海瀬京子さん/ピアノ/ベルリン芸術大学/ドイツ・ベルリン

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。


Image海瀬京子さんプロフィール
静岡県出身。西島淑恵、高原節子、塩谷安圭美、播本枝未子、倉沢仁子、エレーナ・ラピツカヤの各氏に師事。東京音楽大学付属高校、同大学を経て同大学院修了。2004年第28回ピティナピアノコンペティション特級準金賞および聴衆賞、併せてロイズ賞、三井ホーム賞、王子賞を受賞。2005年第74回日本音楽コンクールピアノ部門第1位。併せて野村賞、井口賞、河合賞を受賞。2010年第17回アルトゥール・シュナーベルコンクール第1位。これまでに東京交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、セントラル愛知交響楽団、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、群馬交響楽団、東京音楽大学シンフォニーオーケストラ等と共演。また、NHK交響楽団首席奏者メンバーと室内楽を共演。2007~2010年度(財)ローム・ミュージックファンデーション奨学生。現在ベルリン芸術大学に在籍中。


-まずは、簡単なご経歴をお願いします。

海瀬  5歳からピアノを始めまして、東京音大の付属高校に入学しました。そして、そのまま東京音大と同大学院を修了しまして、現在ベルリン芸術大学に留学中です。

-ずっと長く音楽をやっていらっしゃるんですね。最初に始めたのは、近所のピアノ教室ですか?

海瀬  はい。ただ、その前に始めは近所の音楽教室に入って、みんなとわいわい音楽を楽しんでいました。母が元音楽講師だったのでグランドピアノが家にあったりして、音楽が身近にある環境で育ちました。

Image-本格的にピアノを学ぼうと思ったきっかけは?

海瀬  ピアノを始めた頃から、なんとなく音楽家になりたいとは思っていたんです。具体的には、中学校くらいの頃から、早く本格的な教育を受けたいと思うようになりました。のちに教わることになる高校・大学時代の教授に教わりたいなって思ったとこから、本格的に音高受験を準備し始めたという感じですね。

-留学を決意されたきっかけは?

海瀬  実は、元々はあんまり留学のことは考えていなかったんですよ。運良く奨学金がいただけることになったので、留学を決意しました。

-奨学金はどの団体のものですか?

海瀬  ローム・ミュージックファンデーションです。大学院2年の時にいただいたんですが、その奨学金は、国内の学校でも海外の学校でも、最長4年もらえると言うものだったんですよ。なので、日本の大学院で残りの1年間分を使って、今のベルリン芸大が3年のプログラムなので、ちょうどいいなということで。

-ベルリン芸大を選ばれたということですが、決めるまでのいきさつは?

海瀬  日本の先生が、この先生がいいんじゃないかとおっしゃったんです。実際、受験する前に、現在の先生の前で演奏したところ、先生も気に入ってくださいまして。あと、都会に行きたいという思いもあったんです。いろいろな講習会を受けたりして悩んでいたんですが、ベルリンに来た時、しっくりきたんですよね。それで、やっぱりここにしようと思いました。

-どういった講習会に参加されたんですか?

海瀬  ザルツブルグとか、浜松でやってる浜松国際ピアノアカデミーなどです。

-今師事されている先生は、どんな方なんですか?

海瀬  エレーナ・ラビツカヤ先生と言うロシア人女性です。

-ベルリン芸大を志望されている方は非常に多いのですが、受験の内容や出願書類などについて教えてください。

海瀬  私の課程の試験は実技のみです。曲も、バッハ、古典のソナタ一曲と自由曲ですね。でも、とにかく受験者が多いので、試験は1次試験と2次試験にわかれて行われます。1次試験では2~3分しか弾かせてもらえなかったです。2次試験になると、もうちょっと長く弾けるんですが、それでも全部は弾かせてもらえなかったですね。その短時間で、とにかく結果を出さなきゃいけないので、それは大変でしたね。出願書類は、そんなに覚えていませんが、特に多くなかったと思います。願書と写真、成績証明書、卒業証明書、それと語学の修了証明書などです。

-結果はその場で分かるんですか?

海瀬  その日のうちにだいたいの結果は出ますが、会議を経て正式に決まるので、書類を待たなくてはいけません。人によっては、先生からの情報では合格だったのに、会議後書類が送られてきて不合格だった、なんて人もいました。

-志望動機書などはなかったんですか?

海瀬  そういうのはありませんでした。

Image-試験の時の思い出を教えてください。

海瀬  すごく短くしか弾かせてもらえないと聞いていたので、私は、山を張ったというか、大体ここが出るだろうと予想して、そこだけ練習していたんです。でも、受験の直前に先生に聞いていただいた時、先生に「あなた、なんでここは弾かないの?」と指摘されたんですよ、あまり準備してなかったところを。「ここも出されるかもしれないから弾きなさい。」と言われたんです。それが、試験の4~5日前だったんですけど、急遽それを練習しましたら、実際、そこが試験に出たんですよ! やっぱり、ちゃんとやっておかないとだめなんだと思いましたね(笑)。

-レッスンしてもらって良かったですね!留学に関しての手続きは、ほぼご自分でされたんですか?

