など、同じアジアから来ている人たちに、圧倒された経験を持つ方は多いと思います。

-ドイツで伴奏者として仕事をする上で、日本人として優位な点はありますか?

外川  日本人は細やかな仕事をするので、重宝がられることもまれにありますが、日本人で得をすることは、ほとんどないです。やはり、ドイツではドイツ人がすべて優先されるし、ドイツ人はドイツ人と演奏したいと思うでしょうから。ドイツ人がダメならせめてEU圏の人という風に。なぜ、アジア人と演奏するのか、という理由がないですからね。国民性も全然違いますから、いつまでも日本的だと仕事は取れないです。言わなくても察してもらうことを期待してはダメですね。何考えているのかわからないとか、シャイだっていうのはマイナスイメージですから。そういう意味では、大きな改革が必要だと思います。まあ日本人と言ってもいろいろな方がいますから、そういう垣根をとびこえて、海外で生き生きと活動していらっしゃる方も、もちろん沢山いらっしゃいます。

Image-そんな中で、たくさんお仕事されているんですね。素晴らしいです。

外川  いえいえ。たまたま、有難いことに外川さんと仕事がしたいとか、またお願いしたいと言ってくださる方々がいるので、やらせていただいている感じです。そういう方々と出会うことができたのは幸運だったと思っています。

-なるほど。ここで難しい質問になるかもしれませんが、クラシック音楽は外川さんにとって何ですか?

外川  難しいですね。ほかの皆さんは、すごく上手に答えてらっしゃいましたけど(笑)。私のイメージでは、クラシック音楽は、ポップスやジャズなどのほかの音楽に比べて、自然の波長に近い音楽だと思っています。森の木々が揺れたり、花が開いていい香りが漂ったり、湖の水面に太陽の光が差しこんできらきらしている様子など・・・、そういうのと一番近いというか。またクラシックってすごく人間的だとも思うのです。人を愛する気持ちとか苦悩とかユーモアだとか、そのようなものがそこかしこにちりばめられている。音楽を通してそういう自然の情景や人間の生きざまとかを表現できたらいいなと、いつも憧れを持ってやっています。自然って限りなく美しいじゃないですか、そして人の人生というものも。クラシック音楽も、いろいろな表現があると思いますが、最終的には限りなく美しいものでなくてはと思っています。

-自然と同じように、クラシック音楽も存在していると言うことですか。

外川  近づくのは難しいですけどね。クラシックは型もありますし。でも、伴奏者の仕事って、型にはまるだけではなく、自由で柔軟でいるって言うこともすごく大事なことですが。

-外川さんの、音楽家としての今後の夢を教えてください。

外川  去年から日本で、「歌曲の響」と言うタイトルで、コンサートシリーズを始めました。毎回違う歌手をおよびして、さまざまな歌曲を皆さんに紹介してゆけたらと思っています。今年2月には、音楽だけではなく映像とコラボレーションしたコンサートもやらせていただきます。日本では外国語の歌曲を歌われる際に、聴き手にダイレクトに伝わりにくいという問題があります。今回は舞台上に映像を流して、歌曲の世界を耳だけではなく、眼からも楽しんでいただこうという企画です。またヨーロッパでは、さらに引き続きリーダーアーベントをすることができたらと思っています。

Image-主催されているコンサートは、東京で開催ですか?

外川  今回は初めて東京でさせていただきます。以前から、そういうコンサートをやりたいと思っていたのですが、今回、共催してくださることになった会社が、演奏者を募っていて、それに応募して採用していただいたのです。それ以外は私の故郷である岩手でもコンサートをさせていただいてます。

-最後になるんですが、海外で勉強したいなと考えている人にアドバイスをお願いします。

外川  自分なりの目的を持って留学をすることが大事だと思います。みんながプロを目指さなきゃいけないというのではなく、「ヨーロッパを見に行きたい」っていう理由でもいいと思うのです。目的は持っていなければ、時間とお金の無駄になります。過ごしていく上で、目標が変わっていってもいいと思いますが、とにかく目的や目標がないと、外国に行く意味がないと思います。自分を見失わないように、という点から言っても大事なことだと思います。

-何か一つ強い信念を持ってないと、ということですね。

外川  あとは言葉!誰でも最初はできないので、勇気を持って望むことです。語学に関しては、できるだけ勉強しておいた方がいいです。音楽留学の前に、一度語学留学だけをしてもいいと思います。特に歌の場合は言葉がなんと言っても重要で、いくら声が素晴らしくても言葉ができないと評価されません。大学の先生もそれに関してはよくおっしゃいますね。大学に入りたい人は、ドイツ語が無理なら、最初のうちは英語でもかまわないので、何かしら先生とコミュニケートできる手段を持っておいたほうがよいです。

-今日は長い時間、貴重なお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。

 
Image-----外川千帆さんのコンサート情報-----
ソノリウム「映像と音楽」共催シリーズ2011参加企画

ラファエル・ファブル&外川千帆 リートデュオ・リサイタル[歌曲の響]vol.3
「ハイドンとシューマンの歌曲」~写真家・山本英人氏とともに~

本場ドイツをはじめ、ヨーロッパ各地で注目を集める、ラファエル・ファブル(テノール)&外川千帆(ピアノ)の二人による、繊細で洗練されたリートデュオを、ドイツの風景映像を背景にご堪能いただきます。耳と目で、ドイツリートの心をお楽しみください!

 <プログラム>
ハイドン作曲「さすらい人」「彼女は決して愛を語らず」
シューマン作曲「リーダークライス op.24」「6つのレーナウの詩による歌曲とレクイエム op.90」

<出演>
ラファエル・ファブル(テノール)
外川千帆(ピアノ)

開催:2011年2月27日(日) マチネ 14時  
ソワレ 18時30分
入場料金 4,000円
 会場/ソノリウム Tel: 03-6768-3000
168-0063 東京都杉並区和泉3-53-16 FAX 03-6768-3083
http://www.sonorium.jp/index.htm

【チケット取り扱い・コンサート詳細】
カノン工房
このメールアドレスはスパムボットから保護されています。閲覧するにはJavaScriptを有効にする必要があります。
Tel:03-5917-4355(平日10-17時)  fax:03-5917-4356
 http://www.atelier-canon.jp/ (サイトからもお申し込みいただけます)
 

吉田智晴さん/オーボエ/ケルン放送管弦楽団/ドイツ・ケルン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はドイツの名門オケ・ケルン放送管弦楽団オーボエ奏者でご活躍中の吉田智晴(ヨシダトモハル)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学をすること」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2006年6月)


ー吉田智晴さんプロフィールー

ドイツ・ケルン放送管弦楽団吉田智晴さん
吉田智晴さん

横浜生まれ。高校卒業後、渡独。ハンブルク国立音楽大学卒業。ヨエンスー市立管弦楽団、ヒルデスハイム市立歌劇場、ホーフ交響楽団を経て現在ケルン放送管弦楽団でオーボエ、イングリッシュホルン奏者。ケルン放送管弦楽団の木管五重奏団、ケルン放送交響楽団の木管八重奏団のメンバーとしても活躍中。これまでに小島葉子、河野剛、W.リーバーマン、R,ヘルヴィッヒ、I.ゴリツキ各氏に師事。



—  ドイツでの簡単な履歴を教えてください。

吉田 ハンブルグ国立音楽大学で勉強しながらブレーメンのオーケストラで演奏させて頂きました。その間にドイツのオーケストラのオーディションをいろいろ受けてヒルデスハイム市立歌劇場に入団しました。ハノーバーの近くにあるものすごく小さなオーケストラです。1年位そこにいてその後バイエルンにあるホーフ交響楽団に入団しました、そこに4年間いまして、その後たまたま招待状を頂いたケルン放送管弦楽団に入りました。オーケストラを転々としていますね。

—  高校卒業してからすぐにドイツに行かれていますが日本で音大は受験しなかったのですか?

