桂真也さん/オーボエ/クールシュベール夏期国際音楽アカデミー/フランス・クールシュベール
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
桂真也さんプロフィール
中学校のとき吹奏楽部でオーボエを始める。
和歌山大学教育学部に入学し、オーボエを専攻。大学院では音楽教育を専攻。2009年夏、クールシュベール夏期国際音楽アカデミーを受講。現在、和歌山大学大学院教育学研究科音楽教育専修在籍。
-最初に、桂さんのご経歴を教えてください。
桂 中学生のときに吹奏楽部でオーボエをやっていたことが始まりで、高校では部には入らず、個人的に先生について習っていました。大学は音大に行っても、音楽一筋では食べていけないだろうと思ったことと、それでもオーボエを続けられる学部を、ということで教育学部に進学し、音楽を専攻しています。ここで米山先生という方に師事して今に至っています。
-今回、オーボエを学びに海外へ行くきっかけは何だったのでしょうか?
桂 日頃から大学の先生に、西洋音楽は西洋のものだし、現地の雰囲気の中でやる音楽を、一度生で聴いたほうがいいと言われていたのが一つです。そして、今回担当されていたジャン=ルイ・カペツァリ先生が、米山先生のお知り合いということも、もう一つのきっかけです。カペツァリ先生が日本に来られたときに、米山先生が通訳をされたこともある、というご関係だそうです。
-では、師事されている先生のご紹介で、ということが大きかったのですね。
桂 そうですね。
-桂さんご自身も、もともとジャン=ルイ・カペツァリ先生にご興味があったのでしょうか?
桂 いえ、言われるまでは知らなかったですし、フランスのオーボエ自体、全然知らなかったんです。日本ではドイツ系に触れることが多いですから。ただ、もうひとつのきっかけとして、和歌山市の海外派遣制度っていうのがあって、その存在を知ったことも大きかったです。
-それは助成金が出る制度ですか?
桂 そうです。講習会費用や、現場での滞在費の半額を、市が負担してくれるという制度です。
-素晴らしい制度ですね! 志望された方全員が、受け入れてもらえるものなのですか?
桂 今年は、4人受験して3人が合格しました。音楽だけでなく、美術の方もいましたね。芸術分野に限られているんですけど。
-実際、クールシュベールに行くにあたって、不安はありましたか?
桂 やっぱり、フランス語が全然出来ないっていうのが一番でした。それと、海外に行くこと自体が初めてだったので、不安でした。
-実際にフランスに行ってみて、行く前に思い描いていた印象と、どう違いましたか?
桂 フランス人は、外国の人に対して冷たいとか、プライドが高いって聞いていたんですけど、そんなことはなかったです。空港でも、わからないことがあったとき親切に対応してくれたし、迎えに来てくれた方も、フレンドリーでした。
-英語は通じましたか?
桂 英語は普通に通じましたよ。でも、やっぱり話していると、いつの間にかフランス語になっていくってことも多かったですけど(笑)
-では、思っていたよりみんな親切だったんですね。
桂 はい。でも、最後に泊まったホテルは治安の良くない場所にあって、ちょっと怖い感じの人が多くてドキドキしましたけど。
-そうだったんですか。講習会についてお伺いしますが、全体の人数はどのくらいでしたか?
桂 全体の数は把握していないのですが、オーボエだけで25人でしたから、今年は非常に多かったようです。
-レッスンのペースは、どのような感じでしたか?
桂 先生がジャン=ルイ・カペツァリ先生とジェローム・ギシャール先生の二人だったんですが、前半、カペツァリ先生がいらっしゃらなかったので、ギシャール先生のレッスンが2日に一回くらい。その後は、二人の先生に一日おきに交代で指導してもらったので、毎日レッスンでした。
-二人の先生が、交代で毎日指導してくださるっていうことなんですね。それではけっこうお忙しかったのではないですか?
桂 そうですね。
-室内楽などには参加されましたか?
桂 参加してないです。
-レッスンで、先生方に見てもらった曲数は、どのくらいですか?
桂 3曲です。
- 一曲一曲を、しっかり細かく指導してもらうという感じですか?
桂 そうですね。伴奏も、あちらで用意してくださって。伴奏専門のピアニストの方とも合わせたりしました。
-二人の先生に指導していただけたということですが、お二人の指導法の違いはありましたか?
桂 お二人は非常に仲が良くて、それぞれ教える分野をわけていたようです。ギシャール先生からは、主に、曲の解釈の仕方やリード作りなどを、カペツァリ先生からは基礎的な呼吸法や力の抜き方などを教わりました。
-レッスンの雰囲気はいかがでしたか?
桂 基本的にグループレッスンで、笑いが絶えず、わきあいあいとしてました。僕以外はフランス語だったので、細かいことはわかりませんでしたが。
-どこの国の参加者が多かったのですか?
桂 フランス人ですね。先生の門下生が、そのまま来ているという形で。
-日本人は、桂さんだけでしたか?
桂 いえ、去年、クールシュベールに参加してから留学されている方がいて、二人でした。あと、台湾人が一人で、他は全部フランス人でした。
-基本はグループレッスンなんですね?
桂 そうですね、5人ごとのグループに分けられて、そのメンバーでレッスンを受けていました。
-練習は、皆さんどこの場所で、どのくらい練習していたのですか?
桂 ピアノの人達は、練習室を割り振られていて、決められた時間しか練習できなかったようですが、僕たち器楽チームに関しては、練習場で朝の8時から夜の8時まで、自由に練習ができました。なので、練習時間には困らなかったです。
-練習以外の時間は主に何をされてましたか?
桂 まずは練習でしたけど、それ以外は、リードを作り変えたりしていました。日本のリードが全く使えなかったので。あとは、洗濯とか...(笑) コインランドリーがすごく高かったので、部屋で手洗いしてました。
-街には遊びに行きましたか?
桂 けっこう行きました。でも、現地はスキー場なので、夏は閑散としていて、お店の営業時間が短かったんです。スーパーなんて、お昼前後と夕方少ししか開いてなかったりして。それは、ちょっと苦労しました。
-水とか、必要なものをそろえるのは大変だったんですね。
桂 水はホテルのカフェで買えました。でも、部屋の洗面所のお水も飲める水だったんです。冷たくておいしかったですよ。山があったりしてキレイな場所なので、水もおいしいんですね。
-治安は問題なかったですか?
桂 全然問題ありませんでした。リゾート地なので、バカンスを楽しむ人々ばかりで。
-一般の観光客も滞在しているのですが?
桂 はい、観光されてる方もいらっしゃいましたし、スポーツを楽しまれている方も多かったです。夏場だけでしょうけど、自転車のコースがあったりしました。
-では、のんびりと、リラックスした感じの所だったんですね。
桂 はい。天気もよくてとても過ごしやすい、とても良い所でした。日本みたいに、蚊とかの虫もいないし、静かで快適でしたよ。
-日中は暑かったですか?
桂 全然! とても涼しかったです。朝晩は冷え込んで、息が白くなるくらいでした。毎年、この講習会は、天気が荒れると言われているそうなんですが、今年は全然雨も降らずに、いいお天気が続いてラッキーでした。山の上のほうでは、雪が積もったと聴きましたけど。
-宿泊先のホテルはいかがでしたか
桂 ホテルは、すごく良かったです。パンフレットを見たら、4ツ星で、冬は一泊最低でも500ユーロもするような所だったようで、とてもキレイでした。料理はちょっと残念・・・なものもありましたが(笑)
-主にどういった料理が出ましたか?
桂 基本フレンチばかりで。メインがあってサラダがあって、という感じです。朝晩の食事が出て、昼は自分で買う形でした。
-日本食はないですよね。
桂 お米は何回か出たんですけど、お米じゃなかったです・・・パサパサしてて、「何だこれは!?」みたいな(笑)
-街には、外食できるような場所はありましたか?
桂 はい。カフェや、簡単なご飯が食べられる小さい店がありました。でも、カフェは割高なので、売店でサンドウィッチとかを買って食べてました。
-ホテルのお部屋は、講習中は相部屋ということですが、ルームメイトはどんな方でしたか?
桂 韓国人の方でした。高校のときからリヨンにピアノ留学していて、今もリヨンの大学に通っているそうです。コミュニケーションは英語だったんですけど、同い年だったので、すごく仲良くなりました。普段の生活がだいたい一緒で、フランス語で書かれている掲示物を、英語に訳して教えてくれたり、とても親切でした。彼の友だちの韓国人とも仲良くなりましたね。
-それは良かったですね! 何か、文化の違いで驚いたことはありましたか?
桂 ヨーロッパのほうでは、携帯がすごい発達してるな、と思いました。メールをあまり打たないからか、i-phoneとか、高性能のタッチパネルの携帯が流行ってました。あと、多くのフランスの人が、日本にすごく興味を持っていることに驚きました。「これは日本語で何ていうの?」とか「日本のどこどこに行ってみたい。」とか、よく言われました。
-では、外国の方ともお話しする機会が多かったのですね?
桂 はい、日本人と一緒にいることは、ほとんどなかったです。そのほうが面白いですし、せっかく行ったんだから、外国の人と話したかったし。
-フランスのお友だちともコミュニケーションは英語で?
桂 はい。すごくしゃべりにくそうでしたけど(笑)。お互いカタコトの英語で・・・。
-楽しそうですね。だいたい同年代の方たちでしたか?
桂 そうですね。だいたいは。
-フランスの方や同室の韓国人の方もですが、言葉が通じないなりの、コミュニケーションのコツみたいなものはありますか?
桂 まずは、挨拶をすることですね。むこうの人たちは、全然見知らぬ人でも、すれ違ったら「ボンジュール」とか、挨拶しますよね。日本では、そういうことってあまりないから、最初は意識してたんです。でも慣れてきてからは、自然に出来るようになりました。あと、話しかけられて、うまく答えられなくても、頑張って答えようとしていれば、それを汲んでくれました。だから、全然会話が成り立たなくても、最後は笑いで終わったりするので、積極的に、些細なことでも質問したり答えたりってことが、うまく付き合うコツかなって思いました。
-なるほど。 語学の重要性は、改めて感じましたか?
桂 それはもう(笑) 日本の英語って、「読み・書き」ですよね。でもやっぱり口に出してしゃべって、誰かに話しかけないと、語学って伸びないなって思いました。今回、たった2週間でしたけど、今まで勉強した以上に英語の力が伸びた気がします。
-素晴らしい! フランス語を話す機会はありましたか?
桂 もう、挨拶くらいでした・・・(笑)フランス語は全然ダメで・・・、英語に頼りっぱなしでした(笑)
-出発前はフランス語の準備はしましたか?
桂 挨拶程度は、本を買って勉強したんですけど、それくらいですかね・・・。
-講習会の最終日に行われたコンサートはいかがでしたか?
桂 コンサートは最終日とその前日の2日間、町のホールで、先生に選ばれた生徒が出演するコンサートがありませいた。僕は選ばれなかったんですけど、オーボエは4人選ばれました。
-実際聴いてみていかがでしたか?
桂 やっぱりみんな、本当にうまいなぁーーって思いました。すごく刺激になりましたね。
-滞在中になにか困ったこととか、ピンチの場面等はありましたか?
桂 クールシュベールでは全然なかったんですが・・・。行きの飛行機が遅れて、乗り継ぎの飛行機を次の便に変更する手続きが大変だったのと、フランスに到着して、お迎えの人がいなかったことですかね。あと、帰国するとき、空港まで電車を利用しようとしたのですが、駅のホームが複雑で、どこにその電車のホームがあるか分からなかったことです。
-それは大変でしたね。 行きの飛行機は、台風で遅れたんですよね?
桂 そうです。ちょうど関西に近づいてて、1時間半くらい。なんとか英語で乗り切りましたけど。。
-それは焦りますね。 帰国日の電車も無事に乗れましたか?
桂 はい。電車のホームのほうも、周りにいた方に聞いて教えてもらえたので、何とか無事に辿り着くことができました。
-今後留学される方に、「これは準備したほうがいい」というようなアドバイスはありますか?
桂 そうですね。ある程度は、現地の天気や習慣のことを知っておいたほうがいいと思います。あと、ピアノの人は、練習時間がとにかくないから、曲をしっかり練習しておくこと。木管楽器に関しては、クールシュベールに限ってかもしれませんが、リードが全く使えないので、リードを作るセットは一式もって行ったほうがいいと思います。
-生活面で、「これは持っていくと便利」というグッズはありますか?
桂 洗濯用の、洗濯バサミがたくさんついた小さな物干し。実際、持っていったんですけど便利でしたよ。
-今回、このクールシュベールの講習会に参加されて色々な出来事があったと思いますが、参加して一番良かったこと思うことは何ですか?
桂 そうれはもう、やはり、生でフランスの演奏が聴けたことですね!レッスン中にも、先生が吹いてくれたりすることもあって、それだけで感動してしまって。先生方のミニコンサートでも、演奏が終わるたびに大きな拍手があがるくらい、すばらしい演奏でした。先生方のミニコンサートは4回あったのですが、そのうち1回、クラリネット演奏集団Les Bons Becsが来たんです。日本では、あまり知られてないんですけど、フランスではすごく人気があって。クラリネットを使って、面白いパフォーマンスを見せてくれたんですけど、本当に楽しかったですね。
-日本と海外での音楽の教え方の違いのようなものは感じましたか?
桂 むこうの人は、すごく褒めてくれるんですよね。出来た瞬間、絶妙なタイミングで褒めてくれるので、それが気持ちよかったです。あと、とにかく、「色を考えろ」と言われました。曲の色合いを考えてその音を出さないと、と。いくら曲の解釈ができていても、音色がしっかりしていないと台無しだと言われましたね。
-色を考えて吹く、ですか。
桂 はい。最初は、いまいち分からなかったんです。でも先生の演奏を聴いていたら、一本のオーボエなのに、いろんな音色が聴えるんですよ。「これがフランスのオーボエか!」って感動しました。
-確かにフランスの音楽は色彩的でキラキラしているイメージですよね。
桂 はい。本当に。あと、リードの作り方も全然違うんですよ。その作り方も参考になるな、と。
-今回のご留学で、フランスの音楽を身近に体感して、自分自身、成長したなって思うことはありますか?
桂 曲にあった音作りと言うのでしょうか、そのために、呼吸法を改善したりできました。
-それでは最後になりますが、今回の留学を経て、今後の音楽活動において何か新しい目標は出来ましたか?
桂 今、大学での僕の研究テーマは、「音楽のアウトリーチ」なんです。これは、学校や老人ホームなどの施設に出向いていって、普段、生の音楽を聴けない方に音楽を提供するというものなんですけど、今回の留学経験は、これに生かせると考えています。留学で得たことを表現できるように頑張りたいです。
-また留学してみたい、という思いはありますか?
桂 はい、行く前は全然考えてなかったんですけど、機会があればフランスに留学してみたいなって思いました。パリのコンセルヴァトワールなんて、学費が年間400ユーロくらいって聞いたので。
-ヨーロッパは本当に学費が安いですから。日本の大学と比べたら…驚きますよね。
桂 ですよねー!安くいけるって聞いたので、チャンスがあればぜひ行ってみたいです。
-将来の夢は? 音楽家になりたいとかありますか?
桂 いえ、小学校の教員を目指してます。中学校は教科担当ということで、音楽に接する時間はあるのですが、小学校のほうが子どもと触れ合う時間が多いですから。子どもたちとの距離も縮まると思うので、小学校の教員になりたいな、と。
-そうですか!桂さんならきっと優しい先生になると思います。クールシュベールの経験を生かして、これからも、勉強と音楽を続けて頑張ってください。
桂 はい、ありがとうございます。
-本日は、お忙しいところ、本当にありがとうございました。
北村まりえさん/ピアノ/シュリッツピアノ夏期講習会/ドイツ・シュリッツ
音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。
鈴木美緒さんプロフィール
愛知県出身。フェリス女学院大学音楽学部演奏学科卒業。同大学院音楽研究科在籍。第12回ペトロフコンクール奨励賞。アジア国際コンクール2007優秀賞。翌年マレーシアで開催された受賞者記念演奏会に出演。これまでに小栗多佳子、小山明子、堀由起子、黒川浩の各氏に師事。2009年シュリッツピアノ夏期講習会参加。
-まずは、北村さんの簡単なご経歴を教えてください。
北村 フェリス女学院ピアノ科を卒業して、現在、同大学院音楽研究科の1年生です。
-ピアノは何歳から始められたんですか?
北村 3歳からです。親もピアノの先生をやっていまして、その影響で始めました。
-今まで、講習会に参加されたことはありましたか?
北村 いえ、今回が初めてです。
-海外に行かれたご経験はありましたか?
北村 はい。去年、マレーシアに演奏旅行で行きました。講習会ではなく、コンクールの関係で。
-マレーシアはいかがでしたか?
北村 マレーシアの現地のツーリストが企画して、様々な場所に案内してくれました。日本人があまり行かない所が多く、とても面白い体験でした。少し危ない感じもありましたが。
-そうだったんですか。では、今回、講習会に行きたいと思ったきっかけを教えてください。
北村 卒業後の進路として、留学も視野に入れてみたいと考えていまして、それにはとりあえず行って、現地の雰囲気を味わってみないことには、と思ったんです。そこで、今回参加することにしました。
-候補地としては、ドイツとフランスでしたよね?
北村 ええ。でも、先生に勧められたこともあり、ドイツに決定しました。
-講習会の参加者は、どのくらいの人数でしたか?
北村 全部で24名で、日本人8人、スペイン、ドイツ、ブルガリア、韓国、イタリア、ロシア、ポルトガル・・・と、世界各国からのメンバーでした。
-楽しそうですね。講習会のスケジュールは、どんなふうに組まれていましたか?
北村 初日に行ったら、ファイルが置いてあり、月曜日から日曜日までの先生のスケジュールが書かれていました。時間割のように、その日ごとにレッスンが組まれていて、コンサートの開催日も書かれていました。コンサートは全部で7回あり、2日に1回くらいの割合でありました。でも、自分がどのレッスンを取れるか、分かるのは前日でした。
-レッスンは1時間くらいですか?
北村 はい。9時半から18時半までの間に、レッスンが行われました。昼休みをはさんで、①語学コースを取っている人は午後、それ以外の人は午前中という感じで、振り分けられていました。
-ハードスケジュールでしたか?
北村 いえ、けっこうゆっくりしていました。練習もしっかり出来ましたし。レッスンは、1日1時間見てもらうだけですから、①語学コースを取っていない人は、時間がありました。
-練習をしつつ、語学の勉強もしつつ、という感じですか?
北村 そうですね。午前中は語学、午後はピアノ、夜はコンサートとディナーという感じです。
-先生は、それぞれどんな感じでしたか?
北村 ナットケンパー先生は、ドイツ系の曲を丁寧に見てくださいました。リーガー先生は、とても優しくて、細かくペダリングも教えてくださいました。ウタ先生は、女性の先生で、細かく見てくれるので人気がありました。実際、ソリアーノ先生に習いたくて参加した人が半数以上でした。有名な方で、先生の授業は希望を出さないと受けられなかったんです。みんなが希望するので、時間がなくて5分で終わっちゃう人もいました。お年を召した方で、すごく優しかったです。先生も、けっこうペダルを使うように指導される方でした。ウタ先生は、ソリアーノ先生のお弟子さんなんですよ。この二人は、古典でもペダリングを入れる先生で、私はあまり使わないので、新鮮な感じでした。
-いろいろな先生のレッスンを受けられたんですね。レッスンで印象に残っていることは?
北村 リーガー先生のレッスンのときに、スキルチェックがあったんですけど、音の出し方がうるさいと言われました。日本の教室ではちょうどいいんですけど、ドイツでは部屋が広くて音が響きますから、耳を使うのが大事なんだな、と思いました。
-レッスンはドイツ語でしたか?
北村 英語オンリーでした。
-練習室が豊富にあるそうですが。
北村 はい、15室ほどありましたが、取り合いでしたよ。部屋の前に、2時間区切りで予約票が貼ってあって、そこに名前を書き込む形でした。でも、実は私が到着したのは、みんなが到着する1日前だったので、取り放題だったんですよ(笑)。なので、練習室の確保は心配ないはずだったのですが、しょっちゅう他の人たちから、代わってくれと言われました。、日本人は、英語が話せなくて何も言えないから、という感じで名前を覚えられてしまって。私の名前が書いてあると、勝手に入って使っている人もいたりして、それが大変でしたね。
-そのときは、ノーと言ったんですか?
北村 その人がコンサートに出て、自分は出ないというときには、けっこう譲りましたよ。全部で10時間くらいは譲ったと思います。それは別に良かったんですけど、もうちょっと英語が話せたらと思いましたね。
-レッスン以外の時間は何をされていましたか?
北村 必ず毎日1時間はお昼寝をしていました(笑)。あと、夕ご飯後、練習も終わった後は、カフェテリアでウノをしたり、ゲームしたり、お茶したり・・・。みんなで自由に過ごしてましたよ。トランプやウノは、英語が話せなくてもみんなと楽しめますから(笑)。
-街の様子はどんな感じですか?
北村 治安が良いのか悪いのか分からないくらい、人が少なかったです(笑)。でも、とにかくキレイな所でした。練習室から見える森林の風景なんて、3時間くらい眺めていられるんじゃないか、っていうくらいキレイでした。
-雰囲気としては、ドイツの古い街という感じですか?
北村 そうですね。たまに、おじいさんやおばあさんが散歩しているのを見かけるくらいの、静かな街でした。
-どこか遊びに行った所はありますか?
北村 日曜日に、サイトシーイングという企画があって、ウタ先生が車で連れて行ってくださったんです。フルダのお城に連れて行っていただいたんですが、ガイドも英語だったので、何を言っているか分かりませんでした・・・。それよりも、自分たちで歩いて行けるところまで行ってみようといって、お店屋さんを見て回ったのが楽しかったですね。薬局とかも、日本とは違うので面白かったです。
-宿泊先はいかがでしたか?
北村 すごくキレイで、何の問題もありませんでした。タオルも置いてあったりして。
-ルームメイトはどんな方でしたか?
北村 アルメニア人の方でした。とてもいい人で、ピアノもすごく上手な人でした。外人の方って、日本人ほど気を使わない人が多いですよね。それが逆に良かったです。こちらも気を使わなくて済みますし。
-会話は英語でしたか?
北村 はい。彼女はアメリカ人の旦那さんがいるので、英語はもちろん、ドイツ語、ロシア語、アルメニア語・・・なんでも話せる人でした。
-宿泊先と講習会場はどのように移動されたんですか?
北村 真隣だったんです。徒歩30秒くらいでしょうか。レストランと宿泊先が一緒で、その向かいのお城が練習室だったんです。
-お城ですか!?
北村 すごくキレイでしたよ。夢のようでした。
-レッスンをした場所は、どんな所でしたか?
北村 お城の中でした。聴講は可能なのですが、最初はみんな、自分の練習ばかりしていたんです。それを見たウタ先生が、「この講習会では、練習だけではなくて、他の人の演奏を聞く事も大事だ。」と言って、練習室を使用禁止ににしたんですよ(笑)。なので、他の方のレッスンも聴講してましたが、ドイツ語だと分からないのが辛かったですね。
-今回は言葉の壁が大きかったということですね。
北村 そうですね。レッスンのときは、先生が実際に弾いて見本を見せてくださったりするので、おっしゃっていることは分かるんですけど。
-聴講は、いい勉強になりましたか?
北村 はい。上手な人やファイナルに残った人の練習を見ていると、レッスンで先生に言われたことを、どのように本番に持っていくのか、というのを見られてよかったです。自分でどう納得して直していくのか、という部分も客観的に見られるので、「この人はこの先生に見てもらってよかったな。」というのが分かったりして、おもしろかったですよ。
-語学レッスンはいかがでしたか?
北村 1時間半すべて英語ですので、2週間だけでしたが、ずいぶん分かるようになりました。教材も200枚くらいもらいましたし、とても熱心に教えてくださいました。
-語学レッスンを受けられた人は少なかったそうですが。
北村 少なかったですよ。英語レッスンに2人、ドイツ語レッスンに4人だけでした。ほとんどプライベートレッスンという感じでした。でも、最初の数日間はABCからだったんです!それはさすがに分かるよ!って思いましたけど(笑)。
-最終的には何を勉強したんですか?
北村 途中先生が変わったんですけど、ある先生は、音楽の専門用語を教えてくださいました。西洋音楽の古典用語とか。
-海外で学ぶと、理論が分からないという方が多いですものね。
北村 そうですね。専門も英語で勉強できたのは良かったです。しかも少人数レッスンでしたから。
-講習期間中のお食事はいかがでしたか?
北村 バイキングだったんですよ。朝は、ずっと毎日パンとハムという同じメニューでした。お昼は、お肉料理が多くて、スープに、メイン、ポテトにデザートという感じでボリュームたっぷりでしたね。その代わり、夜はソーセージとポテトだけとか、チーズトーストだけとか、とても質素でした。でも、すごくおいしかったですよ。バイキングですから、量も自分で決められるし、好きなものを食べられたので、食事は問題なかったですね。もともと私は、好き嫌いなく何でも食べるタイプですから。でも、中には、全然食べられずにいた方もいらっしゃいましたね。
-外食はしましたか?
北村 最後の日にランチをしました。けっこう高かったですけど、チキンのグリルを食べました。あと、サイトシーイングのときは、ウタ先生が全員に、ケーキとお茶をご馳走してくれたんですよ。ケーキはすごく大きくておいしかったです。
-では、食べ物では、ホームシックにはならなかったんですね。
北村 はい。不安な人は、インスタントの味噌汁とか持って行くといいと思います。お湯も沸かせますし、電子レンジも使えますから。
-海外の人と上手く付き合うコツはありますか?
北村 笑顔を大事に、たくさんコミュニケーションを取ることでしょうか。言葉が分からなくて、内向的になってしまう人もいますけど、自分から話していかないと、何も始まりませんから。
-最初は戸惑いませんでしたか?
北村 ええ、最初はとても。 でも、日本人の方で6年間ロンドンに留学している方がいたので、通訳してもらったり、自分の言いたいことを紙に書いて、添削してもらったりしました。その方が助けてくれたので、本当に心強かったです。ドイツ語が堪能な方もいらっしゃったので、その方にも聞いたりしました。かなり皆さんに助けてもらいましたね
-その方たちとは連絡を取っていますか?
北村 はい。参加した日本人5人で、12月に神戸へ旅行しようという話をしています。とても仲良くなりました。
-そういう出会いも、留学の醍醐味ですね。では、留学中困ったことは何かありましたか?
北村 ガス抜きの水を探すのが大変でした。全部炭酸が入っていまして・・・。ご飯のときにもガス入りの水なので、スーパーに買いに行っていました。あと、レストランの人がドイツ語しか話せないこともあって、それもけっこう困りましたね。そんなときも、ドイツ語を話せる方の助けを借りました。
-講習会に参加して良かったことは何ですか?
北村 やはり、出会いですね。あと、同年代の人たちがとても上手で、刺激になりました。もう一度、頑張ってみようと思いました。
-講習会に行かれるまでは、悩みもあったようでしたが・・・。
北村 はい。でも、行って変わりましたね。海外で勉強するのはいいな、と思いました。
-自分では知らなかった、自分の良い点は見つけられましたか?
北村 課題はたくさん見つかりましたね、それはとても収穫でした。
-留学して成長した部分や、変わった部分はどんなところですか?
北村 演奏するときに、視覚で演奏する、ということを考えるようになりました。たくさんコンサートをしたからかもしれませんが、アピールすることは大事だと思いました。パフォーマンスも勉強になりましたね。
-それはいい経験でしたね。日本とドイツで大きく違う点は何でしょうか?
北村 練習室の大きさです。日本は6畳くらいの場所にグランドピアノが置いてありますが、ドイツでは40畳くらいのところに、アップライトピアノだったんです。天井も高く、すごく響きが良くて、小さめのホールという感じでしたね。グランドピアノを置いてある部屋なんて、まさにホールでした。
-ピアノのコンディションはいかがでしたか?
北村 良かったですよ。調律もしっかりされてましたし。
-それはよかったですね。では、今後留学する人に、何かアドバイスすることはありますか?
北村 もしドイツだったら、絶対的に古典を持って行ったほうがいいということですね。バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンなどは、やっていて当たり前という感じです。今回、私は、ロシアやチェコの曲を持っていったんです・・・。それよりは、シューマンやブラームスなど、ドイツ出身の作曲家の曲を持っていくべきだったと思います。それだけは後悔しています。
-皆さんも参考になると思います。他の方は、ドイツ系で固めてきた方が多かったんですか?
北村 はい。それから、みんなレパートリーをたくさん持ってきていました。資料には少なくても4曲と書いてあったんですが、みんなリストに書ききれないくらい持ってきていましたね。4曲というのは、本当に最低4曲だと思っていたほうがいいです。
-留学前に、しっかりやっておいたほうがいいことはありますか?
北村 練習と英語ですね。練習に関しては、いつも以上に練習したほうがいいと思います。というのは、コンサートはお城の中で弾くことになります。それに出るには、選ばれないといけないですからね。お城の中で弾くチャンスというのはなかなかあることではないですから、せっかく行くなら、それに懸けて行ったほうがいいと思います。
-北村さんは、たくさん練習しましたか?
北村 4〜5時間です。多く感じますけど、もっとやっている人は、そんなものではないですからね。あと3時間くらいはできたかな、と思います。
-皆さん頑張ってらっしゃるんですね。
北村 そうですね、かなり刺激になりました。
-お話していて、講習会に行く前とは変わったなと感じますよ。では、今後の目標は?
北村 以前は、海外に行ったはいいが、帰ってきて仕事がなかったらどうしよう、ということが気になっていましたが、行くことに価値があると思うようになりました。やはり、海外に出てみたいですね。
-もし行くならドイツですか?
北村 はい。これから1年本気で頑張り、来年また講習会に行ってみて、行けそうなら行ってみようかなと思っています。まずは英語を勉強しないといけないですね。英語が出来なければ、先生にレッスンお願いすることも出来ませんからね・・・。
-今、英語は勉強しているんですか?
北村 週1回ですけど。やはり、話せないというのは悔しかったですからね。
-次行くときは、通訳なしですね。
北村 そうできるように頑張ります!
-頑張ってください!今日はお忙しいところ、ありがとうございました。
霧生ナブ子さん/ジャズシンガー/アメリカ・ニューヨーク
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロに皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでご活躍中のジャズボーカリスト霧生ナブ子(キリュウナブコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ボーカリストとしてニューヨークで活躍すること」についてお話しを伺ってみたいと思います。
ー霧生ナブ子さんプロフィールー

