奈良希愛さん/ピアニスト/ドイツ・ベルリン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はヨーロッパ各地、アメリカに留学経験があり、現在ベルリンと東京を中心に大活躍されているピアニスト奈良希愛(ナラキアイ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学をすること」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います(インタビュー:2005年12月)。

ー奈良希愛さんプロフィールー

ピアニスト奈良希愛さん
奈良希愛さん

東京藝術大学卒業。ベルリン芸術大学首席卒業。同大学院国家演奏家コース首席修了。マンハッタン音楽院大学院プロフェッショナルスタディーコース修了。マンハッタン音楽院室内楽科助手を務める。全日本学生音楽コンクール全国第1位、シュナーベルピアノコンクール、ブゾーニ国際コンクールなど多数のコンクールで上位入賞。ロベルトシューマン国際音楽コンクールピアノ部門、日本人初の第1位金メダル優勝。ドイツ学術交流会、文化庁芸術家在外研修等奨学生。ドイツ国営放送局主催アイゼナハ/ヴァルトブルグ城演奏会、ボローニャ国際ピアノフェスティヴァル、NHK-FM名曲リサイタルなど、世界各国の音楽祭から招待。ベルリン響、ツヴィッカウ響、新日本フィルなど内外のオーケストラと共演。ソロ活動の他にトーマス・ティム(ベルリンフィル第2バイオリン首席奏者)、アンドレアス・ティム(ベルリン交響楽団首席チェロ奏者)とピアノトリオを結成し、各地の音楽祭から招待。現在、日本とベルリンに主な拠点を構え、世界各国で演奏活動を展開。指導者としても各地で公開講座、コンクールの審査を行う。音楽雑誌『ショパン』にエッセイを連載中。2006年4月より相愛大学音楽学部専任講師に就任。


—  簡単な略歴を教えていただいてよろしいですか?

奈良 東京藝術大学を卒業後、ドイツ政府の奨学生としてドイツ・ベルリン芸術大学に行きまして、そのまま大学院まで行きました。その間にスペインの音楽院やイタリアでプライベートレッスンを受けた後、1年間ほどマンハッタン音楽院で実習をやりながら大学院に通って留学は昨年終わったところなんです。

—  いろいろな国に行ってらっしゃいますが、ドイツ以外の所にもいろいろ行きたかった、ということですか?

奈良 最初はヨーロッパに留学したいなという漠然とした気持ちがありました。そして、先生とのご縁や奨学金をいただけることでドイツに行きました。ドイツものを勉強しているうちにスペイン音楽に興味を持ちました。スペイン音楽というのは、ヨーロッパ内とはいえドイツとは社会や文化が違いますので。そこでピアニストの熊本マリさんにお手紙を出してお返事を頂き、彼女の先生をご紹介いただいて、スペインに行くことになりました。また一方ではイタリアのカトリックな宗教的なものにも興味がありまして、カトリックの聖地であるローマに行きたいなということで先生のご縁があってイタリアに行ったのです。アメリカは最初そこまで希望していたわけではないのですけれども、ヨーロッパでは勉強させてもらったと思っていましたし、アメリカの先生がずっと前から大陸の違う国でも文化があるということを肌で感じたほうがいいよ、というふうにおっしゃっていましたので。でもアメリカは学費も高いし、あんまり乗り気でもなかったしちょうどテロもありましたが、大学の方から奨学金が出るということでそれでは行って来ようかなと1年間行きました。

—  一番最初に音楽に興味を持ったきっかけというのを教えていただいてよろしいですか?

奈良 年の離れた姉がいるのですけれども姉がピアノを弾いていまして、家に楽器はあったんです。音楽一家ではなく、代々法律一家でした。ただ楽器に対して興味を持って、よく自分で作曲までいかないけれど歌詞を付けながら音を鳴らしてピアノをおもちゃとして遊んでいました。そこが音楽との出会いの最初かもしれません。

—  2歳くらいからピアノをやっていらっしゃるのですよね。

奈良 母が一応バイエルだけは一緒に弾きながら教えてくれたのですけれども、それ以上は、母は全く素人ですので限界が生じました。幼稚園の先生がどうも私は耳がいいらしいというようなことを感づいて音楽教室にでも連れて行ったらどうかというふうに言ってくださったのです。それで私を音楽教室に連れて行ったら楽しんでやっていたということで音楽を習い始めたのです。

—  それではクラッシックから入っていったということですか?

奈良 バーナムとかトンプソンというのがありまして、一応姉が習っていたからかもしれないですけれども古い楽譜があってそれを始めて、バイエルから取り組みました。

—  例えばポップスとかジャズとかそういうものに小さい頃は興味は持たなかったんですか?

奈良 もしかしたら答えになっていないかも知れないんですけれど、ピンクレディーとか良くそういうレコードなどは聞いていたんですけど。ピンクレディー以外は歌えないかな(笑)。

—  いろいろな国に行かれていますが、音楽をやるにあたってそれぞれ良い点悪い点というのはありますか?

奈良 これは人それぞれなのでご縁があるかによりますし、それを私のところで強く言うことはないのですけれども、私はヨーロッパのほうが長かったのでアメリカよりヨーロッパの方が、相性が合うタイプではありました。世の中にはアメリカの方に先にご縁がある方もいるし行きたいと思う方もいるから私は比べる気はないんですね。要は行きたいと思った所にタイミングよく習いたい先生がいるということが大事だと思うのです。みんなが行くからというよりは、自分が行きたいという理由が本心である場所を選ぶべきだと思います。     

—  本当に縁がある場所に行くのがいいのではということですね?

奈良 縁とあと相性ですね。行きたいという気持ちがなければいけないと思います。とりあえず行ってみるだったらとりあえずの結果になると思います。

—  スペインやイタリア、ドイツと比較してなにか個人的にここは良かったな悪かったなという点はありますか?

奈良 私は比較的いい先生にお目にかかったものであんまり悪い点はなかったのです。そういう意味でどこの国でも補う形であったのは確かですね。長所がそれぞれ違うので。ドイツで習った先生はすごく学者的、教育者的なタイプであり、ピアノという音楽、クラッシック音楽はそれだけが幹のように生えているわけではなくて、宗教的なものが背景にあり国民の感情とか過去の歴史があるという事を私は学んだんですね。日本だったら次々にエチュードをこなしたり試験に向けてやっぱり練習したり、何かにつけてピアノのソロばかりに頭がいきがちでしたけれど、クラッシック音楽というのは何かから派生しているものなのだなという事を、ヨーロッパに来て初めて納得したというのがあります。理論的なことはすごく強くドイツから学んだのですけどスペインやイタリアはラテン系なのでどちらかというと感情に結びつけるという、頭だけではいけないものを補ってもらう形で学べたと思います。アメリカはまた大陸が違うと、こんなに違うのかという感じでした。やや日本に似ているのかもしれないけどクラッシックに関しては歴史がヨーロッパと比べるとそんなに深くないので、また違うエンターティメント的な華やかさをアメリカは持っているのだなというふうに思いました。

—  ヨーロッパは過去の歴史・文化の中から出てきたものがあるけれどもアメリカはエンターティメント性が強いというのが一番印象的な事でしょうか?
 

ドイツ・ピアノ
ドイツと日本で大活躍

奈良 アメリカはどちらかというとアメリカナイズされているなと私は思いました。アメリカはもちろんヨーロッパを高く評価していますけれども、自分は強い国だということを分かっていますから自分達は決して間違っていないというのを信じています。だからちょっとギャップがありますよね、正直。

—  ヨーロッパからアメリカに行かれるとちょっと引いちゃうところがあるのですか。

奈良 私はちょっとじゃなくて、「・・・ああっ」というような。

—  かなり。

奈良 好みの問題もあるのですけど、アメリカはどちらかというと最後にワーッて華やかに終わるほうが好きで、ヨーロッパはどちらかというと演奏が終わった後でも余韻を楽しんでからやっと拍手が出るほうが好きという感じです。私はヨーロッパが長かったのでヨーロッパタイプの音楽の方が好きなだけです。

—  海外で仕事をすることで日本人が有利な点、不利な点はありますか?

奈良 私は、個人的には、就職はかなり不利ではあると思うのです。クラッシック音楽を学ぶのにどうして日本人から学ばなきゃいけないんだ、と。ヨーロッパ人には誇りがありますし現にそれはそうですよねと思う時はあるのです。だからかなりの覚悟で行かなくてはいけないと思います。コンサートについては、良かれ悪かれ日本人でもヨーロッパのお客様は音楽が好きな人が来てくださるので、自分達でプログラムを考えて日本的なこの曲を弾いたらお客様が集まる、とかそういうビジネス的な世界を考えなくていいというのがありますね。     

—  そうなんですね。

奈良 ホールは大きい所はないのですけれどもヨーロッパの音楽活動はそういうところはありがたいです。演奏活動だけに集中できますし、それで音楽好きなお客様が来てくださるので。日本でいうとお客さん来るかしらとか大丈夫かしらとかそういうのありますけど、そういう精神的負担が全くないんですね。

—  それはすごいいいことですね。

奈良 そうであって欲しいのですけどね日本も。

—  そうですね。

奈良 だから日本人だからという心配はなくコンサートは行えます。

—  演奏の演目でも日本だったら明らかに受ける曲というのが結構あってそれをプログラミングされる場合が多いと思うのですけれど、ドイツだと、例えば現代曲でもお客さん集まるのですか?

奈良 そうですね。そんなにたくさんは来ないかもしれないですけど、ある程度は来てくださりますね。私は一応主催者と相談しますけど9割5分問題があることはなかったですね。問題があるとしたらちょっと長すぎるとかそれ位でしょうか?

—  それはいいですね。先日、チェコの音楽家と話しをしていたのですけどチェコでは新しい曲は難しいと話していたのですよね。だからやっぱりドイツはまた違うのでしょうね。

奈良 もしかしたら私がベルリンだったからかもしれません。オペラを初演するのにベルリンが会場としてまず第一候補になりますから。実際音楽に関しては敷居が高くないのかもしれない。

—  お客さんも本当に音楽が好きな方が普通にいらっしゃる。通常自分の生活の中で音楽があるという感じなのですね。

ドイツでの演奏会
ドイツでの演奏会

奈良 そうですね。音楽が好きで逆にチケットもそんなに高くないので、街に音楽が溢れていますし何か音楽に対する近さはあるんでしょうね。

—  ドイツの方たちはいわゆる大音楽家であれ、中堅であれ、まだ一番下の人たちであれ、威張って俺は音楽家だぞ見たいな感じではないのでしょうか?

奈良 人それぞれでいらっしゃると思うのですけど、教師にしろそうかもしれないのですけど、海外の先生というのはまず1度は演奏を聴いてくださるので、敷居は高くはないと思いますね。とにかく自分がやっている仕事に対して誇りを持ちますからプライドはあるかもしれませんけど、変なプライドはないかも知れないですね。

—  生徒がやりたい事を非常に受け入れてくれるということですよね。

奈良 そうですね。

—  奈良さんにとってクラッシックや音楽とは何でしょうか?

奈良 私は結構あんまり模範になるタイプじゃないのですけど。何度もやめようと思ったタイプですので。私は大学も本当は音楽大学に行く予定じゃなかったんですね。まあ音楽嫌いじゃなかったのですけど、どうしても練習練習というのが嫌になって。高校3年生まではそれで悩んだりして続けてはいたのですけど、高校3年生の時に我が家が代々法律一家だった事も手伝って、法学の道に進もうと決めたんですね。そちらの方が実力がはっきり出るから楽かなと。頑張ったら頑張った分比較的すぐ結果が出るかなと思いまして。それで音楽を専門的にするのはやめようと思って記念にと、全日本学生音楽コンクールというのがあるんですけどそれを記念受験したんですよね。最後どこまで頑張れるかって。本当は東日本大会本選の奨励賞というのを狙っていたんです。奨励賞取るのでも大変だったので。そうしたら賞状はいただけるんですけど、本選受賞者演奏会に出なくていいんですよね。そしたらセンター入試にかかれるのでそれを狙っていたら、ちょっと頑張りすぎちゃって全国1位になっちゃったんです。それで音楽をやめるのを断れない環境があったんですね。

—  もうやれよと周りからでしょうね。

奈良 嬉しかったんですけどちょっととまどいがあって、それがかなり長い間続いていました。やっぱりどの道を行くにしても悩みますよね。何かあった時にああやっぱり法律の道に行った方がいいかなと、去年位までずっと悩んでいたので。

—  まだ悩んでいるのですか?

奈良 分かりませんね。私にとっては音楽も魅力でしたけれど、18才の時に決断した法律の分野というのはそれなりに魅力や憧れがあって、将来の確定は言えませんけどかなり悩んでいたのは事実です。法律の分野は『正しいのはこれだ』というのがハッキリしていて、周りからの評価が確実で楽ではあるんですよね。自分のやりたいことをやっていても評価が比較的複雑ではないというのがあって。音楽などの文化というのは何か経済的な問題が社会であると最初に消されてしまうものだと思うのです。その中で無理して生きるのもどうかなと、そういう現実的なことも考えちゃったりして。それだったら資格をとるという意味で法律を勉強しようかなと思っていたんです。でも音楽は今まで続いていて、何かそういう仕事があって喜んでやる自分がいるんだから続けられるまでは自分のテンポで続けようかなと思っています。

—  今はまだ音楽のほうが魅力的なのですか?

奈良 音楽がまだ運良くご縁が切れてないんです。切れたら辞めようと思っています。今のところ細々と続いていて喜んでやっている自分がいるのでやっているという感じではあるんですね。法律も難しいですから。

—  どちらも難しいですね。そういった方に次の質問をするのは非常に変な感じがするんですが、今後の音楽家としての夢というものがあれば聞かせていただいてよろしいですか?

奈良 私は運良く素晴らしい先生方にご指導いただきました。その先生方はいろいろな意味で人間としても評価が高く尊敬される方ばかりなんです。皆さんやっぱりお年ならではの人格です。私は自分にあったテンポで足りないところを勉強しつつゆっくりでもいいから人間として上を目指すような人生が送れたらな、音楽的にもそれは焦らずに人との出会いに関係していけたらいいなと思っているんです。あとは必要に応じて、私が学んできたことのいくつかを次の世代に残していければいいなと思うんです。

—  演奏家という部分ももちろんありますけど、教育者という部分をかなり思い描いているのですか?

奈良 教育はかなり。演奏家一本で絞ろうとはゆめゆめ思っていませんし、そういう活動だけにこだわっているつもりはないんです。教えるというのは教わることでもありますから教えるのは大好きです。ただ教える立場になるにはやっぱり自分の器が必要なので常にそっちを求めていくというのはありますね。

—  マンハッタン音楽院でアシスタントとして教えていた経験というのはかなり役に立つのでしょうか?

奈良 そうですね。いろんな意味でとても勉強になりますよね。楽ではないということを学びましたし、面白いということも学びました。

—  プロのミュージシャンとしていろいろと演奏活動をされていると思うのですけれど、プロになる理由や条件、それは精神的にでも技術的にでもいいのですが、そういうものはあると思いますか?
 

ドイツ・ピアノ
シビアなプロの世界で活動中

奈良 私もよく分からないのです。どうして今まで続いているのだろうと思っているんです。ある種人生いろいろ勉強する段階、いろいろ補填する段階、プロとしてやっていく段階というのは何かそういうフレーズがあると思うんですね。その切り替えの時に立ち止まらないで進んでいくということの方が大事なのかなって思います。留学して学生生活ってやっぱりすごく楽ですし魅力的ですし、特に海外で勉強だけに集中できるのは良いのですけれど、次のステップに行くというのもタイミングが大事なのだと思います。私もコンクールを過去にたくさん受けていましたが、コンクールをあまり長く受けているよりはある程度で見切りをつけて次にシビアな演奏活動で揉まれるという方が大事だと思いますね。私は個人的には5年も10年もずっとコンクールに出ていたら、それまでに取っていたコンクールの価値もなくなってしまいますし、取りすぎというのは逆にどうかなと思います。コンクールが全てだと一生懸命頑張っても、何年か後にはまた同じコンクールで次の優勝者が出てしまうわけですから難しいと思います。

—  いくらコンクールで優勝したとしてもそれが全て仕事につながるか演奏活動につながるかというのはもちろんないわけですよね。

奈良 またコンクールって微妙な曲目でいけちゃうんですよね。基本的に演奏活動として求められるのはどれだけレパートリーがあるか、代役などの話があった時にどれだけ準備が短い期間で出来るか、訓練ではなくて先生のそういう鍛えられ方が大事になってくると思います。コンクールというのは準備入念にしていけますが、そこから先はすごく人間的な社会が待っているというか、そこから先をどうするかが問題になると思いますね。

—  最後になりますが、海外で今後実際に勉強したいと考えている方がたくさんいらっしゃるのですがそういう方に対して何かアドバイスみたいなものがあればお願いしてよろしいですか?

奈良 語学は必須だと思います。語学は足りない、余るということは絶対ないです。語学はあんまり甘く見ないほうがいいです。1回目のレッスンから、また次のどこかの公開レッスンに行くという時もやっぱり英語プラス母国語というのは最低でも出来たほうがいいと思うのです。それとあまり人と自分を比べるのではなくて人の努力は人の努力として評価してまた自分でまた別の孤独な作業も我慢できること。敵を作れという意味ではなくて、あんまり人に頼りすぎるのはどうしても一歩出す勇気が半減してしまうと思います。ある程度本当に自分のやりたい道が見つかったら割り切って自分が進んでいかないといけないのではと思います。特に留学って期間が限られちゃうからそれはあんまり怖がらずに向かう方向に行ったほうがいいかなと思います。

—  留学するということに関してはどうお考えですか?

奈良 ご縁があれば構わないと思います。ただ本人が留学したいという気持ちが強くなかったら、周りや親が留学というレールを敷き詰めると、留学してから一人でくずれてしまう子も多いので。

—  実際に留学して現地でくずれていく方というのを見ていますか?

奈良 偉そうな言い方かもしれませんけど、留学してきて有名で天才少女とか言われて出て行った人は世間にもまれることに慣れていなくて、すぐしょげちゃうし、「何でそんなところで?」というのはありました。やっぱりどうしても周りのガードが強かったのだなというのが。だから世間にもまれる時に、自分で対応が出来ない、あまりにも出来そうにない時は本当に親離れ子離れじゃないですけど自分でやるということを強めにしていかないといけないと思います。いつまでも親はいませんし恩師はいませんからやっぱり自分で出来る余裕がないと。すごくシビアな言い方かもしれませんけど。

—  本当にそのとおりだと思います。奈良さんは、現地でくしゃんとなって日本に帰っちゃうという方も結構見ていらっしゃるのですね。

奈良 日本に帰れればいいのです。帰れない方がいらっしゃるんですね。私は日本を捨ててという気持ちはさらさらなかったし、いずれは日本でも活動をと思っていたので。日本で大学まで行きましたしいずれは日本のためにと思ってましたので。私はすごい希望を持って海外に行くのは大事だと思うんですけど、ただそれが意固地になるようだったらあんまり意味がないと思います。ある程度人間挫折のあとに頑張ってまた這い上がるというのが本当の勉強だと思うので、そういうところは自分に厳しく自分に甘くというのをうまくやったほうがいいかなと思います。

—  本当にありがとうございました。

奈良希愛さんのオフィシャルホームページ
 

敦賀明子さん/ジャズハモンドオルガンプレーヤー/アメリカ・ニューヨーク

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロに皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでご活躍中のハモンドオルガンプレーヤー敦賀明子(ツルガアキコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ハモンドオルガンプレーヤーとしてニューヨークで活躍すること」についてお話しを伺ってみたいと思います。

ー敦賀明子さんプロフィールー

ニューヨークのオルガンプレーヤー敦賀明子さん
敦賀明子さん

3歳の頃からオルガンを始め、高寺文子氏、セキトオシゲオ氏、当麻宗宏氏に師事。大阪音楽大学時代にジャズに目覚め、ジャズピアノを大塚善章氏に師事。卒業後ピアニストとして関西一円で活動を始める。その後、ハモンドオルガンを独学で学び、2001年に本拠地をニューヨークに移す。ピアノをSir. Roland Hanna、オルガンをDr. Lonnie Smithに師事する。同年にハーレムの老舗オルガンクラブ、“SHOWMANS”(ショーマンズ)でレギュラー出演する。Grady Tate (Drums, Singer)、Frank Wess(Ts,Fl)、Paul West(Bass)などと共演する。Grady Tateのグループではリンカーンセンターの野外コンサートやブルーノートなどのジャズクラブに出演。2003年3月、Time Out New Yorkで将来有望なオルガンプレイヤーとして紹介される。同年5月には初帰国ライブを行い、SwingJournal, ジャズ批評で紹介される。2004年春にM&Iからアルバム「ハーレムドリームズ」をリリース。 翻訳の仕事も手がけ、「Hammond Organ Complete: Tunes, Tones, and Techniques for Drawbar Keyboards(Dave Limina著)」をATMから2004年秋に出版した。現在NYで最も注目を受けているオルガンプレイヤーの一人である。


ー  もともと音楽に興味をもったきっかけを教えていただけますか?