吉田 最初に京都芸大を受けました。ピアノを始めるのが遅くて東京芸大の試験を受けるのにはピアノの腕がおいつきませんでした。京都芸大は当時、ピアノの試験がものすごく簡単だったんです(笑)。今でもそうかは分からないですが(笑)。ただ単に受けに行ったので一次で落ちました(笑)。それで1年間浪人してピアノを練習して、次は東京芸大を受けようと思いました。東京芸大を受けるために1年間師事した当時の先生がドイツのデトモルトで勉強されたご経験がありました。先生はハンブルグのオーケストラでも吹いた事があって、その関係でハンブルグのオーボエ奏者をご存知だったんです。結局、芸大を受けてダメだった後に、ハンブルグの先生が日本に偶然来まして、じゃあ先生の前で吹いてみろ、ということで吹きましたら付いてこいということになり、その年の10月にハンブルグに行くことになりました。

—  もともと海外に留学しようという思いはあったのですか?

吉田 あんまり考えてなかったですね。芸大に入れれば芸大にずっといたんじゃないかと思います。

—  たまたまという事ですね。

吉田 たまたまですね。というか芸大がダメだった時に、以前そういう形でドイツに行かれた方がいらして、その話をうちの父親が聞いていましたので、「お前もそういう風にドイツに行けるんだったら行けばいいじゃないか」みたいな感じで後を押してくれました。僕は深く考えずに日本にいてもしょうがないと思い、2年目も浪人する気はなかったのでドイツ行きを決心しました。

—  ドイツ語は勉強していましたか?

吉田 ドイツ行きが決まってから日本で少し勉強しました。でもやっぱりあまり役に立たなかったですね。ドイツに来て語学学校に行きましたけど、ドイツ人の音大友達と話しているうちにだんだん覚えていきました。僕の場合、日本で音大を出ていませんので、ドイツで基礎科目も取らなきゃいけなかったんです。そのおかげもあってドイツ語をどうしても勉強しなければいけない状況でしたので頑張りました。尻に火が点かないとやはりやらないですよね(笑)。

—  やらざるを得ない時が一番やりますよね(笑)。

吉田 ドイツ語ができないと単位が取れないんで(笑)。

—  音楽に興味を持ったきっかけを教えて頂いてよろしいですか。

吉田 もともとブラスバンドでオーボエを始めたんです。

—  中学校ですか?

吉田 中学です。ブラスバンドがとてもうまかった学校で入学式の日に演奏してくれたんです。その演奏がものすごくうまくて、同じ中学生でなんでこんなにうまく出来るんだろうと思ったのがきっかけです。親父が高校の時にブラスバンドをやっていてその関係でフルートが家にありました。それでフルートをやろうと思っていたら、親父に「フルートはきっと人も多いだろう。オーボエというのはいい楽器だから、オーボエが学校にあるんだったらオーボエをやりなさい」と言われたんです。それでブラスバンドに入部した時にオーボエを希望したのですがやはり僕1人でした。トランペットやフルートはものすごい人が多かったですね。

—  小さい頃から音楽はやっていたのですか?

吉田 音楽を聴くのは好きでしたね。名曲アルバムなどをよく1人で聴いた記憶はあります。

—  子供の時からピアノを習っていたというわけではないんですね。

吉田 英才教育ではありませんでした。父親に連れられて小学生の頃、何回かクラシックの演奏会に行った記憶は今でもありますけど、先を考えてした行動ではなかったと思います。

—  オーボエを中学校からやる人は珍しいですよね?

吉田 あまりいないのかもしれません。今考えると楽器の調節も無茶苦茶だったし、リード自体もとんでもないものだったから、音を出すこと自体が何かもうきついっていう記憶は未だに残っています。

—  オーボエを教えてくれる方はいらしたのですか?

吉田 1歳年上の先輩しかいませんでした。女性の先輩で、その方自身もオーボエを吹いて1年になっていない訳です。悪条件で始めたので目眩がしましたからね(笑)。楽器も調整されてないしリードも悪いしきつかったですね。

—  それがいまだに続いているんですからオーボエに取りつかれたんですね(笑)

吉田 そうですね。実は中学の時に、オーボエだと人数的に少ないので吹奏楽コンクールに出れませんでした。それでクラリネットだったらコンクールに出れるというので中学2年から1年半ぐらいクラリネットを吹いていたんです。クラリネットの方がオーボエに比べると音を出すこと自体はそれほど難しくなかったのでクラリネットが結構うまくなりました(笑)。コンクールが終わったらオーボエに戻ろうと思っていたんですけど、先生が「お前はクラリネットとして必要だ」と言ってくださいました。それで、そのままずるずるとクラリネットをやっていたんですが、高校に入ったのをきっかけにオーボエに戻りました。自分が本当にやりたい楽器はオーボエなんじゃないかと思ったんですね。楽器を持っていなかったので神奈川県青少年オーケストラという楽団に所属したらオーボエを借りられるということで青少年オーケストラに入りました。それがオーケストラを経験した最初です。そこで楽器をずっと使わせていただいて大学受験の時にオーボエをようやく買ったんですよね。

—  それまではどうしていたのですか?

吉田 ずっと借り物でした。親としても本当にやるかどうか分からなかったと思いますから。

—  もともとプロの音楽家としてやろうと思っていたわけではないですもんね。

ドイツ・ケルン放送管弦楽団吉田智晴さん
吉田智晴さん

吉田 高校3年の時になるまで音楽大学は考えていませんでした。だから普通の大学を受験すると思っていたんです。でもよく考えてみたらもともと勉強が好きなほうじゃないし、自分には音楽しかないのかなと思うようになったんですね。

—  ピアノはいつから始めたんですか?

吉田 高校3年の時です。

—  高校3年生ですか!

吉田 音楽大学を受験するにはピアノが必要という事になりました。高校のブラスバンドの先生がたまたまピアノも教えていらしたので、その先生にピアノを習い始めてそこで長音とか受験に付随する科目を習いました。

—  指は動くんですか?そのぐらいの年齢から始めても。

吉田 ものすごいスピードで練習しましたからね。何とか、何ヶ月かで弾けるようになりましたね。でも、小さい頃からやっていませんので1回ピアノをやめちゃうと全く弾けなくなっちゃいます。聴くのは好きですけど、弾くのは本当にあんまり好きじゃないんです(笑)。

—  ところで、音楽を勉強するためにドイツの良い点、悪い点はありますか?

吉田 ドイツの音楽大学の場合は、例えばオーケストラでやりたい、音楽院などで音楽理論を教えたい、音楽を使ったセラピーを専門にしたい、など自分の目的がはっきりしている人にはすごくいいと思います。卒業する前に方向を決めるのではなく、学校に入る時点である程度自分の方向性を決めないといけないんです。悪い意味だと入ってからは軌道修正がしにくいんですね。これはドイツの小学校、中学校のシステムについても言えるんです。ある程度、目的意識を持っている人にとっては将来職業として必要とされるものがかなり集中してやれる環境ですので、そういう意味では無駄な事をしなくていいのでそのシステムはすごく僕はいいと思うんです。それに国立音楽大学に関して言えば授業料がないということは素晴らしい事だと思います。悪い点は自分が違うことやりたいと思った時に、その他の学科への編入がかなり難しいということでしょうね。

—  そうですよね。

吉田 大学では学習環境がよく整備されていますし、教鞭を執っている方はいい先生が揃っています。例えばハノーファー音楽大学は練習室が数多くあります。自宅で練習して大きい音を出さなくても学校に行けば休日以外はほとんど開いていましたので、朝から晩まで練習していましたね。

—  ドイツは法律で何時まで練習していいよと決められているんですよね?