尚美学園短期大学・作曲科専攻卒業後、ニューヨーク市立大学ジャズヴォーカル専攻卒業。クイーンズ大学大学院ジャズヴォーカル専攻修了。ビー・バップの伝道師として知られるジャズピアニストのバリー・ハリス氏の影響を強く受け、彼のジャズコーラス隊にも参加。そのグループでニューヨークの「タウンホール」や「シンフォニック・スペース」等の大劇場で公演。96年に渡米以来、ニューヨークのジャズクラブ「レノックス・ラウンジ」、「コープランド」などで定期的に活動を続ける他、ニューヨークのテレビ番組にも出演。2002年には有楽町朝日ホールにて霧生トシ子・コンサートで日野皓正(Tp)と共演し、同年にはジミー・ヒース(Ts)をゲストに霧生トシ子、太田寛二、アール・メイ(b)、ジミー・ラブレイス(dr)、デビット・ギルモア(tap)と共にクイーン大学でコンサートを行った。ニューヨークのブルーノートにて「J-JazzSisters」として公演も行う。アルバムは「シンキング・ラヴ」など。
ー 音楽に興味をもったきっかけを教えていただけますか?
両親が両方とも音楽家(*)で、小さい頃から音楽が家中に溢れていたんですよね。それで音楽は自分の無意識の環境にあって、一生懸命やっている意識はなかったです。どちらかというと子供の頃は演劇をやっていて、お芝居をずっとやりたかったんです。だから、小さい頃の夢は女優さんになることだったんです。
*)お母様が霧生トシ子さん、義父様が太田寛二さん
ー それがどうして音楽の方に向かおうと思ったんですか?
10才の頃からNHKの劇団のオーディションを受けて、それからずっと高校3年生になるまで演劇やっていました。ホントにホントにお芝居が大好きで、毎年夏に公演やったりとかしてたんです。でもその中で音楽は自分が力をいれて一生懸命やらなくても人より優れているという感じはありました。例えばオーディションなんかでも一曲歌うと受かってしまうみたいな感じがありましたね(笑)。もちろん歌う事は好きで、何かあると歌って人の気を引いてしまうところがありましたね。その後も同じような事があって、日本の音大を卒業した後、マスコミ関係の会社に勤めていたことがあるんですけど、その会社の面接試験も一曲歌って受かってしまったと思います(笑)。会社の面接でも特技は?って聞かれますよね。ジャズを歌っていると言ったら、何かできる?って聞かれたんです。そのまま、アカペラで一曲歌ってその度胸を買われたんでしょうね。それで受かってしまった。私にとって音楽は、歌は最後の手段という感じなんです。
ー それが音楽のプロになろうかと思ったのはどうしてなんですか?

19 才か20才ぐらいの時にインドに旅行に行ったんです。たまたま母が、私の義父と旅行に行く事になっていたんです。ところが彼が仕事で遅れてしまって、行くと言っていた予定の日にいけなくなってしまったんです。その結果私が母に誘われて、一緒に親子でインド旅行することになったんです。その後、義父が来てからは、途中で分かれて、最後に一人で日本まで帰ってきたんですよね。その時に、ある街からニューデリー(注:インドの首都)まで一人で電車に乗っていたんです。そこでたまたま隣に座ったインド人の女性がいました。もちろんその時は普通の音楽学校の学生の頃でしたし、英語なんかも話せませんでした。でも、その女性が非常に親切で、こちらの片言の英語でも一生懸命聞いてくれて、「何やってるの?」とかいう会話をいろいろしていたんです。私が音楽を勉強しているんだ、という話をしたら、いきなりその女性がその場所で、本当にいきなりインドの歌を歌ってくれたんです。本当にびっくりしてしまいました。日本の感覚からいったら外人が旅していて音楽勉強しているからと言って日本の歌はこうですよなんて、歌わないじゃないですか。だから本当に感動してしまって、その歌に心を打たれたんです。彼女に何回も歌ってくれる?といって歌ってもらい、その場で急いで楽譜に書いて、リズムや歌っている言葉をカタカナで聞こえた通りに書いて、何遍も歌っているうちに、歌を覚えちゃったんです。それで二人で一緒に歌ったんですね。そしたらその人が今度はびっくりしてしまってたんです!インドの言葉なんかもちろん知らないし、英語も分からない子が、いきなりインドの歌を、訳も分からない日本語のローマ字みたいな見たこともない文字でざーっと書いてあって、でも歌は一緒に歌える、みたいな事になったんですね。それですごい意気投合してしまったんです。道中二人でその歌をワーっと歌って、心は一つみたいな感じになったんですね。その時に歌ってすごい!と思ったんです。それで歌というのは人の壁を越えるというか、魔法のような力があるなと思ったんです。そういう訳で、歌の素晴らしさを知った経験を生かし、いわゆる「うまいシンガー」になろうというのではなくて人に何かを伝える、「メッセージを伝えるシンガー」になりたいなと思ったんです。日本の感覚でいうと歌がうまくないとシンガーではないという感覚があると思うんです。それまでは歌は好きでしたが、自分の中ではコンプレックスじゃないですけど、特別うまいと思ったことはなかったんです。特に音楽の環境に育ってきているのでやはりうまい下手はわかるんですよね。自分の中に特別歌がうまいとか歌の才能があるなんて思ったことはなかったけど、歌の意味とかすごさがその時に分かったので、だったら歌ってもいいかなと思ったんです。歌をうまく歌うなら自分のやることじゃないというか。歌って技術だけじゃないと思うのです。うまいとか下手じゃなくて、100人いたら100人の声でみんながそれぞれ話したりするのと同じように、それぞれの人間のドラマがあってそれを歌っていい、そういうものだと思うんです。それがインドで分かった、歌手になろうと思った大きなきっかけだと思うんですね。多分音楽って、日本でもこれだけカラオケが普及していて、みんなが歌っている中で心が通ったり、誰かが歌っているときにみんなで拍手をしたり、みんなで歌声をシェアするみたいなところがあると思うんです。そういうのがうまい下手ではなく、歌にはあるんです。もちろん、うまい人が喜ばれたりするんですけどね(笑)。だからもちろん一生懸命やってうまくなった方がいいですけど(笑)。
ー 感じる部分というのはうまい下手ではないですよね。そういう音楽性をお持ちの中で、ジャズになっていったという理由はあるのですか?お母様はもともとクラシックをなさってらしたんですよね?
ええ、母はクラシックをやっていたんですけど、母はジャズが好きで、一応そういう続きじゃないですかね。たとえば、今の義父にピアノを教えてもらったりして、それがたぶん私が、16歳、17歳とか。だからジャズが何、とかそういうこともわからなかった。普通に子供が習い事に行かされるじゃないですか、まず子供がそれが好きかどうかわからないけど、とりあえず剣道行ったら竹刀持って、っていうような感覚で、ジャズって言うものが私の中に入ってきたんです。
ー じゃあ、根本的にクラシックとかポップスが入ってきたわけではなくて、いきなりジャズが入ってきたんですね。
でももちろん、その前にクラシックもピアノも習っていて、子供のころから、それこそ2歳、3歳のころから、ピアノを、祖母もピアノの先生なんで、習っていて、そういう意味でも物心つく前から発表会をやっていたりとか、中学校、高校のときはバンドをやっていたりとか、キーボードやったり、オリジナルを書いたり、普通に音楽をやってましたよ、今の日本の若い人たちがやっているような、音楽活動みたいなこと。それこそ、『平凡』『明星』とかのコードが書いてあるのを見て、弾いたりもしてましたね。音楽が例えばやっぱり八百屋さんの子が野菜に詳しいのとおんなじで、普通に考えてなくてもいろんな知識とか情報がわかるような感じでしたね。なんでジャズに意識を向けてきたかって言うのは、やっぱり、ジャズピアノを先に弾いたからなんですね。ジャズはいまだに、1930年代、40年代の曲がスタンダードとして歌われているんですね。例えばスタンダード曲の『My Fanny Valentine』は日本では良く知られていて人気でみんなが歌ってるんだけど、それぞれの歌手が自分の解釈で、自分のライフを下に歌ってるんですよ。だから雰囲気が違ったり、テンポが違ったり、それぞれ料理の仕方が違うんですよ。おんなじ曲を歌っているんだけど。それが例えば白人の世界だと違ったり、黒人の世界だと黒人ぽかったり。みんながそのただ違うだけじゃなく、その上、歌の内容によって、悲しい歌だったりするとみんなその人生の中での苦しい重いって言うのが出てきているというか、ライフの瞬間を見せてくれるというか、その歌自体にいろんな人が歌ってきた歴史と、その手垢がいっぱいついている、そういう重たさがあるんですよ。そして今度は自分が歌うことによって、歌のストーリーに魂(スピリット)を吹き込むんです。自分がただ歌ってるんだけど、もっと歌が持ってる不思議な魅力というか、いろんな人に語り継がれてきた、歌い継がれてきた重みで、今度は自分の体と声を使って、そのストーリーを語るみたいな。そういう意味では、そこがジャズの面白さとでしょうか。
ー プロになろうと思って、アメリカに行こうとした渡米のきっかけは何ですか?
普通に会社で仕事3年半ぐらい勤めてたんですけど、仕事がきつくて、体を壊して入院して、そのときに病院のベッドに寝ながら、天井見ながら、窓の景色見ながら、いろいろ考えたんですね。勤務先の社長さんに頂いた御見舞いの花とか眺めながら、自分は何をやってるのかな、と思って。これだけ自分の時間とエネルギーを会社に費やすんだったら、ちょっと自分のためにやってみたらどうなんだろう、って思って。それがひとつの大きなきっかけだと思いますね。それとみんながとにかくNYいいよ、NY行ってみれば良いじゃん、っていうのでまず一回NYに旅行で来ってみたんですけど、やっぱり一目瞭然で、ちょっと普通に入ったバーで歌ってるおばあちゃんなどのジャズも、歌ってるのがレベルがものすごく高いくて、違うじゃないですか、全然。で、目からうろこのように、もう感動して、涙がいっぱい出て。これは今まで私が日本で、私ジャズやってますって歌ってたのはなんだったんだろう、って感じで。これじゃいけない、って。なんて私って、なんちゃってジャズをやってたんだろう、って。本場での洗礼ですね。これはマズイと思って。で、どうにかして、こっちに来るような方法はないかなと考えて、それから具体的に学校について調べたり、ビザのこと調べたりして、英語学校を探してまず留学しました。
ー とにかくニューヨークに行きたかったっていうのがあったんですね。
一番最初は「ニューヨークが一番いいじゃない?」、ていうような感じで肩押されて、「そんなもんなの?」と思いながら行って、初めてその衝撃に出会って、そのショックを受けてからは是非NY行こうっていう思いですね。
ー 実際ニューヨークについて音楽活動をされていくわけですが、行かれてからご自分の音楽のスタイルって言うのはどうやって作っていくものなんですか?
私が思うには、とにかく人間関係、ミュージシャンの中に自分の環境ををおくということ。もちろん学校には行くべきと思います。大学でジャズを専攻し、たくさんの音楽理論とかジャズの歴史とかを習ってきたけど、やっぱりそれだけじゃダメなんですよ。それだけじゃ生きた体験にならない。それはほんとにジャズの場所に行ってそこにいて歌っている人たちと話して、その人たちがどういう人生を歩んできたのか話したり一緒にご飯を食べたり、そういうところでいろいろ学んでいくことってたくさんあると思います。
ー コミュニケーションをしながら自然に出来上がっていくって、ことですよね。

自分は吸収しようと思って行くわけだけど、ただ、テクニック的なことを学ぶってだけじゃなく、ジャズは特にアメリカのカルチャーなわけだから、黒人の歴史とか、彼らがたどってきた道などももちろんそうだし、教会の歌ももちろんそうだし、それがジャズと繋がり、ここ(NY)に来て、こうやって生活して、その人たちと一緒に歌ったりしてやっていかないとわかんない。日本でやってるだけだと全然違うと思う。やっぱり練習してうまく洗練されたものというよりは、私が今までたどってきた生活観からでるジャズだっていう部分を強調して行きたいと思ってます。
ー 技術じゃないって部分ですよね。
もちろん技術もあると思います。やっぱり下手だったらどうしようもないし。そこのところで技術的には日本人的にコツコツ、ここはやらなきゃいけない、ってやってきたというのがあるんですけど、人にはみせないような、それがないとなきゃダメだとは思うけど、それ以外の部分をコツコツやっただけじゃ、ジャズの味は出ないと思うんですよ。
ー そういう部分では外国人と一緒に演奏する部分でも日本人とやるよりも、外国人と一緒にやるほうが吸収することが多いってことですよね。白人、黒人、ヨーロッパ人、NYにいるといろいろなジャズが吸収できると思うんですけど、それもまた違いますか?
それはそうだと思います。ほんとに違いますね。私はハーレムに住んでいるんですけど、そこら辺のバーに行くとやっぱりそういう人が好きそうなジャズがかかってるし、例えばダウンタウンいて、白人の人が多いところだと、歌詞の歌ってる英語とかも違いますよね。そういうのは本当に語学が出来ただけじゃ分からないじゃないですか、歌詞を聞いていて、アメリカのジャズのスタンダードのその曲をどの人が歌っているとかは関係なく、楽譜とか、英語とかを見ただけでも、これは黒人の人が作った歌だ、白人の人が作った歌だってわかりますね。それぐらい違うんですよ。言い回しとかで。でも違うけど、やっぱり人間だから同じ曲を同じスピリットで歌うわけだけど。女の人が去って行っちゃって、男の人が飲んだくれている、みたいな。同じ内容で歌ってるんだけど、語り口調とか黒人と白人だと違ってきたりするんですよ。そうなるといわゆる学校で英語を習ったっていうのじゃ無理ですよね。それを知るっていうことと、それを自分がジャパニーズでアメリカでジャズを歌うって言う特殊さををひしひしと感じるわけですよ。それはもう、日本で黒人の人が演歌歌手としてデビューするのと同じことなんですよ。でも、もし、日本で黒人の人が、生まれ育ってて日本語にアクセントもなくて、ゴスペルのようなスピリットをもって歌ったら結構感動するかもしれないじゃないですか、それと同じように、私は日本人だけど、やっぱり自分の中でジャズに対しての敬意もあるし、自分の生きてきたライフの中でいいと思ってきたことを表現していくっていうことは、私の中で子供のころにやっていた演劇というのと深いつながりがあるんですよ。
ー それはどういう点でですか?
演劇は自分の感情を表現するんですね。台詞をかたるでしょ。歌も台詞と同じようにストーリーを語るんですよ。歌ってるときに自分が語っている言葉が嘘じゃいけないから、その言葉どうりの気持ちがなきゃいけない。演劇をやってた瞬間にすごく感覚的に似ているんですよ。
ー 舞台の上ではその歌詞の人になりきるということですか?
歌が持っているストーリーを語るという感じですね。役を演じるというよりは歌を伝えるんだけど、何かの役をやっているときと似ている感じですね。
ー 舞台の上ではいろいろ考えるというよりも自然に出てくる感じですか?
歌のときは、結構自然にでてくることもあるし、例えばその歌が自分の体験に基づいてというよりは、友達の体験ですごい悲しい思いをした人がいたことを考えて思い出して歌うこともあるし。
ー 感情とか感受性を感じながら歌うということですかね?
そうですね。やっぱりメッセージですね。
ー 音楽活動をして、歌をやってて良かったな、もっとも興奮する瞬間ってどんなときですか?