3歳の時に、ある日エレクトーンが家に来て、運んでくれた楽器屋さんが簡単な曲を弾いてくれたんです。それを聴いて、なんて素敵なんだろう、と(笑)。もともと音楽を聞くと喜んでいた子供らしく、子供のころ、テレビの音楽にあわせて手を叩いたりとか、歌を歌ったりとかが大好きだったそうです。それで親が何か習わせてみようかな、と思ったらしいんです。家が狭いからピアノは無理だけどエレクトーンならいろんな音が出るし、ということで。それで、エレクトーンを聞かせてもらったのが格好良かったので、私も習ってみたい、と近所の音楽教室に通い始めました。

ー  そのときはジャズとかクラシックとかこれをやりたいとかそういうのはありましたか?

全然ないですね。ピアノの先生がエレクトーンも教えていたんです。エレクトーンを扱っているけどピアノの本をやったりとか。最初はピアノの本だったんだけど、そのあと世界の小唄みたいな、全集みたいなものをやったんです。それにコードネームが書いてあって、それを弾く、っていう感じで。何かその中に、今思えばジャズの曲も入っていたと思います。そのあとの先生が、エレクトーン専門の先生でした。エレクトーンはグレードがあるんですけど、グレード試験受けるときに一番最初にはまったのがフュージョンです。先生の息子さんがドラムをやっていて、フュージョン聴いたり一緒にバンドをやったりしていました。高校の時に専門コースに通ってたんですけど、エレクトーンプレイヤーの方に習っていました。 Giorgia on my mindを楽譜で弾いていたんです。それとかマンハッタンって曲。今思うと結構Jazzyな曲が好きになって、こんな感じの曲をもっと弾きたいって言ったら、ジミースミス(Jimmy Smith)聴いたらいいって先生に言われて聞いてみました。教室にライブラリーがありレコード聞いてみたんです。そしたら何じゃこりゃっ!って(笑)。先生は、彼は素晴らしい!って、すごい熱く語ってたんですけど、最初はなんかねえ、すごいなあ〜、って感じでした。音の洪水って感じです。全部同じ音だし。こういうのもあるんだな、って思いました。それまではハモンドオルガンって言うのを聴いたことがなかったんです。それで、これがハモンドオルガンって言うのか、と思って。

ー  ではその頃からハモンドオルガンをやり始めようと思ったのですか?

いや、その時はやるんなら作曲科に進みたかったんです。ところが、高校三年の時にエレクトーンの先生から紹介してもらった先生が、作曲にはコネがないみたいだったんです。なんかその先生もすごい面白い先生で、音大出たら、お見合いの時に便利だから、って言って音大を薦めるんです(笑)。最初、武庫川女子大学の音楽学部とか山手短大ってとこがあって、そこの音楽科とか、とにかく作曲科に行きたかったんです。でも先生が、「音大」ってついてたらお見合いの時に強い、っていわれて(笑)。今は分からんかもしれないけど、大きくなったら分かる、と言われて(笑)。それが高3の5月だったんです。それまで一度もピアノを弾いたことがなかったんですよ。それで、エレクトーンの月謝もすごく高かったし、3人兄弟で私が長女なんですけど、それ以上に私にばっかりお金かけるわけにはいかなかったんです(笑)。それで、音大に行くっていったら、本当はトーンとか、それぞれ違う先生につかないといけないわけです。でも、その先生の場合は全部まとめていくら、って感じで、なんでも教えてくれて。なんか考え方とか変わってて面白かったですね。受験のためだけに習いに行っていたんですが、緊張して会いに行ったら音大言ったらお見合いの時便利だよって言われて(笑)。それで習いに行くようになって、ピアノは全然やっていなかったからそこからソナチネを始めて。エレクトーンはちょっと休んで。

ー  それで、音大に入ってから何故ジャズに目覚めたんですか?

クラシックで音大に入ったんですけど、みんな上手だったんで、これはついていけないなと思って(笑)。私が習った大学のピアノの先生が、私が前にエレクトーンをやっていたというので、手の形がどうとか、手の形が悪いとかいつもネガティブなことばっかり言われたんです。私はクラシックがやりたいと思って学校に入ったのに、なんかやる気なくなってきて。そうじゃなくてもピアノは鍵盤が重たいからしんどかったんですよ。なんか手にしっくりこないというか。ずっと練習してましたけど。でも、そのころからエレクトーンもまたやり始めていました。それは将来のためにヤマハのグレードを取っていたほうが良い、と思ったからです。その頃のヤマハというのは、グレードが上がるにつれてジャズの曲が多くなっていったんですね。一人ビックバンドって感じでした。エレクトーンがもっとシンセサイダーみたいになってて、ブラスとか、ストリングセクションとか。で、試験受けるときにジャズの曲を弾いた方が.....受かりやすいって聞いたんです(笑)。また学校にもライブラリーがあったので、オスカー・ピーターソンとか聴きました。その頃、子供の頃から一緒にエレクトーンを習っていた友達がジャズピアノを習い始めたんですよ。大塚善章さんに。面白いなって思いました。あ、そっかって思って。それで、音大を卒業してヤマハのエレクトーンの講師になったんです。講師になったんだけど、やっぱりグレード試験ちゃんと受けようと思ったんです。3級まで言ったのかな。指導グレードと演奏グレードというのがあるんだけどそれを全部取りました。そのグレードを取る少し前に私も大塚善章さんにジャズピアノを習いに行ったんです。面白いって思って。そのころ世の中がバブルで、新人のお仕事が一杯あったんですよ。ソロピアノで。私の友達は結構きれいで社交的だったんで、あっという間にそういう仕事をゲットしたんです(笑)。大阪は特にだと思うんですけど、どこでもそうかもしれないけど、ちょっとかわいくて、社交的な人のほうが仕事が取れるんだと思います(笑)。誰かのサブとか。彼女は彼女ですごく自分のサブを探してたんですよ。で、彼女は私に無理やりサブをやらせようとしたんです(笑)。あ、その前に、大学時代に近所のピアノバーみたいなところがあって、ピアノ喫茶みたいなとこですけど、そこに弾きにいってたんですよ。なんちゃってピアノで、ジャズみたいなものを一人で弾いたりしてましたね。

ー  じゃあ、ジャズは大学のときからやっていたんですね。

そういえばしてたんですね。楽譜を見たりしてやってました。

ー  何か惹かれたものがジャズにあったんですか?

クラシックが面白くないから(笑)。

ー  では、ジャズは面白かったですか?

面白かったです。アドリブとか弾けるし、自分で作れるし。

ー  敦賀さんはハモンドオルガンプレーヤーですが、あまりこの楽器に親しみのない方もいるので、ハモンドオルガンというものを簡単に説明してもらっていいですか?
 

ハモンドオルガン
ハモンドオルガン

ハモンドオルガンは、時計職人のローレンス・ハモンドという人がアメリカで発明した電気オルガンで、時計のぜんまい仕掛けと同じなんです。オルガンの真空管を使用し、パイプオルガンをもっと家庭用にできないか、というコンセプトで作られました。ぜんまい仕掛けの技術を利用して、パイプオルガンを小さくして、キーを押したら、接点が7個あり、ドローバーといういろいろな音に切り替わるものがあります。それを引き出すことによって、いろんな音が作れます。またレスリースピーカーという、スピーカーの上に羽がついているスピーカーを使用します。この羽を鳴らすんですが、この効果は簡単に言うと扇風機のそばで、わ〜って言ったら、振動音が出ますよね、あんな効果があるんですね。
注)Hammond Organ Complete: Tunes, Tones, and Techniques for Drawbar Keyboards(Dave Limina著)敦賀明子さん翻訳

ー  ハモンドオルガンに惹かれたきっかけを教えていただけますか?

日本でジャズピアノの仕事を始めるようになって、大阪のあるところで、レギュラーをやっていたんです。そこで、ジャムセッションをやっている、ということで、ジャムセッションに行き始めたんです。その時に、オルガンやってる人がいて、カッコイイなと思っただけど、オルガン一人で弾いてても、他の人ができないから、ピアノを一生懸命やっていたんです。レギュラーとかジャムセッションをその頃毎日やっていました。それでそこがブルーノートの前だったんで、ブルーノートからアフターステージの人が一杯来たんですよ。それこそ、ロイ・ハーグローヴ(Roy Hargrove)とかグラディ・テイト(Grady Tate)もそこで会いました。そのときはピアニストはたくさんいて、ピアノは順番があまり回ってこなかったんですけど、オルガン弾いたら、オルガンを弾ける人あんまりいなかったので、ずっと弾けたから、それでオルガン弾き始めたんです(笑)。そこで東京から来ていたドラムの人にオルガン上手ですね、と言われて(笑)。そうなんや、って思って(笑)。昔からやってたし、ピアノと違って、オルガンは鍵盤軽かったので音出すのに苦労しないし。子供の時からやっていたから、手になじむという感じです。

ー  そのように日本でプロでやっているにも関わらず、何故渡米しようと思ったんですか?
 

ニューヨーク・オルガン敦賀明子さん
ニューヨークを生きる

同世代の友達があるときを境にみんな留学でアメリカ(ニューヨークとボストン)に行ったんです。結構それで、アメリカに遊びに行くようになりました。丁度そのころ大阪でグラディ・テイト(Grady Tate)と会ったんです。そのときジミースミス(Jimmy Smith)と一緒に来ていたんですが、オルガンも弾くって言ったら、オルガンなんか嫌いだ、ピアノやれ、って言われて(笑)。その頃グラディ・テイト(Grady Tate)さんは半年に一回ぐらいは来ていたので、もう一回会って、聴いてもらったら、もうニューヨークに来たら良いのにって、言われたんです。そのときはそう言われましたし、ニューヨークに友達がいたし、1年に1回ぐらいはニューヨークに遊びに行っていました。友達はそれなりにニューヨークで演奏活動をしていたんで、行く度に私もやってみたいな、ここに来たらすごい楽しいことが待ってるんだろうな、と思いました。1年位だったらいけるかな、お金ためて、と。バイトもして、お金も貯まったので、それでB3(注:オルガンの型)を買うか、ニューヨークに行くかちょっと迷ったんですけど、どうせだったらニューヨークに行ってみようと思ったんです。

ー  そのときは音楽活動を目的としてニューヨークに行かれたんですよね?

そのときはオルガンをやろうと決心していました。日本ではホームプレイヤーとしてやることがなくて、特にオルガンは誰かのバンドでサイドメンでやるということがほとんどなかったんです。私は人のバックでホンピングするのが好きだったので、そういう勉強をしてみたいな、とも思っていたんです。アメリカに行ったら一杯ミュージシャンもいるし、人のバックで演奏する機会もあるだろうと思ったので。

ー  ニューヨークは本場という意識はかなりあったんですか?

ニューヨークは流れてる空気も違ったし、ここにいるだけで、自分がすごい成長できるんじゃないかと思ったんです。

ー  敦賀さんの自分の音楽スタイルはどうやって作っていくのですか?

自分がそのときに聴いているもので、こんな風にやってみたいな、って言うのがあったらまねしてみたりですね。スタイルというよりも、ニューヨークに来てびっくりしたんですけれども、みんなオルガンに合わせて踊るんです。ニューヨークに来てすぐ位の事だったんですが、ハーレムの125丁目のシーフードレストランで、ボーカルの人の曲で、すぐにギグをやったんですよ。今も一緒にやっているサックスの友達が、ここでやっていくなら絶対オルガンやで、っていうんで、なんで?って聞いたら、ベースプレーヤーがいないから、って(笑)。ベースプレーヤーを探すの大変な街だから、オルガン弾いていたら、ベースもできるし、ピアノもできるし、絶対こっちのほうが仕事ある、って。私自身はそんなこと全然考えてなくて、お金が尽きたら帰ろうと思っていたので。そのときはふ〜んって思って。それで、Showmansに行くのに、最初怖いから、ボディガードを連れて行ったら追い返されて、というかいいように断られたんです。それで二回目に、女なら良いだろうと思って、友達の女性を連れて、入らせてもらったんです。それでそこに結構二人で通ったんです。そうしたら店の人が目をつけたみたいで。

ー  お客さんのふりをして通ったのですか?

ええ、もちろんギグ取ろうと思っていました。お店の人も覚えててくれて、それから一人で行ったりとか。そしたら友達がこれ絶対ギグ取れる、と言い出したんです(笑)。もう一息だと言うんですね。グラディ・テイト(Grady Tate)も連れていこうと言って一緒に行ったりしました。たまたまボーカルの人が来たので、じゃあ3人でやったらということになったんです。お店の人が 3人だったらやらしてあげる、って。それでShowmansに行き始めて、結構すぐに違う曜日にも行き始めたんですよ。多いときだと週に3日ぐらいレギュラーで貰っていました。そこで知り合った人からも別のギグをもらったんです。その後、引越しをしたんですけど、何で引っ越ししたかって言うと、オルガン運ぶには車じゃないと無理ってことが分かって(笑)。最初は地下鉄で運んだんですが、本当に大変でした(笑)。それで車持ってないなら、アクセスしやす場所に引っ越したほうがいいな、って。本当に重くて、一度運ぶと体中に青あざできるぐらい重いんです(笑)。それも重すぎて誰も手伝ってくれないし(笑)。今はもう少し軽くて音がいいキーボードがあるんで、それを使ってるんですけど。

ー  現在は日本人や外国人と演奏しているわけですが、一緒にやっていて、人種の違いはありますか?

ニューヨークはいろんな人種の人がいますよね。白人とか黒人とか。ついこないだも私以外全員黒人っていうバンドでやったんですけど、その時になんだか彼らはすごいなって思ったんです。雰囲気が、なんていうのかな、フィーリングって大切だな〜、って。それは例えば、外国人が演歌を歌います。でもなんとなくフィーリングが出そうで出ないじゃないですか。そういう感じでなんですよ。そのときもちろん私は頑張ったんですけど。これは外国人が津軽三味線をやろうとしてもなかなかフィーリングが出ないのでと同じで、私が演歌やって、歌は下手だけど、ここでこぶしの一つでも聞かせれば効果的だとか、下手でもフィーリングだけは伝わるって言うかそういうのは分かるし出来ると思うのです。それはやはり小さいときから演歌を聞いてきたからというのと、そういう日本の文化で育ったというのがあるんだと思うんです。やっぱり私達外国人の日本人がジャズをやるっていうのもそういうことなんだろうなって思ったんですね。でも外国人が日本の演歌をやった時に、違う感性で同じものをやるとそれが結構面白かったりするでしょう。だから結構外国人の私たちがジャズを弾くってことは、アメリカ人からしたら違う観点でジャズの物事を私たちが捕らえていて、それはそれで面白いと思っていると思うんです。

ー  演奏中にうまくフィーリングが出ないなと考えているのですか?

いやもう頑張ったのに何か、自分の中ではこういう風に弾きたいって言うイメージがあるんです。例えばジミースミス(Jimmy Smith)のキーンて弾くおいしいとことかね。それを弾こうと思うんだけど、でもその時に、一緒にやっているエリック・ジョンソンがギターが、一音ガーンって弾く音のほうが私がやるよりも格好良いんですよ(笑)。

ー  どうしてそういう差が出るとお考えですか?

やっぱり、一つは文化の差。そして、彼らは一音にこめる感覚って言うのが、すごいフィーリング持っているのにも関わらず、すごいリラックスしてるんです。フィーリングとか、パッションで弾く日本人のプレーヤーもいると思うんだけど、なんとなく、頑張ってます!っていう感じに終わってしまう人が多いと思います。何が違うかって考えると、アメリカ人の場合は、すごいがーっと集中して演奏に入ってるんだけど、その間もリラックスしてるんですよ。肩の力が抜けてるんででしょうね。何でかというと、やっぱりアメリカの人たちは、最初からそういうフィーリングを持ってるからだと思います。日本人だと、そういうグルーブのフィーリングを、ジャズのフィーリングを身に着けるところから始めるじゃないですか。日本人とアメリカ人のテクニカル面での差はないと思うけど、フィーリングの違いですね。確かにオルガンって難しいのもありますけど。ハモンドオルガンは右手でメロディー弾いて、左手でベース弾いて、ベースペダルで、左手で弾いてるベースに、例えばウッドベースを弾いてるときに、立ち上がりがありますよね、ああいうのをベースで弾くんですよ。ちょっと練習してなかったら、バラバラですね。

ー  ちなみに練習はどのくらいなさるんですか?特にプロになったあとなんかどうですか?

ニューヨークに来て、一番思ったのが日本でいかに練習してなかったか、って事ですね。アメリカに来てから本当に一番必要なのは練習だったと思いました。ニューヨークの人たちはみんな本当に練習してます。例えば、DR.ロニースミスというオルガンプレーヤーに、オルガンを個人的に聞く機会があったんですけど、一日中弾いてますね。テレビ見ながら(笑)。オルガンをテレビの前において、テレビ見ながらずーっとオルガンを弾いて手を動かしています。テレビが面白くなったら、オルガンの手を止めて、テレビの音を大きくして(笑)。あれ見てたら、人生観変わりましたね。私はテレビ見ながらやるんだったら、集中してがんがんやったほうがいいのでやり方は違いますけど。DR.ロニースミスの場合は、とにかく楽器に触れるということが大切だと言って、朝起きたらまず楽器に触れる、夜寝る前は楽器に触れる、という生活ですね。楽器とともに生活という感じですね。     

ー  音楽活動をやっていく上で、何かこだわりみたいなものはありますか?
 

ジャズオルガン
ジャズオルガンプレーヤー

人が踊れないような音楽は絶対しない、ということです。楽譜にかぶり尽いて、聞いてる人がリズムにあわせて体が揺れないような音楽は絶対にやりません。

ー  日本とアメリカのお客さんの違いって何ですか?

アメリカのお客さんというのは反応が、日本のお客さんに比べてダイレクトですね。良かったらわーって言うし、あんまり良くなかったら、すごい喋るんですね。こっちが気分良く弾いていたら、それに対する反応というのはすごいダイレクトですね。去年日本でCD(注)が出て、日本でライブツアーをしたんですけど、その時にやっぱり日本のお客さんは国民性の違いだと思うんだけど、奥ゆかしいというか、でも実は喜んでいる、という感じがありますね。日本で嬉しかったのは、最初にみんなすごい固い表情で見てるんだけど、だんだんお客さんの表情が和らいでいくのを見るのがすごく楽しいです。国民性の違いというのは面白いですね。
(注)「ハーレムドリームズ」(2004/05/19発売)

ー  音楽をやっていて一番やっていて良かった、興奮したと思う瞬間はどのような事ですか?

やっぱりすごく良いメンバーと、すごく良いお客さんが聞いてくれるところで演奏して、ものすごくビートが気持ちよくて、このままやめたくないなって思うときですね。

ー  それはバンドのメンバーにもよりますか?

オルガンは自分自身の負担が大きいので、サポートしてくれるとうれしいですね。そういう意味でメンバーによって気分は変わってきますね。グラディ・テイト(Grady Tate)のバンドでもやってるんですけど、彼とやるときはいつも楽しいです。彼はすごいんです。ボーカルのバンドでやることが多いんですけど、やっぱり彼はジャズの生き字引みたいな人で、持っている引き出しがすごく多くて深くて一緒に演奏していて楽しいです。ジャズのことを知り尽くしたっていうか、アイデアもそうだし、本当にスキャットずっとしても、その抑揚のつけ方とか、引き込まれるような感じがあります。自分が上手になったような気がする位です。そのくらい違うものですね。バンドとしての質も一気に上がります。

ー  ニューヨークで受けた影響って何かありますか?

ビートや音楽に対する気合という事に影響を受けましたね。やっぱりいろんなところからニューヨークに音楽をやりに来ている人が多いので、みんな生きていくのに必死です。ギャラも多いわけではないし、そうなると自ずと競争も激しくなります。そうするとやっぱり音楽に対する情熱がないと生きていけない。もちろん情熱があっても上っていけない人は一杯いますけど。

ー  敦賀さんにとってジャズや音楽とは何ですか?