吉田 夜は10時までです。

—  オーボエの場合、部屋で練習すると近所からクレームはきましたか?

吉田 あんまりこなかったですね、オーボエの場合は。それほどうるさくないみたいです。

—  基本的に部屋の中で練習されている方が多いのですか?

吉田 部屋の中で練習できる楽器は、多分部屋で練習されていると思います。金管楽器ですとみんな学校に来て練習していますけれども。

—  これからドイツに行きたい方にとって、最も重要と思われる事はなんでしょうか?

吉田 自分がどういう事をしたいかという事が明確に分かっていないと道を選ぶ上でも少し困難だと思います。例えば、どうしてもこの先生に付きたいという意識があるのでしたら、学校も決まってきます。漠然とドイツに行くと決めた場合、焦点を非常にしぼりにくい。人気のある先生のクラスに入りたいと思った場合は倍率がかなり高いです。しかし倍率の低い大学に入った場合は相当のデメリットが待ち構えています。ドイツに行きたいという理由だけで大学を選択した場合でも、多分運が良ければどこかしらの音大に入れるかも知れません。でもどうしてその音大の先生の弟子が少ないのか、どうしてその音大の受験倍率が低いのか、を考えてみた場合、答えが分かると思います。オーケストラが応募者に招待状を出す場合に、どこで勉強したか、どの先生に付いたかをよく見ます。その時にその楽器の権威とかいい弟子をたくさん出している先生に付いている事はある程度選択条件になります。もちろんいい先生でも、それほど名前の知られていない方はいらっしゃいます。ただネームバリューというのは選考の際、結構重く見られる場合が多いです。

—  ドイツでオーケストラに入る場合、大学を卒業していないといけないのですか?

吉田 いや、それは全然ないです。学生が在学中にポンと入っちゃう人もたくさんいます。

—  実力が優先されるんですね。

吉田 当日オーディションで一番うまく吹けばいい訳で、根回しはあまり必要ないんじゃないかと思います。

—  実力だけで勝負できるという事ですよね。ドイツで音楽をやる上での良い点でもありますね。さてドイツでオーケストラやソロ活動をする場合、日本人が有利な点、不利な点はありますか?

吉田 不利な点はオーケストラのオーディションになかなか呼んでくれないことですね。ドイツの失業率はかなり高いですので、まずはドイツ人が優先されます。ただ現実的に最近の傾向としては、例えば音大などでもドイツ人の割合がすごく低いんです。

—  そうなんですか。

吉田 ドイツの音楽大学は、いい先生がたくさんいて学費がいらない、などのことからロシア、韓国、中国からたくさんの学生が来ます。ドイツに来る方は基本的に音楽レベルの高い国でさらにある程度弾ける方が多いので、ドイツのペースでぬくぬくとやっているドイツ人だと最初から外国人と勝負にならないんです。先生としてはいい弟子を取りたいでしょうから、結果としてドイツ人の学生が減少しています。

—  感覚的に何%が外国人なんですか?

吉田 感覚的に言うと40%ぐらいになるんじゃないでしょうか。

—  そんなに高いんですか!

吉田 高いと思います。最近学生さんと交流があってファゴットはケルン音大のレベルは高いんですけど外国人がやっぱり過半数です。それは僕の学生時代でも言えた事です。20人位いたんですけども、そのうちの半分以上は外国人でした。イタリア人、台湾人、イギリス人、オランダ人、日本人でしたね。

—  オーケストラもそうですか?
 

ドイツ・ケルン放送管弦楽団吉田智晴さん
吉田智晴さん

吉田 うちのオーケストラ(*ケルン放送管弦楽団)は15カ国、16カ国ぐらいの国籍ですね。ベルリンフィルでは今13〜15%ぐらいだと思います。ベルリンフィルは比較的ドイツ人が多いオーケストラだと思うんですけど、他のオーケストラになると、外国人の占める割合の方がドイツ人より多いというオーケストラはずいぶんありますね。

—  そうなんですね。

吉田 妻はアメリカ人でホルンを吹いているのですが彼女もドイツに仕事をしに来た人間です。

—  アメリカからですか?

吉田 そうです。アメリカは、オーケストラの1つのオーディションに300人ぐらい来ちゃう国じゃないですか。枠が狭くてレベルが高いし、金管楽器の場合非常に難しいですからね。アメリカにいたら就職する確率がものすごく低いので仕事をしにドイツに来たんです。

—  そういう意味ではドイツの方が就職しやすいんですか?

吉田 そう思います。やはりこれほどプロのオーケストラが密集している国はヨーロッパの中にもありません。ですから受け皿が広い分、入れる確率も高いのではないかと思います。フランス、イギリスなどのヨーロッパ諸国に比べますとドイツでは外国人の枠が一番広いです。ドイツのオーケストラとしては外国人が入団する場合、ドイツ人の音楽家をとらなかった理由が必要らしいのです。役所に提出するのに会社ではどうしてこの外国人を採用したのかを言わないといけないそうです。ドイツ人の応募者の中で、自分たちの求めるレベルに達している者がいなかったという断り書きが必要なんですね。ですからドイツ人を最初に招待し、それで誰もいなければ外国人というように枠が広がっていくんですね。

—  分かりました。

吉田 例えば、うちのオケでもバイオリン、チェロなどで過去何ヶ月かにオーディションをやりましたけどドイツ人でまともに弾ける人は少ない。うまいな、と思うとやっぱり外国人だったりします。

—  そういうものなんですか。

吉田 教育システム自体を見直していかなきゃいけないと思います。特に弦楽器だとある程度早くから始めないと難しいですよね。

—  そうですね。

吉田 ドイツみたいに個人主義だと自分がやりたきゃやれ、みたいなところがあるので子供の時から叩き上げるという事はあまりしないと思うんですよね。でもそれをしないとやはり、特に弦楽器の人なんか育たない。ほんとにレベルアップを考えているならもっと早くから始めて行かないといけないですね。

—  なるほど。

吉田 鉄は熱いうちに打たないと硬くなってしまいますから。

—  ドイツはそういう状況なんですね。

吉田 もちろん僕一人の意見ですけど、ある程度的を得てると思います。僕も今年でドイツに21年目で、20年以上ここに住んで、自分の目で見て肌で感じてきたことやオーディションを見て思うんですけどドイツ人のレベルはちょっと….。ものすごくうまい方はいらっしゃるんですけれども平均して見るとやっぱり外国勢に押されているんじゃないかと思います。

—  意外ですね。

吉田 日本の相撲でも同じことだと思います。外国勢の方がかなり頑張ってらっしゃいますよね。外国人がドイツに残ろうと思った場合は、学生のままでいるか、就職して仕事を取る以外にここに居残る道がない訳です。そうするとやはり火事場のくそ力じゃないですけど、力を出すと思うんですよね。

—  分かりました。吉田さんにとってクラシック音楽とはどういうものですか?

吉田 クラシック音楽は人間が今まで創造してきた芸術の中でも一番頂上にあると思います。でもジャズもよく聴きますし、ジャズもすごいなって思いますよね。

—  ジャズは演奏もするんですか?

吉田 ジャズはまだやってないですね。そのうちやりたいなと思うんですけど、ジャズのアプローチの仕方はクラシックとは全く違いますので。

—  オーボエって、ジャズにそんなにないですよね。あるんですか?