やっぱりジャズの面白いところはあんまり決めない所。突然名前呼ばれて、ステージ上がって、初めましてって言って、この曲ね、って自分なりにリードしてやりますよね。初めてそこで出会った人達なんだけど、それでいきなり音楽を作るわけですよね。そこで一つになるときに、すごい興奮しますね。瞬間っていうものにとても敏感になるんですよ。人間生きてて、朝起きて夜寝て、っていう繰り返しで流れていくけど、よく言うことだけど、その瞬間はもうないわけでです。たまたま居合わせた人と、たまたまその瞬間に一緒に舞台をやって、もうその瞬間は二度とないわけじゃないですか。それがとても暖かく心が通じて、うまく言ったりするととても嬉しいというか。例えばこれが他の音楽ジャンルだったらやっぱりすごい繰り返し練習して、同じメンバーでどんどん上達していって、到達するって言うんだと思うんですけど、そういうのとはジャズは全然違うんですよね。そのためには、自分が一人で磨いていないといけないんですよ。みんなが自分自身を磨いて、一緒に乗っかったときにそれぞれが、自分が自分がっていうんじゃなくて、人のを聞きながら輪を作っていくみたな。
ー 自分を鍛えるというのはどういった面でですか?
もちろん、技術面もそうだし。もちろん知識というかジャズのことを良く知らないといけないんですよ。じゃないと人がやってることもわからないし。ジャズは即興だから、みんなが舞台に乗ったときに、ツーといえばカーという感じでやっていくわけですよ。ツーを知らないとカーが出せないんです。ツーをたくさん知らないといけない。そのためには自分を磨いて、いろんな人の音楽を聴いたり、、勉強したりして、その瞬間でコミュニケーションをお互いに取るんです。こうだ、っていわれたのを応える感じで音楽を出すとコミュニケーションができて、お互いにそれがわかると、すごい感動ですね。そいういのは例えば、日本のコメディアンがみんなが知っているようなネタを言って、例えばドリフだったら、「八時だよ、」って言ったら「全員集合、」って言ってね、といわなくてもみんなが言っちゃうみたいな、そういうような面白さがジャズにはたくさんあって、それが面白いんですよ。それが分かると見る方も分かってもっとジャズは面白いんです。だからもっといろんな人に知ってほしいと思いますよね。
ー 日米の観客の違いってありますか?
そうですね、やっぱりこっちと日本とでは違いますけど。やっぱりまずは英語ですよね。これは多分日本の人は、ジャズ歌ってる人はいっぱいいると思うんですけど、日本だけしか知らないでやっている人は、やっぱり知識が浅いというか、もちろんみんな頑張って勉強しているんだろうけど、こっちで生活しシンガーの人たちのワークショップのお手伝いをしたりしていると、最初に言われるのは、そこなんですよね。日本人はみんな器用で、音楽のこともわかってるんだけど、英語を日常使っていないから、気持ちが伝わらないんですよ。その気持ちの差が、そういう人たちが歌うと、必ず指摘されていますね。もう少しがんばれば本物に近くなるというか。
ー 海外でミュージシャンとして活躍する秘訣、条件というのは何かあるのですか?
日本人として、特有の謙虚さ、慎むことが美しい、みたいなものを変えないとダメですね。そこを変えていかないと、もっとやっぱり頑張って自分でどんどん前に出て行かないと、ずっと認めてくれないから。逆に日本だと前に出ると叩かれるけど、こちらでは前に出ないと目にも止めてもらえないし。そこはやっぱり違うものだと思ってやっていかないと難しいと思います。
ー 将来の夢はありますか?
やっぱり、世界に通用するジャズシンガーとして、日本人代表としてやっていければと思いますね。
ー 海外で音楽の勉強を考えている人にメッセージを頂けますか?
とにかくやり続けること。諦めないでやり続ければ必ずその先があります。
敦賀明子さん/ジャズハモンドオルガンプレーヤー/アメリカ・ニューヨーク
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロに皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでご活躍中のハモンドオルガンプレーヤー敦賀明子(ツルガアキコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ハモンドオルガンプレーヤーとしてニューヨークで活躍すること」についてお話しを伺ってみたいと思います。
ー敦賀明子さんプロフィールー

3歳の頃からオルガンを始め、高寺文子氏、セキトオシゲオ氏、当麻宗宏氏に師事。大阪音楽大学時代にジャズに目覚め、ジャズピアノを大塚善章氏に師事。卒業後ピアニストとして関西一円で活動を始める。その後、ハモンドオルガンを独学で学び、2001年に本拠地をニューヨークに移す。ピアノをSir. Roland Hanna、オルガンをDr. Lonnie Smithに師事する。同年にハーレムの老舗オルガンクラブ、“SHOWMANS”(ショーマンズ)でレギュラー出演する。Grady Tate (Drums, Singer)、Frank Wess(Ts,Fl)、Paul West(Bass)などと共演する。Grady Tateのグループではリンカーンセンターの野外コンサートやブルーノートなどのジャズクラブに出演。2003年3月、Time Out New Yorkで将来有望なオルガンプレイヤーとして紹介される。同年5月には初帰国ライブを行い、SwingJournal, ジャズ批評で紹介される。2004年春にM&Iからアルバム「ハーレムドリームズ」をリリース。 翻訳の仕事も手がけ、「Hammond Organ Complete: Tunes, Tones, and Techniques for Drawbar Keyboards(Dave Limina著)」をATMから2004年秋に出版した。現在NYで最も注目を受けているオルガンプレイヤーの一人である。
ー もともと音楽に興味をもったきっかけを教えていただけますか?
3歳の時に、ある日エレクトーンが家に来て、運んでくれた楽器屋さんが簡単な曲を弾いてくれたんです。それを聴いて、なんて素敵なんだろう、と(笑)。もともと音楽を聞くと喜んでいた子供らしく、子供のころ、テレビの音楽にあわせて手を叩いたりとか、歌を歌ったりとかが大好きだったそうです。それで親が何か習わせてみようかな、と思ったらしいんです。家が狭いからピアノは無理だけどエレクトーンならいろんな音が出るし、ということで。それで、エレクトーンを聞かせてもらったのが格好良かったので、私も習ってみたい、と近所の音楽教室に通い始めました。
ー そのときはジャズとかクラシックとかこれをやりたいとかそういうのはありましたか?
全然ないですね。ピアノの先生がエレクトーンも教えていたんです。エレクトーンを扱っているけどピアノの本をやったりとか。最初はピアノの本だったんだけど、そのあと世界の小唄みたいな、全集みたいなものをやったんです。それにコードネームが書いてあって、それを弾く、っていう感じで。何かその中に、今思えばジャズの曲も入っていたと思います。そのあとの先生が、エレクトーン専門の先生でした。エレクトーンはグレードがあるんですけど、グレード試験受けるときに一番最初にはまったのがフュージョンです。先生の息子さんがドラムをやっていて、フュージョン聴いたり一緒にバンドをやったりしていました。高校の時に専門コースに通ってたんですけど、エレクトーンプレイヤーの方に習っていました。 Giorgia on my mindを楽譜で弾いていたんです。それとかマンハッタンって曲。今思うと結構Jazzyな曲が好きになって、こんな感じの曲をもっと弾きたいって言ったら、ジミースミス(Jimmy Smith)聴いたらいいって先生に言われて聞いてみました。教室にライブラリーがありレコード聞いてみたんです。そしたら何じゃこりゃっ!って(笑)。先生は、彼は素晴らしい!って、すごい熱く語ってたんですけど、最初はなんかねえ、すごいなあ〜、って感じでした。音の洪水って感じです。全部同じ音だし。こういうのもあるんだな、って思いました。それまではハモンドオルガンって言うのを聴いたことがなかったんです。それで、これがハモンドオルガンって言うのか、と思って。
ー ではその頃からハモンドオルガンをやり始めようと思ったのですか?
いや、その時はやるんなら作曲科に進みたかったんです。ところが、高校三年の時にエレクトーンの先生から紹介してもらった先生が、作曲にはコネがないみたいだったんです。なんかその先生もすごい面白い先生で、音大出たら、お見合いの時に便利だから、って言って音大を薦めるんです(笑)。最初、武庫川女子大学の音楽学部とか山手短大ってとこがあって、そこの音楽科とか、とにかく作曲科に行きたかったんです。でも先生が、「音大」ってついてたらお見合いの時に強い、っていわれて(笑)。今は分からんかもしれないけど、大きくなったら分かる、と言われて(笑)。それが高3の5月だったんです。それまで一度もピアノを弾いたことがなかったんですよ。それで、エレクトーンの月謝もすごく高かったし、3人兄弟で私が長女なんですけど、それ以上に私にばっかりお金かけるわけにはいかなかったんです(笑)。それで、音大に行くっていったら、本当はトーンとか、それぞれ違う先生につかないといけないわけです。でも、その先生の場合は全部まとめていくら、って感じで、なんでも教えてくれて。なんか考え方とか変わってて面白かったですね。受験のためだけに習いに行っていたんですが、緊張して会いに行ったら音大言ったらお見合いの時便利だよって言われて(笑)。それで習いに行くようになって、ピアノは全然やっていなかったからそこからソナチネを始めて。エレクトーンはちょっと休んで。
ー それで、音大に入ってから何故ジャズに目覚めたんですか?
クラシックで音大に入ったんですけど、みんな上手だったんで、これはついていけないなと思って(笑)。私が習った大学のピアノの先生が、私が前にエレクトーンをやっていたというので、手の形がどうとか、手の形が悪いとかいつもネガティブなことばっかり言われたんです。私はクラシックがやりたいと思って学校に入ったのに、なんかやる気なくなってきて。そうじゃなくてもピアノは鍵盤が重たいからしんどかったんですよ。なんか手にしっくりこないというか。ずっと練習してましたけど。でも、そのころからエレクトーンもまたやり始めていました。それは将来のためにヤマハのグレードを取っていたほうが良い、と思ったからです。その頃のヤマハというのは、グレードが上がるにつれてジャズの曲が多くなっていったんですね。一人ビックバンドって感じでした。エレクトーンがもっとシンセサイダーみたいになってて、ブラスとか、ストリングセクションとか。で、試験受けるときにジャズの曲を弾いた方が.....受かりやすいって聞いたんです(笑)。また学校にもライブラリーがあったので、オスカー・ピーターソンとか聴きました。その頃、子供の頃から一緒にエレクトーンを習っていた友達がジャズピアノを習い始めたんですよ。大塚善章さんに。面白いなって思いました。あ、そっかって思って。それで、音大を卒業してヤマハのエレクトーンの講師になったんです。講師になったんだけど、やっぱりグレード試験ちゃんと受けようと思ったんです。3級まで言ったのかな。指導グレードと演奏グレードというのがあるんだけどそれを全部取りました。そのグレードを取る少し前に私も大塚善章さんにジャズピアノを習いに行ったんです。面白いって思って。そのころ世の中がバブルで、新人のお仕事が一杯あったんですよ。ソロピアノで。私の友達は結構きれいで社交的だったんで、あっという間にそういう仕事をゲットしたんです(笑)。大阪は特にだと思うんですけど、どこでもそうかもしれないけど、ちょっとかわいくて、社交的な人のほうが仕事が取れるんだと思います(笑)。誰かのサブとか。彼女は彼女ですごく自分のサブを探してたんですよ。で、彼女は私に無理やりサブをやらせようとしたんです(笑)。あ、その前に、大学時代に近所のピアノバーみたいなところがあって、ピアノ喫茶みたいなとこですけど、そこに弾きにいってたんですよ。なんちゃってピアノで、ジャズみたいなものを一人で弾いたりしてましたね。
ー じゃあ、ジャズは大学のときからやっていたんですね。
そういえばしてたんですね。楽譜を見たりしてやってました。
ー 何か惹かれたものがジャズにあったんですか?
クラシックが面白くないから(笑)。
ー では、ジャズは面白かったですか?
面白かったです。アドリブとか弾けるし、自分で作れるし。
ー 敦賀さんはハモンドオルガンプレーヤーですが、あまりこの楽器に親しみのない方もいるので、ハモンドオルガンというものを簡単に説明してもらっていいですか?

ハモンドオルガンは、時計職人のローレンス・ハモンドという人がアメリカで発明した電気オルガンで、時計のぜんまい仕掛けと同じなんです。オルガンの真空管を使用し、パイプオルガンをもっと家庭用にできないか、というコンセプトで作られました。ぜんまい仕掛けの技術を利用して、パイプオルガンを小さくして、キーを押したら、接点が7個あり、ドローバーといういろいろな音に切り替わるものがあります。それを引き出すことによって、いろんな音が作れます。またレスリースピーカーという、スピーカーの上に羽がついているスピーカーを使用します。この羽を鳴らすんですが、この効果は簡単に言うと扇風機のそばで、わ〜って言ったら、振動音が出ますよね、あんな効果があるんですね。
注)Hammond Organ Complete: Tunes, Tones, and Techniques for Drawbar Keyboards(Dave Limina著)敦賀明子さん翻訳
ー ハモンドオルガンに惹かれたきっかけを教えていただけますか?
日本でジャズピアノの仕事を始めるようになって、大阪のあるところで、レギュラーをやっていたんです。そこで、ジャムセッションをやっている、ということで、ジャムセッションに行き始めたんです。その時に、オルガンやってる人がいて、カッコイイなと思っただけど、オルガン一人で弾いてても、他の人ができないから、ピアノを一生懸命やっていたんです。レギュラーとかジャムセッションをその頃毎日やっていました。それでそこがブルーノートの前だったんで、ブルーノートからアフターステージの人が一杯来たんですよ。それこそ、ロイ・ハーグローヴ(Roy Hargrove)とかグラディ・テイト(Grady Tate)もそこで会いました。そのときはピアニストはたくさんいて、ピアノは順番があまり回ってこなかったんですけど、オルガン弾いたら、オルガンを弾ける人あんまりいなかったので、ずっと弾けたから、それでオルガン弾き始めたんです(笑)。そこで東京から来ていたドラムの人にオルガン上手ですね、と言われて(笑)。そうなんや、って思って(笑)。昔からやってたし、ピアノと違って、オルガンは鍵盤軽かったので音出すのに苦労しないし。子供の時からやっていたから、手になじむという感じです。
ー そのように日本でプロでやっているにも関わらず、何故渡米しようと思ったんですか?

同世代の友達があるときを境にみんな留学でアメリカ(ニューヨークとボストン)に行ったんです。結構それで、アメリカに遊びに行くようになりました。丁度そのころ大阪でグラディ・テイト(Grady Tate)と会ったんです。そのときジミースミス(Jimmy Smith)と一緒に来ていたんですが、オルガンも弾くって言ったら、オルガンなんか嫌いだ、ピアノやれ、って言われて(笑)。その頃グラディ・テイト(Grady Tate)さんは半年に一回ぐらいは来ていたので、もう一回会って、聴いてもらったら、もうニューヨークに来たら良いのにって、言われたんです。そのときはそう言われましたし、ニューヨークに友達がいたし、1年に1回ぐらいはニューヨークに遊びに行っていました。友達はそれなりにニューヨークで演奏活動をしていたんで、行く度に私もやってみたいな、ここに来たらすごい楽しいことが待ってるんだろうな、と思いました。1年位だったらいけるかな、お金ためて、と。バイトもして、お金も貯まったので、それでB3(注:オルガンの型)を買うか、ニューヨークに行くかちょっと迷ったんですけど、どうせだったらニューヨークに行ってみようと思ったんです。
ー そのときは音楽活動を目的としてニューヨークに行かれたんですよね?
そのときはオルガンをやろうと決心していました。日本ではホームプレイヤーとしてやることがなくて、特にオルガンは誰かのバンドでサイドメンでやるということがほとんどなかったんです。私は人のバックでホンピングするのが好きだったので、そういう勉強をしてみたいな、とも思っていたんです。アメリカに行ったら一杯ミュージシャンもいるし、人のバックで演奏する機会もあるだろうと思ったので。
ー ニューヨークは本場という意識はかなりあったんですか?
ニューヨークは流れてる空気も違ったし、ここにいるだけで、自分がすごい成長できるんじゃないかと思ったんです。
ー 敦賀さんの自分の音楽スタイルはどうやって作っていくのですか?
自分がそのときに聴いているもので、こんな風にやってみたいな、って言うのがあったらまねしてみたりですね。スタイルというよりも、ニューヨークに来てびっくりしたんですけれども、みんなオルガンに合わせて踊るんです。ニューヨークに来てすぐ位の事だったんですが、ハーレムの125丁目のシーフードレストランで、ボーカルの人の曲で、すぐにギグをやったんですよ。今も一緒にやっているサックスの友達が、ここでやっていくなら絶対オルガンやで、っていうんで、なんで?って聞いたら、ベースプレーヤーがいないから、って(笑)。ベースプレーヤーを探すの大変な街だから、オルガン弾いていたら、ベースもできるし、ピアノもできるし、絶対こっちのほうが仕事ある、って。私自身はそんなこと全然考えてなくて、お金が尽きたら帰ろうと思っていたので。そのときはふ〜んって思って。それで、Showmansに行くのに、最初怖いから、ボディガードを連れて行ったら追い返されて、というかいいように断られたんです。それで二回目に、女なら良いだろうと思って、友達の女性を連れて、入らせてもらったんです。それでそこに結構二人で通ったんです。そうしたら店の人が目をつけたみたいで。
ー お客さんのふりをして通ったのですか?
ええ、もちろんギグ取ろうと思っていました。お店の人も覚えててくれて、それから一人で行ったりとか。そしたら友達がこれ絶対ギグ取れる、と言い出したんです(笑)。もう一息だと言うんですね。グラディ・テイト(Grady Tate)も連れていこうと言って一緒に行ったりしました。たまたまボーカルの人が来たので、じゃあ3人でやったらということになったんです。お店の人が 3人だったらやらしてあげる、って。それでShowmansに行き始めて、結構すぐに違う曜日にも行き始めたんですよ。多いときだと週に3日ぐらいレギュラーで貰っていました。そこで知り合った人からも別のギグをもらったんです。その後、引越しをしたんですけど、何で引っ越ししたかって言うと、オルガン運ぶには車じゃないと無理ってことが分かって(笑)。最初は地下鉄で運んだんですが、本当に大変でした(笑)。それで車持ってないなら、アクセスしやす場所に引っ越したほうがいいな、って。本当に重くて、一度運ぶと体中に青あざできるぐらい重いんです(笑)。それも重すぎて誰も手伝ってくれないし(笑)。今はもう少し軽くて音がいいキーボードがあるんで、それを使ってるんですけど。
ー 現在は日本人や外国人と演奏しているわけですが、一緒にやっていて、人種の違いはありますか?
ニューヨークはいろんな人種の人がいますよね。白人とか黒人とか。ついこないだも私以外全員黒人っていうバンドでやったんですけど、その時になんだか彼らはすごいなって思ったんです。雰囲気が、なんていうのかな、フィーリングって大切だな〜、って。それは例えば、外国人が演歌を歌います。でもなんとなくフィーリングが出そうで出ないじゃないですか。そういう感じでなんですよ。そのときもちろん私は頑張ったんですけど。これは外国人が津軽三味線をやろうとしてもなかなかフィーリングが出ないのでと同じで、私が演歌やって、歌は下手だけど、ここでこぶしの一つでも聞かせれば効果的だとか、下手でもフィーリングだけは伝わるって言うかそういうのは分かるし出来ると思うのです。それはやはり小さいときから演歌を聞いてきたからというのと、そういう日本の文化で育ったというのがあるんだと思うんです。やっぱり私達外国人の日本人がジャズをやるっていうのもそういうことなんだろうなって思ったんですね。でも外国人が日本の演歌をやった時に、違う感性で同じものをやるとそれが結構面白かったりするでしょう。だから結構外国人の私たちがジャズを弾くってことは、アメリカ人からしたら違う観点でジャズの物事を私たちが捕らえていて、それはそれで面白いと思っていると思うんです。
ー 演奏中にうまくフィーリングが出ないなと考えているのですか?
いやもう頑張ったのに何か、自分の中ではこういう風に弾きたいって言うイメージがあるんです。例えばジミースミス(Jimmy Smith)のキーンて弾くおいしいとことかね。それを弾こうと思うんだけど、でもその時に、一緒にやっているエリック・ジョンソンがギターが、一音ガーンって弾く音のほうが私がやるよりも格好良いんですよ(笑)。
ー どうしてそういう差が出るとお考えですか?
やっぱり、一つは文化の差。そして、彼らは一音にこめる感覚って言うのが、すごいフィーリング持っているのにも関わらず、すごいリラックスしてるんです。フィーリングとか、パッションで弾く日本人のプレーヤーもいると思うんだけど、なんとなく、頑張ってます!っていう感じに終わってしまう人が多いと思います。何が違うかって考えると、アメリカ人の場合は、すごいがーっと集中して演奏に入ってるんだけど、その間もリラックスしてるんですよ。肩の力が抜けてるんででしょうね。何でかというと、やっぱりアメリカの人たちは、最初からそういうフィーリングを持ってるからだと思います。日本人だと、そういうグルーブのフィーリングを、ジャズのフィーリングを身に着けるところから始めるじゃないですか。日本人とアメリカ人のテクニカル面での差はないと思うけど、フィーリングの違いですね。確かにオルガンって難しいのもありますけど。ハモンドオルガンは右手でメロディー弾いて、左手でベース弾いて、ベースペダルで、左手で弾いてるベースに、例えばウッドベースを弾いてるときに、立ち上がりがありますよね、ああいうのをベースで弾くんですよ。ちょっと練習してなかったら、バラバラですね。
ー ちなみに練習はどのくらいなさるんですか?特にプロになったあとなんかどうですか?
ニューヨークに来て、一番思ったのが日本でいかに練習してなかったか、って事ですね。アメリカに来てから本当に一番必要なのは練習だったと思いました。ニューヨークの人たちはみんな本当に練習してます。例えば、DR.ロニースミスというオルガンプレーヤーに、オルガンを個人的に聞く機会があったんですけど、一日中弾いてますね。テレビ見ながら(笑)。オルガンをテレビの前において、テレビ見ながらずーっとオルガンを弾いて手を動かしています。テレビが面白くなったら、オルガンの手を止めて、テレビの音を大きくして(笑)。あれ見てたら、人生観変わりましたね。私はテレビ見ながらやるんだったら、集中してがんがんやったほうがいいのでやり方は違いますけど。DR.ロニースミスの場合は、とにかく楽器に触れるということが大切だと言って、朝起きたらまず楽器に触れる、夜寝る前は楽器に触れる、という生活ですね。楽器とともに生活という感じですね。
ー 音楽活動をやっていく上で、何かこだわりみたいなものはありますか?