自分の人生です。Dr.ロニースミスなんかは、「人生を音にしろ」って言ってますし。

ー  カッコイイですね。そういう人生を歩んでいる方の将来の夢はどのようなものですか?

私の音楽で、聞いてる人がハッピーになって、幸せな気分になってもらいたい、ということですね。

ー  海外でミュージシャンとして、成功する秘訣ってあるとお考えですか?

人に誠意を尽くすことだと思います。いくらうまい人でも、やっぱりいい加減な人はそれなりになってしまうと思います。日本もアメリカも一緒だと思うんですが、人間として必要なことだと思います。グラディ・テイト(Grady Tate)もそうなんですが、ジャズを育てよう、っていう意識があるんですよね。有名でも決して威張ったりするわけでもないですしね。人間として成長することが成功することの条件なのでしょうね。

ー  今後の敦賀さんの演奏活動をお聞かせいただけますか?

(2005年)来月8月にリンカーンセンターでアフターアワーズで1週間トリオで出ます。エリック・ジョンソン(ギター)とビンセント・エクター(ドラム)と一緒です。8月末から日本にツアーで帰ります。こちらはエリックジョンソンと田井中福司さんの3人で。普段は、私のバンドって言うのが2ヶ月に1度クレオパドラーズニードル(Cleopatora's Needle)でやったりたまにスモーク(Smoke)やショーマンズ(SHOWMANS)などでやっています。

ー  今後海外で勉強しようと考えている方にメッセージをお願いします。

日本でできることは全て日本でやってからアメリカに来たほうが道は早いと思います。例えば、アメリカに来てもすぐに人と演奏できるぐらいの技術を身につけておくなどです。アメリカに来て一から学ぼうとすると、言葉の問題とか、生活に追われたりとかするからです。アメリカ来て、人と演奏して、言葉が通じなくてもなんとかなる、って言うぐらいのレベルにするといいと思いますね。これが一からだったらもっと時間がかかるだろうし。日本で習えることは日本で習って。ジャズだけではなくて、クラシックでもそうなんですけど、まったく初心者でアメリカで来るというのはお勧めはしないですね。日本でやることはやって、ある程度経験を積んでからの方がいいと思います。

ー  仕事を得るのはコネクションが多いですか?

やっぱりコネクションが多いですね。だからみんなに誠意を尽くしていれば、話が周ってきますよ。嫌な人でもニコニコして。私はなかなかできないんですけど(笑)。言葉ができなくて、向こうも何を言ったらいいか分からないということもあったんですね。笑顔は世界共通、たまに彼女はアホかって言われることもあるらしいんですけど(笑)。やっぱり女は愛嬌ということで(笑)。

ー  最終的にはジャズならアメリカに行ったほうがいいんですかね?

自分の音楽のスタイルさえできたら、音楽をやるのはどこでいいとは思うんですけれども、ジャズをやっている以上は、一度はここの街のもつムードを経験するのは、絶対プラスになるでしょうね。

ー  ありがとうございました。
 

霧生ナブ子さん/ジャズシンガー/アメリカ・ニューヨーク

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロに皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでご活躍中のジャズボーカリスト霧生ナブ子(キリュウナブコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ボーカリストとしてニューヨークで活躍すること」についてお話しを伺ってみたいと思います。

ー霧生ナブ子さんプロフィールー

ジャズシンガー霧生ナブ子さん
霧生ナブ子さん

尚美学園短期大学・作曲科専攻卒業後、ニューヨーク市立大学ジャズヴォーカル専攻卒業。クイーンズ大学大学院ジャズヴォーカル専攻修了。ビー・バップの伝道師として知られるジャズピアニストのバリー・ハリス氏の影響を強く受け、彼のジャズコーラス隊にも参加。そのグループでニューヨークの「タウンホール」や「シンフォニック・スペース」等の大劇場で公演。96年に渡米以来、ニューヨークのジャズクラブ「レノックス・ラウンジ」、「コープランド」などで定期的に活動を続ける他、ニューヨークのテレビ番組にも出演。2002年には有楽町朝日ホールにて霧生トシ子・コンサートで日野皓正(Tp)と共演し、同年にはジミー・ヒース(Ts)をゲストに霧生トシ子、太田寛二、アール・メイ(b)、ジミー・ラブレイス(dr)、デビット・ギルモア(tap)と共にクイーン大学でコンサートを行った。ニューヨークのブルーノートにて「J-JazzSisters」として公演も行う。アルバムは「シンキング・ラヴ」など。

ー  音楽に興味をもったきっかけを教えていただけますか?

両親が両方とも音楽家(*)で、小さい頃から音楽が家中に溢れていたんですよね。それで音楽は自分の無意識の環境にあって、一生懸命やっている意識はなかったです。どちらかというと子供の頃は演劇をやっていて、お芝居をずっとやりたかったんです。だから、小さい頃の夢は女優さんになることだったんです。
*)お母様が霧生トシ子さん、義父様が太田寛二さん

ー  それがどうして音楽の方に向かおうと思ったんですか?

10才の頃からNHKの劇団のオーディションを受けて、それからずっと高校3年生になるまで演劇やっていました。ホントにホントにお芝居が大好きで、毎年夏に公演やったりとかしてたんです。でもその中で音楽は自分が力をいれて一生懸命やらなくても人より優れているという感じはありました。例えばオーディションなんかでも一曲歌うと受かってしまうみたいな感じがありましたね(笑)。もちろん歌う事は好きで、何かあると歌って人の気を引いてしまうところがありましたね。その後も同じような事があって、日本の音大を卒業した後、マスコミ関係の会社に勤めていたことがあるんですけど、その会社の面接試験も一曲歌って受かってしまったと思います(笑)。会社の面接でも特技は?って聞かれますよね。ジャズを歌っていると言ったら、何かできる?って聞かれたんです。そのまま、アカペラで一曲歌ってその度胸を買われたんでしょうね。それで受かってしまった。私にとって音楽は、歌は最後の手段という感じなんです。

ー  それが音楽のプロになろうかと思ったのはどうしてなんですか?
 

Singing Love
大好評のCD「Singing Love」

19 才か20才ぐらいの時にインドに旅行に行ったんです。たまたま母が、私の義父と旅行に行く事になっていたんです。ところが彼が仕事で遅れてしまって、行くと言っていた予定の日にいけなくなってしまったんです。その結果私が母に誘われて、一緒に親子でインド旅行することになったんです。その後、義父が来てからは、途中で分かれて、最後に一人で日本まで帰ってきたんですよね。その時に、ある街からニューデリー(注:インドの首都)まで一人で電車に乗っていたんです。そこでたまたま隣に座ったインド人の女性がいました。もちろんその時は普通の音楽学校の学生の頃でしたし、英語なんかも話せませんでした。でも、その女性が非常に親切で、こちらの片言の英語でも一生懸命聞いてくれて、「何やってるの?」とかいう会話をいろいろしていたんです。私が音楽を勉強しているんだ、という話をしたら、いきなりその女性がその場所で、本当にいきなりインドの歌を歌ってくれたんです。本当にびっくりしてしまいました。日本の感覚からいったら外人が旅していて音楽勉強しているからと言って日本の歌はこうですよなんて、歌わないじゃないですか。だから本当に感動してしまって、その歌に心を打たれたんです。彼女に何回も歌ってくれる?といって歌ってもらい、その場で急いで楽譜に書いて、リズムや歌っている言葉をカタカナで聞こえた通りに書いて、何遍も歌っているうちに、歌を覚えちゃったんです。それで二人で一緒に歌ったんですね。そしたらその人が今度はびっくりしてしまってたんです!インドの言葉なんかもちろん知らないし、英語も分からない子が、いきなりインドの歌を、訳も分からない日本語のローマ字みたいな見たこともない文字でざーっと書いてあって、でも歌は一緒に歌える、みたいな事になったんですね。それですごい意気投合してしまったんです。道中二人でその歌をワーっと歌って、心は一つみたいな感じになったんですね。その時に歌ってすごい!と思ったんです。それで歌というのは人の壁を越えるというか、魔法のような力があるなと思ったんです。そういう訳で、歌の素晴らしさを知った経験を生かし、いわゆる「うまいシンガー」になろうというのではなくて人に何かを伝える、「メッセージを伝えるシンガー」になりたいなと思ったんです。日本の感覚でいうと歌がうまくないとシンガーではないという感覚があると思うんです。それまでは歌は好きでしたが、自分の中ではコンプレックスじゃないですけど、特別うまいと思ったことはなかったんです。特に音楽の環境に育ってきているのでやはりうまい下手はわかるんですよね。自分の中に特別歌がうまいとか歌の才能があるなんて思ったことはなかったけど、歌の意味とかすごさがその時に分かったので、だったら歌ってもいいかなと思ったんです。歌をうまく歌うなら自分のやることじゃないというか。歌って技術だけじゃないと思うのです。うまいとか下手じゃなくて、100人いたら100人の声でみんながそれぞれ話したりするのと同じように、それぞれの人間のドラマがあってそれを歌っていい、そういうものだと思うんです。それがインドで分かった、歌手になろうと思った大きなきっかけだと思うんですね。多分音楽って、日本でもこれだけカラオケが普及していて、みんなが歌っている中で心が通ったり、誰かが歌っているときにみんなで拍手をしたり、みんなで歌声をシェアするみたいなところがあると思うんです。そういうのがうまい下手ではなく、歌にはあるんです。もちろん、うまい人が喜ばれたりするんですけどね(笑)。だからもちろん一生懸命やってうまくなった方がいいですけど(笑)。

ー  感じる部分というのはうまい下手ではないですよね。そういう音楽性をお持ちの中で、ジャズになっていったという理由はあるのですか?お母様はもともとクラシックをなさってらしたんですよね?

ええ、母はクラシックをやっていたんですけど、母はジャズが好きで、一応そういう続きじゃないですかね。たとえば、今の義父にピアノを教えてもらったりして、それがたぶん私が、16歳、17歳とか。だからジャズが何、とかそういうこともわからなかった。普通に子供が習い事に行かされるじゃないですか、まず子供がそれが好きかどうかわからないけど、とりあえず剣道行ったら竹刀持って、っていうような感覚で、ジャズって言うものが私の中に入ってきたんです。

ー  じゃあ、根本的にクラシックとかポップスが入ってきたわけではなくて、いきなりジャズが入ってきたんですね。

でももちろん、その前にクラシックもピアノも習っていて、子供のころから、それこそ2歳、3歳のころから、ピアノを、祖母もピアノの先生なんで、習っていて、そういう意味でも物心つく前から発表会をやっていたりとか、中学校、高校のときはバンドをやっていたりとか、キーボードやったり、オリジナルを書いたり、普通に音楽をやってましたよ、今の日本の若い人たちがやっているような、音楽活動みたいなこと。それこそ、『平凡』『明星』とかのコードが書いてあるのを見て、弾いたりもしてましたね。音楽が例えばやっぱり八百屋さんの子が野菜に詳しいのとおんなじで、普通に考えてなくてもいろんな知識とか情報がわかるような感じでしたね。なんでジャズに意識を向けてきたかって言うのは、やっぱり、ジャズピアノを先に弾いたからなんですね。ジャズはいまだに、1930年代、40年代の曲がスタンダードとして歌われているんですね。例えばスタンダード曲の『My Fanny Valentine』は日本では良く知られていて人気でみんなが歌ってるんだけど、それぞれの歌手が自分の解釈で、自分のライフを下に歌ってるんですよ。だから雰囲気が違ったり、テンポが違ったり、それぞれ料理の仕方が違うんですよ。おんなじ曲を歌っているんだけど。それが例えば白人の世界だと違ったり、黒人の世界だと黒人ぽかったり。みんながそのただ違うだけじゃなく、その上、歌の内容によって、悲しい歌だったりするとみんなその人生の中での苦しい重いって言うのが出てきているというか、ライフの瞬間を見せてくれるというか、その歌自体にいろんな人が歌ってきた歴史と、その手垢がいっぱいついている、そういう重たさがあるんですよ。そして今度は自分が歌うことによって、歌のストーリーに魂(スピリット)を吹き込むんです。自分がただ歌ってるんだけど、もっと歌が持ってる不思議な魅力というか、いろんな人に語り継がれてきた、歌い継がれてきた重みで、今度は自分の体と声を使って、そのストーリーを語るみたいな。そういう意味では、そこがジャズの面白さとでしょうか。

ー  プロになろうと思って、アメリカに行こうとした渡米のきっかけは何ですか?

普通に会社で仕事3年半ぐらい勤めてたんですけど、仕事がきつくて、体を壊して入院して、そのときに病院のベッドに寝ながら、天井見ながら、窓の景色見ながら、いろいろ考えたんですね。勤務先の社長さんに頂いた御見舞いの花とか眺めながら、自分は何をやってるのかな、と思って。これだけ自分の時間とエネルギーを会社に費やすんだったら、ちょっと自分のためにやってみたらどうなんだろう、って思って。それがひとつの大きなきっかけだと思いますね。それとみんながとにかくNYいいよ、NY行ってみれば良いじゃん、っていうのでまず一回NYに旅行で来ってみたんですけど、やっぱり一目瞭然で、ちょっと普通に入ったバーで歌ってるおばあちゃんなどのジャズも、歌ってるのがレベルがものすごく高いくて、違うじゃないですか、全然。で、目からうろこのように、もう感動して、涙がいっぱい出て。これは今まで私が日本で、私ジャズやってますって歌ってたのはなんだったんだろう、って感じで。これじゃいけない、って。なんて私って、なんちゃってジャズをやってたんだろう、って。本場での洗礼ですね。これはマズイと思って。で、どうにかして、こっちに来るような方法はないかなと考えて、それから具体的に学校について調べたり、ビザのこと調べたりして、英語学校を探してまず留学しました。

ー  とにかくニューヨークに行きたかったっていうのがあったんですね。

一番最初は「ニューヨークが一番いいじゃない?」、ていうような感じで肩押されて、「そんなもんなの?」と思いながら行って、初めてその衝撃に出会って、そのショックを受けてからは是非NY行こうっていう思いですね。

ー  実際ニューヨークについて音楽活動をされていくわけですが、行かれてからご自分の音楽のスタイルって言うのはどうやって作っていくものなんですか?

私が思うには、とにかく人間関係、ミュージシャンの中に自分の環境ををおくということ。もちろん学校には行くべきと思います。大学でジャズを専攻し、たくさんの音楽理論とかジャズの歴史とかを習ってきたけど、やっぱりそれだけじゃダメなんですよ。それだけじゃ生きた体験にならない。それはほんとにジャズの場所に行ってそこにいて歌っている人たちと話して、その人たちがどういう人生を歩んできたのか話したり一緒にご飯を食べたり、そういうところでいろいろ学んでいくことってたくさんあると思います。

ー  コミュニケーションをしながら自然に出来上がっていくって、ことですよね。
 

ニューヨークジャズシンガー
ニューヨークのクラブにて

自分は吸収しようと思って行くわけだけど、ただ、テクニック的なことを学ぶってだけじゃなく、ジャズは特にアメリカのカルチャーなわけだから、黒人の歴史とか、彼らがたどってきた道などももちろんそうだし、教会の歌ももちろんそうだし、それがジャズと繋がり、ここ(NY)に来て、こうやって生活して、その人たちと一緒に歌ったりしてやっていかないとわかんない。日本でやってるだけだと全然違うと思う。やっぱり練習してうまく洗練されたものというよりは、私が今までたどってきた生活観からでるジャズだっていう部分を強調して行きたいと思ってます。

ー  技術じゃないって部分ですよね。

もちろん技術もあると思います。やっぱり下手だったらどうしようもないし。そこのところで技術的には日本人的にコツコツ、ここはやらなきゃいけない、ってやってきたというのがあるんですけど、人にはみせないような、それがないとなきゃダメだとは思うけど、それ以外の部分をコツコツやっただけじゃ、ジャズの味は出ないと思うんですよ。

ー  そういう部分では外国人と一緒に演奏する部分でも日本人とやるよりも、外国人と一緒にやるほうが吸収することが多いってことですよね。白人、黒人、ヨーロッパ人、NYにいるといろいろなジャズが吸収できると思うんですけど、それもまた違いますか?

それはそうだと思います。ほんとに違いますね。私はハーレムに住んでいるんですけど、そこら辺のバーに行くとやっぱりそういう人が好きそうなジャズがかかってるし、例えばダウンタウンいて、白人の人が多いところだと、歌詞の歌ってる英語とかも違いますよね。そういうのは本当に語学が出来ただけじゃ分からないじゃないですか、歌詞を聞いていて、アメリカのジャズのスタンダードのその曲をどの人が歌っているとかは関係なく、楽譜とか、英語とかを見ただけでも、これは黒人の人が作った歌だ、白人の人が作った歌だってわかりますね。それぐらい違うんですよ。言い回しとかで。でも違うけど、やっぱり人間だから同じ曲を同じスピリットで歌うわけだけど。女の人が去って行っちゃって、男の人が飲んだくれている、みたいな。同じ内容で歌ってるんだけど、語り口調とか黒人と白人だと違ってきたりするんですよ。そうなるといわゆる学校で英語を習ったっていうのじゃ無理ですよね。それを知るっていうことと、それを自分がジャパニーズでアメリカでジャズを歌うって言う特殊さををひしひしと感じるわけですよ。それはもう、日本で黒人の人が演歌歌手としてデビューするのと同じことなんですよ。でも、もし、日本で黒人の人が、生まれ育ってて日本語にアクセントもなくて、ゴスペルのようなスピリットをもって歌ったら結構感動するかもしれないじゃないですか、それと同じように、私は日本人だけど、やっぱり自分の中でジャズに対しての敬意もあるし、自分の生きてきたライフの中でいいと思ってきたことを表現していくっていうことは、私の中で子供のころにやっていた演劇というのと深いつながりがあるんですよ。

ー  それはどういう点でですか?

演劇は自分の感情を表現するんですね。台詞をかたるでしょ。歌も台詞と同じようにストーリーを語るんですよ。歌ってるときに自分が語っている言葉が嘘じゃいけないから、その言葉どうりの気持ちがなきゃいけない。演劇をやってた瞬間にすごく感覚的に似ているんですよ。

ー  舞台の上ではその歌詞の人になりきるということですか?

歌が持っているストーリーを語るという感じですね。役を演じるというよりは歌を伝えるんだけど、何かの役をやっているときと似ている感じですね。

ー  舞台の上ではいろいろ考えるというよりも自然に出てくる感じですか?

歌のときは、結構自然にでてくることもあるし、例えばその歌が自分の体験に基づいてというよりは、友達の体験ですごい悲しい思いをした人がいたことを考えて思い出して歌うこともあるし。

ー  感情とか感受性を感じながら歌うということですかね?

そうですね。やっぱりメッセージですね。

ー  音楽活動をして、歌をやってて良かったな、もっとも興奮する瞬間ってどんなときですか?
 

ジャズシンガー
ニューヨークのクラブで活躍中

やっぱりジャズの面白いところはあんまり決めない所。突然名前呼ばれて、ステージ上がって、初めましてって言って、この曲ね、って自分なりにリードしてやりますよね。初めてそこで出会った人達なんだけど、それでいきなり音楽を作るわけですよね。そこで一つになるときに、すごい興奮しますね。瞬間っていうものにとても敏感になるんですよ。人間生きてて、朝起きて夜寝て、っていう繰り返しで流れていくけど、よく言うことだけど、その瞬間はもうないわけでです。たまたま居合わせた人と、たまたまその瞬間に一緒に舞台をやって、もうその瞬間は二度とないわけじゃないですか。それがとても暖かく心が通じて、うまく言ったりするととても嬉しいというか。例えばこれが他の音楽ジャンルだったらやっぱりすごい繰り返し練習して、同じメンバーでどんどん上達していって、到達するって言うんだと思うんですけど、そういうのとはジャズは全然違うんですよね。そのためには、自分が一人で磨いていないといけないんですよ。みんなが自分自身を磨いて、一緒に乗っかったときにそれぞれが、自分が自分がっていうんじゃなくて、人のを聞きながら輪を作っていくみたな。

ー  自分を鍛えるというのはどういった面でですか?

もちろん、技術面もそうだし。もちろん知識というかジャズのことを良く知らないといけないんですよ。じゃないと人がやってることもわからないし。ジャズは即興だから、みんなが舞台に乗ったときに、ツーといえばカーという感じでやっていくわけですよ。ツーを知らないとカーが出せないんです。ツーをたくさん知らないといけない。そのためには自分を磨いて、いろんな人の音楽を聴いたり、、勉強したりして、その瞬間でコミュニケーションをお互いに取るんです。こうだ、っていわれたのを応える感じで音楽を出すとコミュニケーションができて、お互いにそれがわかると、すごい感動ですね。そいういのは例えば、日本のコメディアンがみんなが知っているようなネタを言って、例えばドリフだったら、「八時だよ、」って言ったら「全員集合、」って言ってね、といわなくてもみんなが言っちゃうみたいな、そういうような面白さがジャズにはたくさんあって、それが面白いんですよ。それが分かると見る方も分かってもっとジャズは面白いんです。だからもっといろんな人に知ってほしいと思いますよね。

ー  日米の観客の違いってありますか?