吉田 ないですね。有名なのだとアメリカに「オレゴン」というバンドがあるんですけど、そこの人がサクスフォンと一緒にオーボエを吹きます。

—  オーボエのジャズは聴いたことないのでいまいちイメージしにくいですね。

吉田 オーボエは音域もそんなに広くないし、ジャズの楽器としてはちょっとフレキシビリティに欠けているのかもしれないですね。やれない事はないと思いますけど。そのうち挑戦してみたいなと思います。オーケストラは長い間やっていますので室内楽なり、ジャズなり即興なんか出来たら本当に楽しいだろうなと思います。

—  今後はオーケストラより独自の活動も行うのですね。

吉田 オーケストラにいれば、音色なり自分のテクニックなりこれからもどんどんどんどん改善を進めて行くと思うんです。ただそれと平行して室内楽で求められるような音楽なり技術を磨いていくというのは、ここ5年10年の自分の目標ですね。

—  吉田さんはプロの演奏家としてドイツでご活躍されていますけれども、活躍できなくて日本に帰ってくる日本人もたくさんいると思うのです。実際に活躍できた条件や理由はあるとお考えですか?

吉田 もちろん運もものすごくあると思うんです。ただ運を掴むためには本人の努力なしでは不可能です。学校を選ぶ時に申し上げましたが目的意識、つまり自分が何をどういう風にしてどういう事をしたい、という事をはっきりと描いた時点で、これを現実化させるためには何をどういう風にしたらいいか、それに付随する細かい事をどこまでやれるかというのが、成功につながっていくと思うのです。

—  なるほど。
 

ドイツ・ケルン放送管弦楽団吉田智晴さん
吉田智晴さん

吉田 例えばオーケストラに入団したい場合、ある程度履歴、経歴が関係してきます。本当にオーケストラに入ろうと思った場合、この先生に付いた方がオーケストラに入れる、招待状なりもらえる確率が上がるとなった場合、倍率の高い音楽大学に入らないといけないという事で、その倍率の高い音大に入るためにはどうしたらいいか、どんどん遡っていくと今の時点で何ができるかというのが明確に見えてくる。漠然とうまくなろうというのはものすごく難しいと思うんです。実際に具体的に何をしたらいいんだろうとなって来た場合に自分の質というのがはっきり見えてくる。

—  そういう事を考えないで大学に入った人が多いんですか?

吉田 僕なんかほとんど何も考えないで来ちゃったんですが(笑)。こちらに来てだんだんやってくうちに見えてきたところがありますよね。就職しなければという事で一足飛びに入れるオーケストラを考えましたし。ベルリンフィルなりバイエルン放送響なりすごくレベルの高いオーケストラにポンと入れる人はそれ程いないと思うんですよね。

—  そうですよね。

吉田 僕みたいにごく普通の才能しか持っていない人間は下からどんどん積み重ねていく以外にないと思うんです。どこまで地道な努力を続けられるかということで人生が変わってくると思います。やはり積み木と一緒で、下のほうが地盤になります。建物と一緒だと思うんですけど、基盤がちゃんとしてないと、いくら高く上げようとしても崩れてしまう。やはり基本的なテクニックなりをしっかりとやるというのは急がば回れですね。無駄に思うような努力、例えばロングトーンなんかは、すごく単純で退屈な練習だと思うんですけども、逆に言うと1つの音をまっすぐ伸ばす、これ一番難しい事だと思うんですよね。正直言ってプロの中でもこれができる人ってあんまりいないんじゃないかと思いますね。

—  そうなんですね。

吉田 厳密な意味でですよ。ものすごく厳密に1つの音を例えば10秒なり伸ばしたとして、それが本当にまっすぐ音を出すというのは多分あんまりできないと思うんです。よっぽどうまい人じゃないと。特に管楽器の場合は、息の流れがものすごく音のでこぼこに影響しますから音をまっすぐ出すのは難しいです。ここ何年かで僕も気がついたんですけど、これほど難しい事はないなと思いました。そこを飛ばして指が早く回るとか、技巧ができるとかあんまり意味がないんじゃないかと思います。

—  技巧的なところばかり目がいって基本がなくなっているんですね。

吉田 僕も学生だった時はそういう傾向ありましたから。周りにテクニック的にものすごく華のある人を見ちゃうと、やっぱり指が早く動くのはすごいな、と。テクニックを持っているという事はもちろん大きな利点になると思いますが、実際にオーケストラで要求される事は、テクニックよりも如何にしていい音を出すか、短いフレーズの中でどれだけの事を凝縮して表現できるかという点におかれますね。そうしますとやはり、音色の大切さがものすごく重要になってくると思います。

—  今後プロを目指す方は、そこの部分をきっちり仕上げて行った方がいいわけですね。

吉田 そうですね。皆さん焦る気持ちや早くうまくなりたいと思う気持ちも良く分かりますが、天才と言われている人以外は基本的な技術をなるべく時間をかけてマスターしていく事が逆に近道なんじゃないかと思います。

—  海外で実際に勉強したいと考えている読者にアドバイスがあれば、今の条件も含めてお願いしてよろしいですか。

吉田 何度も言いますがやはり自分が何をしたいかを明確に自分の中で描くべきなんじゃないかと思います。それを持たずにはその先に進めないような気がします。ただ単にアメリカに行きたいとか、イタリア、フランスで勉強したいなど、そういう事もモチベーションとしては悪くはないと思うんですが、留学後の事を考えるとやはりそれなりのリスクもある程度ありますので、その先の身の振り方をある程度考えて行動した方がいいと思います。最近は音大の外国人の占める割合が高くなってきたという事で、例えば外国人の入れる年齢制限が引かれたり外国人枠も出てきています。入学時にドイツ語の試験がある学校も増えてきています。だんだん入り口が狭くなって来ていますから、それこそきっちり考えて行動された方がいいと思います。

—  ありがとうございました。


布谷史人さん/ソロマリンバ奏者/アメリカ・ボストン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はアメリカ・ボストンでソロマリンバ奏者としてご活躍中の布谷史人(ヌノヤフミト)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2006年11月)


ー布谷史人さんプロフィールー

マリンバ奏者
布谷史人さん

秋田県生まれ。山形大学教育学部総合教育課程音楽文化コースを経て、ボストン音楽院修士課程マリンバ・パフォーマンス科修了。アーティスト・ディプロマ科マリンバ専攻修了。ボストン音楽院でナンシー・ゼルツマン、パトリック・ホーレンベルクに師事。その他、岡田知之、目黒一則、須藤八汐、三村奈々恵、池上英樹の各氏に師事。Ima Hogg 若手音楽家のためのコンクール(テキサス州ヒューストン)1位。世界マリンバコンクール(ドイツ)、The National Young Artist Competition(テキサス州オデッサ)、The Eastern Connecticut Symphony Young Artist Competition(コネチカット州ニュー・ロンドン)、Percussive Arts Society国際マリンバコンクール(アメリカ)等で入賞。大曲新人音楽祭コンクール、クラシック音楽コンクール・打楽器部門最高位(日本)。ヒューストン交響楽団、Di Pepercussio Ensemble、東方コネチカット交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団と共演。現在ボストン在住。



―  簡単な略歴を教えていただいてよろしいですか?

布谷 7歳からピアノを始めました。小学校の時に学園祭でマリンバを初めて見たのですが、それ以来マリンバに憧れがありましたね。その後、中学校からずっと打楽器をやり、17歳からマリンバを本格的に勉強しています。

―  その後はマリンバだけをお続けになっているのですか?

布谷 大学は音楽大学ではなく、教育科のある山形大学に行ったのですが、その時は打楽器も勉強しなければいけなかったので、打楽器もマリンバも両方均等にやっていました。アメリカの学校ではマリンバ科がありそこに入学したので、留学後はマリンバを主に勉強しました。

―  アメリカに留学しようと思ったきっかけはありますか?
 