人が踊れないような音楽は絶対しない、ということです。楽譜にかぶり尽いて、聞いてる人がリズムにあわせて体が揺れないような音楽は絶対にやりません。
ー 日本とアメリカのお客さんの違いって何ですか?
アメリカのお客さんというのは反応が、日本のお客さんに比べてダイレクトですね。良かったらわーって言うし、あんまり良くなかったら、すごい喋るんですね。こっちが気分良く弾いていたら、それに対する反応というのはすごいダイレクトですね。去年日本でCD(注)が出て、日本でライブツアーをしたんですけど、その時にやっぱり日本のお客さんは国民性の違いだと思うんだけど、奥ゆかしいというか、でも実は喜んでいる、という感じがありますね。日本で嬉しかったのは、最初にみんなすごい固い表情で見てるんだけど、だんだんお客さんの表情が和らいでいくのを見るのがすごく楽しいです。国民性の違いというのは面白いですね。
(注)「ハーレムドリームズ」(2004/05/19発売)
ー 音楽をやっていて一番やっていて良かった、興奮したと思う瞬間はどのような事ですか?
やっぱりすごく良いメンバーと、すごく良いお客さんが聞いてくれるところで演奏して、ものすごくビートが気持ちよくて、このままやめたくないなって思うときですね。
ー それはバンドのメンバーにもよりますか?
オルガンは自分自身の負担が大きいので、サポートしてくれるとうれしいですね。そういう意味でメンバーによって気分は変わってきますね。グラディ・テイト(Grady Tate)のバンドでもやってるんですけど、彼とやるときはいつも楽しいです。彼はすごいんです。ボーカルのバンドでやることが多いんですけど、やっぱり彼はジャズの生き字引みたいな人で、持っている引き出しがすごく多くて深くて一緒に演奏していて楽しいです。ジャズのことを知り尽くしたっていうか、アイデアもそうだし、本当にスキャットずっとしても、その抑揚のつけ方とか、引き込まれるような感じがあります。自分が上手になったような気がする位です。そのくらい違うものですね。バンドとしての質も一気に上がります。
ー ニューヨークで受けた影響って何かありますか?
ビートや音楽に対する気合という事に影響を受けましたね。やっぱりいろんなところからニューヨークに音楽をやりに来ている人が多いので、みんな生きていくのに必死です。ギャラも多いわけではないし、そうなると自ずと競争も激しくなります。そうするとやっぱり音楽に対する情熱がないと生きていけない。もちろん情熱があっても上っていけない人は一杯いますけど。
ー 敦賀さんにとってジャズや音楽とは何ですか?
自分の人生です。Dr.ロニースミスなんかは、「人生を音にしろ」って言ってますし。
ー カッコイイですね。そういう人生を歩んでいる方の将来の夢はどのようなものですか?
私の音楽で、聞いてる人がハッピーになって、幸せな気分になってもらいたい、ということですね。
ー 海外でミュージシャンとして、成功する秘訣ってあるとお考えですか?
人に誠意を尽くすことだと思います。いくらうまい人でも、やっぱりいい加減な人はそれなりになってしまうと思います。日本もアメリカも一緒だと思うんですが、人間として必要なことだと思います。グラディ・テイト(Grady Tate)もそうなんですが、ジャズを育てよう、っていう意識があるんですよね。有名でも決して威張ったりするわけでもないですしね。人間として成長することが成功することの条件なのでしょうね。
ー 今後の敦賀さんの演奏活動をお聞かせいただけますか?
(2005年)来月8月にリンカーンセンターでアフターアワーズで1週間トリオで出ます。エリック・ジョンソン(ギター)とビンセント・エクター(ドラム)と一緒です。8月末から日本にツアーで帰ります。こちらはエリックジョンソンと田井中福司さんの3人で。普段は、私のバンドって言うのが2ヶ月に1度クレオパドラーズニードル(Cleopatora's Needle)でやったりたまにスモーク(Smoke)やショーマンズ(SHOWMANS)などでやっています。
ー 今後海外で勉強しようと考えている方にメッセージをお願いします。
日本でできることは全て日本でやってからアメリカに来たほうが道は早いと思います。例えば、アメリカに来てもすぐに人と演奏できるぐらいの技術を身につけておくなどです。アメリカに来て一から学ぼうとすると、言葉の問題とか、生活に追われたりとかするからです。アメリカ来て、人と演奏して、言葉が通じなくてもなんとかなる、って言うぐらいのレベルにするといいと思いますね。これが一からだったらもっと時間がかかるだろうし。日本で習えることは日本で習って。ジャズだけではなくて、クラシックでもそうなんですけど、まったく初心者でアメリカで来るというのはお勧めはしないですね。日本でやることはやって、ある程度経験を積んでからの方がいいと思います。
ー 仕事を得るのはコネクションが多いですか?
やっぱりコネクションが多いですね。だからみんなに誠意を尽くしていれば、話が周ってきますよ。嫌な人でもニコニコして。私はなかなかできないんですけど(笑)。言葉ができなくて、向こうも何を言ったらいいか分からないということもあったんですね。笑顔は世界共通、たまに彼女はアホかって言われることもあるらしいんですけど(笑)。やっぱり女は愛嬌ということで(笑)。
ー 最終的にはジャズならアメリカに行ったほうがいいんですかね?
自分の音楽のスタイルさえできたら、音楽をやるのはどこでいいとは思うんですけれども、ジャズをやっている以上は、一度はここの街のもつムードを経験するのは、絶対プラスになるでしょうね。
ー ありがとうございました。
奈良希愛さん/ピアニスト/ドイツ・ベルリン
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はヨーロッパ各地、アメリカに留学経験があり、現在ベルリンと東京を中心に大活躍されているピアニスト奈良希愛(ナラキアイ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学をすること」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います(インタビュー:2005年12月)。
ー奈良希愛さんプロフィールー

東京藝術大学卒業。ベルリン芸術大学首席卒業。同大学院国家演奏家コース首席修了。マンハッタン音楽院大学院プロフェッショナルスタディーコース修了。マンハッタン音楽院室内楽科助手を務める。全日本学生音楽コンクール全国第1位、シュナーベルピアノコンクール、ブゾーニ国際コンクールなど多数のコンクールで上位入賞。ロベルトシューマン国際音楽コンクールピアノ部門、日本人初の第1位金メダル優勝。ドイツ学術交流会、文化庁芸術家在外研修等奨学生。ドイツ国営放送局主催アイゼナハ/ヴァルトブルグ城演奏会、ボローニャ国際ピアノフェスティヴァル、NHK-FM名曲リサイタルなど、世界各国の音楽祭から招待。ベルリン響、ツヴィッカウ響、新日本フィルなど内外のオーケストラと共演。ソロ活動の他にトーマス・ティム(ベルリンフィル第2バイオリン首席奏者)、アンドレアス・ティム(ベルリン交響楽団首席チェロ奏者)とピアノトリオを結成し、各地の音楽祭から招待。現在、日本とベルリンに主な拠点を構え、世界各国で演奏活動を展開。指導者としても各地で公開講座、コンクールの審査を行う。音楽雑誌『ショパン』にエッセイを連載中。2006年4月より相愛大学音楽学部専任講師に就任。
— 簡単な略歴を教えていただいてよろしいですか?
奈良 東京藝術大学を卒業後、ドイツ政府の奨学生としてドイツ・ベルリン芸術大学に行きまして、そのまま大学院まで行きました。その間にスペインの音楽院やイタリアでプライベートレッスンを受けた後、1年間ほどマンハッタン音楽院で実習をやりながら大学院に通って留学は昨年終わったところなんです。
— いろいろな国に行ってらっしゃいますが、ドイツ以外の所にもいろいろ行きたかった、ということですか?
奈良 最初はヨーロッパに留学したいなという漠然とした気持ちがありました。そして、先生とのご縁や奨学金をいただけることでドイツに行きました。ドイツものを勉強しているうちにスペイン音楽に興味を持ちました。スペイン音楽というのは、ヨーロッパ内とはいえドイツとは社会や文化が違いますので。そこでピアニストの熊本マリさんにお手紙を出してお返事を頂き、彼女の先生をご紹介いただいて、スペインに行くことになりました。また一方ではイタリアのカトリックな宗教的なものにも興味がありまして、カトリックの聖地であるローマに行きたいなということで先生のご縁があってイタリアに行ったのです。アメリカは最初そこまで希望していたわけではないのですけれども、ヨーロッパでは勉強させてもらったと思っていましたし、アメリカの先生がずっと前から大陸の違う国でも文化があるということを肌で感じたほうがいいよ、というふうにおっしゃっていましたので。でもアメリカは学費も高いし、あんまり乗り気でもなかったしちょうどテロもありましたが、大学の方から奨学金が出るということでそれでは行って来ようかなと1年間行きました。
— 一番最初に音楽に興味を持ったきっかけというのを教えていただいてよろしいですか?
奈良 年の離れた姉がいるのですけれども姉がピアノを弾いていまして、家に楽器はあったんです。音楽一家ではなく、代々法律一家でした。ただ楽器に対して興味を持って、よく自分で作曲までいかないけれど歌詞を付けながら音を鳴らしてピアノをおもちゃとして遊んでいました。そこが音楽との出会いの最初かもしれません。
— 2歳くらいからピアノをやっていらっしゃるのですよね。
奈良 母が一応バイエルだけは一緒に弾きながら教えてくれたのですけれども、それ以上は、母は全く素人ですので限界が生じました。幼稚園の先生がどうも私は耳がいいらしいというようなことを感づいて音楽教室にでも連れて行ったらどうかというふうに言ってくださったのです。それで私を音楽教室に連れて行ったら楽しんでやっていたということで音楽を習い始めたのです。
— それではクラッシックから入っていったということですか?
奈良 バーナムとかトンプソンというのがありまして、一応姉が習っていたからかもしれないですけれども古い楽譜があってそれを始めて、バイエルから取り組みました。
— 例えばポップスとかジャズとかそういうものに小さい頃は興味は持たなかったんですか?
奈良 もしかしたら答えになっていないかも知れないんですけれど、ピンクレディーとか良くそういうレコードなどは聞いていたんですけど。ピンクレディー以外は歌えないかな(笑)。
— いろいろな国に行かれていますが、音楽をやるにあたってそれぞれ良い点悪い点というのはありますか?
奈良 これは人それぞれなのでご縁があるかによりますし、それを私のところで強く言うことはないのですけれども、私はヨーロッパのほうが長かったのでアメリカよりヨーロッパの方が、相性が合うタイプではありました。世の中にはアメリカの方に先にご縁がある方もいるし行きたいと思う方もいるから私は比べる気はないんですね。要は行きたいと思った所にタイミングよく習いたい先生がいるということが大事だと思うのです。みんなが行くからというよりは、自分が行きたいという理由が本心である場所を選ぶべきだと思います。
— 本当に縁がある場所に行くのがいいのではということですね?
奈良 縁とあと相性ですね。行きたいという気持ちがなければいけないと思います。とりあえず行ってみるだったらとりあえずの結果になると思います。
— スペインやイタリア、ドイツと比較してなにか個人的にここは良かったな悪かったなという点はありますか?
奈良 私は比較的いい先生にお目にかかったものであんまり悪い点はなかったのです。そういう意味でどこの国でも補う形であったのは確かですね。長所がそれぞれ違うので。ドイツで習った先生はすごく学者的、教育者的なタイプであり、ピアノという音楽、クラッシック音楽はそれだけが幹のように生えているわけではなくて、宗教的なものが背景にあり国民の感情とか過去の歴史があるという事を私は学んだんですね。日本だったら次々にエチュードをこなしたり試験に向けてやっぱり練習したり、何かにつけてピアノのソロばかりに頭がいきがちでしたけれど、クラッシック音楽というのは何かから派生しているものなのだなという事を、ヨーロッパに来て初めて納得したというのがあります。理論的なことはすごく強くドイツから学んだのですけどスペインやイタリアはラテン系なのでどちらかというと感情に結びつけるという、頭だけではいけないものを補ってもらう形で学べたと思います。アメリカはまた大陸が違うと、こんなに違うのかという感じでした。やや日本に似ているのかもしれないけどクラッシックに関しては歴史がヨーロッパと比べるとそんなに深くないので、また違うエンターティメント的な華やかさをアメリカは持っているのだなというふうに思いました。
— ヨーロッパは過去の歴史・文化の中から出てきたものがあるけれどもアメリカはエンターティメント性が強いというのが一番印象的な事でしょうか?

奈良 アメリカはどちらかというとアメリカナイズされているなと私は思いました。アメリカはもちろんヨーロッパを高く評価していますけれども、自分は強い国だということを分かっていますから自分達は決して間違っていないというのを信じています。だからちょっとギャップがありますよね、正直。
— ヨーロッパからアメリカに行かれるとちょっと引いちゃうところがあるのですか。
奈良 私はちょっとじゃなくて、「・・・ああっ」というような。
— かなり。
奈良 好みの問題もあるのですけど、アメリカはどちらかというと最後にワーッて華やかに終わるほうが好きで、ヨーロッパはどちらかというと演奏が終わった後でも余韻を楽しんでからやっと拍手が出るほうが好きという感じです。私はヨーロッパが長かったのでヨーロッパタイプの音楽の方が好きなだけです。
— 海外で仕事をすることで日本人が有利な点、不利な点はありますか?
奈良 私は、個人的には、就職はかなり不利ではあると思うのです。クラッシック音楽を学ぶのにどうして日本人から学ばなきゃいけないんだ、と。ヨーロッパ人には誇りがありますし現にそれはそうですよねと思う時はあるのです。だからかなりの覚悟で行かなくてはいけないと思います。コンサートについては、良かれ悪かれ日本人でもヨーロッパのお客様は音楽が好きな人が来てくださるので、自分達でプログラムを考えて日本的なこの曲を弾いたらお客様が集まる、とかそういうビジネス的な世界を考えなくていいというのがありますね。
— そうなんですね。
奈良 ホールは大きい所はないのですけれどもヨーロッパの音楽活動はそういうところはありがたいです。演奏活動だけに集中できますし、それで音楽好きなお客様が来てくださるので。日本でいうとお客さん来るかしらとか大丈夫かしらとかそういうのありますけど、そういう精神的負担が全くないんですね。
— それはすごいいいことですね。
奈良 そうであって欲しいのですけどね日本も。
— そうですね。
奈良 だから日本人だからという心配はなくコンサートは行えます。
— 演奏の演目でも日本だったら明らかに受ける曲というのが結構あってそれをプログラミングされる場合が多いと思うのですけれど、ドイツだと、例えば現代曲でもお客さん集まるのですか?
奈良 そうですね。そんなにたくさんは来ないかもしれないですけど、ある程度は来てくださりますね。私は一応主催者と相談しますけど9割5分問題があることはなかったですね。問題があるとしたらちょっと長すぎるとかそれ位でしょうか?
— それはいいですね。先日、チェコの音楽家と話しをしていたのですけどチェコでは新しい曲は難しいと話していたのですよね。だからやっぱりドイツはまた違うのでしょうね。
奈良 もしかしたら私がベルリンだったからかもしれません。オペラを初演するのにベルリンが会場としてまず第一候補になりますから。実際音楽に関しては敷居が高くないのかもしれない。
— お客さんも本当に音楽が好きな方が普通にいらっしゃる。通常自分の生活の中で音楽があるという感じなのですね。

奈良 そうですね。音楽が好きで逆にチケットもそんなに高くないので、街に音楽が溢れていますし何か音楽に対する近さはあるんでしょうね。
— ドイツの方たちはいわゆる大音楽家であれ、中堅であれ、まだ一番下の人たちであれ、威張って俺は音楽家だぞ見たいな感じではないのでしょうか?
奈良 人それぞれでいらっしゃると思うのですけど、教師にしろそうかもしれないのですけど、海外の先生というのはまず1度は演奏を聴いてくださるので、敷居は高くはないと思いますね。とにかく自分がやっている仕事に対して誇りを持ちますからプライドはあるかもしれませんけど、変なプライドはないかも知れないですね。
— 生徒がやりたい事を非常に受け入れてくれるということですよね。
奈良 そうですね。
— 奈良さんにとってクラッシックや音楽とは何でしょうか?
奈良 私は結構あんまり模範になるタイプじゃないのですけど。何度もやめようと思ったタイプですので。私は大学も本当は音楽大学に行く予定じゃなかったんですね。まあ音楽嫌いじゃなかったのですけど、どうしても練習練習というのが嫌になって。高校3年生まではそれで悩んだりして続けてはいたのですけど、高校3年生の時に我が家が代々法律一家だった事も手伝って、法学の道に進もうと決めたんですね。そちらの方が実力がはっきり出るから楽かなと。頑張ったら頑張った分比較的すぐ結果が出るかなと思いまして。それで音楽を専門的にするのはやめようと思って記念にと、全日本学生音楽コンクールというのがあるんですけどそれを記念受験したんですよね。最後どこまで頑張れるかって。本当は東日本大会本選の奨励賞というのを狙っていたんです。奨励賞取るのでも大変だったので。そうしたら賞状はいただけるんですけど、本選受賞者演奏会に出なくていいんですよね。そしたらセンター入試にかかれるのでそれを狙っていたら、ちょっと頑張りすぎちゃって全国1位になっちゃったんです。それで音楽をやめるのを断れない環境があったんですね。
— もうやれよと周りからでしょうね。
奈良 嬉しかったんですけどちょっととまどいがあって、それがかなり長い間続いていました。やっぱりどの道を行くにしても悩みますよね。何かあった時にああやっぱり法律の道に行った方がいいかなと、去年位までずっと悩んでいたので。
— まだ悩んでいるのですか?
奈良 分かりませんね。私にとっては音楽も魅力でしたけれど、18才の時に決断した法律の分野というのはそれなりに魅力や憧れがあって、将来の確定は言えませんけどかなり悩んでいたのは事実です。法律の分野は『正しいのはこれだ』というのがハッキリしていて、周りからの評価が確実で楽ではあるんですよね。自分のやりたいことをやっていても評価が比較的複雑ではないというのがあって。音楽などの文化というのは何か経済的な問題が社会であると最初に消されてしまうものだと思うのです。その中で無理して生きるのもどうかなと、そういう現実的なことも考えちゃったりして。それだったら資格をとるという意味で法律を勉強しようかなと思っていたんです。でも音楽は今まで続いていて、何かそういう仕事があって喜んでやる自分がいるんだから続けられるまでは自分のテンポで続けようかなと思っています。
— 今はまだ音楽のほうが魅力的なのですか?
奈良 音楽がまだ運良くご縁が切れてないんです。切れたら辞めようと思っています。今のところ細々と続いていて喜んでやっている自分がいるのでやっているという感じではあるんですね。法律も難しいですから。
— どちらも難しいですね。そういった方に次の質問をするのは非常に変な感じがするんですが、今後の音楽家としての夢というものがあれば聞かせていただいてよろしいですか?
奈良 私は運良く素晴らしい先生方にご指導いただきました。その先生方はいろいろな意味で人間としても評価が高く尊敬される方ばかりなんです。皆さんやっぱりお年ならではの人格です。私は自分にあったテンポで足りないところを勉強しつつゆっくりでもいいから人間として上を目指すような人生が送れたらな、音楽的にもそれは焦らずに人との出会いに関係していけたらいいなと思っているんです。あとは必要に応じて、私が学んできたことのいくつかを次の世代に残していければいいなと思うんです。
— 演奏家という部分ももちろんありますけど、教育者という部分をかなり思い描いているのですか?
奈良 教育はかなり。演奏家一本で絞ろうとはゆめゆめ思っていませんし、そういう活動だけにこだわっているつもりはないんです。教えるというのは教わることでもありますから教えるのは大好きです。ただ教える立場になるにはやっぱり自分の器が必要なので常にそっちを求めていくというのはありますね。
— マンハッタン音楽院でアシスタントとして教えていた経験というのはかなり役に立つのでしょうか?
奈良 そうですね。いろんな意味でとても勉強になりますよね。楽ではないということを学びましたし、面白いということも学びました。
— プロのミュージシャンとしていろいろと演奏活動をされていると思うのですけれど、プロになる理由や条件、それは精神的にでも技術的にでもいいのですが、そういうものはあると思いますか?

奈良 私もよく分からないのです。どうして今まで続いているのだろうと思っているんです。ある種人生いろいろ勉強する段階、いろいろ補填する段階、プロとしてやっていく段階というのは何かそういうフレーズがあると思うんですね。その切り替えの時に立ち止まらないで進んでいくということの方が大事なのかなって思います。留学して学生生活ってやっぱりすごく楽ですし魅力的ですし、特に海外で勉強だけに集中できるのは良いのですけれど、次のステップに行くというのもタイミングが大事なのだと思います。私もコンクールを過去にたくさん受けていましたが、コンクールをあまり長く受けているよりはある程度で見切りをつけて次にシビアな演奏活動で揉まれるという方が大事だと思いますね。私は個人的には5年も10年もずっとコンクールに出ていたら、それまでに取っていたコンクールの価値もなくなってしまいますし、取りすぎというのは逆にどうかなと思います。コンクールが全てだと一生懸命頑張っても、何年か後にはまた同じコンクールで次の優勝者が出てしまうわけですから難しいと思います。
— いくらコンクールで優勝したとしてもそれが全て仕事につながるか演奏活動につながるかというのはもちろんないわけですよね。
奈良 またコンクールって微妙な曲目でいけちゃうんですよね。基本的に演奏活動として求められるのはどれだけレパートリーがあるか、代役などの話があった時にどれだけ準備が短い期間で出来るか、訓練ではなくて先生のそういう鍛えられ方が大事になってくると思います。コンクールというのは準備入念にしていけますが、そこから先はすごく人間的な社会が待っているというか、そこから先をどうするかが問題になると思いますね。
— 最後になりますが、海外で今後実際に勉強したいと考えている方がたくさんいらっしゃるのですがそういう方に対して何かアドバイスみたいなものがあればお願いしてよろしいですか?
奈良 語学は必須だと思います。語学は足りない、余るということは絶対ないです。語学はあんまり甘く見ないほうがいいです。1回目のレッスンから、また次のどこかの公開レッスンに行くという時もやっぱり英語プラス母国語というのは最低でも出来たほうがいいと思うのです。それとあまり人と自分を比べるのではなくて人の努力は人の努力として評価してまた自分でまた別の孤独な作業も我慢できること。敵を作れという意味ではなくて、あんまり人に頼りすぎるのはどうしても一歩出す勇気が半減してしまうと思います。ある程度本当に自分のやりたい道が見つかったら割り切って自分が進んでいかないといけないのではと思います。特に留学って期間が限られちゃうからそれはあんまり怖がらずに向かう方向に行ったほうがいいかなと思います。
— 留学するということに関してはどうお考えですか?
奈良 ご縁があれば構わないと思います。ただ本人が留学したいという気持ちが強くなかったら、周りや親が留学というレールを敷き詰めると、留学してから一人でくずれてしまう子も多いので。
— 実際に留学して現地でくずれていく方というのを見ていますか?
奈良 偉そうな言い方かもしれませんけど、留学してきて有名で天才少女とか言われて出て行った人は世間にもまれることに慣れていなくて、すぐしょげちゃうし、「何でそんなところで?」というのはありました。やっぱりどうしても周りのガードが強かったのだなというのが。だから世間にもまれる時に、自分で対応が出来ない、あまりにも出来そうにない時は本当に親離れ子離れじゃないですけど自分でやるということを強めにしていかないといけないと思います。いつまでも親はいませんし恩師はいませんからやっぱり自分で出来る余裕がないと。すごくシビアな言い方かもしれませんけど。
— 本当にそのとおりだと思います。奈良さんは、現地でくしゃんとなって日本に帰っちゃうという方も結構見ていらっしゃるのですね。
奈良 日本に帰れればいいのです。帰れない方がいらっしゃるんですね。私は日本を捨ててという気持ちはさらさらなかったし、いずれは日本でも活動をと思っていたので。日本で大学まで行きましたしいずれは日本のためにと思ってましたので。私はすごい希望を持って海外に行くのは大事だと思うんですけど、ただそれが意固地になるようだったらあんまり意味がないと思います。ある程度人間挫折のあとに頑張ってまた這い上がるというのが本当の勉強だと思うので、そういうところは自分に厳しく自分に甘くというのをうまくやったほうがいいかなと思います。
— 本当にありがとうございました。
奈良希愛さんのオフィシャルホームページ
井上智さん/ジャズギタリスト/アメリカ・ニューヨーク
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでトッププレーヤーとしてご活躍中のジャズギタリスト/コンポーザーの井上智(イノウエサトシ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ニューヨーク・ギタリストが歩む道」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います(インタビュー:2005年9月)。
ー井上智さんプロフィールー

神戸出身。同志社大学在学中から関西を中心にライブハウスやコンサートで活躍。1989年、ニューヨークへ渡りニュースクール大学ジャズ科でジム・ホールに学び音楽的・精神的に影響を受ける。同校卒業後、ニューヨーク市立大学院でロン・カーターに学ぶ。以後、ニューヨークのジャズシーンで、ジム・ホール、ジュニア・マンス、フランク・フォスター、バリー・ハリス、ジョン・ファディスなどのトップ・ミュージシャン達と共演。教則ビデオ「ジム・ホール/ジャズギター・マスタークラス」全三巻、「マジカル・ギター・テクニック/ビル・フリーゼル」の音楽監督を務める。現在、ニューヨークで最も注目されているギタリストの一人として活躍中。ニュースクール大学ジャズ科講師。ジャズライフ誌に「毎月増えるスタンダード」を好評連載中。現在までにリーダー・アルバムを 4枚発表。
— 最初に、音楽に興味をもったきっかけを教えていただいてよろしいですか?
井上 家に音楽が、レコードが普通にかかっていて、兄貴がフォークソングを聞いたり、親が音楽好きだったので普通に家に音楽が流れていたんですね。それで普通にレコードを聞いたりしていました。オルガンは習いに行っていたかな。ヤマハ教室に。そんなにまじめにやって無かったですけどね。
— 勉強みたいな感じでしたか?
井上 お習い事という感じ。子供の頃に。小学生三年の話ですね。すぐやめちゃったけど。
— すぐやめちゃったんですか (笑)
井上 ほんま二、三年で辞めたかな。それから、高校行きだしたぐらいでやっぱりロックに目覚めたかな。親戚のいとこが同じ高校に行っていて、僕が一年の時、文化祭の体育館でロックバンドとして演奏したんです。それがすごくてがーんとショック受けて。それ結構大きいですよ(笑)。
— 本当ですか (笑)
井上 それで高校二年の時ロックバンドやりはじめたんです。
— 音楽に目覚めたけれど、井上さんは音大とかではなく、いわゆる総合大学に行っていますよね。
井上 同志社行きましたね。
— その時は音楽のプロになる気だったのですか?
井上 全然、そんなまさに今自分がやっていることをやろうという計画は全然無くて。
— 本当ですか。
井上 なんか僕らの頃って、勉強させられてとりあえず大学行けみたいな感じあるじゃないですか。あまり将来の事考えずに。まあ行ってから考えろみたいな。で、同志社行ってそこで軽音楽同好会に入りました。そこでロックやりだして。
— そこでもロックだったんですか?
井上 ロックですよ。
— ずっとロックですね。
井上 ずっとロックです。ロックなんですよ。
— それは面白いですね。
井上 面白くないですよ。昔はもう大体一緒。ロックからみな入ります。ロックギタリストが多かったんです。今はそんなにロックギターは人気ないかもしれないけど。その頃は若者がバンドやるし、ハードロックとか。まあぼくがやってたんはブログレ。
— ブログレですか。
井上 ちょっとクラッシックも入ってたり、ジャズの要素も入ってたけどいろいろ面白い感じで。
— なるほどなるほど。その時も作曲とかもされていたんですか?
井上 いや。してないですね。
— じゃもう完全にコピーバンドという感じですか?
井上 コピーバンドですね。
— でその後にずっとこうだんだんジャズに興味をもっていくと思うんですけど。
井上 ええ。それでなんか大学四年ぐらいの時かな。なんか音楽やりたいなというのがあって。
— それは、プロとしてですか?