そうですね、やっぱりこっちと日本とでは違いますけど。やっぱりまずは英語ですよね。これは多分日本の人は、ジャズ歌ってる人はいっぱいいると思うんですけど、日本だけしか知らないでやっている人は、やっぱり知識が浅いというか、もちろんみんな頑張って勉強しているんだろうけど、こっちで生活しシンガーの人たちのワークショップのお手伝いをしたりしていると、最初に言われるのは、そこなんですよね。日本人はみんな器用で、音楽のこともわかってるんだけど、英語を日常使っていないから、気持ちが伝わらないんですよ。その気持ちの差が、そういう人たちが歌うと、必ず指摘されていますね。もう少しがんばれば本物に近くなるというか。

ー  海外でミュージシャンとして活躍する秘訣、条件というのは何かあるのですか?

日本人として、特有の謙虚さ、慎むことが美しい、みたいなものを変えないとダメですね。そこを変えていかないと、もっとやっぱり頑張って自分でどんどん前に出て行かないと、ずっと認めてくれないから。逆に日本だと前に出ると叩かれるけど、こちらでは前に出ないと目にも止めてもらえないし。そこはやっぱり違うものだと思ってやっていかないと難しいと思います。

ー  将来の夢はありますか?

やっぱり、世界に通用するジャズシンガーとして、日本人代表としてやっていければと思いますね。

ー  海外で音楽の勉強を考えている人にメッセージを頂けますか?

とにかくやり続けること。諦めないでやり続ければ必ずその先があります。

 

原知恵子さん/イタリア語留学/イタリア・ペルージャ

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。

 

ピアニストの先生と
ピアニストの先生と

原知恵子さんプロフィール
東京音楽大学音楽学部声楽演奏家コース卒業後、同大学大学院声楽専攻修了。第5回日本演奏家コンクール大学の部 奨励賞、第5回大阪国際コンクール大学の部第3位(1位・2位なし)、第23回江戸川区新人演奏会にオーディション合格し、演奏会出演。江戸川区主催「サロンコンサート」出演、婦人民主クラブ主催「クリスマスコンサート」「ジョイントコンサート」出演、その他様々なコンサートに出演。これまでに、中澤桂・大川隆子・釜洞祐子・吉田恭子・横山修司の各氏に師事。2009年4月よりイタリア・ペルージャにて語学留学中。



-まずは簡単なご経歴を教えてください。

原  東京音楽大学を卒業して、同大学院に進みました。その後アルバイトや派遣の仕事をしながら音楽活動をして、去年の4月にイタリアのペルージャに来ました。

-会社勤めをされていたんですね。

原  フリーターのような感じですけど。コンサートや音楽活動もしていましたので。

-どのようなお仕事をされていたんですか?

原  テレマーケティングなどもしましたし、ここに来る前の2年間は、発展途上国に鉄道や道路を作る建設コンサルタント会社の事務として働いていました。

学校のクラスメイトと各国料理を持ち寄ってのパーティで
学校のクラスメイトと各国料理を持ち寄ってのパーティ

-面白そうですね。

原  仕事も面白かったですし、とても良くしていただきました。

-声楽は、ずっとイタリアやドイツのものが中心ですか?

原  大学にいた頃は、ドイツ、日本、イタリアの曲などを歌っていました。大学院の修了演奏はドイツ歌曲でした。卒業してからは、イタリアものが多いですね。先生がイタリアの曲を中心に教えてくださる方なので。

-今はイタリアにいらっしゃると言うことですが、演奏活動などはされていますか?

原  全くの留学ですね。しかも、音楽留学ではなく語学留学です。

-そうなんですか!それはまたなぜ?

原  音楽活動だけでは生活していくのは難しいですよね。両親の理解もあって、20代のうちは、音楽を続けさせてもらっているんですけど、早く自立しなくてはと思っていて。なので、大学院を卒業してから、さらに音楽で留学するということは考えていなかったんです。そこで、音楽以外に自分に何ができるかを考えたときに、イタリア語に行き着いたんです。声楽をやる上で、イタリア語を理解することが重要になって来たのもきっかけですね。読んで意味を調べて歌うことは出来るんですけど、イタリア語の独特の響きや、リズムを勉強するほうがいいと思いまして。語学を勉強するのは好きでしたし、イタリア語も興味がありましたので。とにかく、これを仕事に活かせるものにしようと思いペルージャに来ました。

-大学院まで卒業されていると、その先も勉強を続けていくっていうのは難しいですか?

原  オペラ団体に入るっていう方法もあるんですけど、そこも結局、お金を払ってまた専門学校に行くような感じなんですね。そのお金があるなら、思い切って留学してみようかな、と。
 

同居人の実家へお邪魔して、家族のみんなと
同居人の実家へお邪魔して、家族のみんなと

-イタリア語を学ばれているということですけど、レッスンは週5日ですか?

原  はい。クラスのレベルによっても授業数は違いますけど基本は週5日です。レベルが6段階あって、私は、最初は上から3番目のクラスから始めたのですけど、こういう下のクラスは、文法中心にやっていくのでそんなに授業はないんです。文法が週に12時間、会話が4時間程度。ワンターム3ヶ月なんですが、一番上のクラスだけが6ヶ月なんです。今、私はそのクラスにいて、あと3ヶ月というところです。上の2つのクラスは、イタリアの文化や歴史という授業が入ってくるので、週に28時間くらいは授業があります。

-文化の授業などは、準備というか、調べものをしたりすることもあるんですよね?

原  はい。音楽は大丈夫なんですけど、歴史や文学などは大変です。ヨーロッパ圏の人は基礎知識がありますが、私はゼロからなので。インターネットを駆使して、いろいろ調べものはしています。

-将来、音楽活動をされる上でも刺激になりそうですね。

原  直接関わってこなくても、美術・音楽・文学は、常に関係していますからね。

-それにしても、中級クラスから始まったのはすごいですね。

原  いえいえ、こちらに来たばかりの時は全然ダメでしたよ。日本で勉強していたといっても話す機会はありませんでしたから。

ペルージャでオペラ鑑賞
ペルージャでオペラ鑑賞

-日本でも文法などは勉強されていたんですよね。

原  はい、学校でも授業がありましたし、卒業してからもイタリア語の学校に通っていました。

-やはりそういう準備をしておくべきですか?

原  そうですね、ゼロの状態で来てしまうと、まず生活するのが大変なので。旅行会話が出来るくらいには、語学は勉強してからの方がいいと思います。基礎の部分に時間をかけると、せっかくの時間が無駄になると思うので。

-なるほど。今はどういうところに住んでいるんですか。

原  学生アパートというか、共同アパートです。ここに来る前に、インターネットで不動産屋に頼んで決めました。私はイタリアに住む以上、イタリア人と暮らしたかったので、その希望を出しました。それで今の家を紹介してもらったんですけど、イタリア人の女の子3人と住んでいます。

-楽しそうですね!

原  はい。すごくラッキーでした。家もきれいだし、みんなすごくいい子たちなので。

-その方々は学生さんですか?

原  国立ペルージャ大学に通う子たちです。経済・生物などみんな専攻はバラバラなんですけど、ひとり語学系の勉強をしている子がいて、よく助けてもらっています。

レストランで先生とクラスメイトとのディナー
レストランで先生とクラスメイトとのディナー

-最初から意思の疎通はうまくいきましたか?

原  必要最低限のことは言えたんですけど、それ以外の日常的なおしゃべりになると、最初はなかなか入りにくかったですね。テンポもすごく速いし。でも、だんだんその人のしゃべり方に慣れてきて、向こうも慣れてくれたのもあって、一緒に買い物に行こうとか、誘ってくれるようになってきました。

-話す機会がないと覚えませんもんね。
 
原  語学留学で、イタリア人の友達を作るのは難しいじゃないですか。なので、家でもずっとイタリア語を話さなければいけない環境に自分を置けたのは、とても良かったと思います。学校で習っているだけじゃ、絶対にここまで来れなかったと思います。

-今の学校はどこの国の人の方が多いんですか?

原  この学校は、イタリアの国立大学が、外国人に向けて語学や文化を教えるために作った学校なので、世界中から学生が集まっています。EU圏の学生は、短期で来ている人が多いですね。あと、大学と中国の間で交換留学をさせるプログラムがあるみたいで、中国人専用のクラスがあります。

-ほかの学生さんと話す時もイタリア語ですか?

原  下のクラスだと、英語だったりします。あと、中国人は固まって中国語でしゃべってますね。日本人も同じです。今のクラスでは、日本人は私一人だけなので、私は必然的にイタリア語だけですね。

-語学留学するからには、その国の言語を話すべきですよね。その点、原さんはイタリア語漬けの生活を自ら選んだということですよね。素晴らしいです。

原  私も日本人が周りにいたら集まってしまうと思うし。やはり、この生活で良かったなって思いますね。

-細かい話ですけど、みんなでご飯を作ったりはしますか?

原  はい。基本は自分のものは自分で作るんですけど、みんな私よりもお料理が上手なので、よく作ってもらっています(笑)。ごくたまに私も日本の料理を作ってあげることがあるんですけど。イタリア人はトマトソース・サラミ・チーズ・ワインなど、なんでも自分の地元のものを一番と思って食べるんです。帰省したり彼女たちの両親が来る度に、食料をごっそり持って来るので、それをご馳走になったりします。

-本場の料理が楽しめるんですね!イタリアだと、やはりパスタですか?

両親がイタリアに来た時にアパートで
両親がイタリアに来た時にアパートで

原  パスタは多いですけど、一日に2回はないですよ。昼はパスタで夜は肉料理とかが普通です。

-日本食を作って食べたりしますか?

原  はい、材料を集めるのが難しいですけど。中国人が経営しているところで、おしょうゆやうどんを買ったりします。お好み焼きやカレー、焼うどんなどを作りました。

-やっぱり、日本の味が恋しくなりますよね。

原  恋しくなりますね。日本の食材は、来る時にたくさん持って来ましたし、先日も両親に送ってもらってたりして、けっこう充実してはいるんですけど(笑)。

-生活費は、月にどのくらいかかりますか?

原  家賃なども入れて、だいたい10万円くらいでしょうか。家賃がそんなに高くないので。光熱費はシェアですしね。

-シェアしたほうが安上がりですし、いい経験も出来て良いですよね。

原  こちらでは、ルームシェアが基本です。一人住まいもありますけど、料金が高いので、大抵みんなシェアしています。

-今、ペルージャにお住まいということですが、オペラを観に行ったりはしますか?

原  ここからだとフィレンツェまで電車で約2時間、ローマまでは3時間くらいで行けるんです。なので、そこに行った時は、オペラにも行きますね。泊りがけでヴェローナまで行って、野外オペラを観たりもしました。ペルージャでのオペラ公演は、年に一回しかないんですよ。それは残念なんですけど、オペラ以外のコンサートは頻繁にあります。

-声楽に触れる機会もあるんですね。ちなみに、生のオペラはいかがでしたか?

原  やっぱりすごく素敵でしたね。日本で観るのとは違うし、安い料金で気軽に観にいけるのが魅力ですね。あと、観ている人たちもノリが違うというか、心から楽しんでいて、その雰囲気も味わえるので、すごく楽しいです。

-劇場も大きいんですか?

原  基本的にイタリアの歌劇場は日本のように大きくはないです。馬蹄型の劇場で内装やシャンデリアもすごく素敵な劇場です。

-安く観られるんですか?

原  ペルージャで観た時は、10ユーロでした。普通料金は15ユーロなんですけど、学生料金があるので。

-それはいいですね!たまに歌いたくなったりしないんですか?

書籍出版記念のセレモニーで歌唱中
書籍出版記念のセレモニーで歌唱中

原  大学の授業で音楽史の授業があって、そこに教えに来ている先生がペルージャ音大のピアノの先生なんですよ。その先生が、学校のホールを使ってピアノを弾き、私たちに歌わせてくれるんです。そこで、たまたま先生が、私の声を気に入ってくださって。何度かコンサートを企画してくださったりしたんです。あと、学校の校舎が貴族の宮殿を使っているため、この建物の歴史に関する本が出版されたとき、セレモニーがあったんですが、そこで歌わせてもらったりもしました。なので、本当に私はラッキーだったんですが、歌う機会はあるんです。まだ帰国するまでに2回ほどコンサートの予定があります。

-それは素敵な縁ですね!

原  あとは、大学にある合唱団でソプラノが少ないから、ソプラノの声を厚くするために助けてくれないかって言われたりして(笑)。12月には合唱団の演奏旅行に付き添って南イタリアのバーリまで行ったりもしました。

-充実してますね!

原  本当に充実しています。

-今年の3月以降は、日本に帰国されるんですか?

原  3月の末日までテストがあって、バタバタ帰国するのはいやなので、滞在としては4月末までのつもりです。

-イタリアで音楽活動と言うわけではなく、とりあえず帰国なんですね。

原  音楽活動は考えていなくて、きちんとした仕事があれば、イタリアに残りたいと思っています。難しいことですが、今色々な人に話を聴いたりしていて可能性を模索している最中です。何もしないと後悔すると思うので、自分が納得できるところまで挑戦して帰るつもりです。

-イタリアは原さんに合っていましたか?

原  そうですね、生活のリズムや考え方とか、日本とは全然違うので、来たばかりのときは戸惑いましたけど、私の性格にはイタリアの方が合っているかなと思います。電車が遅れても待たされても別にいいやみたいな感じで(笑)。食べ物も好きですしね。

合唱団の演奏旅行で
合唱団の演奏旅行で

-それでも最初は戸惑ったんですね。

原  はい。イタリア人と一緒に生活していく上でけっこう戸惑いましたよ。最初に言ってたこととことが、いつも間にか変わってたりとか。キチンキチンとはしてないですからね。この前言ってたのと違う!っていちいち気にしてると、ストレスたまりますよ。

-手続きなどをしていても、適当だという話は良く聞きますよね。

原  学校の事務も警察なんかも、大体いいかげんですね。行くたびに言われることが違うし…。慣れるといつものことだって思えますけど。

-環境に自分を溶け込ませていくのは大事ですね。

原  イヤになってしまう人は1ヶ月でイヤになるみたいです。イタリアは好きだけど、生活は出来ないって。

-外国に住む場合は、うまく対応しないとストレスたまりますもんね。

原  そうですね。根底はしっかりとした考えを持って、細かいところは状況に対応出来るようにしていたほうがいいかもしれないですね。自分の中に一本柱がないと、いろんな方向に流されてしまうこともあるので・・・。麻薬とかも簡単に手に入りますから、自分ををしっかり持っていないと、流されてしまうと思います。

-信念は強く持つべきですね。イタリア語はもう問題なく話せるんですか?

原  日常会話は、だいたい大丈夫です。

-英語であれば、日本の学校での積み重ねがありますけど、イタリア語はなかなか基盤がないので、難しそうですけど。

原  響きだとか、イタリア語自体が好きだったというのもあるかもしれないですね。最初は私も英語が話したくて勉強していましたが、発音は英語のほうが難しいんです。ただイタリア語の文法は英語の何倍も大変です。

-自分に合う言語っていうのもあるのかもしれませんね。さて、そもそも原さんが声楽を勉強しようとしたきっかけは何だったんですか?

原  長くなりますが・・・。母親が音大卒だった関係もあり、私もピアノをやったりしていたんですが、興味はなかったんです。高校に入るときまでは、医学部に行こうと思っていましたし 。それが、中学卒業くらいの時に、テレビで宝塚を観て一気に魅了されてしまったんです。そこから、どんどんあの世界に入り込んでしまい、ついには宝塚歌劇団に入りたい!という所まで行ってしまったんです。親には大反対されたんですが、母の声楽の先生に、「やりたいようにやったらいい。でも本当にやりたいなら、明日からレッスンやり始めなさい」って言われたんです。そこで「じゃあ始めます」って宝塚の予備校に通い始めたんです(笑)。今までダンスなんかやったことなかったのに。

お家で手作りディナー
お家で手作りディナー

-最初は宝塚志望だったんですか!?

原  はい。ところが、その予備校の優秀な先輩たちが、全員試験に落ちちゃったのを見て、あんな優秀な人たちがだめなら、私にはとうてい無理だろうって、妙に納得しちゃったんです。そして、ちょうどそのとき、今度は劇団四季のミュージカルを観る機会があって。劇団四季は、ダンス部隊と歌部隊に分かれているんですよね。そして歌部隊には、音大出身の人も多いんです。ミュージカル自体が大好きだったので「こっちなら出来るかもしれない!それなら音大に行かなければ!」と思い、音大受験の勉強を始めました。

-ミュージカル歌手志望に変わったわけですね。

原  はい、ですから、東京音大に入った当初はクラシックに興味がなかったんです。私はミュージカルをやりたいんだからって。でも、大学3年のときに声楽演奏家コースのオーディションに受かり、本格的にオペラの勉強をしていくうちに、クラシックって面白いんだなって思うようになったんです。そして、実は4年生の時に、四季のオーディションに受かったんですけど、大学院に行くか四季に行くかすごく迷ったんです。そして、「今ここでミュージカルをやったら、クラシックの声にはもう戻れないだろうな」と思いまして。本当にやりたかったら大学院を出てからでも出来るだろうと。

-クラシック一本ではなく、変化して来ているんですね。だから視野が広いんですね。それにしても、宝塚にあこがれる気持ち、分かりますよ。

原  あれで大きく変わりましたね(笑)。

-きっかけって人それぞれですよね。今、ミュージカルに対する気持ちは?

原  コンサートなどで歌う機会があれば歌いたいですけど、ミュージカルはリズム感やセンスも必要なので難しいですよね。私もミュージカルはすごく好きですけど、心からミュージカルに惚れている人じゃないと続かないと思います。大変な世界ですからね。

-今後は、音楽を続けていかれるんですか?

原  はい、そうですね。音楽は音楽で続けていって、あとはどういう仕事をしていくかっていうのが問題ですね。イタリア語だけだと日本では活かすのは難しいので、やはり英語も使えるようにしないと・・・。どの仕事も英語があってこそと言う感じなので。

-次から次へと目標があって素晴らしいですね。

原  実際に活かしていかないといけないから、どうやってこの先につなげていこうかいつも迷っています。

-いろんな可能性を考えられるのは素晴らしいことですよ。

原  音楽だけでやっていくのはすごく大変なので、他に可能性を見つけていかないといけませんから。音楽をやっている多くの方は、おうちも裕福で、いつも親の援助が得られる感じですよね。私もそういう家庭で育ってきたので、甘えることは可能なんですが、私はそれがいつも重荷になっていて。ちゃんと自立するためにはどうしたらいいんだろうと悩んでいます。

アパートの自室からの眺め
アパートの自室からの眺め

-今やっていることは、将来を作ってくれると思いますよ。原さんの今の夢は何ですか?

原  イタリアで仕事をするか、いつもイタリアと関わっていけるような仕事が出来ればいいなと思っています。

-イタリアとの出会いは、大きかったんですね。応援しております。では、海外で勉強したい人にアドバイスをお願いします。

原  まずは思い切りが大切だと思います。行きたいなら思い切って挑戦してみるべきだと思います。あとは、きちんと下準備をしてから来ることも大切。自分でできることはなるべく自分の力でする、というのも大事だと思います。

-今日は本当にありがとうございました!

桂真也さん/オーボエ/クールシュベール夏期国際音楽アカデミー/フランス・クールシュベール

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。


Image桂真也さんプロフィール
中学校のとき吹奏楽部でオーボエを始める。
和歌山大学教育学部に入学し、オーボエを専攻。大学院では音楽教育を専攻。2009年夏、クールシュベール夏期国際音楽アカデミーを受講。現在、和歌山大学大学院教育学研究科音楽教育専修在籍。

-最初に、桂さんのご経歴を教えてください。

桂  中学生のときに吹奏楽部でオーボエをやっていたことが始まりで、高校では部には入らず、個人的に先生について習っていました。大学は音大に行っても、音楽一筋では食べていけないだろうと思ったことと、それでもオーボエを続けられる学部を、ということで教育学部に進学し、音楽を専攻しています。ここで米山先生という方に師事して今に至っています。

-今回、オーボエを学びに海外へ行くきっかけは何だったのでしょうか?