ボストン・マリンバ奏者
日本人マリンバ奏者と

布谷 留学というか、マリンバを勉強する引き金になった先生(大学2年頃から学外で習っていたピアノの先生)がいるんです。山形大学のカリキュラムでは、打楽器専門の先生が年に4回しか来ません。それだけだとあまりにもレッスン数が少ないと感じたので、大学2年の終わり頃に思い切ってそのピアノの先生にマリンバを教えてくださいとお願いしたんです。先生はそれを快く引き受けて下さいました。そこからは常に新しいものの発見でした。音楽というもの、音楽をすることの喜び、苦しみ、深さ。本当にいろいろなものを学びました。その先生との出会いで、真剣に音楽を勉強しようと決めたと言っても過言ではないですね。そしてマリンバの世界に目を向けるために、世界で活躍している何人かのマリンバ奏者に出会う機会があり、その方々から色々と海外のお話しを聞いていくうちに、海外に興味を持ち始めました。

―  アメリカやヨーロッパ、アメリカの中でも西側、東側がありますが、ボストンに留学先を決めた理由は何かありますか?

布谷 ヨーロッパでは、オーケストラ奏者になるためのプログラムが主流で、ソロでマリンバのみを勉強することはまず不可能だと聞きました。自分としてはマリンバのみを勉強したかったので、大学3年生頃からお世話になっていた三村奈々恵さん(注:マリンバ奏者)からお話をいろいろ聞き、マリンバ専攻で修士課程が取れる大学ということで、三村さんが通っていたボストン音楽院に行こうと、大学4年の夏に急に考え始めました。

―  ボストン音楽院に行かれてどうでしたか?

布谷 アメリカ留学を急に決めたので、英語を準備する時間はほとんどありませんでした。最初は英語が全然出来なかったので、英語の授業から受講しました。その英語のクラスでは、いろいろな国の人と友達になり、ボストン探索をしたり、協力したり、毎日いろいろな発見があって楽しかったです。プライベートレッスンは、英語があまり達者でない留学生を教えるのに慣れている先生でしたので、英語が出来なくても身振り手振りと簡単な単語で何とか教えてくれました。

―  ボストン音楽院は、入学時にTOEFLは必要ですか?

布谷 僕はスコア自体を持っていましたが、恥ずかしながら入学するための点数には達していませんでした。多分、その当時はそんなに重要視されていなかったのだと思います。今は必要みたいですね。

―  オーディションはテープですか?

布谷 テープでもいいし、もちろんライブオーディションでも良かったです。僕はあまりよく分からなかったのでテープで出しました。ただ、自分の担当になる予定の先生に自分の事を知られていないのであれば、直接来てオーディションを受けたほうがいい印象を与えられると思います。奨学金の額も変わってくると思います。

―  初年度から奨学金はもらえますか?

布谷 優れている人には多少なりともちゃんとくれます。ただ、奨学金は主にオーケストラの楽器の専攻生に多く振り分けられるので、マリンバ専攻生は高額な奨学金をもらうのは難しいと聞きました。僕の場合、修士課程の時は多少もらっており、その後のアーティスト・ディプロマでは全額奨学金を得ることができました。

―  マリンバ科は何人いたのですか?

布谷 修士課程は、三〜四名です。学校自体がそんなに大きくはないので三〜四人でも結構多いほうだと思いました。

―  ボストンは、治安などいかがですか?

布谷 場所によってですが、アメリカでは比較的良いほうだと思います。何区域か危ないと聞いています。危ない区域は決まっているのでそこに行かない限り大丈夫だと思います。
 

マリンバコンサート
マリンバのコンサート

―  音楽をアメリカで勉強することで良い点・悪い点はどのような事がありますか?

布谷 アメリカは、国自体が本当に自由だと思うんです。いろいろな人がいるし、いろいろな演奏方法もあるし、いろいろな音楽もある。それが刺激になっていいなと思います。逆にいろいろありすぎて広く浅くになりがちな部分もあるような気もしますね。ただ、ボストンやニューヨークなどの東海岸側は、地理的にもヨーロッパに近く、たくさんの音楽家がヨーロッパから渡ってきます。そのおかげで、クラシックの本場の音楽を聴く機会もありますし、クラシックの勉強を本場の人から習う事も可能だと思います。そして、マリンバという楽器自体が珍しく、アメリカは珍しいものが好きなところがあるので、作曲専攻の生徒や作曲家の先生方がマリンバを使った室内楽曲やソロの曲を書いてくれますね。その曲を演奏するチャンスがありますし、マリンバの作品を書いてくれる作曲家の方と、マリンバの可能性や、その作曲家の書いた曲の意図等のお話をする機会がありますね。

―  アメリカでもマリンバはあまり知られていないのですね?

布谷 そうですね。演奏会をすると「今までマリンバを聴いたことがなかった」という人はたくさんいます。コンサートマリンバの歴史は浅いので、仕方がないと思いますが。でも、中にはマリンバをジャズで聞いた事があるとか、昔メキシコで聞いたとか、そういう人がいて僕も驚くことがあります。

―  アメリカに留学されて一番大事な事はなんですか?

布谷 目標みたいなものはしっかり持って勉学に励む事が大事だと思います。そして、留学は親等からの金銭的・精神的サポートが必ず必要だと思いますので、そのサポートをしてくれている方達への感謝の気持ちも忘れてはいけませんよね。また、ボストンは日本人が多いので、日本人とばかり遊んだりせず、いろいろな人と交流を持っていろいろな文化や経験をしていく事も大事かなと思います。

―  学校を卒業後、アメリカでいろいろな仕事をなさっていると思いますが、アメリカで仕事をする上で日本人に有利な点・不利な点があるとお考えですか?

布谷 それはまだ、感じたことはないです。ただ英語がアメリカ人みたいに流暢に話せないことが不利というか、思ったことがすぐに英語に出てこないことがストレスになることはありますけどね。

―  東海岸、西海岸の都市部では、言葉がある程度できれば、あとは実力で仕事をもぎ取っていけるという事ですね?

布谷 そうだと思います。

―  クラッシック音楽というのは、布谷さんにとって何ですか?

布谷 自分と向き合う鏡みたいなものですね。音も音楽性も感受性もほとんど人間性から来るものだと思っています。人間性を磨いてこそ音楽が高まっていくとも思います。音楽は心のよりどころですね。

―  そのときの自分の状況が音に反映されるという事ですか?

布谷 ほとんどそうだと思います。

―  ロックとかポップとかそういうジャンルには興味が無いのですか?

布谷 そういうジャンルの影響を受けて作られたマリンバの作品がありますので、そういうのは何曲か演奏したことあります。でも、そういう音楽は、自分は聞くほうが好きですね。あとは、ジャズを六ヶ月くらい勉強した事はあります。でも、何かしっくりこなかったですね。クラッシックの演奏とジャズの演奏とでは頭の使い方が全然違うので、今からもう一度一からジャズを勉強するよりは、今はクラッシックの方に時間を費やしたいと思っています。でも余裕が出てきたら、いつかはちゃんとジャズを勉強したいと思っています。
 

ソロマリンバ奏者
ソロマリンバ

―  今後の音楽的な夢があれば教えていただいてよろしいですか?

布谷 マリンバでクラシック音楽を演奏することがまだあまり世に浸透していないので、まずマリンバという楽器があることを世の中に確立して、その上で、マリンバで奏でる音楽、そしてその良さを世間に広めていきたいと思っています。曲も、マリンバのオリジナル作品はまだそれほどありませんので、僕が尊敬する作曲家の先生に委嘱していき、後世に残せる作品も作って行きたいですね。そしてマリンバで奏でる僕の音楽を通して、いろいろな人がいろいろなことを考えられるような、感じられるような、深い音楽を創って行きたいと思っています。ピアノやヴァイオリン奏者の方は、そのような演奏をされる方はたくさんいますが…。要するに音で勝負できる音楽家になりたいということです。最近、マリンバの演奏自体がエンターテイメントになりがちな事が多いと思いますので。

―  エンターテインメント的というのは?