井上 プロとしてです。普通に就職したくないなというか、反抗期がその頃から。なんか、ちょっとこのまま就職してはいかんのではないかなと思って。そして、まじめに音楽やギターをやってみたいなと思って。で、その頃にジャズスクールに行きだしのかな。
— そうですか。
井上 なぜジャズスクールかというとやっぱりその頃クロスオーバーが、今でいうフュージョンかな。クロスオーバーが流行っていて、興味をもったんです。それは結局ロックとジャズのクロスオーバー、ロックとジャズのフュージョンだった。それで、これはちょっとジャズを勉強しなきゃ理解できないと思ったんです。京都のジャズスクールに行きだして、そうこうしているうちになんか演奏の仕事が入ったんですね。
— いきなりですか。相当優秀ですね。
井上 とんでもないです。ジャズスクール一年くらい行って、その一緒に行っている人がキャバレーで演奏してて、ちょっとやると言うので僕が一緒について行ったら、君明日からおいでって他のバンドで言われてしまって。そのまま就職せずに大学は卒業してしまったみたいな感じですね(笑)。
— 就職活動もせずに。
井上 全然してないです。そのまま卒業してしまった。
— その後、どのように渡米しようと思ったんですか?
井上 京都でいろいろライブハウスみたいなところでやったりしてて、まあジャズに、フュージョンよりもジャズそのものに興味を持ったんですね。まず25歳くらいのとき1ヶ月だけニューヨークにひたりに行ったんです。
— 音楽にひたりにですか?
井上 音楽にひたりに行ったんです。ジャズを聞こうということで友達と行きました。30日滞在のうち毎日毎日、よなよな出かけてのジャズ三昧でした。それはもうジャズクラブとかコンサートとかいろいろです。
— 毎日。30日間ですか?
井上 30日あったから、40回くらい聞きにいきましたね。昼間もライブ聞けたりするから。観光客ならではのパワーですね。
— どうでした?その時。
井上 いやもうすごかったですよ、カルチャーショックが。結局外国も初めてだったからそういうのも全部含めて文化の違い、言語の違い、音もすごいし。
— それはやっぱりもう自分には持ってないというものがやっぱりあったんですか?
井上 いやもうそれは全然持ってない。
— なるほど。
井上 すばらしいプレイでしたね。
— 本当にそうですよね。すばらしいプレイヤーが目白押しでいますもんね。ニューヨークというところは。
井上 日常でやってますから。
— なるほど。
井上 まあショックを受けて帰ってきたんですね。
— その後どういうふうに?
井上 また関西でずっと演奏ライブやってましたね。また、ギター教えたりしながら。その後再度、ニューヨークに6ヶ月行ったんですよ。4年くらいたってからかな。
— ずいぶん時間があいたんですね?
井上 そうですね。85年やったかな。日航機が落ちたときかな。阪神が優勝したときです。その頃だと思います。その時に当時の観光ビザで最高が6ヶ月だったかな。ちょっとまあ6ヶ月だから生活になりますよね。
— ええそうですね。

井上 その6ヶ月でまたいろんなハプニングがあったというか。1回目行ったときはわりと聞くばっかりだったけど、2回目は実際、ブルーノートで演奏する機会とかあったんです。
— へえー。
井上 ストリートミュージシャンをやったり。ブルーノートにちょっと日本人フェスティバルみたいなのやっていたり、ハーレム行ったり、いろんなところで演奏で花開いたというか。
— それはどうやってこう、なんと言うんですかね。自分を…
井上 売り込んでいったかということですか?それはもうジャムセッションとかありますから。当時ブルーノートのジャムセッションに入っていましたしね。特に楽器を持ってジャズをやる、そういう場所が今でもありますけども、今より多かったかもしれませんね。そういう所に行くと同じ志の人達が集まっているわけですよね。世界中から。で、いろいろ情報交換して、そしてまた仕事でギターが要るからお前やれとか、そういうことが結構ありました。それでなんか俺ひょっとしたらニューヨークでいけるかも。なんかいけんじゃないかな、みたいな、そういう幻想をいだかせてくれたというか。
— へえー。すごい。
井上 ラッキーだったんです。
— ラッキーだったんですか?
井上 はじめに一ヶ月行ったときの下見があったから立ち回りもよくて、それなりにできましたしね。最初の1ヶ月、その後の6ヶ月のニューヨーク滞在の間に京都で自分でも演奏していましたからね。
— それをニューヨークで再現ですか?
井上 ニューヨークで通用したこともあるし、通用しなかったこともある。まあそれでもいろいろ演奏の機会はあったんですね。
— それで音楽でいけるなというふうに思ったんですね?
井上 通用するというか、まあ、ここで何とかアルバイトしたりとか、何とかなるんじゃないかみたいな感覚でしたね。生活して音楽勉強していくことが出来るんじゃないかみたいに思っていました。ただ、6ヶ月行って帰って来た時は、そんな計画は無くて、またやっぱり行きたいなというだけでしたけど。
— そうなんですか?
井上 ニューヨークで生活しようなんか、そういう発想はなかった。
— そうなんですか。
井上 ただ6ヶ月行って、なんとかなりそうなんかな、とかそんな気がしたんですね。そしてその後やっぱり関西に戻って演奏してました。しばらくして、もう一度、行こう。アメリカに行くなら今のうちだぞ、みたいな。どんどんいろいろ関係が出来てきてだんだん動きにくくなってくるでしょ。若いうちかなということで。
— 渡米をしたいと決めたのはどんなことですか?
井上 やっぱり6ヶ月のニューヨーク滞在がすごい自分の中にあったんやろうね。そこでいろいろな何かがパンと開いたんです。チャクラが開いたというか。やっぱり自分を鍛えたいというか、多分6ヶ月いたときに、短期間の6ヶ月しかいないというふうに自分で決めているから、すごい自分で動き回ったんだと思う。
— 生活でだらだらするのではなくて、音楽活動することを決めているから。もうがーんと来たわけですね。
井上 さあ行くぞ。やるぞ。みたいな。気合が入ってたんでしょうね。結局そういう新しい自分を見たのもあったのかもしれん。自分で自分に驚いたというか。自分がそういう環境にあると頑張る。ニューヨークで頑張る。ちょっと逆境といったらおかしいけど、言葉もそんなに流暢に通じるわけじゃないし。そういうところに自分を置くと、逆にこう頑張るというのがあるのかみたいな。そういう性格というかね。そんなこともあって、ニューヨークにもう一回行きたいというのは持ってたわけです。行くのだったらはやめに2、3年行って勉強して、帰って来ると。2年という事やったんだけど、これが今引き継いで16年(笑)
— なるほど。最初は音楽学校に行かれたんですか。
井上 いや。それが行ってないんですよ。
— 音楽学校に行ってないのですか?
井上 行ってない。一年くらいは。ビザが丁度、切れる頃にやっぱりこれは音楽学校でビザ出してもらおうかということになって、ニュースクールに行ったのですね。
— ジャズを学ぶには非常にいい学校ですよね。
井上 ビザだけのためにいったんですよ(笑)。
— ビザだけのためとは思えない位、いい学校ですけどね。
井上 僕も良く知らないから(笑)。行ったらとても良かったですね。それでこれはもう卒業しようと思いました。
— そこで恩師に会われたわけですか?

井上 そこで恩師に会いました。ジムホール大先生に。
— なるほど。そうやって、だんだんアメリカ人を中心に外国人と演奏活動を主にやり始めるわけですよね。日本人と演奏する場合と、外国人と演奏する場合の違いはありますか?
井上 あんまり違いないですよ。
— ないんですか?
井上 ない。相手が日本人だったら日本語でコミュニケーションするだろうし、アメリカ人だったら英語でする。それだけの違い。
— ニューヨークに住んで、一番受ける音楽的な影響というのはどういうものでしたか?

井上 いい影響も悪い影響もあるでしょうね。都会ですから。結局たくさんミュージシャンが集まっている所でやるわけですよね。他の分野のアーティストも含めて、結局層が厚い。たくさんのミュージシャンが切磋琢磨しておる。となるといろんな所でいろんなミュージシャンがいて、又レベルも高いし。まあ低い人もいるんですけれども、結局上から下までのレンジが広い。層もジャンルも。本当にそこらじゅうで日常に音楽が溢れているというかね。だからそういうところに自分を置くことによって、自分で自分のケツをたたくことが出来るかなみたいな。もともとレイジーな性格ですから。それに、学校に行って、ジャズギターだけでなく総合的な音楽の歴史とか、理論もそうですけれども勉強しなさいと言われないとしない科目ってありますよね。例えばコンポジション(作曲)だったり、イヤートレーニングだったり、ミュージックヒストリー、ジャズヒストリー、アンサンブル、アレンジメント、編曲ですね、そのような科目も良かったですね。ジムホールとかそういういい先生に出会えたというのも、ニューヨークでないと実現しない影響というのでしょうか。それと、もっと練習しないといかんなみたいな(笑)。
— ニューヨークに行くミュージシャンの方はもっと練習しなきゃいけないと思うようですね。
井上 なんかミュージシャンは一日じゅう音楽の話をしてるみたいなところがある。人のライブ聞きに行ったりとか、自分で演奏したり。歴史的にジャズの大きなムーブメントが起こった町ですからね。そういうのが残っているんでしょうかね。雰囲気、空気がね、ジャズの。
— 日本にいたら受けにくい刺激ということはあるのでしょうか?
井上 わかりやすい話で言えば、アメリカ人がお琴を学ぼうとしたら、たぶん日本に行くみたいな。アメリカでも邦楽は学べるやろうけど、日本にいったらその周りにある文化や背景や歴史もね。
— なるほど。文化とか言葉とかそういうもの全部すべてを一緒に学びに行かないと分からないということですもんね。
井上 そうですね、ジャズの場合アメリカで生まれた音楽ですし、まあ層が厚いですよね。層が厚いというかほんと豊富ですよね。そこらへんにあるわけだから。そういうところにミュージシャンが集まるし、世界から集まってくるし、そこでこう刺激を受けるんかな。
— 一番影響を受けたのはジムホールですか?
井上 いやもうジムホールのレッスンは目からうろこですね。もともと自分がジャズ、やりだすようなきっかけになった人ですから。
— 井上さんは、音楽というもので自分を見出していったと思いますが、その音楽やジャズというのは井上さんにとって何でしょうか?

井上 自己表現の手段。自己表現の手段やし、それはまた自分が演奏したり作曲したり演奏する時にミュージシャン、他のミュージシャンと美の追求を楽しむというか、何かを作りまたオーディエンスとも一緒に作り上げるという楽しみでもありますよね。いまや自分にとってそれが生活の糧でもありますけど(笑)。
— そうですよね。
井上 そうはいっても結局、音楽に出会えてよかったと思いますね。ジャズに出会えて。
— 音楽は言葉で言えるようなことではなく、お客さんに聞いていただいて、こういうことを自己表現したいんだなというふうに分かって欲しいということですよね。
井上 そうですね。結局メッセージがあっても音で伝えるわけですから。小説家は小説で表現するし、ミュージシャンは音楽で表現するんですね。
— 一流のプロになられて、今後の人生まだまだありますけれどもどういうような夢をもっていらっしゃいますか?
井上 ミュージシャンとして、ギタリストとしてもっともっと成長したいですね。あと作品発表したいし、アルバムも作りたい。今の自分のバンドでもっと活動したいですね。
— なるほど。海外でミュージシャンをやって活躍する秘訣、成功する秘訣ってあるとお考えですか?

井上 成功する秘訣があったら教えて欲しい(笑)。まあ自分がやっている経験から言うと、そうですね、いいものをよい形でプレゼンし続けたらいいんじゃないですかね。結構、日本でもそうだと思いますけど、頑張るというか、すぐ結果は出ないけども、やっぱり長く続けることじゃないですか。長く長く続けられるような環境に自分を置くことが大事ですね。あとやっぱり、実力社会でははったりのないところでの実力がいるし、また一人だけでは音楽はできないので人間関係もあるし、そのへんをクリアしつつ、自分を積極的に動かす。特にニューヨークなんかでは積極的に動けば割とレスポンスがあると思います。なんかいっぱい若い人が来て、まあ僕もまだまだ若いと思っているんですけど、いっぱい20代の人が来て良く相談や、ギター教えてくれとか来るんですけどね。でも頑張って自分の殻打ち破ってそこに行こうという人はやっぱり、そういうパワーを逆に俺がもらっている気がする。友達ばかりで集まってしまってなんかするんじゃなくて、知らない人とも出会って新しいネットワーク作ったりすると良いでしょう。
— なるほど
井上 やっぱりニューヨークは人に会う場所でありますよね。僕も学校に行ってよかったのは、同じような事考えているいろんな人に会うことでしたね。
— なおかつその学校以外でもいろいろな所にジャムに行ったりですよね。
井上 そう。ジャムに行ったりとかね。学校に行っていると、まあ忙しいですけどね。宿題とか。それに、秘訣というのは多分自分のスペシャリティーというのを知ったらいいんやろうね。
— スペシャリティー?
井上 自分しかないこととか、自分の切り口といったらおかしいけど、そういうのあるでしょ?
— 他のミュージシャンと差別化するということですか?
井上 差別化というかミュージシャンだけではなく、例えば自分が映像の得意なミュージシャンだったらそういう切り口とか流れとか、コンピューターの操作が得意とかそういう自分のスペシャリティーを何かみせれるということだと思います。
— 海外で勉強したい留学をしたい、短期も長期もいらっしゃると思うんですけど、そういう方に何かアドバイスみたいなものがあれば教えていただいてよろしいですか?
井上 すごい応援しますよね。やっぱりいいことだと思います。見聞を広めて。アドバイスとしては、その留学する国の言葉を事前に出来る限り勉強しておくと、時間的に得なんじゃないかな。行ってからね。英語だけを学びに行く人は英語を学ぶだけでいいのかもしれませんが、音楽を学びにいく人でも英語はいるわけだし、例えばクラシック音楽をドイツに学びに行くのであればドイツ語をしゃべったほうがいいだろうし。言葉でコミュニケートするわけだから。それが苦手で引っ込み思案になりたくないよね。それに出来が悪くてもやたら先生に食ってかかるとか。お前もういいというような(笑)。日本の子はおとなしく聞いてる。まあ今の日本知らんけども、やっぱりクラスルームをアクティブにしたほうが先生も喜ぶし。意味の無い質問することは無いけど、やっぱりなんか食い込んだほうがいいんですよね、アメリカの学校は。
— 日本人って授業では結構おとなしいですか?
井上 かもしれませんね。
— 言葉ももちろん出来ないでしょうし。
井上 相手が私のこと見てくれないの。みたいに待っている場合があるから。待ったら駄目ですね。
— 実際井上さんもニュースクールで教えている立場としてそういうことを感じるということですね。
井上 そうですね。やっぱりインパクトを先生に残す生徒はなんとなく分かりますよね。気合出しているなと。
— そうするとやっぱりこいつはかわいがってやろうと。
井上 かわいがってやろうかというか、まあなんでしょうね。やっぱりインパクト残したほうが得やろうね。何かとね。
— そうですよね。頭に残りますもんね単純に。
井上 先生もうれしいしね。
— やっぱりうれしいですか?
井上 そりゃやっぱり授業終わって話しかけてきてくれるとね、質問とか。
— いわば質問はどんどんしたほうがいいと言うことですよね。意味の無い質問は先ほど言ったように止めた方がいいでしょうけど。
井上 質問だけじゃなくて積極的に参加するとかね。クラスルームをアクティブにすることが大事ですね。
— わかりました。本日はありがとうございました。
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【井上智カルテット~メロディック・コンポジションズ・ツアー 2007】
6月11日(月)京都:ルクラブ 075-211-5800
6月12日(火)神戸:サテンドール 078-242-0100
6月13日(水)大阪:ロイヤルホース 06-6312-8958
6月14日(木)石川:西田幾多郎記念哲学館 076-283-6600
6月15日(金)福井:響きのホール 0776-30-6677
6月16日(土)鈴鹿:どじはうす 0593-83-5454
6月18日(月)今治:ジャズタウン・プレイベント 会場ジャムサウンズ 0898-33-3023
6月20日(水)大分:ネイマ 097-567-1517
6月21日(木)熊本:エスキーナ・コパ 096-322-5353
6月22日(金)宮崎:Cafe B-flat 0985-28-8456
6月23日(土)東京:金魚坂 03-3815-7088予約制
6月24日(日)甲府:コットンクラブ 055-233-0008
6月25日(月)東京:Body&Soul 03-5466-3348
6月26日(火)舞浜:イクスピアリ 047-305-5700
尚、詳しい時間や料金などは各会場に直接、お問い合わせ下さい。
ツアー全体のお問い合わせはS&J ASSOCIATES(076)222-5960
布谷史人さん/ソロマリンバ奏者/アメリカ・ボストン
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はアメリカ・ボストンでソロマリンバ奏者としてご活躍中の布谷史人(ヌノヤフミト)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2006年11月)
ー布谷史人さんプロフィールー

秋田県生まれ。山形大学教育学部総合教育課程音楽文化コースを経て、ボストン音楽院修士課程マリンバ・パフォーマンス科修了。アーティスト・ディプロマ科マリンバ専攻修了。ボストン音楽院でナンシー・ゼルツマン、パトリック・ホーレンベルクに師事。その他、岡田知之、目黒一則、須藤八汐、三村奈々恵、池上英樹の各氏に師事。Ima Hogg 若手音楽家のためのコンクール(テキサス州ヒューストン)1位。世界マリンバコンクール(ドイツ)、The National Young Artist Competition(テキサス州オデッサ)、The Eastern Connecticut Symphony Young Artist Competition(コネチカット州ニュー・ロンドン)、Percussive Arts Society国際マリンバコンクール(アメリカ)等で入賞。大曲新人音楽祭コンクール、クラシック音楽コンクール・打楽器部門最高位(日本)。ヒューストン交響楽団、Di Pepercussio Ensemble、東方コネチカット交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団と共演。現在ボストン在住。
― 簡単な略歴を教えていただいてよろしいですか?
布谷 7歳からピアノを始めました。小学校の時に学園祭でマリンバを初めて見たのですが、それ以来マリンバに憧れがありましたね。その後、中学校からずっと打楽器をやり、17歳からマリンバを本格的に勉強しています。
― その後はマリンバだけをお続けになっているのですか?
布谷 大学は音楽大学ではなく、教育科のある山形大学に行ったのですが、その時は打楽器も勉強しなければいけなかったので、打楽器もマリンバも両方均等にやっていました。アメリカの学校ではマリンバ科がありそこに入学したので、留学後はマリンバを主に勉強しました。
― アメリカに留学しようと思ったきっかけはありますか?