海瀬  ドイツ語が全然出来なかったので、ドイツ語の詳しい方に助けていただきました。もちろん全部ではなく、最初自分で書いて、最終チェックをお願いしました。

-では、手続きに関しては、そこまで苦労はされなかったんですね。

海瀬  はい。私は周りの方に恵まれていまして。こちらの先生とのやり取りも、大変素晴らしい先輩が親切にお世話をして下さいました。とてもありがたかったですね。
 
-そういう方がいると心強いですね。ちなみに留学準備はどのくらいから始めましたか?

海瀬  今の学校に決めてからとなると、半年ほど前からでしょうか。

-それまでドイツ語は勉強されてましたか?

海瀬  はい。ベルリン芸大は語学が厳しい学校でして、入学してから1年以内に、中級レベルの試験をパスしないと退学になってしまうんですよ。私は、大学でドイツ語を専攻してなかったので、慌てて1年前くらいから学校に通いました。けれど、実際はこっちに来てからはなかなか活かせなかったですね。最初はすごく辛かったです。

-ドイツに渡ってから、語学学校には行ってたんですか?

海瀬  はい、もちろん。毎日通っていました。最初の一年は、いったい何をしに来たんだろう?というくらい、語学ばっかりやっていました。そうしないと、試験にパスできないので。

-じゃあ最初の1年は語学学校に行きつつ、音楽はレッスンのみという感じですか?

海瀬  そうですね。今は語学の試験もパスしたので、レッスンのみです。そういうコースなので。ベルリン芸大は、とにかく自由な時間が多いんですよ。日本での成績証明書を見ながら、どの授業を取ったらいいか照らし合わせていくんですが、私の場合、たいていは日本で終えてきていたんですね。なので、室内楽とレッスンのみ取っています。室内楽は日本でもたくさん勉強していたのですが、なぜか取らないといけないことになりました(笑)室内楽というのも授業があるわけじゃなくて、3回本番をやればいいというものですし、レッスンも週に1回です。本番がある時は、追加でレッスンしてくださいますけど。

Image-噂なんですが、先生の推薦があると、語学の成績に関して厳しくないというのは本当ですか?

海瀬  それはいわゆる力のある先生のみ、でしょうね。でも、そのような先生に師事していても語学試験は取らないといけないでしょうし、あくまで噂程度、ととらえていた方が良いと思いますよ。

-そんなに甘くないですよね。

海瀬  でも、たいていの方はクリアしてますので、それほど恐れる必要はないかもしれませんが、一生懸命やらないといけないのは確かです。

-学校の雰囲気はどんな感じなんですか?

海瀬  ベルリン芸大は大きいので、校舎も何個かに分かれていますから、みんなばらばらでよく分からないんですよね。特徴は・・・、自由に使える時間がたくさんあるということでしょうか。自分の時間がたくさんあると思います。だから、いかようにも頑張れるし、怠けようと思ったらいくらでも怠けられる。それはどこでも同じかもしれませんけど。

-ドイツの学校は、厳しいのかなというイメージがあったのですが。

海瀬  自己管理がきちんと出来ていないといけないと思います。中間試験などもないので、3年間で唯一の試験は、卒業試験ということもありえますから。日本の学校みたいに、一年に一回試験があるわけではないで、時間の使い方は、その人にゆだねられています。自由なようで、それはある意味では厳しいことだと思います。

-そうなんですね。学生さんは、みなさん一生懸命練習されているんですか?日本の学生ほど、みんな練習しないと聞いたのですが。

海瀬  私も本番前など以外はそれほどはしてない方だと思いますけど。日本人の中でも、人それぞれですかね。でも基本的にきちんと練習しているんじゃないでしょうか。あと、こっちの人は、休むときは休むってはっきりしていますね。日曜とかは、学校も空いているみたいですね。

-日本人留学生の方はけっこういるんですか?

海瀬  はい。ピアノだけで、10人以上いるんじゃないでしょうか。ベルリンには、もう一つ音大がありますので、そちらも合わせると、かなり多いと思いますよ。

-日本とドイツで大きく違うことは?

海瀬  重複しますが、時間の使い方が自由に出来るので、自分自身にかかっているということでしょうか。

-授業やレッスンは日本と違いますか?

海瀬  特に違いはないと思います。日本か海外かではなく、それは担当の先生によって違うものでしょうね。私が日本で師事していた教授は長くドイツにいらした先生だったので、その影響か日本にいた時からその時々の状況によってレッスン内容が全く違いました。私の出来によってはレッスンが成立せずに終わってしまう、なんてこともありました。海外だともっとルーズ、のようなイメージを持っているかもしれませんが、逆に今の先生の方が時間に合わせて進行されているので、それぞれ先生方によって違いますね。

-熱心な先生なんですか?

海瀬  そうですね。細かく見てくださいます。段階を踏んで教えてくださるというか。

-レッスンは、時間通りに始まりますか?