布谷 奏者がマリンバから出る音をよく聴かずに、体の動きのみを考えて演奏する事です。それがいいと思ってやっている人はもちろんいいと思うのです。マリンバを演奏する事は、やはり動きを伴いますし、そういう体の動きに自分の思考が働いてしまうことは仕方がないと思うのです。でも僕は「動き」を第一に考えた音楽ではなくて、自分の奏でるマリンバの音に対してもっと敏感に耳を働かせてよく聴き、作曲家の書いた音符を深く追求して、その作曲家の意図を理解し音楽を創っていけるような音楽家、マリンバ奏者になりたいと思っています。

―  アクションっぽくなる、見られがちということですか?

布谷 そうですね。「見ていて綺麗だね」とか「手が早く動いて凄い」と言われるよりは「音楽が深いね」と言われるほうが嬉しいですよね。でも実際問題、マリンバを演奏することには大きな動きが伴うので、難しいですけどね。

―  マリンバの演奏は、ソロとオーケストラの両方になりますか?

布谷 オーケストラの中でマリンバを演奏する事もあるのですが、それはオーケストラの打楽器奏者がマリンバを演奏することになります。マリンバ奏者がそのような仕事に雇ってもらえる事は稀でないでしょうか。マリンバ奏者は、主にソロのコンサート、ソリストとしてオーケストラをバックに演奏、室内楽で演奏、BGMで弾く、レセプションで演奏することがほとんどだと思います。

―  マリンバというのはいつ頃から登場した楽器なのですか?

布谷 コンサート楽器としてある今日のマリンバの原型が登場してから80年くらいです。マリンバは、アフリカが起源だと言われているのですが、確かではありません。その起源と言われるアフリカのバラフォンという楽器が南アメリカのグアテマラやメキシコに渡り、すべて木で作られているマリンバが出来たのがマリンバの始まりと言われていますね。そして80年ほど前に、とあるアメリカの楽器会社がその南アメリカのマリンバを発見して、今のマリンバ(共鳴管が鉄製)の原型を作りました。そこからいろいろ楽器会社が開発して、今僕が使っているような5オクターブの楽器がおおよそ30年程前に出来ました。
 

マリンバ奏者
ソロマリンバ奏者

―  布谷さんは、アメリカで演奏家として活躍されているわけですが、マリンバ奏者を目指す方がアメリカで音楽家として活躍する秘訣はありますか?

布谷 まずは技術的にも音楽的にもあるレベルに達していることが必要だと思います。そして、人間的にも、音楽家としてもバランスが取れていることも大事だと思いますね。活躍する秘訣ですか・・・あったら自分も教えて欲しいくらいですね(笑)。マリンバ奏者として生きていくのは、引かれていないレールの上を歩くのとほぼ一緒と言っても過言では無いくらいですので、強い精神力で頑張っていかなくてはいけないと思います。それでご飯を食べていかなくてはいけないですし、生きるためにお金をどうやって稼ぐか考えていかなくてはいけません。でもお金の事だけを考えていては、良い音楽は創れません。だからといって家にこもって練習ばかりしていたって、ご飯は食べれませんし….。そのバランスも難しいですよね。自分の優れているところを見つけて「自分はこういう事が出来るんだ、こんなことをしてきたんだ」と、アピールしていくことが大切だとも思いますね。

―  アピールの仕方はどういうふうにされましたか?

布谷 一番いいのは演奏をたくさんの人に聞いてもらうことだと思います。演奏を聞いてもらう上で履歴書が印象的だと良いと思いますので、コンクールで賞に入っているとか、自分にしかないレパートリー・プロジェクトがあるとか、そういうものを全面的にアピールしていくといいと思います。アメリカと日本では人のつながりが少し違いますしね。

―  どういう意味ですか?

布谷 日本の場合、横のつながり(師弟関係)で仕事を頂く事が多いと思うのです。そのつながりが無いと仕事が出来ないという話も聞いた事があります。アメリカでももちろん先生のツテでお仕事をいただくという事もあるのですが、日本ほど師弟関係の有無で厳しい思いをすることは無いと思います。アメリカの場合は、知らない誰かが「いいな」と思ったら、その人と少し話しをしただけで、「僕の息子の結婚式で演奏してくれる音楽家を探していたところなのだけど、君の連絡先を教えてくれないか」と話をしてくれたり、「君の経歴、面白いこと書いているね」と興味をもって話しかけてくれる人などがいます。コンクールで多数の入賞経験があるとコンサートを運営しているグループから演奏会の依頼があったりします。面識の無かった作曲家の先生でも演奏を気に入ってくれると「君のためにマリンバの曲を書きたいのだけど」と言ってくれる方もいましたね。本当にいろいろなチャンスがアメリカには転がっている気がします。ですので、たくさんの方に演奏を聞いてもらう事が一番大事だと思います。

―  コネクションがなくても実力次第で、仕事のチャンスが生まれてくる可能性があるのですね。

布谷 あると思います。だから僕もここにいれると思うのです。

―  海外に音楽留学をしたい方が日本にはたくさんいらっしゃいます。そういう方にアドバイスをいただけますか?
 

マリンバフェスティバル
マリンバフェスティバル

布谷 海外留学は、人生経験にもなりますし、自分を知ることが出来る良い機会だと思います。ただ先程も言いましたが、留学をする事は精神的にも金銭的にも大変ですし、それをサポートしてくれる人たちに対して感謝することを忘れず、一生懸命死ぬ気で頑張ってもらいたいなと思います。日本人は他の国の方に比べて金銭的に恵まれていると思います。恵まれているからこそだと思うのですが、「海外にいる」というステータスに満足して、遊んで終わったり、音楽留学で来ているはずなのに語学をちょっと勉強して帰国する、という方がいるので、そういうことのないようにして欲しいなと思います。アメリカにいる日本人がそういう目で見られるのは恥ずかしいと思いますので。もちろん死ぬ気で頑張れとは言ったのですが、息抜きも大事ですよね。自然を見たり、美術館に行ったり、映画を観たり、美味しいものを食べたり…。ストレス発散のためにパーッと遊ぶことも大事だと思います。また、アメリカでは一つの観念が通用しないことも多いので、頑固に物事を一つの側面から捉えず、何事に対しても受け入れられるような寛大な気持ちを持つ事が大事だと思います。アメリカは、日本で常識なことが常識でなかったりする国です。最初は、びっくりするかもしれないし、ストレスになるかもしれないのですがそれも世間勉強ですのでしっかり受け入れる用意が必要だと思います。

―  いろいろとありがとうございました。

布谷 ありがとうございます。


布谷さんによるアンドビジョ特別音楽留学プログラムはこちら


 

石川政実さん/ジャズギタリスト/アメリカ・ニューヨーク

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はアメリカ・ニューヨークでジャズギタリストとしてご活躍中の石川政実(イシカワマサミ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2008年3月)


ー石川政実さんプロフィールー

ジャズギタリスト石川政実
ジャズギタリスト石川政実

1965年東京都出身。11歳で、はじめてギターを手にし、ロック、フュージョンを経て、大学時代に、ジャズ演奏を開始。1990年、ニューヨークのニュー・スクール大学ジャズ&コンテンポラリー・ミュージック科に留学、ジム・ホール、レジー・ワークマン、ジョー・チェンバース、ジョン・バッシーリらに師事。その後、ニュー・スクール、ジャズ科のファウンダーでもあるアーニー・ローレンス・グループに起用される。自己のグループでも55バーや、アングリー・スクワイア等に出演、NYのローカル・シーンで注目される。1993年に一時帰国、自己のグループ、井上信平、岩瀬竜飛らとも首都圏のライヴ・ハウスを中心に演奏をした。2000年、再度ニューヨークにて活動を再開する。現在、ゴスペル・シンガー/ピアニストのL.D.フラジァーのグループ、ロニー・ガスペリーニのグループ、田井中福司トリオなどを中心に活動しており、2007年12月に発表されたロニー・ガスペリーニのニュー・アルバム「North Beach Blues 」(Doodlin Records www.doodlinrecords.com)における演奏が好評を博している。



—  石川さんとジャズの出会いを教えてください。

石川 大学時代にジャズ研に入り、ジャズを始めました。卒業後、1990年に趣味が高じてニューヨークに渡り、ニュー・スクール大学というジャズプログラムのある学校に入学しました。

—  そこでジャズを学ばれたんですか?