布谷 留学というか、マリンバを勉強する引き金になった先生(大学2年頃から学外で習っていたピアノの先生)がいるんです。山形大学のカリキュラムでは、打楽器専門の先生が年に4回しか来ません。それだけだとあまりにもレッスン数が少ないと感じたので、大学2年の終わり頃に思い切ってそのピアノの先生にマリンバを教えてくださいとお願いしたんです。先生はそれを快く引き受けて下さいました。そこからは常に新しいものの発見でした。音楽というもの、音楽をすることの喜び、苦しみ、深さ。本当にいろいろなものを学びました。その先生との出会いで、真剣に音楽を勉強しようと決めたと言っても過言ではないですね。そしてマリンバの世界に目を向けるために、世界で活躍している何人かのマリンバ奏者に出会う機会があり、その方々から色々と海外のお話しを聞いていくうちに、海外に興味を持ち始めました。
― アメリカやヨーロッパ、アメリカの中でも西側、東側がありますが、ボストンに留学先を決めた理由は何かありますか?
布谷 ヨーロッパでは、オーケストラ奏者になるためのプログラムが主流で、ソロでマリンバのみを勉強することはまず不可能だと聞きました。自分としてはマリンバのみを勉強したかったので、大学3年生頃からお世話になっていた三村奈々恵さん(注:マリンバ奏者)からお話をいろいろ聞き、マリンバ専攻で修士課程が取れる大学ということで、三村さんが通っていたボストン音楽院に行こうと、大学4年の夏に急に考え始めました。
― ボストン音楽院に行かれてどうでしたか?
布谷 アメリカ留学を急に決めたので、英語を準備する時間はほとんどありませんでした。最初は英語が全然出来なかったので、英語の授業から受講しました。その英語のクラスでは、いろいろな国の人と友達になり、ボストン探索をしたり、協力したり、毎日いろいろな発見があって楽しかったです。プライベートレッスンは、英語があまり達者でない留学生を教えるのに慣れている先生でしたので、英語が出来なくても身振り手振りと簡単な単語で何とか教えてくれました。
― ボストン音楽院は、入学時にTOEFLは必要ですか?
布谷 僕はスコア自体を持っていましたが、恥ずかしながら入学するための点数には達していませんでした。多分、その当時はそんなに重要視されていなかったのだと思います。今は必要みたいですね。
― オーディションはテープですか?
布谷 テープでもいいし、もちろんライブオーディションでも良かったです。僕はあまりよく分からなかったのでテープで出しました。ただ、自分の担当になる予定の先生に自分の事を知られていないのであれば、直接来てオーディションを受けたほうがいい印象を与えられると思います。奨学金の額も変わってくると思います。
― 初年度から奨学金はもらえますか?
布谷 優れている人には多少なりともちゃんとくれます。ただ、奨学金は主にオーケストラの楽器の専攻生に多く振り分けられるので、マリンバ専攻生は高額な奨学金をもらうのは難しいと聞きました。僕の場合、修士課程の時は多少もらっており、その後のアーティスト・ディプロマでは全額奨学金を得ることができました。
― マリンバ科は何人いたのですか?
布谷 修士課程は、三〜四名です。学校自体がそんなに大きくはないので三〜四人でも結構多いほうだと思いました。
― ボストンは、治安などいかがですか?
布谷 場所によってですが、アメリカでは比較的良いほうだと思います。何区域か危ないと聞いています。危ない区域は決まっているのでそこに行かない限り大丈夫だと思います。

― 音楽をアメリカで勉強することで良い点・悪い点はどのような事がありますか?
布谷 アメリカは、国自体が本当に自由だと思うんです。いろいろな人がいるし、いろいろな演奏方法もあるし、いろいろな音楽もある。それが刺激になっていいなと思います。逆にいろいろありすぎて広く浅くになりがちな部分もあるような気もしますね。ただ、ボストンやニューヨークなどの東海岸側は、地理的にもヨーロッパに近く、たくさんの音楽家がヨーロッパから渡ってきます。そのおかげで、クラシックの本場の音楽を聴く機会もありますし、クラシックの勉強を本場の人から習う事も可能だと思います。そして、マリンバという楽器自体が珍しく、アメリカは珍しいものが好きなところがあるので、作曲専攻の生徒や作曲家の先生方がマリンバを使った室内楽曲やソロの曲を書いてくれますね。その曲を演奏するチャンスがありますし、マリンバの作品を書いてくれる作曲家の方と、マリンバの可能性や、その作曲家の書いた曲の意図等のお話をする機会がありますね。
― アメリカでもマリンバはあまり知られていないのですね?
布谷 そうですね。演奏会をすると「今までマリンバを聴いたことがなかった」という人はたくさんいます。コンサートマリンバの歴史は浅いので、仕方がないと思いますが。でも、中にはマリンバをジャズで聞いた事があるとか、昔メキシコで聞いたとか、そういう人がいて僕も驚くことがあります。
― アメリカに留学されて一番大事な事はなんですか?
布谷 目標みたいなものはしっかり持って勉学に励む事が大事だと思います。そして、留学は親等からの金銭的・精神的サポートが必ず必要だと思いますので、そのサポートをしてくれている方達への感謝の気持ちも忘れてはいけませんよね。また、ボストンは日本人が多いので、日本人とばかり遊んだりせず、いろいろな人と交流を持っていろいろな文化や経験をしていく事も大事かなと思います。
― 学校を卒業後、アメリカでいろいろな仕事をなさっていると思いますが、アメリカで仕事をする上で日本人に有利な点・不利な点があるとお考えですか?
布谷 それはまだ、感じたことはないです。ただ英語がアメリカ人みたいに流暢に話せないことが不利というか、思ったことがすぐに英語に出てこないことがストレスになることはありますけどね。
― 東海岸、西海岸の都市部では、言葉がある程度できれば、あとは実力で仕事をもぎ取っていけるという事ですね?
布谷 そうだと思います。
― クラッシック音楽というのは、布谷さんにとって何ですか?
布谷 自分と向き合う鏡みたいなものですね。音も音楽性も感受性もほとんど人間性から来るものだと思っています。人間性を磨いてこそ音楽が高まっていくとも思います。音楽は心のよりどころですね。
― そのときの自分の状況が音に反映されるという事ですか?
布谷 ほとんどそうだと思います。
― ロックとかポップとかそういうジャンルには興味が無いのですか?
布谷 そういうジャンルの影響を受けて作られたマリンバの作品がありますので、そういうのは何曲か演奏したことあります。でも、そういう音楽は、自分は聞くほうが好きですね。あとは、ジャズを六ヶ月くらい勉強した事はあります。でも、何かしっくりこなかったですね。クラッシックの演奏とジャズの演奏とでは頭の使い方が全然違うので、今からもう一度一からジャズを勉強するよりは、今はクラッシックの方に時間を費やしたいと思っています。でも余裕が出てきたら、いつかはちゃんとジャズを勉強したいと思っています。

― 今後の音楽的な夢があれば教えていただいてよろしいですか?
布谷 マリンバでクラシック音楽を演奏することがまだあまり世に浸透していないので、まずマリンバという楽器があることを世の中に確立して、その上で、マリンバで奏でる音楽、そしてその良さを世間に広めていきたいと思っています。曲も、マリンバのオリジナル作品はまだそれほどありませんので、僕が尊敬する作曲家の先生に委嘱していき、後世に残せる作品も作って行きたいですね。そしてマリンバで奏でる僕の音楽を通して、いろいろな人がいろいろなことを考えられるような、感じられるような、深い音楽を創って行きたいと思っています。ピアノやヴァイオリン奏者の方は、そのような演奏をされる方はたくさんいますが…。要するに音で勝負できる音楽家になりたいということです。最近、マリンバの演奏自体がエンターテイメントになりがちな事が多いと思いますので。
― エンターテインメント的というのは?
布谷 奏者がマリンバから出る音をよく聴かずに、体の動きのみを考えて演奏する事です。それがいいと思ってやっている人はもちろんいいと思うのです。マリンバを演奏する事は、やはり動きを伴いますし、そういう体の動きに自分の思考が働いてしまうことは仕方がないと思うのです。でも僕は「動き」を第一に考えた音楽ではなくて、自分の奏でるマリンバの音に対してもっと敏感に耳を働かせてよく聴き、作曲家の書いた音符を深く追求して、その作曲家の意図を理解し音楽を創っていけるような音楽家、マリンバ奏者になりたいと思っています。
― アクションっぽくなる、見られがちということですか?
布谷 そうですね。「見ていて綺麗だね」とか「手が早く動いて凄い」と言われるよりは「音楽が深いね」と言われるほうが嬉しいですよね。でも実際問題、マリンバを演奏することには大きな動きが伴うので、難しいですけどね。
― マリンバの演奏は、ソロとオーケストラの両方になりますか?
布谷 オーケストラの中でマリンバを演奏する事もあるのですが、それはオーケストラの打楽器奏者がマリンバを演奏することになります。マリンバ奏者がそのような仕事に雇ってもらえる事は稀でないでしょうか。マリンバ奏者は、主にソロのコンサート、ソリストとしてオーケストラをバックに演奏、室内楽で演奏、BGMで弾く、レセプションで演奏することがほとんどだと思います。
― マリンバというのはいつ頃から登場した楽器なのですか?
布谷 コンサート楽器としてある今日のマリンバの原型が登場してから80年くらいです。マリンバは、アフリカが起源だと言われているのですが、確かではありません。その起源と言われるアフリカのバラフォンという楽器が南アメリカのグアテマラやメキシコに渡り、すべて木で作られているマリンバが出来たのがマリンバの始まりと言われていますね。そして80年ほど前に、とあるアメリカの楽器会社がその南アメリカのマリンバを発見して、今のマリンバ(共鳴管が鉄製)の原型を作りました。そこからいろいろ楽器会社が開発して、今僕が使っているような5オクターブの楽器がおおよそ30年程前に出来ました。

― 布谷さんは、アメリカで演奏家として活躍されているわけですが、マリンバ奏者を目指す方がアメリカで音楽家として活躍する秘訣はありますか?
布谷 まずは技術的にも音楽的にもあるレベルに達していることが必要だと思います。そして、人間的にも、音楽家としてもバランスが取れていることも大事だと思いますね。活躍する秘訣ですか・・・あったら自分も教えて欲しいくらいですね(笑)。マリンバ奏者として生きていくのは、引かれていないレールの上を歩くのとほぼ一緒と言っても過言では無いくらいですので、強い精神力で頑張っていかなくてはいけないと思います。それでご飯を食べていかなくてはいけないですし、生きるためにお金をどうやって稼ぐか考えていかなくてはいけません。でもお金の事だけを考えていては、良い音楽は創れません。だからといって家にこもって練習ばかりしていたって、ご飯は食べれませんし….。そのバランスも難しいですよね。自分の優れているところを見つけて「自分はこういう事が出来るんだ、こんなことをしてきたんだ」と、アピールしていくことが大切だとも思いますね。
― アピールの仕方はどういうふうにされましたか?
布谷 一番いいのは演奏をたくさんの人に聞いてもらうことだと思います。演奏を聞いてもらう上で履歴書が印象的だと良いと思いますので、コンクールで賞に入っているとか、自分にしかないレパートリー・プロジェクトがあるとか、そういうものを全面的にアピールしていくといいと思います。アメリカと日本では人のつながりが少し違いますしね。
― どういう意味ですか?
布谷 日本の場合、横のつながり(師弟関係)で仕事を頂く事が多いと思うのです。そのつながりが無いと仕事が出来ないという話も聞いた事があります。アメリカでももちろん先生のツテでお仕事をいただくという事もあるのですが、日本ほど師弟関係の有無で厳しい思いをすることは無いと思います。アメリカの場合は、知らない誰かが「いいな」と思ったら、その人と少し話しをしただけで、「僕の息子の結婚式で演奏してくれる音楽家を探していたところなのだけど、君の連絡先を教えてくれないか」と話をしてくれたり、「君の経歴、面白いこと書いているね」と興味をもって話しかけてくれる人などがいます。コンクールで多数の入賞経験があるとコンサートを運営しているグループから演奏会の依頼があったりします。面識の無かった作曲家の先生でも演奏を気に入ってくれると「君のためにマリンバの曲を書きたいのだけど」と言ってくれる方もいましたね。本当にいろいろなチャンスがアメリカには転がっている気がします。ですので、たくさんの方に演奏を聞いてもらう事が一番大事だと思います。
― コネクションがなくても実力次第で、仕事のチャンスが生まれてくる可能性があるのですね。
布谷 あると思います。だから僕もここにいれると思うのです。
― 海外に音楽留学をしたい方が日本にはたくさんいらっしゃいます。そういう方にアドバイスをいただけますか?

布谷 海外留学は、人生経験にもなりますし、自分を知ることが出来る良い機会だと思います。ただ先程も言いましたが、留学をする事は精神的にも金銭的にも大変ですし、それをサポートしてくれる人たちに対して感謝することを忘れず、一生懸命死ぬ気で頑張ってもらいたいなと思います。日本人は他の国の方に比べて金銭的に恵まれていると思います。恵まれているからこそだと思うのですが、「海外にいる」というステータスに満足して、遊んで終わったり、音楽留学で来ているはずなのに語学をちょっと勉強して帰国する、という方がいるので、そういうことのないようにして欲しいなと思います。アメリカにいる日本人がそういう目で見られるのは恥ずかしいと思いますので。もちろん死ぬ気で頑張れとは言ったのですが、息抜きも大事ですよね。自然を見たり、美術館に行ったり、映画を観たり、美味しいものを食べたり…。ストレス発散のためにパーッと遊ぶことも大事だと思います。また、アメリカでは一つの観念が通用しないことも多いので、頑固に物事を一つの側面から捉えず、何事に対しても受け入れられるような寛大な気持ちを持つ事が大事だと思います。アメリカは、日本で常識なことが常識でなかったりする国です。最初は、びっくりするかもしれないし、ストレスになるかもしれないのですがそれも世間勉強ですのでしっかり受け入れる用意が必要だと思います。
― いろいろとありがとうございました。
布谷 ありがとうございます。
布谷さんによるアンドビジョ特別音楽留学プログラムはこちら
石川政実さん/ジャズギタリスト/アメリカ・ニューヨーク
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はアメリカ・ニューヨークでジャズギタリストとしてご活躍中の石川政実(イシカワマサミ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2008年3月)
ー石川政実さんプロフィールー

1965年東京都出身。11歳で、はじめてギターを手にし、ロック、フュージョンを経て、大学時代に、ジャズ演奏を開始。1990年、ニューヨークのニュー・スクール大学ジャズ&コンテンポラリー・ミュージック科に留学、ジム・ホール、レジー・ワークマン、ジョー・チェンバース、ジョン・バッシーリらに師事。その後、ニュー・スクール、ジャズ科のファウンダーでもあるアーニー・ローレンス・グループに起用される。自己のグループでも55バーや、アングリー・スクワイア等に出演、NYのローカル・シーンで注目される。1993年に一時帰国、自己のグループ、井上信平、岩瀬竜飛らとも首都圏のライヴ・ハウスを中心に演奏をした。2000年、再度ニューヨークにて活動を再開する。現在、ゴスペル・シンガー/ピアニストのL.D.フラジァーのグループ、ロニー・ガスペリーニのグループ、田井中福司トリオなどを中心に活動しており、2007年12月に発表されたロニー・ガスペリーニのニュー・アルバム「North Beach Blues 」(Doodlin Records www.doodlinrecords.com)における演奏が好評を博している。
— 石川さんとジャズの出会いを教えてください。
石川 大学時代にジャズ研に入り、ジャズを始めました。卒業後、1990年に趣味が高じてニューヨークに渡り、ニュー・スクール大学というジャズプログラムのある学校に入学しました。
— そこでジャズを学ばれたんですか?
石川 ニュー・スクールでは、ギターはジム・ホール、セオリーはケニー・ワーナーやギル・ゴールドスタインといった有名な先生からジャズの基本的な教育を受けました。結局、4年間のコースのうち2年間通って大学は中退しまして(笑)、その後1年間くらい、ニューヨークで演奏をしていました。学校を辞めたあとにニュー・スクールを創ったアーニー・ローレンスという人のバンドに誘われてそこで演奏しをしていたんです。その後、1993年に一度帰国しました。
— 帰国後、再度渡米されるまでどのくらい日本にいらっしゃったのですか?
石川 5、6年活動していました。演奏ではなかなか食べられなかったので、教えて生活をしているところがありましたね。
— その後、またニューヨークに?
石川 ええ、1999年にまたニューヨークに戻り、それからはこちらを拠点に活動しています。
— ニューヨークに戻られたきっかけは?
石川 実はあまり深くは考えてないんです(笑)。正直にいうとかっこ悪いんですが、女房が留学したいといったのがきっかけだったんです。当時は、だらだらとですが、教えることで生活できていたので、ニューヨークへ戻るのということは批判的な気持ちのほうが強かったんですね。ニューヨークで音楽で食べていくのは大変だし……、と思っていたので。でも、配偶者ビザが取れるということもあって、じゃあ、また行ってみるかなくらいの軽い気持ちでした。ところがニューヨークに戻ってみると、やはりこっちがいい、と思ったんです。忘れていた血が騒ぎ出したといいますか、音楽をやる気になったんです。
— ニューヨークのほうが音楽ができると思われたんですね。
石川 昔の知り合いからトラの仕事をまわしてもらって、到着2日目くらいから病院のギグなどをさせてもらいました。これがすごく楽しくて、やはりこっちでやろう、ニューヨークでやっていこう、と思いましたね。
— ところで、日本での大学は音楽の学科ではないですよね?
石川 ええ、慶応大学の法学部法律学科です。
— 優秀な大学ですよね。そのままいけばエリートになれる可能性もあったと思うんです。それでも音楽を選んだのには何かあったんですか?
石川 好きだったんでしょうね。でも、実は1年間だけサラリーマンをしたことがあるんです。大学卒業後、印刷会社に勤めました。大学卒業のときに、ジャズギターなんかで食べられるわけがないと思って、諦めて就職したんです。でも、忘れられなかったんでしょうね。それで会社を辞めたんです。
— 周りからの反対はありましたか?
石川 はははは、そうですね(笑)。でも、もともとミュージシャンになりたかったのに、親の反対もあって就職したんです。それでも働いてみたら、やっぱり無理だったんですね。
— 自分の魂が捨てられなかったんですかね?
石川 そうですね。音楽ってやっぱりそういうところがありますよね。一回やってしまうと、やめられなくなってしまう。非常に危険だと思いますよ。危険な人、いっぱい見ています(笑)。日本のミュージシャンの中にも、大学でジャズ研の盛んなところ出身の方は多いですよね。東京大学、一橋大学、早稲田大学、といったところの人もたくさんいますよね(笑)。
— そもそも石川さんは音楽への興味は大学に入る前からあったんですか?
石川 ええ。子供のときから音楽は好きでした。小学生くらいからロックを聞くのが好きで、ギターを買ってもらったのが小学5年生、11歳くらいのときです。
— ロックとジャズというのは、似て非なるものだと思うのですが、大学時代にジャズに傾倒していったのはどうしてですか?
石川 楽器を始めたのが人より早かったこともあって、うまい!なんて周りから持ち上げられてね(笑)、ギターを弾くのは好きだったので、「これを究めていこーう!」と思ったら、難しいことをしてみたいとおのずとジャズに興味を持ち始めました。それにロックだとどうしても歌の伴奏をするような形になると思うんですが、そうではなく楽器をメインにした音楽へと自然に流れていった感じです。
— 楽器をメインにしたジャンルといえば、クラシックやフラメンコなど他にもあると思うのですが、そこでジャズだったのはどうしてですか?
石川 そうですね。急にジャズを始めたわけではなくて、高校生くらいのときにインストゥルメタルのフュージョンをやり始めたんです。フュージョンというのはジャズっぽい要素もありますから、そういうのを演奏しているうちに元のジャズのほうをきちんと勉強したほうがいいかなと思ったんですね。
— アメリカでジャズをしてみて、日本と違う良い点、悪い点はありますか?
石川 ジャズの表面的なテクニックというのは、日本でも勉強出来るし、日本のミュージシャンもそうやって演奏していると思うんです。でも、アメリカに住んで、黒人の人、いわゆるオールドスクールの人たちに接することで、ジャズのルーツの部分であるブルースやゴスペルを肌で感じることができるし、黒人の人たちのライフスタイルも学んでいくことができます。
— やはりライフスタイルからなんですね。
石川 多分、そうだと思います。だから、アメリカ、特にNY以外で本当の意味でジャズを勉強するのはある意味難しいのではないかと。。表面上のテクニックは身につけることができても、ジャズ独特のフィーリング、ブルース、ソウルを身につけるっていう意味では、ここで学ぶことは幸せな事だと思います。
— やはりフィーリングがないと自分のやりたいこととは……。
石川 まったく別のものになってしまう。口ではなかなかうまく説明できないんですが、そこが重要ですよね。
— 例えば、ボストンにはバークリーなど有名な学校がありますが、そういう街ともニューヨークは違うものですか?
石川 ニューヨークにいれば、例えばそのへんにいる楽譜も読めないミュージシャンたちと一緒に演奏して肌で接して、身につけていける部分が非常に大きいんです。
— 楽譜が読めない人とでもジャズでは会話ができる、ということですね。
石川 本来のジャズは聞いて耳でとらえて演奏するという音楽だったので、そういう部分が非常に大切だと思うんです。
— ちょっと学術的な感じになってしまっているということですか?
石川 そうなんですよ。だからジャズが本来もっているエネルギーが失われつつあると思います。
— アメリカでもそういう傾向が見られるということですか?
石川 見られますね。
— どういうところに行けば、そういうソウルを感じられる演奏を見ることができますか?
石川 現在、非常に少ないと思います。ベテランのミュージシャンたちが次々と亡くなってしまっているので。だから、最近の売れている人たちの演奏を聴くよりは、ベテランの人たちの演奏を聴くのがいいと思います。日本ではあまり有名ではない人とかね。あとは、僕はまずはゴスペル・チャーチに行くことをお勧めします。
— ゴスペル・チャーチですか?
石川 そこでルーツを感じることができると思います。黒人の人しかいないようなゴスペル・チャーチに行ったら、ものすごいエネルギーを感じて、衝撃を受けると思います。ハーレムとかブルックリンとか、ブロンクスとかですね。僕はそうでした。昔のミュージシャン、例えばセロニアス・モンクにしてもゴスペル・チャーチ出身ですし、そういう人たちは根本的に違うと思います。
— ジャズミュージシャンというのは、もともとはそういう人ばかりだったんですよね。
石川 本来はそういうところから来ているものですからね。僕は、ゴスペルの人たちと演奏していて非常に厳しく教わったんですよ。“Young jazz musicians are missing something”って。彼らは演奏中に叫んでいるんです“Feel,You gotta feel more!”って。だから、上っ面で弾いたりしたら、怒鳴りつけられる。そういうのはやはり学校ではできない経験ですよね。日本でも“feeling”とか“feel”っていうけれども、なかなか本当の意味がわからなくてね。それはやはり口ではなかなか説明できないんですけれど、そういう独特の部分がジャズという音楽の力になっている。原点ですよね。
— そのフィーリングというのは、だいたいどれくらいでわかってくるものでしたか?
石川 それは……。いや、まだわかってないかもしれないですね(笑)。それは、一生をかけてどんどんどんどんより深めていかなければいけないものだと思いますし。
— 現実的なことをお聞きしたいのですが、アメリカで仕事をするときに日本人に有利な点、もしくは不利な点はありますか?
石川 普通の仕事であれば、日本人は真面目で時間に対してきちっとしているので、信頼される部分はあるかもしれません。でも、もう少し高いレベル、例えばジャズクラブで仕事をしていこうとすると、同じ実力であれば日本人であるということで偏見の目で見られることはありますよ。
— なるほど。
石川 日本人がジャズをやっているということが向こうの人にとってどういうことかといえば、アメリカ人の寿司職人のところにわざわざ食べにいくか、という話ですよ。だから、よほど実力をつけて質の高い演奏が出来なければいけないと思います。こっちでやっている日本人はみんなそうやって頑張っていると思いますね。
— 日本で頑張る以上のことを求められているわけですね。
石川 日本には日本人しかいませんからね。ニューヨークは本当にミュージシャンが多くて、世界中から集まってきていて、とにかく数が違いますから。こっちでやろうと思ったら大変ですし、とても鍛えられます。
— 石川さんにとってジャズとは何でしょうか?
石川 ジャズとはですか……、うーん、難しいですね(笑)。やはり、パッションとかそういうことになると思います。
— 身体の内にあるものということでしょうか?
石川 そうですね。学校では、いかにクリエイティブになるかという話が中心であったように思います。そういうアイデアは、ジャズを面白くするための1つの要素として取り入れるべきものですが、それだけではないと思います。
— それよりも大事なことがあると。
石川 一番大切なのはフィーリングですよね。ジャズの元をたどれば、アフリカの奴隷たちがアメリカに渡ってきて、最初はほとんどリズムだけで鼻歌を歌っていたわけです。それに西洋のハーモニーを少し取り入れて、それがだんだんと洗練されておしゃれになってきたわけです。つまり、西洋のハーモニーを取り入れたというのは、あくまで付随的なものですから、いかにクリエイティブにやったところで、クラシックの完成度にはかなうわけがないんです。即興でやっているわけですから。
— なるほど、なるほど。
石川 ですから、ジャズ特有のリズムがジャズという音楽の命、力の源になっていると思うんです。それが表現されていれば、質の高いクラシックにも負けない芸術性の高いものになると思います。だから、ジャズは根本的にクラシックと違うものとして、聴かなければいけないし、演奏しなければいけないと思っているんですよ。それがいま、世界的に誤解されているので、そこと戦っていますね。一番大切なことはそこではないということを伝えたいですよね。いかにフィーリングを感じ、こめるか、そこが大事ですよね。
— 技術的になってしまって、元の本質を忘れていってしまうということはありますよね。
石川 ええ。ジャズに限らず、フィーリングが失われているとは思いますね。やっぱり音楽というのは時代を反映しますから、デジタル〜、デジタル〜(笑)となってくると、やっぱりみんな忘れてしまうんです。フィーリングの深いところを求めなくなってしまう。iPodで音楽を聴いて、と、世の中とにかく簡単になりすぎちゃっているから、創られる音楽も演奏される音楽もそういうものになってきてしまっていると思います。そこにいかに立ち向かうかというのが僕の使命だと思っています。
— 石川さんはそういった想いで演奏されていて、やはりお客さんの反応は違うと思いますか?
石川 やはりぜんぜん違うと思いますよ。先月も日本に帰って三重県で演奏したのですが、すごく喜んでもらえたと思います。ジャズを余り聞いたことがない多世代の人達が手拍子をしてくれてね。ドラムの人は田井中さんといって、もうこっちで25年くらい黒人の中にまじって演奏してきた人なんですが、その人がまたみんなにわかりやすい、みんなが感じられる演奏をするんですよ。それはジャズを知っているとかではないんですね。知らなくても聴けば分かることなんですよ。
— 知っているかどうかなんて関係ないんですね。
石川 ええ。そこで、もし上っ面の演奏をしていたら、ジャズって難しいんだな、ふーん、で終わってしまうと思うんですよ。コードとかアイデアとか、アルペジオとかね(笑)。そうすると、みんなやっぱり聴かなくなってしまいますよね。
— そうですね、クラシックを聴いているのと、同じ感じになってしまいますもんね。
石川 かといって、本物のクラシックのような完成度はない。中途半端な音楽になってしまう。力の弱いものになってしまうんですよ。
— 本来はもっともっと力強い土着の音楽だったのに。
石川 ええ、みんなが感じられる。それが私の目指すところです。みんなをハッピーにすることが私の目標です。
— 次に音楽的な目標を聞かせてください、と言おうとしたんですが、今ので十分ですね。
石川 そうです、そうです(笑)。そういうことです。
— アメリカでプロの音楽家として活躍する秘訣、成功する条件はなんでしょうか。
石川 これは、成功してないだけに難しいですね(笑)。最近痛感していることは、ビジネスといい音楽をするっていうことは、まったく別のことだなということです。別の才能がいるんです。例えば同じミュージシャンでも、メールやホームページの更新にやたらと時間をかけたり、電話をかけることに命をかけたりと一生懸命売り込んでいる人がいます。僕自身、本当はそういうことにも時間をかけなければいけないんだろうけど、やっぱりそれよりも音楽のことを考えたり、楽器の練習に時間をかけてしまいますね。でも、一生懸命やっていれば、最低限の仕事は入ってきますよ。それは成功とは言えないかもしれませんが(笑)。
— きちんと音楽で食べていけるということですよね。でも、そこが難しいところですよね。
石川 そうですね。やっぱりニューヨークは厳しいと思います。人に呼ばれて演奏することが多いんですが、やはり自分がバックアップに入ったからよくなったっていう状態にしないと、次に仕事は来ませんよね。様々なスタイルの人たちを上手に伴奏することは、経験も必要だし、非常に難しい。だから、僕はひたすら練習して、いい演奏ができるようにしていますね。
— 最後にジャズを勉強したい人やニューヨークに行きたい人にアドバイスをお願いします。
石川 いままでのことと重なるんですが、あまり理論にこだわらないことです。例えば、音を間違ったなんて気にすることないんです。ジャズはクラシックと違って、そういう音楽ではないんですよ。基本的にジャズに間違ったことなんてない。それよりももっと大切なフィーリングをつかんでほしいと思います。
— それはやはりニューヨークに行って、感じたことですか?
石川 そうですね、オールドスクールの方から得るものが大きかったです。レコードを聴くにしても、さかのぼって昔のジャズやブルース、ゴスペルを聴いて参考にしたほうが、いまの難しいことをやっているものを聴くよりは、いい結果が得られると思います。
— 今日は本当にありがとうございました。
山口研生さん/ピアニスト/ドイツ・ベルリン
「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はドイツ・ベルリンでピアニストとしてご活躍中の山口研生(ヤマグチケンセイ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2008年5月)
ー山口研生さんプロフィールー