桂  日頃から大学の先生に、西洋音楽は西洋のものだし、現地の雰囲気の中でやる音楽を、一度生で聴いたほうがいいと言われていたのが一つです。そして、今回担当されていたジャン=ルイ・カペツァリ先生が、米山先生のお知り合いということも、もう一つのきっかけです。カペツァリ先生が日本に来られたときに、米山先生が通訳をされたこともある、というご関係だそうです。

-では、師事されている先生のご紹介で、ということが大きかったのですね。

桂 そうですね。

-桂さんご自身も、もともとジャン=ルイ・カペツァリ先生にご興味があったのでしょうか?

桂  いえ、言われるまでは知らなかったですし、フランスのオーボエ自体、全然知らなかったんです。日本ではドイツ系に触れることが多いですから。ただ、もうひとつのきっかけとして、和歌山市の海外派遣制度っていうのがあって、その存在を知ったことも大きかったです。

-それは助成金が出る制度ですか?

桂  そうです。講習会費用や、現場での滞在費の半額を、市が負担してくれるという制度です。

-素晴らしい制度ですね! 志望された方全員が、受け入れてもらえるものなのですか?

桂  今年は、4人受験して3人が合格しました。音楽だけでなく、美術の方もいましたね。芸術分野に限られているんですけど。

-実際、クールシュベールに行くにあたって、不安はありましたか?

桂 やっぱり、フランス語が全然出来ないっていうのが一番でした。それと、海外に行くこと自体が初めてだったので、不安でした。

-実際にフランスに行ってみて、行く前に思い描いていた印象と、どう違いましたか?

桂  フランス人は、外国の人に対して冷たいとか、プライドが高いって聞いていたんですけど、そんなことはなかったです。空港でも、わからないことがあったとき親切に対応してくれたし、迎えに来てくれた方も、フレンドリーでした。

-英語は通じましたか?

桂  英語は普通に通じましたよ。でも、やっぱり話していると、いつの間にかフランス語になっていくってことも多かったですけど(笑)

-では、思っていたよりみんな親切だったんですね。

桂  はい。でも、最後に泊まったホテルは治安の良くない場所にあって、ちょっと怖い感じの人が多くてドキドキしましたけど。

-そうだったんですか。講習会についてお伺いしますが、全体の人数はどのくらいでしたか?

桂  全体の数は把握していないのですが、オーボエだけで25人でしたから、今年は非常に多かったようです。

-レッスンのペースは、どのような感じでしたか?

桂  先生がジャン=ルイ・カペツァリ先生とジェローム・ギシャール先生の二人だったんですが、前半、カペツァリ先生がいらっしゃらなかったので、ギシャール先生のレッスンが2日に一回くらい。その後は、二人の先生に一日おきに交代で指導してもらったので、毎日レッスンでした。

-二人の先生が、交代で毎日指導してくださるっていうことなんですね。それではけっこうお忙しかったのではないですか?

桂  そうですね。

-室内楽などには参加されましたか?

桂  参加してないです。

-レッスンで、先生方に見てもらった曲数は、どのくらいですか?

桂  3曲です。

- 一曲一曲を、しっかり細かく指導してもらうという感じですか?

桂  そうですね。伴奏も、あちらで用意してくださって。伴奏専門のピアニストの方とも合わせたりしました。

-二人の先生に指導していただけたということですが、お二人の指導法の違いはありましたか?

桂  お二人は非常に仲が良くて、それぞれ教える分野をわけていたようです。ギシャール先生からは、主に、曲の解釈の仕方やリード作りなどを、カペツァリ先生からは基礎的な呼吸法や力の抜き方などを教わりました。

-レッスンの雰囲気はいかがでしたか?

桂  基本的にグループレッスンで、笑いが絶えず、わきあいあいとしてました。僕以外はフランス語だったので、細かいことはわかりませんでしたが。

-どこの国の参加者が多かったのですか?

桂  フランス人ですね。先生の門下生が、そのまま来ているという形で。

Image-日本人は、桂さんだけでしたか?

桂  いえ、去年、クールシュベールに参加してから留学されている方がいて、二人でした。あと、台湾人が一人で、他は全部フランス人でした。

-基本はグループレッスンなんですね?

桂  そうですね、5人ごとのグループに分けられて、そのメンバーでレッスンを受けていました。

-練習は、皆さんどこの場所で、どのくらい練習していたのですか?

桂  ピアノの人達は、練習室を割り振られていて、決められた時間しか練習できなかったようですが、僕たち器楽チームに関しては、練習場で朝の8時から夜の8時まで、自由に練習ができました。なので、練習時間には困らなかったです。

-練習以外の時間は主に何をされてましたか?

桂  まずは練習でしたけど、それ以外は、リードを作り変えたりしていました。日本のリードが全く使えなかったので。あとは、洗濯とか...(笑) コインランドリーがすごく高かったので、部屋で手洗いしてました。

-街には遊びに行きましたか?

桂  けっこう行きました。でも、現地はスキー場なので、夏は閑散としていて、お店の営業時間が短かったんです。スーパーなんて、お昼前後と夕方少ししか開いてなかったりして。それは、ちょっと苦労しました。

-水とか、必要なものをそろえるのは大変だったんですね。

桂  水はホテルのカフェで買えました。でも、部屋の洗面所のお水も飲める水だったんです。冷たくておいしかったですよ。山があったりしてキレイな場所なので、水もおいしいんですね。

-治安は問題なかったですか?

桂  全然問題ありませんでした。リゾート地なので、バカンスを楽しむ人々ばかりで。

-一般の観光客も滞在しているのですが?

桂  はい、観光されてる方もいらっしゃいましたし、スポーツを楽しまれている方も多かったです。夏場だけでしょうけど、自転車のコースがあったりしました。

-では、のんびりと、リラックスした感じの所だったんですね。

桂  はい。天気もよくてとても過ごしやすい、とても良い所でした。日本みたいに、蚊とかの虫もいないし、静かで快適でしたよ。

-日中は暑かったですか?

桂  全然! とても涼しかったです。朝晩は冷え込んで、息が白くなるくらいでした。毎年、この講習会は、天気が荒れると言われているそうなんですが、今年は全然雨も降らずに、いいお天気が続いてラッキーでした。山の上のほうでは、雪が積もったと聴きましたけど。

-宿泊先のホテルはいかがでしたか

桂  ホテルは、すごく良かったです。パンフレットを見たら、4ツ星で、冬は一泊最低でも500ユーロもするような所だったようで、とてもキレイでした。料理はちょっと残念・・・なものもありましたが(笑)

-主にどういった料理が出ましたか?

桂  基本フレンチばかりで。メインがあってサラダがあって、という感じです。朝晩の食事が出て、昼は自分で買う形でした。

-日本食はないですよね。

桂  お米は何回か出たんですけど、お米じゃなかったです・・・パサパサしてて、「何だこれは!?」みたいな(笑)

-街には、外食できるような場所はありましたか?

桂  はい。カフェや、簡単なご飯が食べられる小さい店がありました。でも、カフェは割高なので、売店でサンドウィッチとかを買って食べてました。

-ホテルのお部屋は、講習中は相部屋ということですが、ルームメイトはどんな方でしたか?

桂  韓国人の方でした。高校のときからリヨンにピアノ留学していて、今もリヨンの大学に通っているそうです。コミュニケーションは英語だったんですけど、同い年だったので、すごく仲良くなりました。普段の生活がだいたい一緒で、フランス語で書かれている掲示物を、英語に訳して教えてくれたり、とても親切でした。彼の友だちの韓国人とも仲良くなりましたね。

-それは良かったですね! 何か、文化の違いで驚いたことはありましたか?

桂  ヨーロッパのほうでは、携帯がすごい発達してるな、と思いました。メールをあまり打たないからか、i-phoneとか、高性能のタッチパネルの携帯が流行ってました。あと、多くのフランスの人が、日本にすごく興味を持っていることに驚きました。「これは日本語で何ていうの?」とか「日本のどこどこに行ってみたい。」とか、よく言われました。

-では、外国の方ともお話しする機会が多かったのですね?

桂  はい、日本人と一緒にいることは、ほとんどなかったです。そのほうが面白いですし、せっかく行ったんだから、外国の人と話したかったし。

-フランスのお友だちともコミュニケーションは英語で?

桂  はい。すごくしゃべりにくそうでしたけど(笑)。お互いカタコトの英語で・・・。

-楽しそうですね。だいたい同年代の方たちでしたか?

桂  そうですね。だいたいは。

-フランスの方や同室の韓国人の方もですが、言葉が通じないなりの、コミュニケーションのコツみたいなものはありますか?

桂  まずは、挨拶をすることですね。むこうの人たちは、全然見知らぬ人でも、すれ違ったら「ボンジュール」とか、挨拶しますよね。日本では、そういうことってあまりないから、最初は意識してたんです。でも慣れてきてからは、自然に出来るようになりました。あと、話しかけられて、うまく答えられなくても、頑張って答えようとしていれば、それを汲んでくれました。だから、全然会話が成り立たなくても、最後は笑いで終わったりするので、積極的に、些細なことでも質問したり答えたりってことが、うまく付き合うコツかなって思いました。

-なるほど。 語学の重要性は、改めて感じましたか?

桂  それはもう(笑) 日本の英語って、「読み・書き」ですよね。でもやっぱり口に出してしゃべって、誰かに話しかけないと、語学って伸びないなって思いました。今回、たった2週間でしたけど、今まで勉強した以上に英語の力が伸びた気がします。

-素晴らしい! フランス語を話す機会はありましたか?

桂  もう、挨拶くらいでした・・・(笑)フランス語は全然ダメで・・・、英語に頼りっぱなしでした(笑)

-出発前はフランス語の準備はしましたか?

桂  挨拶程度は、本を買って勉強したんですけど、それくらいですかね・・・。

-講習会の最終日に行われたコンサートはいかがでしたか?

桂  コンサートは最終日とその前日の2日間、町のホールで、先生に選ばれた生徒が出演するコンサートがありませいた。僕は選ばれなかったんですけど、オーボエは4人選ばれました。

-実際聴いてみていかがでしたか?

桂  やっぱりみんな、本当にうまいなぁーーって思いました。すごく刺激になりましたね。

-滞在中になにか困ったこととか、ピンチの場面等はありましたか?

桂  クールシュベールでは全然なかったんですが・・・。行きの飛行機が遅れて、乗り継ぎの飛行機を次の便に変更する手続きが大変だったのと、フランスに到着して、お迎えの人がいなかったことですかね。あと、帰国するとき、空港まで電車を利用しようとしたのですが、駅のホームが複雑で、どこにその電車のホームがあるか分からなかったことです。

-それは大変でしたね。 行きの飛行機は、台風で遅れたんですよね?

桂  そうです。ちょうど関西に近づいてて、1時間半くらい。なんとか英語で乗り切りましたけど。。

-それは焦りますね。 帰国日の電車も無事に乗れましたか?

桂  はい。電車のホームのほうも、周りにいた方に聞いて教えてもらえたので、何とか無事に辿り着くことができました。

-今後留学される方に、「これは準備したほうがいい」というようなアドバイスはありますか?

桂  そうですね。ある程度は、現地の天気や習慣のことを知っておいたほうがいいと思います。あと、ピアノの人は、練習時間がとにかくないから、曲をしっかり練習しておくこと。木管楽器に関しては、クールシュベールに限ってかもしれませんが、リードが全く使えないので、リードを作るセットは一式もって行ったほうがいいと思います。

-生活面で、「これは持っていくと便利」というグッズはありますか?

桂  洗濯用の、洗濯バサミがたくさんついた小さな物干し。実際、持っていったんですけど便利でしたよ。

-今回、このクールシュベールの講習会に参加されて色々な出来事があったと思いますが、参加して一番良かったこと思うことは何ですか?

桂  そうれはもう、やはり、生でフランスの演奏が聴けたことですね!レッスン中にも、先生が吹いてくれたりすることもあって、それだけで感動してしまって。先生方のミニコンサートでも、演奏が終わるたびに大きな拍手があがるくらい、すばらしい演奏でした。先生方のミニコンサートは4回あったのですが、そのうち1回、クラリネット演奏集団Les Bons Becsが来たんです。日本では、あまり知られてないんですけど、フランスではすごく人気があって。クラリネットを使って、面白いパフォーマンスを見せてくれたんですけど、本当に楽しかったですね。

-日本と海外での音楽の教え方の違いのようなものは感じましたか?

桂  むこうの人は、すごく褒めてくれるんですよね。出来た瞬間、絶妙なタイミングで褒めてくれるので、それが気持ちよかったです。あと、とにかく、「色を考えろ」と言われました。曲の色合いを考えてその音を出さないと、と。いくら曲の解釈ができていても、音色がしっかりしていないと台無しだと言われましたね。

-色を考えて吹く、ですか。

桂  はい。最初は、いまいち分からなかったんです。でも先生の演奏を聴いていたら、一本のオーボエなのに、いろんな音色が聴えるんですよ。「これがフランスのオーボエか!」って感動しました。

-確かにフランスの音楽は色彩的でキラキラしているイメージですよね。

桂  はい。本当に。あと、リードの作り方も全然違うんですよ。その作り方も参考になるな、と。

-今回のご留学で、フランスの音楽を身近に体感して、自分自身、成長したなって思うことはありますか?

桂  曲にあった音作りと言うのでしょうか、そのために、呼吸法を改善したりできました。

Image-それでは最後になりますが、今回の留学を経て、今後の音楽活動において何か新しい目標は出来ましたか?

桂  今、大学での僕の研究テーマは、「音楽のアウトリーチ」なんです。これは、学校や老人ホームなどの施設に出向いていって、普段、生の音楽を聴けない方に音楽を提供するというものなんですけど、今回の留学経験は、これに生かせると考えています。留学で得たことを表現できるように頑張りたいです。

-また留学してみたい、という思いはありますか?

桂  はい、行く前は全然考えてなかったんですけど、機会があればフランスに留学してみたいなって思いました。パリのコンセルヴァトワールなんて、学費が年間400ユーロくらいって聞いたので。

-ヨーロッパは本当に学費が安いですから。日本の大学と比べたら…驚きますよね。

桂  ですよねー!安くいけるって聞いたので、チャンスがあればぜひ行ってみたいです。

-将来の夢は? 音楽家になりたいとかありますか?

桂  いえ、小学校の教員を目指してます。中学校は教科担当ということで、音楽に接する時間はあるのですが、小学校のほうが子どもと触れ合う時間が多いですから。子どもたちとの距離も縮まると思うので、小学校の教員になりたいな、と。

-そうですか!桂さんならきっと優しい先生になると思います。クールシュベールの経験を生かして、これからも、勉強と音楽を続けて頑張ってください。

桂  はい、ありがとうございます。

-本日は、お忙しいところ、本当にありがとうございました。

北村まりえさん/ピアノ/シュリッツピアノ夏期講習会/ドイツ・シュリッツ

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。


Image鈴木美緒さんプロフィール
愛知県出身。フェリス女学院大学音楽学部演奏学科卒業。同大学院音楽研究科在籍。第12回ペトロフコンクール奨励賞。アジア国際コンクール2007優秀賞。翌年マレーシアで開催された受賞者記念演奏会に出演。これまでに小栗多佳子、小山明子、堀由起子、黒川浩の各氏に師事。2009年シュリッツピアノ夏期講習会参加。



-まずは、北村さんの簡単なご経歴を教えてください。

北村  フェリス女学院ピアノ科を卒業して、現在、同大学院音楽研究科の1年生です。

-ピアノは何歳から始められたんですか?

北村  3歳からです。親もピアノの先生をやっていまして、その影響で始めました。

-今まで、講習会に参加されたことはありましたか?

北村  いえ、今回が初めてです。

-海外に行かれたご経験はありましたか?

北村  はい。去年、マレーシアに演奏旅行で行きました。講習会ではなく、コンクールの関係で。

-マレーシアはいかがでしたか?

北村  マレーシアの現地のツーリストが企画して、様々な場所に案内してくれました。日本人があまり行かない所が多く、とても面白い体験でした。少し危ない感じもありましたが。

-そうだったんですか。では、今回、講習会に行きたいと思ったきっかけを教えてください。

北村  卒業後の進路として、留学も視野に入れてみたいと考えていまして、それにはとりあえず行って、現地の雰囲気を味わってみないことには、と思ったんです。そこで、今回参加することにしました。

-候補地としては、ドイツとフランスでしたよね?

北村  ええ。でも、先生に勧められたこともあり、ドイツに決定しました。

Image-講習会の参加者は、どのくらいの人数でしたか?

北村  全部で24名で、日本人8人、スペイン、ドイツ、ブルガリア、韓国、イタリア、ロシア、ポルトガル・・・と、世界各国からのメンバーでした。

-楽しそうですね。講習会のスケジュールは、どんなふうに組まれていましたか?

北村  初日に行ったら、ファイルが置いてあり、月曜日から日曜日までの先生のスケジュールが書かれていました。時間割のように、その日ごとにレッスンが組まれていて、コンサートの開催日も書かれていました。コンサートは全部で7回あり、2日に1回くらいの割合でありました。でも、自分がどのレッスンを取れるか、分かるのは前日でした。

-レッスンは1時間くらいですか?

北村  はい。9時半から18時半までの間に、レッスンが行われました。昼休みをはさんで、①語学コースを取っている人は午後、それ以外の人は午前中という感じで、振り分けられていました。

-ハードスケジュールでしたか?

北村  いえ、けっこうゆっくりしていました。練習もしっかり出来ましたし。レッスンは、1日1時間見てもらうだけですから、①語学コースを取っていない人は、時間がありました。

-練習をしつつ、語学の勉強もしつつ、という感じですか?

北村  そうですね。午前中は語学、午後はピアノ、夜はコンサートとディナーという感じです。

Image-先生は、それぞれどんな感じでしたか?

北村  ナットケンパー先生は、ドイツ系の曲を丁寧に見てくださいました。リーガー先生は、とても優しくて、細かくペダリングも教えてくださいました。ウタ先生は、女性の先生で、細かく見てくれるので人気がありました。実際、ソリアーノ先生に習いたくて参加した人が半数以上でした。有名な方で、先生の授業は希望を出さないと受けられなかったんです。みんなが希望するので、時間がなくて5分で終わっちゃう人もいました。お年を召した方で、すごく優しかったです。先生も、けっこうペダルを使うように指導される方でした。ウタ先生は、ソリアーノ先生のお弟子さんなんですよ。この二人は、古典でもペダリングを入れる先生で、私はあまり使わないので、新鮮な感じでした。

-いろいろな先生のレッスンを受けられたんですね。レッスンで印象に残っていることは?

北村  リーガー先生のレッスンのときに、スキルチェックがあったんですけど、音の出し方がうるさいと言われました。日本の教室ではちょうどいいんですけど、ドイツでは部屋が広くて音が響きますから、耳を使うのが大事なんだな、と思いました。

-レッスンはドイツ語でしたか?

北村  英語オンリーでした。

-練習室が豊富にあるそうですが。

北村  はい、15室ほどありましたが、取り合いでしたよ。部屋の前に、2時間区切りで予約票が貼ってあって、そこに名前を書き込む形でした。でも、実は私が到着したのは、みんなが到着する1日前だったので、取り放題だったんですよ(笑)。なので、練習室の確保は心配ないはずだったのですが、しょっちゅう他の人たちから、代わってくれと言われました。、日本人は、英語が話せなくて何も言えないから、という感じで名前を覚えられてしまって。私の名前が書いてあると、勝手に入って使っている人もいたりして、それが大変でしたね。

Image-そのときは、ノーと言ったんですか?

北村  その人がコンサートに出て、自分は出ないというときには、けっこう譲りましたよ。全部で10時間くらいは譲ったと思います。それは別に良かったんですけど、もうちょっと英語が話せたらと思いましたね。

-レッスン以外の時間は何をされていましたか?

北村  必ず毎日1時間はお昼寝をしていました(笑)。あと、夕ご飯後、練習も終わった後は、カフェテリアでウノをしたり、ゲームしたり、お茶したり・・・。みんなで自由に過ごしてましたよ。トランプやウノは、英語が話せなくてもみんなと楽しめますから(笑)。

-街の様子はどんな感じですか?

北村  治安が良いのか悪いのか分からないくらい、人が少なかったです(笑)。でも、とにかくキレイな所でした。練習室から見える森林の風景なんて、3時間くらい眺めていられるんじゃないか、っていうくらいキレイでした。

-雰囲気としては、ドイツの古い街という感じですか?

北村  そうですね。たまに、おじいさんやおばあさんが散歩しているのを見かけるくらいの、静かな街でした。

Image-どこか遊びに行った所はありますか?