石川 ニュー・スクールでは、ギターはジム・ホール、セオリーはケニー・ワーナーやギル・ゴールドスタインといった有名な先生からジャズの基本的な教育を受けました。結局、4年間のコースのうち2年間通って大学は中退しまして(笑)、その後1年間くらい、ニューヨークで演奏をしていました。学校を辞めたあとにニュー・スクールを創ったアーニー・ローレンスという人のバンドに誘われてそこで演奏しをしていたんです。その後、1993年に一度帰国しました。

—  帰国後、再度渡米されるまでどのくらい日本にいらっしゃったのですか?

石川 5、6年活動していました。演奏ではなかなか食べられなかったので、教えて生活をしているところがありましたね。

Image —  その後、またニューヨークに?

石川 ええ、1999年にまたニューヨークに戻り、それからはこちらを拠点に活動しています。

—  ニューヨークに戻られたきっかけは?

石川 実はあまり深くは考えてないんです(笑)。正直にいうとかっこ悪いんですが、女房が留学したいといったのがきっかけだったんです。当時は、だらだらとですが、教えることで生活できていたので、ニューヨークへ戻るのということは批判的な気持ちのほうが強かったんですね。ニューヨークで音楽で食べていくのは大変だし……、と思っていたので。でも、配偶者ビザが取れるということもあって、じゃあ、また行ってみるかなくらいの軽い気持ちでした。ところがニューヨークに戻ってみると、やはりこっちがいい、と思ったんです。忘れていた血が騒ぎ出したといいますか、音楽をやる気になったんです。

—  ニューヨークのほうが音楽ができると思われたんですね。

石川 昔の知り合いからトラの仕事をまわしてもらって、到着2日目くらいから病院のギグなどをさせてもらいました。これがすごく楽しくて、やはりこっちでやろう、ニューヨークでやっていこう、と思いましたね。

—  ところで、日本での大学は音楽の学科ではないですよね?

石川 ええ、慶応大学の法学部法律学科です。

—  優秀な大学ですよね。そのままいけばエリートになれる可能性もあったと思うんです。それでも音楽を選んだのには何かあったんですか?

石川 好きだったんでしょうね。でも、実は1年間だけサラリーマンをしたことがあるんです。大学卒業後、印刷会社に勤めました。大学卒業のときに、ジャズギターなんかで食べられるわけがないと思って、諦めて就職したんです。でも、忘れられなかったんでしょうね。それで会社を辞めたんです。

—  周りからの反対はありましたか?

石川 はははは、そうですね(笑)。でも、もともとミュージシャンになりたかったのに、親の反対もあって就職したんです。それでも働いてみたら、やっぱり無理だったんですね。

—  自分の魂が捨てられなかったんですかね?

石川 そうですね。音楽ってやっぱりそういうところがありますよね。一回やってしまうと、やめられなくなってしまう。非常に危険だと思いますよ。危険な人、いっぱい見ています(笑)。日本のミュージシャンの中にも、大学でジャズ研の盛んなところ出身の方は多いですよね。東京大学、一橋大学、早稲田大学、といったところの人もたくさんいますよね(笑)。

—    そもそも石川さんは音楽への興味は大学に入る前からあったんですか?

石川 ええ。子供のときから音楽は好きでした。小学生くらいからロックを聞くのが好きで、ギターを買ってもらったのが小学5年生、11歳くらいのときです。

—  ロックとジャズというのは、似て非なるものだと思うのですが、大学時代にジャズに傾倒していったのはどうしてですか?

石川 楽器を始めたのが人より早かったこともあって、うまい!なんて周りから持ち上げられてね(笑)、ギターを弾くのは好きだったので、「これを究めていこーう!」と思ったら、難しいことをしてみたいとおのずとジャズに興味を持ち始めました。それにロックだとどうしても歌の伴奏をするような形になると思うんですが、そうではなく楽器をメインにした音楽へと自然に流れていった感じです。

Image —  楽器をメインにしたジャンルといえば、クラシックやフラメンコなど他にもあると思うのですが、そこでジャズだったのはどうしてですか?

石川 そうですね。急にジャズを始めたわけではなくて、高校生くらいのときにインストゥルメタルのフュージョンをやり始めたんです。フュージョンというのはジャズっぽい要素もありますから、そういうのを演奏しているうちに元のジャズのほうをきちんと勉強したほうがいいかなと思ったんですね。

—  アメリカでジャズをしてみて、日本と違う良い点、悪い点はありますか?

石川 ジャズの表面的なテクニックというのは、日本でも勉強出来るし、日本のミュージシャンもそうやって演奏していると思うんです。でも、アメリカに住んで、黒人の人、いわゆるオールドスクールの人たちに接することで、ジャズのルーツの部分であるブルースやゴスペルを肌で感じることができるし、黒人の人たちのライフスタイルも学んでいくことができます。

—  やはりライフスタイルからなんですね。

石川 多分、そうだと思います。だから、アメリカ、特にNY以外で本当の意味でジャズを勉強するのはある意味難しいのではないかと。。表面上のテクニックは身につけることができても、ジャズ独特のフィーリング、ブルース、ソウルを身につけるっていう意味では、ここで学ぶことは幸せな事だと思います。

—  やはりフィーリングがないと自分のやりたいこととは……。

石川 まったく別のものになってしまう。口ではなかなかうまく説明できないんですが、そこが重要ですよね。

—  例えば、ボストンにはバークリーなど有名な学校がありますが、そういう街ともニューヨークは違うものですか?

石川 ニューヨークにいれば、例えばそのへんにいる楽譜も読めないミュージシャンたちと一緒に演奏して肌で接して、身につけていける部分が非常に大きいんです。

—  楽譜が読めない人とでもジャズでは会話ができる、ということですね。

石川 本来のジャズは聞いて耳でとらえて演奏するという音楽だったので、そういう部分が非常に大切だと思うんです。

—  ちょっと学術的な感じになってしまっているということですか?

石川 そうなんですよ。だからジャズが本来もっているエネルギーが失われつつあると思います。

Image —  アメリカでもそういう傾向が見られるということですか?

石川 見られますね。

—  どういうところに行けば、そういうソウルを感じられる演奏を見ることができますか?

石川 現在、非常に少ないと思います。ベテランのミュージシャンたちが次々と亡くなってしまっているので。だから、最近の売れている人たちの演奏を聴くよりは、ベテランの人たちの演奏を聴くのがいいと思います。日本ではあまり有名ではない人とかね。あとは、僕はまずはゴスペル・チャーチに行くことをお勧めします。

—  ゴスペル・チャーチですか?