1969年生まれ。東京都出身。5歳よりピアノを始める。桐朋学園大学音楽学部卒業。92年DAAD(ドイツ学術交流会)奨学金を受け渡欧。ベルリン芸術大学卒業。これまで江戸弘子、柴沼尚子、エーリッヒ・アンドレアス、パスカル・ドヴァイヨンの各氏に師事。98年ポルト市国際ピアノコンクール第3位(ポルトガル)、99年第28回セニガリア国際ピアノコンクール第1位および室内楽賞受賞(イタリア)。2000年には、コンクール優勝経験をもつピアニストのみが参加する第11回モンテカルロ国際ピアノコンクール(モナコ)に優勝し、注目を集める。現在ベルリンを拠点に、ヨーロッパ、アメリカ、日本各地において独奏の他、室内楽など多方面にわたり活動している。
— 初めに簡単な略歴を教えてください。
山口 5歳でピアノを始めて、高校から桐朋学園へ進学し、大学にも4年間行きました。大学卒業後すぐにドイツに留学し、1992年にベルリン芸術大学に入学しました。
— もともとご両親が音楽をされていたんですか?
山口 父がクラシック音楽を非常に好んでいました。私が生まれたときには、もう家にアップライトのピアノがありまして、それを父が弾いていました。それから姉がいるんですが、姉はいやいやピアノをやっていましたね。私はといえば、家族の二人が弾いていたので、物心ついたときには勝手に弾き始めていたようです。それを見た親が、この子は興味があるんだな、思ったようで、5歳くらいになったら近所のピアノの先生に見てもらおうか、ということで近所の先生のところに通うようになりました。
— 近所の先生というのは?
山口 すぐ近くの美大生のところに1年程通いました。それがピアノを始めたきっかけです。
— 楽しかったですか?
山口 楽しかったですね。5歳のときなのであまり覚えていませんが(笑)、イヤだと思ったことはないですね。日本でみなさんがやるようにバイエルから始めたのですが、進み方が早かったようでわりとすぐに終わって、ブルグミュラーやソナチネで練習していました。
— そうなんですか。
山口 それで、父がすごくクラシックの音楽が好きなので、ラジオで流れている曲をカセットに録ったりして。それで、父も専門家ではないのでわからなくて、父が私に弾かせたい曲を楽譜を買ってきて与えるわけです。まだバイエルをやっていたときにショパンの協奏曲とかのベートーベン協奏曲とか……。それを弾けって言うんです(笑)。
— すごいですね(笑)。
山口 ええ。でも、それが今の初見力に繋がっている気がします。

— 「できるわけない」とは思わなかったんですか?
山口 ショパンの曲の最初の何小節かを一生懸命弾いたりしましたね。
— もともと家の中にクラッシックがあったんですね。
山口 ええ、そうですね。それで、それが嫌ではなかったんです。でも、子どもですから1年に1回くらい、嫌だなと思うこともあって、そういうときには、喝が入るんです(笑)。ピアノの鍵をかけられてしまったりとか…(笑)。そこで喜んでしまえれば良かったんですが、そうではなかったんですね。
— 一般的に中学生や高校生になるとロックやポップに興味がいくと思うんですが、そういう中でクラッシックをやり続けていたんですか?
山口 そうですね。全然疑問に感じていなかったです。もちろんテレビやラジオではそういった音楽もあふれていたんですが、特に他の方面には興味を示さなかったんです。ただ、姉はクラッシックに限らず、割と幅広く音楽を聴いていたので、日本のポップスなどを聴く機会はありました。
— お姉様はまだ音楽をされているんですか?
山口 確か家にはピアノがあって、娘が二人いるんですが、上の子がブラスバンドをしていると聞きました。
— 音楽に興味がある家系なんですね。
山口 そうですね。親戚にも合唱団で歌っている人がいますし、父も合唱団をやっていましたし、ギターも弾きましたね。
— 家族でアンサンブルをしようと思えば出来るんですね。
山口 といいますか、していました(笑)。家に歌の楽譜があって、姉や父が歌うのを伴奏していましたね。それこそ、今やっていることと同じじゃん!って話ですが(笑)。だから、教育云々ではなくて、自然とそういうことが身に付いていた環境でしたね。今、振り返ると、生活していく中に自然と音楽がありましたね。

— 山口さんはソロですか?
山口 基本的にはずっとソロです。伴奏はソロと同時にしていて、それを今もしているという感じです。そのときにしていたことが全部、今の仕事になっている感じです。高校には作曲科というのもあったので、そこの連中が作った曲を弾いたりもしていました。ベルリンでもまったく同じことをしていましたね。
— ベルリン芸術大学にはどういったきっかけで行かれたんですか?
山口 大学生になったくらいから漠然と留学したいなという希望があって、ただどこがいいのか分からなかったので、いろいろな人に話を聞いていたんです。それから桐朋には海外から先生をお招きして公開講座をしていただくというシステムがその当時あって、それをかなり活用していました。当時ついていた実技の先生もそれを勧めてくださったので、あらゆる先生のレッスンを受けました。アメリカからいらっしゃる先生もいれば、フランス、ロシア、ドイツ、イギリスと……それで、どこに留学するか迷っていました。
— それはプライベートレッスンですか? それとも桐朋のマスタークラスのような感じですか?
山口 両方ありました。全て公開レッスンでした。
— なるほど。それでいろんな先生のレッスンを受けて、どのようにベルリンに決めていかれたのですか?
山口 留学を考えたときに、現実的に費用の問題があって、両親からも奨学金を取れたら行っていいよ、と言われていたんです。それで、たくさんの奨学金制度に申し込んだんです。その中にDAAD(デーアーアーデー)というドイツ学術交流会のものもありました。それで、それらを申し込んでいるときに私が最初についたアンドレアスという先生が桐朋に来ていたんです。それでレッスンを受けて、そのときに日本の実技の先生が「彼に決めちゃいなさいよ」、と「あなたの弱点を全部おっしゃってたよ」、と。それで、僕もこれだ!とピンときていたわけではないんですが(笑)、そうだよなっ、という感じだったんです。
— なるほど。
山口 それから、その数年前の20歳のときに、国際コンクールで初めてヨーロッパに行き、当時はまだ将来的にベルリンに行くなんて予想もしていなかったんですが、以前から留学していた友人がベルリンにいたので、どういったところか様子を見てきた経験があったんです。ベルリンの壁があいたのが1989年、その翌年、1990年、大学3年生のときでした。
— ええ、ええ。
山口 コンクール自体はベルギーだったんですが、そこからベルリンの友人のところに列車に乗って行き、1か月くらい時間をとってヨーロッパを見て回りました。コンクールはとりあえず出てみて、という感じで、実技の先生にもコンクールよりヨーロッパがどういうものか見てきなさいと言われていたんです。
— その経験もあって、ベルリンを選んだんですね。それですぐに受験されたんですか?
山口 いえ、日本の大学の卒業が3月で、アンドレアス先生に電話で奨学金を受けたことを話したら、「じゃあ、僕が推薦状を書きましょう」って言ってくださったんです。だから、ものすごくタイミングが良かったですね。そういうタイミングってすごく大切だなと思いました。
— それで、奨学金を受けられたんですね。
山口 他は全部落ちてしまったんですが、めでたくDAADの奨学金だけ取れたんです。それで、1年間奨学金がもらえることになって、親への言い訳もできて、留学することになったんです。DAADの奨学金というのは最初の4か月だけ語学研修が出来るんです。フライブルクというところにありました。それに参加するために5月に出発しました。6、7、8、9月と滞在して、その間にベルリンとフライブルクを往復して、入試を受け、10月からベルリンに通うことになりました。

— ベルリンの学校にはどのくらい通ったんですか?
山口 ベルリン芸術大学は本来5年間なんですが、日本の大学を卒業してから行ったので、日本で取っている学科などの単位が免除になって、ベルリンの大学の5学期目、つまり3年生から始められるんです。やらなければいけなかったのは、一部の学科と合唱でした。学科といってもドイツ語で受けるので大変でしたが、ちょうど同じ時期に高校卒業後にベルリンで高校から行っていた友人が、最初からベルリン芸術大学の講義を受けていて、どっちがいいかというのはその人によると思いました。初めからドイツで受ければ言葉が身に付くのも早いでしょうけど。
— 大学を卒業されてプロで活動されていくわけですが、クラシック音楽をドイツでやっていくのに良い点と悪い点を教えてください。
山口 悪い点を考えてみましたが、特にないんですよね。他の面でドイツの悪いところはいっぱいありますけど(笑)。でもそれを言ったら、どこの国にも悪いところはありますからね。良い点は、クラッシック音楽やそういった文化的なものが身近にあるということですね。日本でクラッシック音楽の演奏会というと、コンサートホールでかしこまってというイメージですが、ドイツではそうではない場所で演奏を聴く機会が非常に多いです。例えば教会やサロン風の空間,宮殿の広間のようなところに音楽があるわけです。
— やはり身近ですか?
山口 身近ですね。例えば、オペラ劇場にしても、旧東と西を合わせて3か所あって、そこで年中やっているわけです。構えずに気軽に楽しめる良さがあるなと思います。余談ですが、日本でもオペラを楽しめるようにはなってきましたが、それでも来日公演となると、秒ごとにいくらかな?なんて考えてしまって(笑)、気軽ではないですよね。まぁ、経費がかかることなので仕方ないとは思うのですが。
— ドイツでは演奏をする機会も日本にいるより多いということですよね。
山口 そうですね。そういう教会での演奏など細かい仕事も多いですね。細かいので報酬も笑ってしまうような額だったりしますが(笑)、結局そういう仕事もしていかないと、話が先に繋がっていかないというところはありますよね。
— 小さな仕事もして、仕事の幅を広げていくという感じでしょうか?
山口 私はそういう風にやってきましたね。

— 様々な国がある中でドイツを留学先にすることで重要だなと思われることはありますか?
山口 近道ではあると思います。やはりドイツ語をマスターするということは大切だと思うんです。それはいかにドイツ語圏の作曲家のレパートリーが重要視されているかということに繋がるんですが、バッハから始まり、モーツァルト、ベートーヴェン、ロマン派ではシューマン、ブラームス、そういった作曲家たちが喋っていた言葉なので、それを知るというのはすごく近道だと思うんです。
— 本質に直に触れられるような感じなんでしょうか?
山口 そういう環境でもあると思います。例えば、ベルリンは少し車で郊外に出ると、15分や20分で湖や森のある場所に出られるんです。そういうので、イメージがわきやすいということはありますね。
— なるほど。作曲したときのイメージをを想像して演奏できるということですか?
山口 そうですね。東京にいてシューベルトを弾きたいと思っても、どうイメージして弾いたらよいのか分からなかったんです。
— 高層ビルを見てもイメージはわきにくそうですもんね。
山口 ははは(笑)。でも、のちに日本を旅をして日本でもそういうところはあるなとわかったんですが。ただ、私は東京生まれの東京育ちなので、そういった意味ではドイツに与えてもらったものは大きいなと思います。
— 他に何かドイツと日本の違いはありますか?
山口 時間の感覚がゆったりしていますね。逆にとろい(笑)。早くして、と感じることもあります。私は最近、日本の機能的なところがすごく好きですね。みんなちゃんと仕事してるな、みたいな(笑)。それは国を離れてみて、初めて気がつきました。
— その後、ドイツで仕事をされていくわけですが、日本人がドイツで仕事をするにあたって、有利な点、不利な点ってあるんでしょうか?
山口 私は伴奏の仕事をよくするんですが、同僚には日本人が大変多いです。それは日本人の協調性が買われているんじゃないかなと感じますね。アンサンブルっていうのは、やはり1人ではできないので。その点は有利な点と言えると思います。それからドイツで、日本人っていうと、だいたい印象がいいですね。
— へー、そうなんですか。
山口 そうですね、良い印象を持ってくれる人が多いです。反対に悪い点は、「日本人なんかにクラッシックができるか」みたいな人もなかにはいるんですよ。実際に私の先生も言っていたのですが、コンクールの審査員に行くと、「日本人に分かるわけがない」と言う人もいるようです。
— あからさまにですか?
山口 はい。もう演奏を聴いてもいないそうです。そういうこともあるようです。
— そのあたりはかなり不利な点ですね。
山口 でも、どんどん変わってきているとは思います。実際に能力さえあれば、彼らが耳を貸してくれることも多いです。最近、日本人はだんだん数が減ってきているのですが、韓国人の方が増えていて、しかもとても優秀です。韓国の評判は良くなってきていますね。
— そうなんですね。
山口 私の通ったベルリン音大なんて、大学名を略してアルファベットで“UdK”(ウー・デー・カー)と書くんですが、そういう人たちが”Unterkunft der Koreaner(ウンタークンフト デア コレアーナー)”、つまり韓国人の宿泊所だなんて、冗談を言ったりするんですよ(笑)。
— そんなに多いんですね。
山口 多いです。音大もそうですが、例えば夏のフランスで行われるクールシュベールの講習会が夏休みと重なることもあって、来る人が非常に多いですね。
— 日本人よりも多いですか?
山口 そうですね。そういう印象です。他の国はどうか分かりませんが、ドイツへの留学生は楽器に関わらず増えていますね。
— 山口さんにとってクラッシックとは何ですか?
山口 人の言葉になってしまうんですが、私が最近とても気に入っている南米ブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスが言ったことなんですが、音楽というのは、返事を期待しない手紙のようなものだと。要するに未来の自分の知らない人、会わない人、どこにいるかもわからないような人に向けたメッセージである、と。その言葉が印象に残っています。
— ははぁ。なるほど。
山口 それと、父がぼそっと「生きていく上で辛いことがあった時期にふと音楽が流れてきて、すごく癒された、やっぱり頑張って生きてみようかな、って思った」って言ってたんです。
— 素晴らしい言葉ですね。
山口 音楽って、そういうものであると思うんです。やはり演奏者の心、心だけではないですね、すべてがあらわれる気がします。
— 演奏者の状態、心の成熟度、ということですか?
山口 全部出ると思います。具体的にどうとは言えないのですが、今までの経験上、それは確かに人に伝わるものだと思います。
— 人間が深まっていけば深まっていくほど、それが必ず伝わっているという感じなんですね。
山口 はい。
— 逆に表面的にやっていれば、それは伝わらないということですよね。
山口 そうですね。嘘はつけない、ということです。
— なるほど。それは非常に重い言葉ですね。
山口 多少は捉える人による違いもあると思いますがね。
— ところで、良い演奏をしたときと、少し調子が悪いなというときと、やはりお客さんの反応は違いますか?
山口 必ずしも一致しませんね。例えばレパートリーでも自分があまり得意ではなく、これでいいのかなと思いながら弾いていたら、評価が良かったということもありましたし、逆に大学のレッスンのときに気持ちよく弾けたのに、先生に「救いようがない」と言われたこともありますし(笑)。具体的な話をすると、ブラームスには特別な思い入れはないのに、必ず良い評価を受けるんです。だからたまにブラームスをやりたいんです(笑)。逆に僕はシューマンがすごく好きなので、あらゆる先生の前で弾いたのですが、自分では気持ちよく弾いたつもりでもみんな同じ怖い顔をするんです(笑)。それ以来、シューマンから逃げていますね。
— 今後の目標などを聞かせていただいてもいいですか。
山口 正直なところ、これしか道がないというか、今さら音楽以外は考えられないと言いますか……。生活の安定を考えれば、もっと他にいいこともたくさんあるのでしょうが、道を誤ってしまったというか……(笑)。これしかできないので、これを究めていこうと思っています。それには、何事にも意欲的に幅広く取り組んで行きたいと思います。
— なるほど。
山口 ソロはもちろん、機会があればオーケストラやいろいろな楽器とのアンサンブルもやっていきたいと思います。脱線しますが、ピアノって一人で弾こうと思えばいくらでもできてしまうわけです。弦楽器だと人と共演する機会も多いですが、ピアノの場合、一人で弾くのだけになってしまう人が周りを見ていても多いんです。それはやはり良くないと思っていて、例えば、ピアノ協奏曲を1つ弾くにしても、共演するオーケストラのそれぞれの楽器をわかっていたほうがいいと思うんです。
— そうするとソロだけでなく、オケや室内楽など全般的に深めていかれたいということでしょうか?
山口 そうですね。バランスよく、やっていきたいです。
— プロの音楽家で活躍する条件や秘訣を教えてください。
山口 そうですね、私自身、未だに必死って感じです(笑)。うまく流れに乗れたスーパースターは別ですけど、やっぱりね、大変なんですよ。周りにいた同僚達も、ここ(ベルリン)にいたいのか日本に帰るのか、まずは選択しなければならなかったんです。それで大半は日本に帰って行きました。ただ帰っても生計を立てなければならないので大変なようです。学校で教えようと思っても勤め先がなかなかなかったりね……。
— なるほど、なるほど。
山口 私の場合は、とにかく実技を究めながら、同時に半分くらい伴奏の仕事などで時間を取られていましたね。ただ、それが向いていたんですね。それに自分が気がつく前に周りが気づいてくれて、自然に仕事ができるようになっていたという状況です。ただ、自分の前に出された仕事はいつも、「はい」と引き受けていました。
— チャンスは確実にものにしていくということですね。
山口 そうですね。そういうのが億劫な人もいると思うんです。そういう人はソロだけになってしまう。自分のピアノの練習の差し障りになるからということで断ってしまう、それは人それぞれだと思いますが、私は人との交流は大切だと思いますね。私の場合は、そうしているうちに、ベルリン芸大ヴァイオリン講師のマリアンネ ベトヒャーという人が現れて、ある日、講習会で予定していたピアニストが出来なくなってしまったからやってくれないかと急に頼まれて、その仕事が次の仕事に広がっていきましたから。彼女自身もコンサートをしているので、サポートもしますし、そこからも新たな仕事にも繋がっていきます。
— 宣伝もしてくれるでしょうしね(笑)。
山口 そうなんです。それで、彼女はもちろん演奏も素晴らしいのですが、そういうことに関してものすごく才能があるんです。彼女を見ていると、こうやって演奏家をしていくんだ、と思います。ものすごいアピールをしますから。それでまた彼女は人柄も良いので、彼女の人柄を信頼して仕事に繋がっていくんでしょうね。
— 人柄も良くて、アピールもできるんですね。でも、そういう人とずっとやっていけるというのは、山口さんにとってもすごくチャンスですよね。
山口 そうなんです。それで、私の師事していたドヴァイヨンが、「キャリアを築きたいなら練習なんてしてちゃだめで、電話の前に座ってなきゃ」って冗談で言うんですが、それは半分は当たってたりするんですよね。本当はダメですけどね(笑)。
— でも、それは仕事を取るという意味では当たっていますよね。面白いですね(笑)。
山口 そうですね。はははは(笑)。
— 海外に留学しようとしている読者にアドバイスをお願いします。
山口 やはり留学というのはせっかくの機会ですし、それを実現するための周囲の援助は多大なものです。そういう機会を与えられたのだから、何事にも貪欲に、間違いを怖れずに挑戦していくのがいいと思います。日本だと間違いはタブーという傾向があるけど、ドイツは割と間違いに寛大なところがあります。やはり間違いがないと学ばないと思うんです。
— ええ、ええ。
山口 それから、大切なのは、成功することを第一の目標と考えない、目標の定め方が重要になってくると思います。留学する国によっても傾向が違ってくるのかもしれませんが……。この前、友人が留学する国によって演奏の仕方に傾向があると言っていました。アメリカの場合、自分を前に出す、自分のキャリアを考えてやっていく、それが演奏に現れている、と。ドイツはまったくそんなことはなくて、私の場合、またこんなところからやり直すの?という感じでした。本当に基礎的なことから学び直しましたね。
— 今日は素晴らしいお話を本当にありがとうございました。
植村理葉さん/バイオリニスト/ドイツ・ベルリン
植村理葉さんプロフィールー