北村  日曜日に、サイトシーイングという企画があって、ウタ先生が車で連れて行ってくださったんです。フルダのお城に連れて行っていただいたんですが、ガイドも英語だったので、何を言っているか分かりませんでした・・・。それよりも、自分たちで歩いて行けるところまで行ってみようといって、お店屋さんを見て回ったのが楽しかったですね。薬局とかも、日本とは違うので面白かったです。

-宿泊先はいかがでしたか?

北村  すごくキレイで、何の問題もありませんでした。タオルも置いてあったりして。

-ルームメイトはどんな方でしたか?

北村  アルメニア人の方でした。とてもいい人で、ピアノもすごく上手な人でした。外人の方って、日本人ほど気を使わない人が多いですよね。それが逆に良かったです。こちらも気を使わなくて済みますし。

-会話は英語でしたか?

北村  はい。彼女はアメリカ人の旦那さんがいるので、英語はもちろん、ドイツ語、ロシア語、アルメニア語・・・なんでも話せる人でした。

Image-宿泊先と講習会場はどのように移動されたんですか?

北村  真隣だったんです。徒歩30秒くらいでしょうか。レストランと宿泊先が一緒で、その向かいのお城が練習室だったんです。

-お城ですか!?

北村  すごくキレイでしたよ。夢のようでした。

-レッスンをした場所は、どんな所でしたか?

北村  お城の中でした。聴講は可能なのですが、最初はみんな、自分の練習ばかりしていたんです。それを見たウタ先生が、「この講習会では、練習だけではなくて、他の人の演奏を聞く事も大事だ。」と言って、練習室を使用禁止ににしたんですよ(笑)。なので、他の方のレッスンも聴講してましたが、ドイツ語だと分からないのが辛かったですね。

-今回は言葉の壁が大きかったということですね。

北村  そうですね。レッスンのときは、先生が実際に弾いて見本を見せてくださったりするので、おっしゃっていることは分かるんですけど。

-聴講は、いい勉強になりましたか?

北村  はい。上手な人やファイナルに残った人の練習を見ていると、レッスンで先生に言われたことを、どのように本番に持っていくのか、というのを見られてよかったです。自分でどう納得して直していくのか、という部分も客観的に見られるので、「この人はこの先生に見てもらってよかったな。」というのが分かったりして、おもしろかったですよ。

-語学レッスンはいかがでしたか?

北村  1時間半すべて英語ですので、2週間だけでしたが、ずいぶん分かるようになりました。教材も200枚くらいもらいましたし、とても熱心に教えてくださいました。

-語学レッスンを受けられた人は少なかったそうですが。

北村  少なかったですよ。英語レッスンに2人、ドイツ語レッスンに4人だけでした。ほとんどプライベートレッスンという感じでした。でも、最初の数日間はABCからだったんです!それはさすがに分かるよ!って思いましたけど(笑)。

-最終的には何を勉強したんですか?

北村  途中先生が変わったんですけど、ある先生は、音楽の専門用語を教えてくださいました。西洋音楽の古典用語とか。

-海外で学ぶと、理論が分からないという方が多いですものね。

北村  そうですね。専門も英語で勉強できたのは良かったです。しかも少人数レッスンでしたから。

-講習期間中のお食事はいかがでしたか?

北村  バイキングだったんですよ。朝は、ずっと毎日パンとハムという同じメニューでした。お昼は、お肉料理が多くて、スープに、メイン、ポテトにデザートという感じでボリュームたっぷりでしたね。その代わり、夜はソーセージとポテトだけとか、チーズトーストだけとか、とても質素でした。でも、すごくおいしかったですよ。バイキングですから、量も自分で決められるし、好きなものを食べられたので、食事は問題なかったですね。もともと私は、好き嫌いなく何でも食べるタイプですから。でも、中には、全然食べられずにいた方もいらっしゃいましたね。

Image-外食はしましたか?

北村  最後の日にランチをしました。けっこう高かったですけど、チキンのグリルを食べました。あと、サイトシーイングのときは、ウタ先生が全員に、ケーキとお茶をご馳走してくれたんですよ。ケーキはすごく大きくておいしかったです。

-では、食べ物では、ホームシックにはならなかったんですね。

北村  はい。不安な人は、インスタントの味噌汁とか持って行くといいと思います。お湯も沸かせますし、電子レンジも使えますから。

-海外の人と上手く付き合うコツはありますか?

北村  笑顔を大事に、たくさんコミュニケーションを取ることでしょうか。言葉が分からなくて、内向的になってしまう人もいますけど、自分から話していかないと、何も始まりませんから。

-最初は戸惑いませんでしたか?

北村  ええ、最初はとても。 でも、日本人の方で6年間ロンドンに留学している方がいたので、通訳してもらったり、自分の言いたいことを紙に書いて、添削してもらったりしました。その方が助けてくれたので、本当に心強かったです。ドイツ語が堪能な方もいらっしゃったので、その方にも聞いたりしました。かなり皆さんに助けてもらいましたね

Image-その方たちとは連絡を取っていますか?

北村  はい。参加した日本人5人で、12月に神戸へ旅行しようという話をしています。とても仲良くなりました。

-そういう出会いも、留学の醍醐味ですね。では、留学中困ったことは何かありましたか?

北村  ガス抜きの水を探すのが大変でした。全部炭酸が入っていまして・・・。ご飯のときにもガス入りの水なので、スーパーに買いに行っていました。あと、レストランの人がドイツ語しか話せないこともあって、それもけっこう困りましたね。そんなときも、ドイツ語を話せる方の助けを借りました。

-講習会に参加して良かったことは何ですか?

北村  やはり、出会いですね。あと、同年代の人たちがとても上手で、刺激になりました。もう一度、頑張ってみようと思いました。

-講習会に行かれるまでは、悩みもあったようでしたが・・・。

北村  はい。でも、行って変わりましたね。海外で勉強するのはいいな、と思いました。

-自分では知らなかった、自分の良い点は見つけられましたか?

北村  課題はたくさん見つかりましたね、それはとても収穫でした。

-留学して成長した部分や、変わった部分はどんなところですか?

北村  演奏するときに、視覚で演奏する、ということを考えるようになりました。たくさんコンサートをしたからかもしれませんが、アピールすることは大事だと思いました。パフォーマンスも勉強になりましたね。

Image-それはいい経験でしたね。日本とドイツで大きく違う点は何でしょうか?

北村  練習室の大きさです。日本は6畳くらいの場所にグランドピアノが置いてありますが、ドイツでは40畳くらいのところに、アップライトピアノだったんです。天井も高く、すごく響きが良くて、小さめのホールという感じでしたね。グランドピアノを置いてある部屋なんて、まさにホールでした。

-ピアノのコンディションはいかがでしたか?

北村  良かったですよ。調律もしっかりされてましたし。

-それはよかったですね。では、今後留学する人に、何かアドバイスすることはありますか?

北村  もしドイツだったら、絶対的に古典を持って行ったほうがいいということですね。バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンなどは、やっていて当たり前という感じです。今回、私は、ロシアやチェコの曲を持っていったんです・・・。それよりは、シューマンやブラームスなど、ドイツ出身の作曲家の曲を持っていくべきだったと思います。それだけは後悔しています。

-皆さんも参考になると思います。他の方は、ドイツ系で固めてきた方が多かったんですか?

北村  はい。それから、みんなレパートリーをたくさん持ってきていました。資料には少なくても4曲と書いてあったんですが、みんなリストに書ききれないくらい持ってきていましたね。4曲というのは、本当に最低4曲だと思っていたほうがいいです。

-留学前に、しっかりやっておいたほうがいいことはありますか?

北村  練習と英語ですね。練習に関しては、いつも以上に練習したほうがいいと思います。というのは、コンサートはお城の中で弾くことになります。それに出るには、選ばれないといけないですからね。お城の中で弾くチャンスというのはなかなかあることではないですから、せっかく行くなら、それに懸けて行ったほうがいいと思います。

-北村さんは、たくさん練習しましたか?

北村  4〜5時間です。多く感じますけど、もっとやっている人は、そんなものではないですからね。あと3時間くらいはできたかな、と思います。

Image-皆さん頑張ってらっしゃるんですね。

北村  そうですね、かなり刺激になりました。

-お話していて、講習会に行く前とは変わったなと感じますよ。では、今後の目標は?

北村  以前は、海外に行ったはいいが、帰ってきて仕事がなかったらどうしよう、ということが気になっていましたが、行くことに価値があると思うようになりました。やはり、海外に出てみたいですね。

-もし行くならドイツですか?

北村  はい。これから1年本気で頑張り、来年また講習会に行ってみて、行けそうなら行ってみようかなと思っています。まずは英語を勉強しないといけないですね。英語が出来なければ、先生にレッスンお願いすることも出来ませんからね・・・。

-今、英語は勉強しているんですか?

北村  週1回ですけど。やはり、話せないというのは悔しかったですからね。

-次行くときは、通訳なしですね。

北村  そうできるように頑張ります!

-頑張ってください!今日はお忙しいところ、ありがとうございました。

柴田昌宜さん/指揮/モーツァルテウム音楽大学夏期国際音楽アカデミー/オーストリア・ザルツブルグ

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。

 

受講生と:最終日の演奏会前に受講生全員で
受講生と:最終日の演奏会前に受講生全員で

柴田昌宜さんプロフィール
大阪音楽大学卒業(トランペット専攻)同大学専攻科修了(指揮専攻)。2003年陸上自衛隊に一般幹部候補生(指揮者)として入隊。中央音楽隊に配属され全国音楽隊員に対する教育を担当する。2005年より東部方面音楽隊音楽班長を務め、国家的な式典や各種の演奏会を指揮する。この間モーツァルテウム音楽大学夏期国際音楽アカデミーに参加してディプロマを取得。2007年8月、第1混成団音楽隊隊長(那覇)に着任し、沖縄県下全域において演奏活動の任に当たっている。


―  現在までの略歴を教えて下さい。

柴田 大阪音大にトランペット専攻で入りました。その後、専攻科の指揮専攻に進み、卒業後、陸上自衛隊に指揮者として入隊しました。中央音楽隊から東部方面音楽隊を経て、ザルツブルグの講習会から帰国後の8月から沖縄の第一混成団音楽隊隊長として、沖縄に赴任しています。

―  この講習会に参加されたきっかけを教えてください。

柴田 もともと、海外のマスタークラスに参加してみたいという希望がありまして、色々と探してはいたのです。以前から、モーツァルテウム音楽院夏期国際音楽アカデミーか、ウィーン国立音大の講習会に行ってみたかったのですが、今年8月に転勤することが決まりまして、7月中に参加できるものをと探したら、モーツァルテウムが時期的に合っていました。

―  どのような理由で今回の講習会をお選びになったのですか?

柴田 やはりオーストリアということと、先生ですね。

―  先生は以前からご存知だったのですか?

柴田 ペーター・ギュルケという有名な指揮者で、ベートーベンのシンフォニーなどを校訂している人です。ペーター・ギュルケ版というのが出ているくらい、すごい権威者なので、是非にとは思っていました。
 

本番前日のレッスン風景:アフリカからの参加者が神がかり的な演奏をしました。
本番前日のレッスン風景:アフリカからの参加者が神がかり的な演奏をしました。

―  レッスンの雰囲気はいかがでしたか?

柴田 かなり丁寧でした。日本人みたいでした。本当に基礎から細かく教えていただけました。

―  振り方に関することもありましたか?

柴田 そうですね、振り方に関することもありましたし、音楽的な作り方に関することもかなり緻密に指導されました。

―  特に印象に残っている事などありますか?

柴田 1番衝撃だったのは、「振りすぎだ」と言われたことでした。こちらからしたら、全部に指示を出して、丁寧に振っているつもりだったのですが、先生は、「これでは音楽の流れを止めてしまう」と言われました。

―  それを受けて何か自分の中で変わられたことはあります?

柴田 そうですね、もちろん、音楽の流れを重視するようになりました。

―  レッスンは何語で受講されましたか?

柴田 オーケストラがドイツ・カンマー・アカデミーというオケでしたので、先生はドイツ語と英語を使い分けてらっしゃいました。僕に対しては英語で指導してくださいました。

―  事前に語学の勉強はされていかれましたか?

柴田 いえ、まったくして行きませんでした。

―  英語がお得意なのですか?

柴田 得意というほどではありませんが、まったく分からないということもありません。
 

学校のロビー:優秀者演奏会が終わった
学校のロビー:優秀者演奏会が終わった

―  先生と言葉が噛み合わなくて不便に感じるところはありませんでしたか?

柴田 やはり伝わりにくいことはありました。これはたまたまなのですが、オーケストラのヴィオラ奏者に日本の方がいらっしゃったんですよ。それで、分かりにくい時はその方が間に入ってくれました。

―  レッスンは何時くらいから始まりましたか?

柴田 だいたい朝の10時くらいから、休憩が途中1時間半から2時間くらいあって、5時くらいまで毎日やっていましたね。

―  レッスンはどういう形ですか?

柴田 受講生は僕を含めて全部で6人でした。最初の1日はピアニストが2人入って先生とレッスンを行いました。2日目からは、オーケストラが3,40名くらい入って、あとは先生と受講生という感じでレッスンが行われました。

―  その中で指導してもらう受講生が入れ替わるのですか?

柴田 人によって時間は多かったり、少なかったりしたのですが、僕はかなり多かったですね。午前と午後30分ずつくらいは振らせてもらいました。

―  それは期待されていた、ということでしょうか?

柴田 どうでしょう(笑)。まぁ、何かあったかもしれないですけれど。課題曲にストラヴィンスキーの「ダンバートン・オクス」があって、僕はよく振らせてもらいましたが、受講生のなかにはまったく指揮をさせてもらえない人もいました。曲によって受講生を振り分けていたみたいです。簡単な曲しか、させてもらえない人もいました。

―  生徒さんのレベルによって曲を分けていたということでしょうか。

柴田 かもしれないですね。
 

レッスン風景:イタリア人のレッスン風景(モーツァルトのピアノ協奏曲)受講生は、自分のビデオを持参して、自分の指揮を確認しています。
レッスン風景:イタリア人のレッスン風景(モーツァルトのピアノ協奏曲)受講生は、自分のビデオを持参して、自分の指揮を確認しています。

―  受講生の中に日本人はいましたか?

柴田 いませんでした。僕の他は全部西洋人で、イタリアから2人と、オランダ、オーストリア、南アフリカから一人ずつ来ていました。

―  通訳はつけましたか?

柴田 手続きの時は通訳がいましたが、レッスンには入ってもらっていません。

―  手続きの時の通訳はいかがでしたか?

柴田 とてもよくしてもらいました。

―  練習はどのくらいできましたか?

柴田 指揮は練習というのがほとんどできないですから、宿泊先に帰って楽譜をずっと見ているような状況ですね。結構毎日のチェックが大変でした。復習ですね。次の日、今日教えてもらったことを踏まえてオーケストラを目の前にして振らないといけないので、勉強はかなりしました。

―  それでは、レッスン以外の時間はほとんどを勉強に費やしていたのですか?

柴田 レッスンが終わったあとはオーケストラのメンバーや、ほかの受講者と食事に行ったりしましたので、勉強は朝5時に起きてやっていました。

―  交流を深められたのですね。

柴田 そうですね、他のコースと比べても交流はあったほうだと思います。
 

祝祭劇場:ザルツブルク音楽祭の主会場
祝祭劇場:ザルツブルク音楽祭の主会場

―  受講生によるコンサートは出演されましたか?

柴田 僕は一週間しかいなかったので最終日になったのですが、6人全員指揮をしました。ただ、曲の難易度だったり、長さはそれぞれ違っていて、だいたい順当な感じでした。

―  柴田さんは、どんな曲を振ったのですか?

柴田 僕はストラヴィンスキーをふらせてもらいました。

―  難しいストラヴィンスキーを!

柴田 はい、かなり難しかったのですけれど、頑張ってふりました。

―  コンサートで指揮をされていかがでしたか?

柴田 オーケストラが来ている事もあって、かなりお客さんは来てくれていました。200人くらい入ったと思います。学校関係者もいたのですが、ザルツブルグの地元の人が多い感じでした。

―  地元に開かれたコンサートだったんですね。

柴田 そうですね。受講者コンサートの中でも目玉になっているようでした。プロのオーケストラと若い指揮者という関係で、ポスターにも出ていたくらいでした。

―  宿泊先の学生寮はいかがでしたか?

柴田 まぁまぁ、思ったよりは良かったです(笑)。1Kくらいで、バスタブはありませんでしたけど、シャワーが付いていました。新しくはありませんでしたが、普通に清潔でした。

―  建物は、オーストリアの伝統的な感じですか?

柴田 いえ、全然。四角い感じでした(笑)。
 

モーツァルテウム音大側から対岸の全景を写したもの
モーツァルテウム音大側から対岸の全景を写したもの

―  外食はされましたか?

柴田 はい、オーケストラのメンバー達とよく行きました。バーベキューをしてくれたんですよ。そういうのにも行ったりして面白かったですね。

―  外食はおいくらくらいでしたか?

柴田 旧市街の観光地の真ん中だと結構かかりましたね。食べて、ワインでも飲んだら、12,3ユーロくらい(約2,000円)。でも、ザルツブルグでも観光地じゃなく郊外に行けば、8,9ユーロくらい(約1,400円)ですみました。

―  近くにスーパーとかはありましたか?

柴田 モーツァルテウムは川を渡ったところにスーパーがありましたし、学生寮の近くにもかなり大きなスーパーがありました。ただ、平日の昼間しか開いてないので、僕はほとんど活用できませんでした。ほとんど外食でした。だから(渡航費用を)ぎりぎりで行ったら大変だと思います。

―  外食に結構かかりましたか?

柴田 そうですね、かかった方だと思います。

―  講習会と宿泊先はどういう風に行き来されましたか?

柴田 だいたいバスですね。

―  どのくらいかかりましたか?

柴田 20分くらいだったと思います。

―  バスが遅れたりとかはありましたか?

柴田 ほとんど定時だったと思います。

―  スリなどの被害にあわれることはなかったですか?

柴田 何もありませんでした。ウィーンでも、ザルツブルグでも。
 

ザルツブルグのメイン通り
ザルツブルグのメイン通り

―  不審な人は見ましたか?

柴田 見る限りはなかったですね。

―  海外の人々とうまく付き合うコツは何かありますか?

柴田 自分の意見をはっきり言うことですね。色々と、「どう思う?」と聞かれることが多いんです。最初はちょっと少し下に見ているみたい
な感じがありましたね。でもそれが、僕が指揮をふって、音楽的な何かが伝わった時、なくなったように感じました。そういう意味では音楽で通じるというのは結構あるので、認め合うのが一番かな、と思いますね。

―  認め合えるものを持っていらっしゃるんですね(笑)。

柴田 それは分からないですけど(笑)。でも表現は結構できたかなというのはあります。音楽で何もなかったら、それからは相手にしない、という手もあると思います。

―  認め合うところは認め合うという方々がたくさんいらっしゃるんですね。

柴田 そうですね、やっぱり音楽で繋がっているなと思いますね。

―  今回講習会に参加して良かったと思われますか?

柴田 いやもう、かなり良かったですね。海外の方々とばかり話をして、日本語を話す機会がほとんどないくらいだったので、それぞれの国民性がよく分かりました。音楽をやる姿勢は一緒だな、自分がやっていることは間違っていないという再確認になりました。一週間はちょっと短いかな、とは思いました。しかし、仕事をしている関係で長期留学をするのは難しいため、休みを見つけてこうやって短期で講習会に行くしかないので、その分集中してできました。体力的にはきつかったですけれど、帰りは涙が止まりませんでしたね。参加できたことが嬉しくて。最後の日、受講者コンサートのあとに、70人、80人くらい集まった大宴会があったんですよ。とても楽しかったです。学校の先生とか、ミューレンバッハも来ました。オケのメンバーやヨーロッパの方々ともメールアドレス交換したりしました。人間的な付き合いが繋がって、本当に良かったですね。

―  講習会で自分が変わったとか、人間的に成長したな、と思うことはありますか?

柴田 音楽に対する自分の気持ち、取り組み方をまだ完璧に掴んだわけじゃなく、漠然とした感じではありますけれども、確立できたところはありますね。自分がやっていることが、本当に西洋でも同じようにやっているのか、日本でだけこうじゃないのか、と思っていたんです。指揮だったら、斉藤指揮法というのが日本ではあるんですが、それだけじゃ駄目だという事も分かりました。ひとつの僕の音楽性の指針にはなりました。

―  留学前にしっかりやっておけば良かった、ということはありますか?