石川 そこでルーツを感じることができると思います。黒人の人しかいないようなゴスペル・チャーチに行ったら、ものすごいエネルギーを感じて、衝撃を受けると思います。ハーレムとかブルックリンとか、ブロンクスとかですね。僕はそうでした。昔のミュージシャン、例えばセロニアス・モンクにしてもゴスペル・チャーチ出身ですし、そういう人たちは根本的に違うと思います。

—  ジャズミュージシャンというのは、もともとはそういう人ばかりだったんですよね。

石川 本来はそういうところから来ているものですからね。僕は、ゴスペルの人たちと演奏していて非常に厳しく教わったんですよ。“Young jazz musicians are missing something”って。彼らは演奏中に叫んでいるんです“Feel,You gotta feel more!”って。だから、上っ面で弾いたりしたら、怒鳴りつけられる。そういうのはやはり学校ではできない経験ですよね。日本でも“feeling”とか“feel”っていうけれども、なかなか本当の意味がわからなくてね。それはやはり口ではなかなか説明できないんですけれど、そういう独特の部分がジャズという音楽の力になっている。原点ですよね。

—  そのフィーリングというのは、だいたいどれくらいでわかってくるものでしたか?

石川 それは……。いや、まだわかってないかもしれないですね(笑)。それは、一生をかけてどんどんどんどんより深めていかなければいけないものだと思いますし。

—  現実的なことをお聞きしたいのですが、アメリカで仕事をするときに日本人に有利な点、もしくは不利な点はありますか?

石川 普通の仕事であれば、日本人は真面目で時間に対してきちっとしているので、信頼される部分はあるかもしれません。でも、もう少し高いレベル、例えばジャズクラブで仕事をしていこうとすると、同じ実力であれば日本人であるということで偏見の目で見られることはありますよ。

—  なるほど。

石川 日本人がジャズをやっているということが向こうの人にとってどういうことかといえば、アメリカ人の寿司職人のところにわざわざ食べにいくか、という話ですよ。だから、よほど実力をつけて質の高い演奏が出来なければいけないと思います。こっちでやっている日本人はみんなそうやって頑張っていると思いますね。

—  日本で頑張る以上のことを求められているわけですね。

石川 日本には日本人しかいませんからね。ニューヨークは本当にミュージシャンが多くて、世界中から集まってきていて、とにかく数が違いますから。こっちでやろうと思ったら大変ですし、とても鍛えられます。

—  石川さんにとってジャズとは何でしょうか?

石川 ジャズとはですか……、うーん、難しいですね(笑)。やはり、パッションとかそういうことになると思います。

Image —  身体の内にあるものということでしょうか?

石川 そうですね。学校では、いかにクリエイティブになるかという話が中心であったように思います。そういうアイデアは、ジャズを面白くするための1つの要素として取り入れるべきものですが、それだけではないと思います。

—  それよりも大事なことがあると。

石川 一番大切なのはフィーリングですよね。ジャズの元をたどれば、アフリカの奴隷たちがアメリカに渡ってきて、最初はほとんどリズムだけで鼻歌を歌っていたわけです。それに西洋のハーモニーを少し取り入れて、それがだんだんと洗練されておしゃれになってきたわけです。つまり、西洋のハーモニーを取り入れたというのは、あくまで付随的なものですから、いかにクリエイティブにやったところで、クラシックの完成度にはかなうわけがないんです。即興でやっているわけですから。

—  なるほど、なるほど。

石川 ですから、ジャズ特有のリズムがジャズという音楽の命、力の源になっていると思うんです。それが表現されていれば、質の高いクラシックにも負けない芸術性の高いものになると思います。だから、ジャズは根本的にクラシックと違うものとして、聴かなければいけないし、演奏しなければいけないと思っているんですよ。それがいま、世界的に誤解されているので、そこと戦っていますね。一番大切なことはそこではないということを伝えたいですよね。いかにフィーリングを感じ、こめるか、そこが大事ですよね。

—  技術的になってしまって、元の本質を忘れていってしまうということはありますよね。

石川 ええ。ジャズに限らず、フィーリングが失われているとは思いますね。やっぱり音楽というのは時代を反映しますから、デジタル〜、デジタル〜(笑)となってくると、やっぱりみんな忘れてしまうんです。フィーリングの深いところを求めなくなってしまう。iPodで音楽を聴いて、と、世の中とにかく簡単になりすぎちゃっているから、創られる音楽も演奏される音楽もそういうものになってきてしまっていると思います。そこにいかに立ち向かうかというのが僕の使命だと思っています。

—  石川さんはそういった想いで演奏されていて、やはりお客さんの反応は違うと思いますか?

石川 やはりぜんぜん違うと思いますよ。先月も日本に帰って三重県で演奏したのですが、すごく喜んでもらえたと思います。ジャズを余り聞いたことがない多世代の人達が手拍子をしてくれてね。ドラムの人は田井中さんといって、もうこっちで25年くらい黒人の中にまじって演奏してきた人なんですが、その人がまたみんなにわかりやすい、みんなが感じられる演奏をするんですよ。それはジャズを知っているとかではないんですね。知らなくても聴けば分かることなんですよ。

—  知っているかどうかなんて関係ないんですね。

石川 ええ。そこで、もし上っ面の演奏をしていたら、ジャズって難しいんだな、ふーん、で終わってしまうと思うんですよ。コードとかアイデアとか、アルペジオとかね(笑)。そうすると、みんなやっぱり聴かなくなってしまいますよね。

—  そうですね、クラシックを聴いているのと、同じ感じになってしまいますもんね。

石川 かといって、本物のクラシックのような完成度はない。中途半端な音楽になってしまう。力の弱いものになってしまうんですよ。

—  本来はもっともっと力強い土着の音楽だったのに。

石川 ええ、みんなが感じられる。それが私の目指すところです。みんなをハッピーにすることが私の目標です。

—  次に音楽的な目標を聞かせてください、と言おうとしたんですが、今ので十分ですね。

石川 そうです、そうです(笑)。そういうことです。

—  アメリカでプロの音楽家として活躍する秘訣、成功する条件はなんでしょうか。

石川 これは、成功してないだけに難しいですね(笑)。最近痛感していることは、ビジネスといい音楽をするっていうことは、まったく別のことだなということです。別の才能がいるんです。例えば同じミュージシャンでも、メールやホームページの更新にやたらと時間をかけたり、電話をかけることに命をかけたりと一生懸命売り込んでいる人がいます。僕自身、本当はそういうことにも時間をかけなければいけないんだろうけど、やっぱりそれよりも音楽のことを考えたり、楽器の練習に時間をかけてしまいますね。でも、一生懸命やっていれば、最低限の仕事は入ってきますよ。それは成功とは言えないかもしれませんが(笑)。

—  きちんと音楽で食べていけるということですよね。でも、そこが難しいところですよね。

石川 そうですね。やっぱりニューヨークは厳しいと思います。人に呼ばれて演奏することが多いんですが、やはり自分がバックアップに入ったからよくなったっていう状態にしないと、次に仕事は来ませんよね。様々なスタイルの人たちを上手に伴奏することは、経験も必要だし、非常に難しい。だから、僕はひたすら練習して、いい演奏ができるようにしていますね。

Image —  最後にジャズを勉強したい人やニューヨークに行きたい人にアドバイスをお願いします。

石川 いままでのことと重なるんですが、あまり理論にこだわらないことです。例えば、音を間違ったなんて気にすることないんです。ジャズはクラシックと違って、そういう音楽ではないんですよ。基本的にジャズに間違ったことなんてない。それよりももっと大切なフィーリングをつかんでほしいと思います。

—  それはやはりニューヨークに行って、感じたことですか?

石川 そうですね、オールドスクールの方から得るものが大きかったです。レコードを聴くにしても、さかのぼって昔のジャズやブルース、ゴスペルを聴いて参考にしたほうが、いまの難しいことをやっているものを聴くよりは、いい結果が得られると思います。

—  今日は本当にありがとうございました。

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