桐朋女子高等学校音楽科を卒業し、ケルン音楽大学でイゴール・オジム氏に師事。文化庁芸術家在外研修員(3年派遣)として研鑚を積み、最優秀成績で卒業。ローザンヌ音楽院ではピエール・アモワイヤル氏に師事、首席で卒業。多くの指揮者に認められ、ヨーロッパでのオーケストラとの協演は80回を超える。ケルン室内オーケストラ、プラハ・シンフォニエッタ、州立ハレ・フィルハーモニー管弦楽団などとも協演し、ドイツやサンクトペテルブルクの音楽祭にも数多く招かれている。また、ドイツ国内主要ホールでのコンサートツアーで演奏したシューマンの協奏曲は、ドイツ・ソニーからCDも発売されている。
全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門小学生の部全国1位、ミケランジェロ・アバド国際コンクール優勝、レオポルド・モーツァルト国際コンクールでは最高位に加えモーツァルト特別賞を受賞、第15回新日鉄音楽賞フレッシュ・アーティスト賞を受賞、他数多くの受賞経歴を持つ。
-はじめにこれまでの経歴を教えてください。
植村 4歳でヴァイオリンを始めて、小学校5年生のときに毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクールで優勝しました。高校は桐朋の音楽科に入学し、3年生のときに毎コンで2位になって、翌年、卒業後にケルンに留学してイゴール・オジム先生に師事しました。海外のミケランジェロ・アバドのコンクールで優勝、モーツァルトコンクールで最高位に入賞しました。また、第15回新日鉄音楽賞フレッシュ・アーティスト賞を受賞しました。ケルン音大も含めてケルンに6年いた後、スイスのローザンヌでピエール・アモワイヤル氏に師事し、その後、今から8年ぐらい前にベルリンに来ました。ケルン音大にいた頃から、運よくオーケストラでソリストとして招待されることが多くなり、そのほとんどが定期演奏会で80回ほどになります。
-ヴァイオリンを始めたきっかけは何ですか?
植村 母が「ヴァイオリンを弾いてみる?」って言ってくれて、私はすぐに「やる!」って・・・・。
-そうすると、お母様もヴァイオリンをされているんですか?
植村 いえ。専攻は音楽学だったんですけれど、母はヴァイオリンではなくピアノです。私の手も母と同じで小さいだろうっていうことで、将来的なことも考えてヴァイオリンを勧めてくれたようです。家にはピアノがあったので、ピアノには慣れ親しんでいたと思います。
-ご自身は子どもの頃、ヴァイオリンとピアノどちらが好きでしたか?
植村 どちらがということはあまり記憶にないですが、ヴァイオリンが単旋律なのに比べて、ピアノは一人で全部奏ける曲がほとんどなので、そういう意味でピアノもすごく好きでした。違うものとしてピアノは楽しく奏いていた気がします。
-現在でもピアノは併行して奏いてらっしゃるんですか?
植村 ピアノは、小さい頃からずっと母に習っていましたし、桐朋でもケルン音大でも副科でピアノをとっていました。ケルンにいた頃は家にピアノもありましたし。その後、ローザンヌに行ってからは、副科ではなかったんですけれども、学校のレッスン室にピアノがあったのでそれを奏いていました。卒業後は学校のレッスン室も使えない状況になり、家にもピアノをおいていなかったのでだんだん遠ざかってしまいましたが、また奏きたいですね。
-ヴァイオリンを始めた頃、将来は外国に行こうと思っていらっしゃいましたか?
植村 そうですね。はっきり覚えているのは「ヴァイオリンを始めたい?」って母に聞かれたときに、パーッと自分のイメージで思い浮かんだのが、オーケストラをバックに大きな会場でソロで奏いているっていう光景でした。
-その頃からイメージされていたんですね。

植村 多分、テレビでそういう番組を見たことがあったんだと思います。それで、オーケストラをバックに奏くということしか考え付かなかったのかなと(笑)。
-それでも、いつかプロとして、と思っていたんですね。
植村 ヴァイオリンをやるということは、ソリストとしてやっていくということだ、と疑いもなく思っていましたね。
-クラシックに興味を持ったきっかけは何ですか? 身のまわりにクラシックがあったからでしょうか?
植村 そうですね。音楽といえばクラシックが普通だと思っていて。
-他のジャンルに気が移るということはなかったですか?
植村 なかったですね。あんまりしっくりこなかったといいますか・・・・、たとえば小学校に入ってクラスの人たちが歌っていたり、すごく古い話ですが、トップテンを見ていましたけど、それはそれで単なる娯楽という感じで、好んで聴くということはしなかったです。
-留学を具体的に考えたのはいつ頃ですか?
植村 少なくとも高校に入った頃には考え始めました。
-当時、留学は珍しいですよね。
植村 そうですね。今は、高校でも大学でも留学は増えていますよね。私は外国に早く出たかったし、やっぱり自分で独立して勉強したいっていう気持ちが強くありました。
-どうしてドイツを選んだんですか?
植村 実は最初はニューヨークを考えていたんです。当時はソリストといえばジュリアードで学ぶというのが主流だったんです。それでアスペン音楽祭に
高校のときに行きましたら、先生も良かったですし、なんの疑いもなくジュリアードに行こうと思っていました。
-それがどうしてドイツになったんですか?
植村 高校3年生のときに、桐朋に教えにいらしていたオジム先生のレッスンを受けたんです。それがすごく良かったんですね。確か10月か11月だったと思うんですが、そのときからジュリアードよりも、オジム先生の教えてらっしゃるドイツへの留学を急に考え始めました。
-急に変更したんですね。
植村 はい。桐朋では第二外国語を選択できたのですが、それまではドイツに行くということが全然頭になかったので、フランス語をとっていたくらいだったんです(笑)。でも、音楽を学ぶのだったらヨーロッパがいいという考え方もあることも手伝い、急遽ドイツへの留学を決めました。結局、ドイツ語も全然できない状態でドイツに発ちました。
-ドイツに行きたいというよりはオジム先生につきたくて、ドイツに決めたという感じでしょうか?
植村 そうですね。ほんとに。
-先生との出会いというのは大事なんですね。
植村 そうですね。先生というのはすごく大事だと思います。それから先生との相性も大切なことだと思います。
-学校に入ってから先生を探すより、事前に探したほうがいいと思いますか?
植村 そうですね。できれば講習会などで実際に習ってみるのが一番いいと思います。いい先生はたくさんいますが、自分との相性がいいかどうかはまた別の話だと思いますので。レッスンを実際に受けてから決めるのがいいと思います。すごく人気のある先生で、生徒もいっぱい持っていて、という状況であれば、その先生ときちんと話し合って、例えば個人レッスンを受けながら順番を待って、その間に語学準備をするのがお勧めです。
-何よりも先生が大事ということですね。
植村 もちろん外国に来てから先生とコンタクトを取った方で、いい先生にめぐり会えた方もいらっしゃると思います。またその人自身、先生も大事だけれどどうしてもそこの場所で学びたい、という他の強い目的を持っていれば、またちょっと違うかもしれないです。それでも、やっぱり先生との相性というのはとても大事だと思いますね。
-オジム先生との出会いは貴重だったんですね。
植村 そうですね。出会えてラッキーだったと思います。もし、出会っていなくて、ニューヨークに行っていたら、また違う人生だっただろうなって思いますね。具体的には想像できないですけれど……。
-ケルンに行かれる前に長期でご留学されたことはあるんですか?
植村 ないです。アスペン音楽祭に2週間か3週間行ったくらいですね。
-先ほど、ドイツ語をまったく話せない状態で留学された、という話があったんですが、不安ではありませんでしたか?
植村 オジム先生はすごく英語がお上手で、英語をどんどんしゃべる方なので、レッスンでのコミュニケーションにはあまり不安を感じませんでした。行く前の不安というよりは、行った後の大変さのほうが(笑)。
-実際に行ってみて何が大変でしたか?
植村 一人暮らしも初めてでしたし、気候も東京に比べるとずっと北のほうなので、暗くて陽が差さないんです。それに、当時は日本に比べて、お店にかわいいものや素敵なものが全然ないんですよ。たかがそんなことっていう感じですが(笑)、一人暮らしで気分転換に街に出てもすてきなものとかがなくて、探し上手な人だったら、いいものを見つけ出したりするのかもしれないですけど、パッと見てかわいいものが何もない状態だったから、気分も暗くなってしまうんです。そういう面でもとても気が滅入ってしまって……。でも、そんなときでも、すごく熱心に教えて下さった先生がいたから乗り越えられたんです。
-なるほど。
植村 もともと現地に友達がいる人は別かもしれないですけど、そういう意味でも先生は大事だなと思いました。海外生活という慣れない状況に加えて、先生との相性でも辛い思いをしてしまうのは大変だと思います。今はインターネットも普及していますし、あの頃とは比べものにならないほど、気が滅入らない環境にはなっているとは思うんですけどね。
-それで、ケルンに6年滞在されて、そのあとスイスに行かれたんですよね。スイスに行かれたのはどうしてですか?
植村 日本では高校だけ卒業して留学したので、ケルン音大では授業を全部取らなきゃいけなかったんです。それが終わって、ケルンでの学業を終える頃に、次にまたちょっと違う先生に習いたいと思ったんですね。それで講習会に参加して、3人ぐらいの先生のレッスンを受けたら、どの先生も素晴らしい方だったので、どこに行っても自分は満足だなと思っていたんですが、一番先にとんとん拍子に話がついて、気がついたら決まっていたのがローザンヌだったんです。ローザンヌの学校には2年間通いました。ケルンのソリストコースは、ローザンヌに行ってからも併行して通い、試験を受けて卒業しました。
-学校はどちらだったんですか?
植村 ローザンヌのコンセルヴァトワールです。先生はピエール・アモワイヤル、ソリストとして活躍していらっしゃる方です。
-ドイツとスイスの音楽的な違いはありましたか?
植村 違いはかなり感じました。やはりドイツは昔から作曲家がたくさん出ていますし、すごく音楽的な街だなと感じていました。スイスももちろん作曲家を出していますが、ドイツに比べると数も違いますし、歴史も違うので、音楽的にはニュートラルな印象を受けましたね。そんなに強い音楽的要素を感じることはなかったです。でも、すごくきれいなところなんですよね、ローザンヌは。自然が美しくて。
-ええ、ええ。
植村 ケルンで様式感を重点的に習った後で、先生もソリストの立場から教えてくださったということも、よかったですし、スイスの方はわりと気さくで明るい方達ばかりでしたので、人間関係にも恵まれ、楽しく過ごす事ができました。スイスにいる間は、せっかくローザンヌに来たのだし、先生の教えは貴重だ、そう思いながらやっていましたね。ただドイツに帰りたいという気持ちは変わらずに強かったので、学校が終わると、またベルリンに戻ったんです。
-そのときは、ケルンではなくてベルリンにされたんですね。
植村 ケルンに住んでいた頃にベルリンに行ったことがあり、そのときにすごく街が気に入ったんですね。そしたら縁があって、またいい先生にめぐり会って、その方がベルリンにお住まいでした。
-その後、ベルリンに8年くらいいらっしゃるんですよね。
植村 ローザンヌの学校が終わってからですから、9年ぐらいですね。

-ドイツでクラシックを学ぶにあたって良い点や悪い点、日本と違うところなどあるかと思いますが、そういったところを教えてください。まず、良い点はありますか?
植村 先ほどもお話したように、ドイツは作曲家もたくさん出していることもあって、音楽の大事な面というのが学べると思います。例えば、極端に言えばソリスティックに弾くという面よりも日常の生活からも音楽的なことを学ぶことのできる国だと思います。
-なるほど。
植村 オーケストラも州立や国立のオーケストラがいくつもあって、すごくいい響きですし、クラッシック音楽が、昔から歴史があって根付いているので、音楽家の立場や地位がしっかりしていると感じます。演奏を気に入って下さればソリストして使ってくれるところも良い点だと思います。
-そういったチャンスが多いということでしょうか?
植村 何がチャンスになるかは、それぞれの性格で違うと思いますが、わりと公平に見て下さり、演奏さえ気に入ってくれれば使って下さるというところがあります。何も持ってない者にとってはありがたいですね。
-他のものを持っていないとはどういうことですか?
植村 例えば、紹介がなくてもとにかく演奏を気に入ってくれればソリストとして招待してくださるということです。
-反対に悪い点はありますか?
植村 考えてみたんですけど、悪い点は分からないです。
-日本と違う点はありますか?
植村 そうですね。仕事の依頼のときにドイツだと「いくらで奏いてくれますか?」とか「いくら要求する?」ということをはっきり聞いてくるんですよね。たぶんドイツがいちばん顕著だと思うんですが、そこが一番日本と違いますね。直接的なんですけど、そういう言い方をしてくれるので、こちらも気をもんだり、心配しないで済むんです(笑)。
-まず値段だけ聞いてくるのですか?
植村 いえ(笑)。「何月何日にどこで奏くのをいくらで奏いていただけますか?」という感じです。我々にとってはすごくありがたいです。
-重要なことですよね。でも、おもしろいですね。
植村 ドイツの人というのは、ざっくばらんというか、ほんとに直接的に事務的にコミュニケーションとる人達だと思います。
-日本はそういうわけにはいかないですよね。
植村 そうですよね。そこは難しいなと思ってしまいますね。私があまり気をまわすことが得意じゃないからかもしれないですけど(笑)。
-ドイツで仕事をするにあたって日本人が有利な点はありますか?
植村 日本人だから、有利だったとか不利だったとか感じたことはないです。
-語学が堪能だからでしょうか?
植村 いえいえ、ドイツ語は全然堪能でないですよ。
-では、言葉で不便を感じたことはありませんか?
植村 最初の頃はありましたね。オジム先生は英語が得意だったとはいえ、英語でコミュニケーションとるわけです。例えば、レッスンの日にちを変更してもらうときに、どうして日にちを動かしたいのかを言葉を尽くして説明しなければいけないのに、丁寧に伝えられなかったりして、こんな時は、もっときちんと伝えられればいいのになぁ、と思うことはありましたね。
-ええ、ええ。
植村 でも、話を聞かない人だったら仕方がないのですが、話を聞いて下さる方だったら、語学が堪能でなくても誠実に伝えようという気持ちで話せば、それはそれで伝わるので、なんとかなると思います。逆にいえば、私にとっては日本語のコミュニケーションの方がすごく難しいです。もちろん日本語はネイティブですが、日本語でも苦労する面がたくさんあります。だから、そういう意味では、何語だからどうということではないように思います。英語だったから…とか、ドイツ語だったから…と感じたことはありません。すべての言語においてそれぞれ苦労するな、っていうのはありますけれども(笑)。
-それでも仕事を見つけるにあたって、言語が有利に働いたり、不利に働いたりはしませんでしたか?
植村 どうでしょうね。広くいえば語学力に含まれるのかもしれませんが、どれだけ機転をまわせるかとか、どれだけ自分の主張を言えるか、っていうところで苦労しました。でもそれは、語学力というよりもその手前の段階の問題だろうなと思うことがあります。
-なるほど。
植村 もちろん、そこをクリアした上で、語学力が足りなくてっていう段階まで来ている人であれば、語学の問題になってしまうと思うんですけどね。でも、そこまで来ていれば、必要に応じて語学もできるようになると思うんです。だから、語学は出来るに越したことはないですけれども、私自身はそれ以前にコミュニケーションの取り方とか、語学以前の問題が大きいので、その部分も大事かなと思います。
-やはりドイツでは自己主張もはっきりしていかないと難しいでしょうか?
植村 そうですね、自己主張は必要ですね。少なくとも謙遜はしない方がいいと思います。自分がしていることよりも低く言うようなことはしない方がいいですね。どうしても日本人は謙遜が染み付いているから難しいとは思いますが……。私も今でも反省することがいっぱいあるんです。
-やはり、そうなんですね。
植村 でも、逆にいえば、言葉通りのことが多いのですごくわかりやすいことは確かですね。それはスイスに行ったときに感じました。スイスはドイツに比べてもう少し社交的というか、言っていることがそのままというわけじゃないことがあるんです。社交上はそう言ったけど直接そういう意味ではなくて、他のことを意味している、ということが結構あって、スイスにいた頃は、それを身につけるのがかなり難しいなと思っていたんです。それに比べると、ドイツはすごく単純で、言っていることがそのままだし、ズバズバ言ってくれて、また、わからないことがあればはっきり質問してきます。逆にコミュニケーションがすごく取り易いですね。
-分かりやすい国民性なんですね。
植村 そうですね。
-今のお仕事を見つけたきっかけを教えてください。
植村 クラシッシェ・フィルハーモニー・ボンというオーケストラがボンにあって、ケルンにいた頃にそこでソリストとして使って下さったのが最初です。そのオーケストラは、ドイツ中の主要ホールでツアーするオーケストラだったので、大ホールでたくさん奏けて、良かったと思っています。一回ソロで弾いて、また次も指揮者が呼んで下さって、ということで繋がり、また、他のオーケストラでは客演指揮者のときに弾いて、その方が彼自身のオーケストラのところに呼んで下さったりすることもありました。そんなふうに繋がってここまできているので、とても良かったと思います。
-ソリストはオーディションで選ばれるわけではないんですね。
植村 オーディションで公募はしていないです。少なくとも私は聞いたことないですね。クラシッシェ・フィルハーモニー・ボンのオーケストラで奏いていた人達は、のちのちベルリン・フィルのオーケストラの団員になったり、他のオーケストラのコンサートマスターになったりと、素晴らしい方が多かったです。そのオーケストラをバックにたくさんの経験を積めたことがありがたいことだったと思います。
-素晴らしいご経験ですよね。日本でオーケストラと協演されたことはございますか?
植村 名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会や、東京フィルハーモニー交響楽団とパガニーニのコンツェルト、群馬交響楽団などとも協演しました。でも、回数はドイツでのほうが圧倒的に多いです。

-日本人とドイツ人、どちらが演奏しやすいと感じますか?
植村 お互いに思っていることかもしれないですけど、日本人だとあんまり主張がみえてこないので、お互い見合っちゃうんですよね。どうしたらいいのって感じになっちゃうことがあって(笑)。ドイツのオーケストラだと、パワーがあってこういう音楽をするっていうのが伝わってくるので、そうやってくるんだったら私はこうやりかえす、みたいな感じで、相乗効果でどんどんいい音楽になっていくんです。ドイツのオーケストラですと、本場ならではの土台がしっかりあるから、そういう意味で奏きやすいです。日本のオーケストラも、なんというか・・・キメ細やかですね。外国で学んできている人が多くなってきていることもあるのか、すばらしい演奏も増えていると思います。
-やはり国民性みたいなものが音楽にも表れるのでしょうかね。
植村 そうかもしれないいですね。ただ、ちょっと不思議というか、どうしてなんだろうって考えることがあるんです。日本人はわりと和を大切にするので、みんなが一緒に弾くオーケストラが向いていて、自己主張の強いドイツ人はソリストが向いていると思うんですが、でも実際は、ドイツ人がソリストとして奏くよりもオケで奏くほうが得意、日本人はどちらかと言えば、ソロのほうが得意なような気がします。そこは矛盾しているなって、ときどき疑問に思うんですよ。
-そうですね。おもしろいですね。どうしてでしょう?
植村 もしかしたら、みんなと一緒に合わせようとする和の気持ちが強過ぎると、音楽的な自己主張が引っ込んでしまって、結果としてはオケの「響きあう」ということに繋がらないのかなとも思います。
-今後もソリストとしてオーケストラと協演していく予定ですか?
植村 そうですね。今後とも日本でも海外でもソリストとして活動する演奏家であり続けたいです。
-他に今後されたいことは何かありますか?
植村 去年まで3年間、毎日新聞社の学生音楽コンクールで審査員をしていたんですけれど、小学生、中学生、高校生の演奏を聴いて、私がこれまで学んできたことを伝える、ということもしていきたいと思いました。日本で演奏会があるときなどは日本におりますので、そのときは直接教えて、いないときはアシスタントに見てもらうといった形をとっていけないか、考えています。
-音楽的な夢はありますか?
植村 真剣に取り組めて、時間も十分作れて、音楽的に相性のいい人達が集まれたら、ベートーヴェンのカルテットの全曲演奏をしたいというのが夢です。ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタは10曲あるんですけれど、その10曲全てを演奏するツィクルスを三周したんですよ。それで今度11月に朝日カルチャーセンターでまた一番から奏くのですが、何回奏いてもベートーヴェンのソナタは奏き足らないというか、魅力が尽きなくて……。あるとき、結局これはカルテットにつながっていくものなんだなと思ったんです。ただ、カルテットはメンバーの音楽的相性がとても重要で、合わせの時間もたくさん必要なので、4人とも共通した時間がやりくりできて、4人とも集まりやすい場所にいるかということが大事なので、すごく難しいと思うんです。でも、いつか実現できればすごいことだと思います。
-実現できるといいですね。
植村 はい、本当に「夢」ですね。
-植村さんにとって、音楽とはいったい何ですか?
植村 それを一言で申し上げるのはとても難しいのですけれども、私が演奏会で心がけていることは、作曲家のなかで何が鳴っていたか、何が言いたかったかを伝えるということです。そして音楽が一番生きる演奏をするのが理想だと思っていて、そうすることによってコンサートで聴衆の皆様に伝わるようにと思っています。演奏会のときはいつも作曲家が感じた世界や考えた世界を生きた形でお客さんと共有したいと思っています。
-なるほど。
植村 それから、音楽以外のことをやっている仲の良い友人が何人かいるんですが、その人たちの話を聞いていると、どんな分野でも突き詰めていくと、共通している事が多いと感じます。私はそれを音楽で表現するわけですが、他の分野の人は、表現する方法が違う。もしかしたら、私がしている音楽というのは、表現手段としては比較的表現がしやすいものなのかもしれないとも思います。ただ、表現の仕方が物質みたいな形にはならないので、うやむやにもなりやすいですし、形にならない分、必要ないって思われたり、予算がなければカットされちゃったりする部分でもあるかもしれません。でもだからこそ逆に、専門的とか精通しているとかとは別に、純粋に音楽が好きな人には良い音楽は必要とされているんだなと思ったりもします。私は人前で奏いたりとか、音楽をすることによって自分やまわりのことを考えたりとか、経験を積んだり、また音楽を通していろんな人と知り合い、影響しあっています。つまり、音楽によって、いろいろ精進しています。だから、私にとって、音楽というのは「私の人生の中に入り込んでいること」です。
-素敵なお言葉をありがとうございます。
植村 いえいえ。
-最後にプロを目指している方に、プロで成功する秘訣やアドバイスがあればお願いします。
植村 ドイツでプロとしてやっていくためには、謙遜しないことが大事だと思います。それから留学するにあたっては、相性がいい先生に教わることだと思います。
-いい先生と出会うことは非常に大事なんですね。
植村 はい。私自身、出会いに恵まれてきたことでここまで来れていると思います。先生がいい音楽家であっても、性格的に合わないといったことで苦労してしまうのはもったいないです。苦労しなくていいところで苦労している人を周りでわりと見てきていますので、そういう面で、私はラッキーだったと思っています。
-なるほど。今日は貴重なお話をありがとうございました。
植村 どういたしまして。
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植村理葉さんによる朝日カルチャセンターレクチャー
ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタの魅力を分かち合いたくて、ドイツでソリストとして活躍中の植村理葉が皆様をお誘いいたします。至近距離での演奏をご堪能ください。
日時:2008年11月8日午後1時
場所:新宿住友ビル7階朝日カルチャーセンター
演奏曲目:ベートーヴェン ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第1番、第2番、第3番
詳細リンク:
http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=30602&userflg=0
詳細は:http://www.riyo-uemura.com