柴田 曲ですね。もっとしっかりやっておけば良かったと思いました。留学する前は転勤前でばたばたしていて、なかなか楽譜を見る時間がなかったので。

―  日本とオーストリアで大きく違う点はありますか?

柴田 オーストリアはかなりルーズですね。サービスやテンポが。でも自分がそのテンポに入れば何のことはなかった。逆に気持ちにゆとりが出たりしました。
 

尊敬するベートーベンの墓(ウィーンにて)
尊敬するベートーベンの墓(ウィーンにて)

―  今後留学する人に何かアドバイスがありましたらお願いします。

柴田 悩んでいる人がいたら、無理してでも行った方がいいと思います。資金的にも無理してでも行った方が何かに繋がると思います。絶対に。二の足を踏んでいるとしたら、行った方がいい。でも、漠然とただ海外に行けば何かある、という人は行っても仕方がないと思います。ある程度、自分が悩んでいることや目標や目的がある人でないと参加する意味がないと思います。でも、きちんと目標がある人が行ったら、必ず何かがあると思います。

―  今後の活動の予定はいかがですか?

柴田 自衛隊での活動が基本にあります。吹奏楽の中でやることになるのですが、それはオーケストラから派生したものでもありますから、指揮というものは共通です。今回勉強したことを十分活かして、自衛隊の演奏を充実させていこうと思っています。自分のためだけではなく、自衛隊や地域のためにも、もっと人を感動させられるような音楽を作っていければと思います。

―  長い間ありがとうございました。
 

畑真由美さん/声楽/ロンバルディア声楽マスタークラス/イタリア・ミラノ近郊

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。

 

畑真由美さん
畑真由美さん

畑真由美さんプロフィール
洗足学園音楽大学声楽卒業。2007年ロンバルディア声楽・ピアノマスタークラスにてルチアーナ・セッラ先生の講習会に参加。


―  現在までの略歴を教えて下さい。

畑  洗足学園音楽大学の声楽科卒業です。歌が大好きで小学生の頃、合唱部に入部。また作詞作曲した作品が採用されて、全校生徒に歌ってもらった事があります。高校の頃、イギリス研修でミュージカル鑑賞をしたのがきっかけで、歌を習いはじめました。最初は遊び心でしたが、指導を受けていたオペラ歌手の先生に憧れて、クラシックに興味を持ち、本格的に精進するようになりました。

―  大学を卒業されてからは、どのような活動をされていましたか?

畑  建築大学の音響学に於けるコンサートホール設計の実験に携わり、実験を兼ねてのクリスマスコンサートをしています。また、色々なオーディションを受けて公演に出演したり、小学校から依頼を受けてコンサートを企画・演奏しています。その他、自主的に門下生同士での演奏会や同期有志による歌とオーケストラにバレエをコラボレーションしたコンサートを手がけるなど、演奏の場を常に繰り広げています。

―  講習会に参加されたきっかけを教えてください。

畑  高音を美しく出す発声のテクニックやイタリア人が話しているかのように歌う発音のポイントをつかみたいと思いまして参加しました。特に本場イタリアのコロラトゥーラの先生のレッスンを受けてみたいというのが待望でした。

―  ロンバルディアの講習会を選ばれた理由は何かありますか?

畑  ルチアーナ・セッラ先生のCDを持っていまして、先生の美声に近づきたかったからです(笑)。

―  それは良い機会でしたね。

畑  はい、これほど有名な歌手の手ほどきが受けられるなんて、レッスンが始まるまで半信半疑でしたが、本物だったので、もう嬉しさ、隠し切れませんでした(笑)。

―  先生のレッスンの雰囲気はいかがでしたか?

畑  とっても良かったです。やはり先生お得意の高い声を目の前で出された時には、すごく感動しました。

―  教え方はいかがでしたか?

畑  実際に目の前で歌ってくださり、それを近くで見る事ができましたので、大変分かりやすかったです。常に口元の形やボディーチェックをしてくださいました。また、指導に熱心な先生で、お昼休みを短縮しても、夜遅くなっても、1人45分のレッスンは時間厳守されていました。
 

ルチアーナ・セッラ先生
ルチアーナ・セッラ先生

―  雰囲気は暖かいものでしたか?

畑  そうですね、すごく雰囲気を大事にされました。生徒それぞれの個性をちゃんと見抜いてくださる感じの先生でしたね。

―  レッスンは何語で受けられましたか?

畑  イタリア語です。

―  通訳は付けられましたか?

畑  はい、付けました。

―  通訳の方はいかがでしたか?

畑  通訳の方は、もちろん、レッスンで先生がおっしゃることすべてのイタリア語を忠実に通訳してくれました。通訳の方にはレッスン以外でもお世話になりました。周りがとても田舎で、食べるところがあまりなく、英語も全然通じなくて、最初は困っていたんですね。それでいろいろ案内していただきました。レッスンで持参した以外の楽譜が必要になったときも、他の(イタリア人の)生徒に声をかけて借りて下さり、印刷屋さんを求めて一緒に歩き回って下さったことも。アフターサービスがよかったですね。そういった面では本当に助かりました。

―  語学の勉強はされていきましたか?

畑  大学で文法を学びました。その後は独学です。イタリア語は普段、歌で慣れているので、言葉は何となく聞き取れるのですが、会話となると本当に大変です。
特にイタリア人はおしゃべり好きで、しゃべるテンポも速いので、ついていかれませんでした。

―  イタリアに行かれて語学が上達したという実感がありますか?

畑  たった一週間でしたが、結構覚えました。

―  会話などが中心ですか?

畑  そうですね、生徒のみなさんが休憩時間に話している時や、買い物に行った時など、最初は要望を伝えることも、聞くこともできなかったのですが、帰る時には片言は話せるようになりましたね。

―  レッスンは何時から何時まででしたか?

畑  10時から20時まででした。

―  その間、ほかの生徒さんのレッスンを聴講されたりしましたか?

畑  今回、日本から講習会に参加したのでは私だけでしたので、先生が「すべて聴講したほうがいい」と、前の方に席を用意されて、ほとんどつきっきりでした。

―  聴講では通訳がないと思うのですがいかがでしたか?

畑  1人、英語が話せる受講生の方がいました。先生が言われていることを英語になおしていただきました。

―  講習会ではどのくらい練習ができましたか?

畑  あまりプライベートの時間が取れなかったので、1時間くらいできればいい感じでしたね。

―  どこで練習されたんですか?

畑  自分の部屋です。

―  宿泊先はどんなところでしたか?

畑  メディチ家のお屋敷(別荘)です。

―  すごいですね、まるで昔の貴族のお屋敷という感じですか?

畑  そうですね。広大な美しい庭園がありました。部屋も一部屋一部屋が全部広くて貴族が使用していたお部屋をホテルの利便性を考慮して、少し改装したという感じです。シャンデリアだけでちょっと照明が暗く、古い建物なので、ゴーストバスターズが出てきそうです(編集注:ヨーロッパ人は強い光に弱く、弱い光で十分見えるため、日本などより照明は暗くなっています。)でも、一つ一つ見るととてもすばらしい!特にテーブルはすべて大理石です。ベッドはすべてダブルベッド。たまに天蓋付もあります。ソファーも上等です。絵画は必ず、飾られています。各部屋、各部屋、お姫様が泊まるようなゴージャス感がありました。別棟にはショパンが弾いたグランドピアノなどのピアノ博物館もありました。

―  いいですね、女性なら1度は泊まってみたいような場所ですね。

畑  部屋には台所やキッチンも付いていました。私1人で泊まるには少し大きすぎて、初日は心細かったですね。

―  外食はされましたか?

畑  1度だけです。土日月をはさみましたので、ほとんどレストランが開いていなかったのです。また買うと量が多いいので、同じものを小出しに食べていました(笑)。

―  外食のお値段はどの程度でしたか?

畑  コースしかなかったので3,000円くらいでした。でも、とても美味しかったです。

―  講習会の会場と宿泊先はどのように行き来されましたか?

畑  講習会会場と宿泊先は同じ建物でした。私は2階の部屋だったのですが、講習会は1階でした。階段を下りればすぐ会場という感じでした。

―  スリなどの被害にあわれることはなかったですか?

畑  ないですね。治安のいい場所でした。

―  講習会会場からはあまり出られなかったのですか?

畑  行く時間がなく、あまり行くところもありませんでした(笑)。スーパーマーケットに買出しに行ったりするくらいです。小さな町なので、近所のお店へ行っても15分もあればすべてを散策できるくらいです。

―  海外の方々がほとんどだったと思うのですが、周りの方とうまく付き合うコツはありますか?

畑  そうですね、自分から積極的に主張しないと、全然相手にされないと思います。それと、やはりイタリア語は話せた方がいいかな、とは思いましたね。1日いると、イタリア語しか聞こえてこないので、分からないとかなり自分が疲れてくるんですね。ですから、ある程度は、イタリア語ができた方がいいとは思います。

―  今回の講習会に参加して良かったと思える瞬間は、どんな時でしたか?

畑  日本にいらしたことのあるイタリア人の方が2,3人いらしたんです。その方々がすごくホスピタリティを重視してくださったんですね。というのも、日本に来た時にすごく日本人はおもてなしをしてくれると感じていたようでした。例えば、オペラの仕事で日本に来たそうなんですけれども、一生懸命日本語で話そうとしたら、公演が控えているのだから、公演で使う言葉、つまりイタリア語以外の言葉は使わなくていいんだよ、と言われて、何不自由なくイタリア語だけで過ごせる雰囲気にしてくださったということでした。そういう方々のお話を聞いて、自分も逆の立場の時があったらホスピタリティを重視したいなと思いました。

―  留学をされて、自分が変わったな、成長したなと思うことはありますか?

畑  多少の語学力と発声が変わりました、念願の「高い音域を発声するときのコツ」をつかんだような気がします。やはり外国人の先生はかなり広い舞台で歌われており、ご経験も豊富なので、効果を出すのがうまいのでしょうね。

―  そういう先生に習ったというのは深い意味があったんですね。

畑  そうですね、たった一週間ですが、それでもかなり効果があったと思います。素晴らしい先生だと思いますね。

―  留学前にやっておいた方が良いことは語学のほかに何かありますか?

畑  選曲ですね。基本は歌曲と思い、歌曲をいくつか持参したのですが、それよりも、セッラ先生はオペラアリアを重視されます。自分で無理なく歌えるオペラアリアを何曲か用意して、一週間で完成できるような曲にした方がいいと思います。それと、鏡を見てレッスンを受けるので、ほとんどの方が暗譜でレッスンを受けていました。少し、楽譜から目を離せる程度に歌いこなしておいたほうがいいと思います。あとは、目的をはっきりさせることですね。先生に「何を習いたいのか」という自主性をすごく聞かれます。

―  前もって自分の中で計画を立てておくといいということですね。

畑  そうですね、曲を歌わなくてもいいんです。発声だけをやりたい人もいます。何がしたいかを決めておくのは、重要なポイントになってくるな、と私は思いました。

―  日本とイタリアで何が違うとお感じになりましたか?

畑  日本では10年くらいかけてやっとオペラアリアを歌えるようになりますが、イタリアではたった2.3ヶ月くらいですぐ難関のオペラアリアを歌うようです。ですから、10年以上の経験があると、相当あらゆる曲のレパートリーがあると周りから興味を持たれますね。ちょっと自負を感じることもありますね。
それから、イタリア人は母国語を大事にしているので、ほとんどイタリア語しか話さないですね(笑)。日本語を話そうとは、もちろんしないんですけれど、逆にイタリア語を話せない私に対して、「イタリア語を話せないのにどうして来たの?」とよく質問されました。そういう所は違うかな、と思いました。日本人はそんなことがあっても、わりと心を広く持って、頑張って向き合おうとすると思うのですが、イタリア人はイタリア語にプライドを持って、極力イタリア語以外は話さない、という雰囲気はありましたね。だから、こちらが積極的に話していかないと、と思います。イタリア人は待っていては来ない、というところは、日本とはギャップがあると思いました。

―  今後、留学する人にアドバイスしておきたいことはありますか?

畑  音楽用語というか、歌を歌う時に、「もうちょっと口を前に」とか、「目」「足」「息」とか、身体を使ってのアドバイスをされるので、身体の部位の言葉をイタリア語で覚えて行けば、レッスンの時にかなり役立つので良いと思います。

―  ありがとうございました。

尾野文香さん/ピアノ/クールシュベール夏期国際音楽アカデミー/フランス・クールシュベール

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。

 

尾野文香さん
尾野文香さん

尾野文香さんプロフィール
3才よりヤマハ音楽教室にてピアノとエレクトーンをはじめる。1996年PTNAピアノコンペティション全国決勝大会ベスト20位、1997年全日本学生音楽コンクール名古屋大会第2位、1998年ウィーン音楽コンクールインジャパン本選第1位。その後、ウィーンの講習会に招待され、ウィーンにて入賞者コンサートに出演し、ウィーン市長賞を授与。2002年、2003年ショパン国際ピアノコンクールin Asiaにて本選入賞など数多くのコンクールにて入賞。コンサート歴も多く、ピアチェーレ・コンサートシリーズ「あおい空」、アルマ21世紀コンサートなど出演。また2007年、アルマ室内管弦楽団と共演。これまでにピアノとエレクトーンを村田恵理子、エレクトーンを市川禎、ピアノを長谷川淳、宮脇恵子、弘中孝の各氏に師事。2007年クールシュベール夏期国際音楽アカデミーにて、パスカル・ドゥヴァイヨンに師事。2008年3月東京音楽大学ピアノ演奏家コース卒業後、4月より同大学大学院在学予定。


―  略歴を教えていただけますか?

尾野 最初はヤマハのグループレッスンに通ってエレクトーンとピアノを一緒にやっていました。その後、小学校2年生頃からピアノを本格的に習いはじめました。エレクトーンは小学校5年生までやっていました。現在は東京音楽大学の4年生です(注:インタビュー2007年8月)

―  コンクールなどへの参加はありますか?

尾野 小学校6年生の時に、今はもうなくなってしまったコンクールなのですが、ウィーン音楽コンクールインジャパンで1位をいただいて、副賞としてウィーンの講習会を受けさせていただきました。

―  今回クールシュベールの講習会に参加したきっかけを教えていただけますか?

尾野  幼い頃から、留学したい気持ちは漠然とあったんですけれど、現実的に進路として考えた時に決めきれずにいたんです。そこで、やっぱり日本でいろいろ考えているよりも、実際に行っちゃった方が分かる事が多い、と思いました。行く前は、ずっと迷っていたんですよ。「留学したら必ずこうなれる」というのがあるわけじゃないですから。「大変なことも多いだろうし、お金もかかるし」って。でも、やっぱり今留学しなかったら、将来後悔するだろうなって思ったんです。20年、30年と時間が経った時に、「いやぁ、あの時留学しておけばよかったな」って思うのは嫌だったんです。それで、まずは、講習会で留学を体験してみたいと思ったのがきっかけです。

―  いろいろなコースがある中で、クールシュベールを選ばれたのはどうしてですか?

尾野 私の場合、留学することや留学する国を完全に決めていたわけではなかったので、語学を全然やっていませんでした。それで、通訳さんがいるコースが条件だったんです。フランスか、ドイツか、オーストリアか、ポーランドに行きたかったんです。留学に対する知識が少なくて候補が多いのですが(笑)、その中で、いろいろと他の講習会をみて、レッスンの聴講がさせていただける事と、レッスンを聴講してみたいと思う先生方が多かったので、クールシュベールを選びました。

―  パスカル・ドゥヴァイヨン先生を選ばれた理由はありますか?

尾野 はい、以前からパスカル・ドゥヴァイヨン先生のことを、一方的にですが本などで存じ上げていました。ドゥヴァイヨン先生にレッスンしていただくのを本当に楽しみに思い参加しました。

―  レッスンの雰囲気はいかがでしたか?

尾野 すごく楽しかったですし、すごく素敵でした。あっという間に時間が過ぎてしまいました。ドゥヴァイヨン先生はとても丁寧に的確なことを分かりやすくご指導してくださいます。自分自身が曲の準備をちゃんとしていけばいく程、いろいろな事をより深く教えていただけると思います。

―  時間は1時間くらいですか?

尾野 そうですね、日によっては時間が押していたり、次の生徒さんがもう待っているので1時間ない時もあったかもしれません。曲によって日によってという感じです。

―  何回ドゥヴァイヨン先生からレッスンを受けたのですか?

尾野 私の場合は、ドゥヴァイヨン先生に4回、村田理夏子先生が2回でした。

―  なるほど、村田先生はいかがでしたか?

尾野 ピアノ奏法や打鍵についてなど色々と教えていただきました。レッスン後には、留学などの相談にものってくださいました。

―  ドゥヴァイヨン先生のクラスは何人くらいでしたか?

尾野 そうですね、多分20人くらいだったと思います。

―  その中で日本人はどのくらいいましたか?

尾野 半分くらいは日本人だったと思います。外国ですでにドゥヴァイヨン先生に師事されている方もいらっしゃいました。

―  レッスンは通訳を通じて受けられたということですが、通訳は分かりやすかったですか?

尾野 はい。ドゥヴァイヨン先生のアシスタントであり奥様でいらっしゃる、村田先生に通訳していただけたので、すごく分かりやすかったです。

―  語学の勉強は事前にされていかれたのですか?

尾野 いいえ、現地でも「ボンジュール」と「メルシー」くらいしか使っていないです(笑)。特にパリでは英語も結構通じます。大学ではドイツ語を選択していました。

―  レッスンは何時からだったのですか?

尾野 私は夕方くらいのレッスンが多かったですね。

―  先生は丸1日レッスンしているのですか?

尾野 ドゥヴァイヨン先生はお昼前くらいからレッスンをされていたと思います。私は夕方からだったのではっきり覚えていません。先生によっては朝9時からレッスン、という先生もいらしたみたいです。

―  レッスン時間以外は何をして過ごされましたか?

尾野 練習時間が結構制限されていたので、空き時間は聴講をしていました。あとは、友達と周辺を散策したり、ゆっくり食事をしたり、ビリヤード、スケート、卓球もしました(笑)。

―  練習時間は少なかったのですか?

尾野 1部屋を4人で割り振って使うようになっていました。使用時間が9時から21時だったので、1人平均3時間でした。その4人が全員日本人の場合は、わりときちんと割り振ってやっていたみたいですが、私の場合、2人韓国の方がいらっしゃいました。最初は割り振りをしていなくて、いつ練習できるか分からない状態だったので、割り振りをしたい、とお願いをしました。他の部屋で練習しようにも特に最初のうちはみんな気合いが入っていて空いている部屋はありませんでした。

―  韓国の方はルーズだったのですか?

尾野 そうかもしれません(笑)。というより、日本人が細かいと言った方が良いのかもしれません。多分、こちらから提案しなければ、ちゃんと練習時間が決まることはなかったと思います。

―  練習室以外では練習する場所はありましたか?

尾野 多分、なかったと思います。楽器の方は主にホテルの部屋で練習していたみたいです。

―  講習会でコンサートが行われたそうですね。

尾野 はい、講習会で指導されている先生方の出演されるコンサート(主に室内楽)が4回ありました。先生方全員が出演されるわけではないのですが、ドゥヴァイヨン先生は出演されて、すごく素敵でした。

―  生徒さんが出演されるコンサートはいかがでした?

尾野 終わりに2日間に渡って受講生のコンサートがありました。クールシュベールの講習会はとても参加人数が多く、たぶんピアノだけでも100人くらいはいます。ほかの楽器の人も入れると、多分200人を超すと思います。その中での選抜コンサートなので、たくさんの方が少しずつ演奏して、長い時間かかるような感じでした。
 

クールシュベール
クールシュベール夏期国際音楽アカデミー

―  宿泊先はどんなところでしたか?

尾野 すごく綺麗なところでした。

―  食事はどうでしたか?

尾野 朝ご飯と晩ご飯は講習会の費用に含まれていて、朝は宿泊しているホテルで、夜はメイン会場のホテルでいただきました。お昼は近くのスーパーなどで買ったり、お金を払えばメイン会場のホテルでいただくこともできました。クロワッサンやフランスパン、乳製品はやはりおいしかったです(笑)。

―  宿泊先とレッスン会場は遠かったですか?

尾野 歩いて行ける距離でしたが、講習会会場のクールシュベールは標高1850mで冬はスキーができるリゾート地のためとても坂が多いんです。道といえば坂でした。クールシュベールに行かれる方は、運動靴など歩きやすい靴を持っていかれることをお勧めします。

―  尾野さんは持っていかれなかったのですか?

尾野 そうなんですよ。サンダルに後悔しました(笑)。しかも8月なのに、夏とは思えない涼しさでした。長袖なしでは過ごせない気候でしたが、湿度も低いし過ごしやすかったです。

―  日本とは違いますね。

尾野 そうですね。日本で言うと、秋の終わりくらいかも。雨の日なんか、はっきりと「寒い!」と言えるくらいでした。

―  暖房などはちゃんと入りましたか?

尾野 冷房も暖房も特に使った記憶がないので、冷暖房の必要はない気候だったんだと思います。
 

宿泊先のホテル
クールシュベール宿泊先のホテル

―  クールシュベールの街として、治安はいかがでした?

尾野 すごく安全な印象でした。周りからも何かあったというような話は聞かなかったし、私自身も危険を感じるようなことは全くありませんでした。

―  海外の友達はできましたか?

尾野 私の場合、フランス語が話せないので、直接、仲良くたくさん話すことはできなかったのですが、フランス語が話せる日本の方に通訳してもらいながら海外の友達も混ざってお話したり遊んだりすることはありました。

―  日本人以外ではどちらの方が多かったですか?

尾野 フランスの方はもちろんフランス近隣、アメリカなど様々でしたが、韓国や中国などアジアの方が多くいらしゃいました。

―  講習会に参加して良かったと思える瞬間はどんな時でしたか?

尾野 さきほどお話しした、講習会の先生方が出演されるコンサートを観た時ですね。来てよかったと思いました。

―  留学されて、何か自分が変わったところ、成長したところはありますか?

尾野 講習会の期間が短かったので、大きな変化はあまりないのですけれど、今まで海外経験があまりなかったので、行く前の準備だけでも勉強になりました(笑)。思い切って講習会に参加してみて本当に良かった、と思っています。先ずは一歩という感じだったと思います。

―  留学前に準備しておいた方が良いと思うことはなんですか?

尾野 それはもう曲の準備ですね。講習会は素晴らしい先生方にみていただける貴重な機会だと思います。お金も時間もかけて参加するし、先生により深くたくさんの事を教えていただくためにも、しっかりと準備していくべきだと思います。現地では練習時間も限られます。

―  何曲みていただいたのですか?

尾野 ドゥヴァイヨン先生のレッスンは4回でしたが、1回目でショパンのエチュードを2曲みていただいて、2回目でベートーベンのソナタ第1楽章を、3回目はその続きで、4回目でまた別の曲をみていただきました。

―  日本とクールシュベールの違いはどんなところですか?

尾野 いろいろあると思いますが、例えば現地の方の人柄なんかは日本と比べてすごく明るかったですね。フランスに留学されている方は、「こっちに来てテンションが高くなって、リアクションが大きくなった」と言っていました(笑)。そんな雰囲気が、私はすごく好きでした。講習会は短い期間だったし、環境も保証されていたので、留学のいいところばかりを見たとは思いますが、本当に楽しかったです。良い思い出です。
 

クールシュベールの街並み
クールシュベールの街並み

―  今後留学される方にアドバイスしておきたいことは?

尾野 留学したい気持ちがあっていろいろ迷ったり悩んでいる方は、まず講習会に参加するなど現地に行ってみる事をお勧めします。日本で座って考えているよりも、実際に行動した方が分かる事も感じる事も断然多いと思います。講習会では同じ迷いを持っている人も多く参加していますし、すでに留学している人からいろいろお話を聞かせていただくチャンスもあります。

―  尾野さんは今後フランスに行かれる予定ですか?

尾野 そうですね、フランス以外の国にも興味はありますが、本当に楽しかったので、前よりももっと留学したくなりました。講習会の影響です。

―  今後の進路はどうされますか?

尾野 4月からは東京音大の大学院に進学しますが、長期留学も考えています。すごくしたいと思っています。

―  コンサートのご予定などはありますか?

尾野 今度5月にピアチェーレ・ムジカ主催の「ひびき」というコンサートで地元の愛知県でメンデルスゾーンのピアノトリオ第1番を演奏させていただきます。大好きなトリオの曲ですし、しっかりとがんばりたいです。

―  頑張ってくださいね。長い間、ありがとうございました。


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---尾野文香さんコンサート情報------
Musica Da Camera 2008
Concert the Piano Trio

2008年5月31日 開演17:30
知立リリオコンサートホール
問い合わせ:0562-84-0876

Program
ベートーヴェン/ピアノ三重奏曲第三番ハ短調Op.1-3
ベートーヴェン/ピアノ三重奏曲第四番変ロ長調Op.11
メンデルスゾーン/ピアノ三重奏曲第一番ニ短調Op.49

出演;
ピアノ
岡田みずほ
三輪富美子
尾野文香

バイオリン
宗川諭理夫

チェロ
内田玲
 

行本康子さん/チェロ/ウィーン国際音楽ゼミナール/オーストリア・ウィーン

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。

 

行本康子さん
行本康子さん

行本康子さんプロフィール
4歳よりピアノを始め、14歳のときにチェロに転向。桐朋学園大学音楽学部チェロ科に在籍中。現在、4年生。2008年ウィーン国際音楽ゼミナール参加。


-  まず、簡単な自己紹介をお願いします。

行本 4歳の頃から10年くらいピアノを弾いていたのですが、少し嫌いになって辞めようと思っていたところに、たまたま小さな発表会を聴く機会があって、チェロの有名な曲「白鳥」を聴いて、チェロをやりたいと思ったんです。それで、14歳からチェロを始めて、桐朋学園大学に進学しました。現在、4年生です。

-  これまで講習会に参加されたことはありますか?

行本 国内のでしたら、ついていた先生の個人的なものやその先生が講師としてよばれているものに2、3回参加したことがあります。

-  では海外の講習会は初めてですか?

行本 はい、そうです。海外に行くこと自体、今回が初めてでした。

-  では、どうしてこの講習会に参加されようと思ったのですか?

行本 去年くらいから、ドイツ語圏で知っている先生で、という条件で講習会を探していたのですが、去年は知っている先生がいなかったので参加しませんでした。今回はたまたま日本で2回見てもらったことのあるステファン先生の名前があったので、参加を決めました。

-  なるほど。先生はステファン・クロプフィッチュ先生ですよね。前に教わったときからいい印象を持たれていたんですか?

行本 とても上手で、人柄がいいんです。教えることに専念している方ではないのですが、演奏する上で大切なことを細かく教えてくださる先生です。
 

ウィーンのホイリゲ
ウィーンのホイリゲ

-  講習会の参加者は何名くらいでしたか?

行本 全部で40人くらいだったと思います。チェロは4人でした。日本人が私の他にもう1人。韓国の中学生くらいの子、あとは、ドイツ語を話していたのでオーストリアの子だと思いますが、会場になっているウィーンの音大を受けたいと考えている子でした。

-  他の生徒さんの演奏を聴く機会はありましたか?

行本 韓国の子の演奏は聴けなかったのですが、あとの2人の演奏は聴きました。日本人の子はレッスンが前後だったので、必ず聴講していました。

-  レッスンの雰囲気はいかがでしたか?

行本 多分、先生に見てもらうのが初めてであれば、どんな感じかな、と様子を見るののだとと思うのですが、私の場合、日本でも見てもらっていて先生も覚えてくださっていたので、初めからけっこう本格的なレッスンが始まりました。以前見ていただいたのは4、5年前なので私も変わっているとは思うんですが、年齢などを考慮して、真剣に見てくださったと思います。

-  レッスンで印象に残っていることはありますか?

行本 一番ためになったなと思うのは、力の抜き方です。日本でも「力を抜きなさい」というのはよく言われることなんですが、具体的にどうしたらいいのかは教えてくれないので困っていたんです。ステファン先生は逆に「力を抜きなさい」という言葉は一言も言わずに、「こうしなさい」というのを2、3個具体的に言ってくれたんです。あとから考えると、その弾き方が結果的に力が抜けるのではないか、と思いました。

-  他には何かありましたか?

行本 レッスン中も弾きながら「ここはああしてこうして」と指示があるのですが、必ずレッスンの最後に「今日のレッスンで1番大切なことはね……」とその日の重要なポイントを1つか2つにまとめてお話をしてくださるんです。私のその日の様子を先生が絞って見てくださる形だったので、それがすごくよかったと思います。

-  なるほど。

行本 今回、コンクールの課題曲に入っていることもあり、シューベルトを持っていったのですが、ウィーンの作曲家の曲で先生もウィーンの方なので「ウィーンの古典派はこう弾くんだよ」と他の曲よりも大切に見てくださった気がします。

-  何か参考になる具体的な言葉はありましたか?

行本 ホイリゲとよばれるバイオリンなどの演奏を聴きながらワインが飲める酒場に行って、陽気な人を見て来てごらんと言われました。曲の感じを掴むのに見て来た方がいいよ、と。実際に足を運んでみると、みなさん本当に楽しそうで、「あ、こういうことなんだ」というのが少し分かった気がしました。日本人の観光客ということで、向こうから話しかけてくれたり、“上を向いて歩こう”や童謡を歌いながら演奏してくれました。

-  いい体験ですね。実際に演奏は変わりましたか?

行本 自分の中では変化はよく分からなかったのですが、参加者コンサートで演奏したときに、講師としてよばれていた日本人の先生が「ステファン先生の感じがすごく出ていて、よかったですよ」と言ってくださいました。ステファン先生のレッスンを受けて変わったのかなと思いました。

シェーンブルン宮殿でオペラを聴いて
シェーンブルン宮殿でオペラを聴いて

-  レッスンのスケジュールを教えてください。

行本 月曜と木曜に先生に見ていただいて、月木月木でレッスンは計4回ありました。レッスンとレッスンの間に2、3日空くので、ちょうどよいペースでした。

-  レッスンは1時間ですか?

行本 はい、ちょうど1時間です。

-  物足りなさは感じませんでしたか?

行本 感じませんでした。2週間あって、その中で4回のレッスンがあったので、私は十分かなと思いました。

-  講習会で組まれていたスケジュールについてお話を聞かせてください。

行本 初日に小さいホールのようなところでオープニングイベントがありました。まず、参加者の子たち3、4人のコンサートがあって、そのあと、講習会の大まかな説明を受けました。あとは最後に、サンドイッチと飲み物程度の軽いパーティーがありました。

-  他には全体で何かありましたか?

行本 13日(講習会3日目)には先生たちのコンサートがありました。先生たちの中からピアノ2人とビオラ、チェロの4人の先生が演奏してくださいました。チェロのステファン先生は1番最後にチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」を演奏をされたのですが、すごく評判がよくて、聴いていた他の楽器の受講生たちもステファン先生に教わりたい、と話していました。

-  13日だと、レッスンを1度受けたあとですよね?

行本 はい。11日初日に最初のレッスンがあったので。

-  そうすると、これからのステファン先生のレッスンが楽しみになったのではないですか?

行本 そうですね(笑)。

-  他にもコンサートはありましたか?

行本 はい。会場が変更になって、ハイドン生誕の家ではなくて、隣ににシューベルト記念館がある小さなお城で開かれました。私はここで弾かせていただいたのですが、この会場はオープニングイベントのホールよりも学校よりも響いたので、音の響きはこの講習会中で1番よかったと思います。

-  日本だとなかなかないシチュエーションですよね。ウィーンのお城で演奏するというのは、どんな気分でしたか?

行本 すごくよかったです。他の受講生のみんなからも、私も弾くならここで弾きたいと羨ましがられました(笑)。

-  お城でのコンサートでは何人が演奏したんですか?

行本 12人くらいです。

-  何曲演奏されたんですか?

行本 1人1曲で、私は先生と相談して演奏する曲を決めました。

-  コンペティションも予定に組まれていたと思いますが、参加されましたか?

行本 いいえ、参加することはできませんでした。参加した人たちは、2曲を抜粋で演奏していました。そんなに堅苦しい雰囲気ではなくって、参加者コンサートとあまり変わらない雰囲気でした。

-  そのあと、そのコンペティションで選ばれた人で受賞者コンサートがあったんですよね?

行本 そうです。コンペティションを12人くらいが受けて、10人が受賞していました。黒いパンツで弾いていた人がドレスで演奏していたりと、少しだけ雰囲気が変わっていました。

-  その受賞者コンサートが講習会中、最後のイベントですか?

行本 はい、そうです。

-  練習はどこでしていましたか?

行本 ホテルで朝の9時〜夜の8時くらいまで音を出すことができたので、ホテルで練習しました。けっこう弾く時間はありましたね。

-  他の人の音は聞こえてきませんでしたか?

行本 窓を閉めて弾くというのが決まりだったんですが、おそらく窓を開けて弾いていた人の音は聞こえてくることもありました。ただ、私はそんなに気になりませんでした。

-  レッスン以外の時間は何をしていましたか?

行本 外に出て、街を観光していました。

-  ウィーンの街はいかがでしたか?

行本 すべてのものが大きいなぁというのが第一印象です。ガイドブックに載っているところやシェーンブルン宮殿、マリア・テレジア広場などに行きました。

-  どこかお勧めのところはありますか?

行本 ホテルの近くにあったベルベデーレ宮殿です。私が滞在していたときは、中でクリムトの絵画展をしていました。次はゴッホ展になるようです。そこは楽しくて何時間でもいられる感じでした。

-  入場料はいくらくらいだったんですか?

行本 私は国際学生証を持っていなかったので、8〜9ユーロくらいでした。

-  宿泊先のホテルはどんなところでしたか?

行本 私は一人部屋を希望しました。部屋自体に不都合はなく、ドライヤーを借りたりすることもできて、そんなに困ることはありませんでした。日本のホテルより広かったです。

-  何か日本から持っていったほうがよいものはありましたか?

行本 歯ブラシは準備されていなかったので、持っていったほうがよいと思います。シャンプーやリンス、石けんも自分のものを使いたい人は準備しておくとよいと思います。

-  ホテルのスタッフの対応はいかがでしたか?

行本 けっこうよかったと思います。行きたいところを伝えると、電車の時間を調べてくれたりしました。

-  他の参加者の方も同じホテルですか?

行本 はい。ほとんどの方が同じところに泊まっていました。レッスン時間などはバラバラでしたが、キッチンが共同なので、そこで会って話すのが楽しみでした。最初は外食をしていたのですが、毎日だと高くつくので、途中から自炊するようにしていました。

-  自炊していたんですね。食材はどうしていましたか?

行本 ホテルからすぐ近くのところにスーパーがあったので、そこで購入していました。

-  外食はいくらくらいだったんですか?

行本 中華料理など安いところは、5ユーロくらいでした。日本から来ている他の方と、ホテルの近くのレストランで食事をするときはだいたい8ユーロくらいでした。スープとメインとデザートが出て来る感じで、お腹はいっぱいになりました。高いといえば高いけど、こんなもんかな、という感じもしました。

-  参加者はどこの国の方が多かったですか?

行本 7割くらいが日本人でした。あとは、イタリア、韓国、ノルウェー人でした。

-  海外の方とうまく付き合うコツはありますか?

行本 日本人以外の参加者の方は、日本人が集団でいたので入りづらかったのか、特別な用事でもない限り、向こうから話しかけてくることはなかったです。なので、こちらから話しかけることのほうが多かったですね。話してみると、片言の適当な英語でもわかってくれたし、向こうもこちらがわかりやすいようにゆっくり話してくれたりと親切にしてくれました。

-  滞在中、何か困ったことはありましたか?

行本 困るという程でもありませんが、ホテルの朝ご飯が毎日一緒だったのが……(笑)。バイキングの内容が種類が少ないのにまったく同じだったんです。1週間くらいなら問題ないと思うのですが、2週間〜それ以上となると、少しきつかったです。パンが2種類とハムが2種類、チーズが2種類、スイカ、トマト、あとは飲み物が牛乳、ジュース、コーヒー、紅茶といった内容でした。

-  ウィーンの交通はどうでしたか?

行本 電車に乗ってしまえばどこにでも行ける感じでした。日本のようにメトロの路線の数も多くないので、迷うこともありませんでした。チケットは乗り放題のものを購入しました。

-  ウィーンの街は過ごしやすかったですか?

行本 日本と外国の違いだと思いますが、よく話しかけてくれました。お店の方だけでなく、そこに買い物に来ている現地のお客さんに話しかけられることもありました。ウサギの絵はがきをみていたら、そこにいた現地のお客さんが、その絵はがきと私の顔を見比べて「似てるわ」とおもしろおかしくいってきたり……。そういうことは日本ではないなぁ、と感じました。あとは、日本人で英語が話せる人というのは少ないと思いますが、ウィーンではほとんどの方がドイツ語以外に英語でも話してくれるので、助かりました。

-  初めての方でも行きやすい街ですね。

行本 はい。私が行けたくらいなんで……(笑)。

ザルツブルグへ旅行!
ザルツブルグへ旅行!

-  今回、留学をして成長したなと感じるところはありますか?

行本 周りの参加者を観察していて、やはり積極的な人が何かを掴めるのかな、ということがなんとなくわかりました。私も最初の1週間は様子を見ているところがあったのですが、後半は日本人はもちろん外国人にも話しかけてみようかなと思い、積極的にしていました。

-  講習会に参加してよかったなと思えることはありましたか?

行本 17日(講習会7日目)の参加者コンサートでお城で演奏したときに、イタリア人のクラリネットの男の子が私のチェロを気に入ってくれて、直前のピアノ合わせのときから「いいよ、いいよ」と言ってくれて、演奏が終わったあとも拍手で迎えてくれました。それで「室内楽をやらないか?」と彼が誘ってくれたんです。結局予定が合わなくて、合わせは出来ずに終わってしまったのですが、それでもそういうふうに言ってくれたことがすごくうれしかったです。日本に帰った後、彼とはメールをしています。

-  他に何かよい経験はできましたか?

行本 直接、講習会とは関係ないのですが、行きの飛行機で隣に座った女の人が乗り換えを手伝ってくれたり、帰りの飛行機でもスチュワーデスさんとチェロ分の座席のチケットのことで話が通じていないときに、日本人の女の人が間に入って通訳をしてくれて助けてくれました。最後のアムステルダムから成田の飛行機でも隣に座った男性が「趣味でコントラバスを弾くんですよー」と話しかけてくれました。その方は名刺もくださって「演奏会があるときは連絡してください」と言ってくれました。飛行機でもいろんな出会いがあって、楽しかったです(笑)。

-  楽器を持っていると話しかけやすいのかもしれないですね。

行本 それはそうかもしれないですね。そういえば、もう1人いた日本人のチェロの子は、楽器を現地で借りて、弓だけを持って来たと言っていました。その借りた楽器がすごくよい楽器で彼女にあっていて、気に入ってるみたいだったので、製作の年代や名前をメモさせました(笑)。

-  行本さんの楽器は向こうで音の鳴り具合はかわりましたか?

行本 日本に比べて向こうはよく乾燥しているから音の響きがよくなるということを聞いたりしますが、私の楽器はしけてるから響かないということはなくって、そんなに変わらないんじゃないかなと思いました。ただ、日本のほうが湿気は多いので、向こうに行って鳴らなくなるということはないと思います。

-  他に留学をして感じたことは何かありますか?

行本 やはり語学が大事だなと思いました。話したいという気持ちさえあればなんとかなるとは思うんですが、いろいろな言葉を知っていたほうが伝わりやすいかなと思いました。

-  そうすると、留学する人へのアドバイスも「語学の勉強をしたほうがいい」ということになりますか?

行本 そうですね。ただ、そんなに前もって勉強していなくても、どんどん話しかけることが大事だと思います。あとアドバイスとしては、先生の選び方も大事だと思います。私は知っている先生に教わったので、レッスンが始まってからギャップを感じることはなかったのですが、感じてしまう人もいるようです。知っている先生に教わるのがベストですが、知らない先生でも少しでもいいので情報をキャッチしてから行ったほうが、向こうに行ってから驚いてしまうということもないと思います。

-  今後の活動の予定を教えてください。

行本 具体的にこれをというものはないんですが、卒業後はこの夏の経験を活かして何でも挑戦してみようと思うようになりました。今までは、表舞台に出ることを望んでいたのですが、そうではなくても、どこでも何でもいいから演奏が楽しくできれば、幸せなのかなと思うようになりました。だから、どんなに小さな仕事でも頼まれたら必ず演奏しようと思うようになりました。

-  それはやはりウィーンで何か影響を受けたんですか?

行本 そうですね。外国の方は日本人とは違ってだいぶ楽しそうに弾いているし、街の人も楽器を持っていると興味を持ってくれたり、自然に音楽が流れている雰囲気が街にありました。

-  これからも音楽を楽しんでいけるといいですね。今日は本当にありがとうございました。

 

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