海瀬  はい。私が日本で師事していた先生は大変お忙しい方でしたので、3~4時間待つこともしばしばでしたが、こっちに来てからのほうが時間通りですね。生徒数も日本の比にならないほど少ないですから。遅刻しても、それもその生徒の責任って感じで、咎められたりしないんです。心の中ではむっとしているかもしれませんが(笑)。

Image-学費は、奨学金でまかなえているんですよね。

海瀬  はい。

-日本でしっかり勉強しておいた方がいいことはありますか?

海瀬  勉強の仕方というのか、音楽に向かう姿勢をきちんと確立しておいたほうがいいと思います。自分で作り上げる能力を持っておかないといけないですね。それがないと、軸がどんどんぶれていってしまうので。

-日本だと、先生主体で音楽を作っていくというイメージが強いですが、それはないんですね。

海瀬  ないですね。日本、海外に関係なく基本は自分で作り上げるものだと思います。ですから自分で作り上げる力を培っておかないといけないのではないでしょうか。やはり、先生によっては癖みたいなものもありますから。「これは先生の癖だ」と判断できるようになっていないといけないというか。

-いろんな先生に見ていただくというのはいかがでしょうか。

海瀬  それはいいことだと思います。先生によってはそれを嫌う方もいらっしゃいますけど。でも私は、いろんな見方を教えていただける貴重な機会だと思います。

-あと、やっぱりドイツ語は勉強しておいた方がいいですよね。

海瀬  それは100%そうですね。そうでないと、ストレスだらけになってしまいますから。私も未だに出来ないですけど、最初の頃は、外に出るのもイヤでしたから。

-ベルリンは、ドイツ語だけなんですか?英語もOKなんですか?

海瀬  ドイツ語ですね。私の先生はロシアの方ですが、英語は一切話せないので、ドイツ語かロシア語のみですね。ぜひ日本で勉強しておいたほうがいいと思います。

-日ごろの練習はどのくらいされていますか?

海瀬  家でやったり学校でやったりするんですけど、本番前になって、ようやく弾き始める感じなので・・・(笑)。2~4時間とかでしょうか。

-休みの日は、どこかに行かれたりすることが多いですか?

海瀬  特にはどこにも出かけてもいないんですけど、こっちに来てから、思いきってピアノから離れてみるということもしてみています。

-不安にならないですか?

海瀬  それはないですね。周りののんびりした雰囲気を見ていると、そういった時間を過ごしてみるのもいいのかもしれないと思って。そういった日常的な「余裕」を作ることによって、自分の音楽にも何か良い影響があるかもしれない、と思います。それと音楽マンションのような、防音の部屋ではないので、周りの方の生活を考えなくてはいけないですし。

-フラットで一人暮らしですか?

海瀬  はい。ピアノをレンタルして、家で練習しています。

-弾いてはいけない時間帯とかがあるんですか?

海瀬  一応、日曜の午前中は弾かないようにしているとか、夜も8時くらいまでにしてます。私のところは周りの方も理解のある方々なので。そこらへんはフレキシブルにやっていますね。

-いい家が見つかって良かったですね。

海瀬  そうですね。みなさん住宅事情で苦労されていますからね。学校では、2時間くらいしか練習出来ないので。日本と違って、普通のレッスン室で練習するので、先生がレッスンをしていると部屋の数が減ってしまうんですよね。

-2時間でも足りないのに、大変ですよね。

海瀬  そうですよね。だから、ピアノの人は、たいてい自分の家にピアノを入れています。

Image-学外でのセッションやコンサートの機会は多いんですか?

海瀬  それもやはり、コネクションでしょうか。力のある先生のところですと、そのつながりで声がかかってくるみたいですが、私の先生はそういう方ではないので、自力で頑張って機会を作っていかないとなかなか無いです。なので、学外での演奏の機会はあまりないですね。
 
-何かに出演されたりしましたか?

海瀬  友達と室内楽をやったり、学内で行われたコンクールに出場しました。知人の方からリサイタルの話を紹介していただいたり、来年はコンクールの副賞でベルリンでもリサイタルの予定があります。
 
-やっぱりコネクションって大事ですね。現地の音楽の業界のツテは出来るのもですか?

海瀬  それもやっぱり先生によるかもしれませんが、基本的にはコンクール受けたり、自分でチャンスをつかむことが大事だと思います。
 
-留学生の皆さんは、コンクールとか受けてるんですか?

海瀬  はい。ドイツ国内外に限らず、受けてると思います。

-そういうところからプロへの道を開拓されているんですね。海瀬さんの一日のスケジュールはどんな感じなんですか?

海瀬  家にいる場合は、練習してご飯食べて練習して、っていう感じですね。出かける時は出かけますけど。特別なことはしていないです(笑)。

-お友達は、現地の方が多いんですか?

海瀬  どうしても日本人の方が多いですね。外国人のお友達は少ないです。少しだけ韓国の友達がいますけど。

-韓国の人だと、ドイツ語を練習し合えますしね。

海瀬  はい。お互い同じようなテンポなので(笑)。

-ベルリン芸大は、留学生も多いんですか?

海瀬  すごく多いです。私の周りで、ドイツ人ってあまりいないんじゃないでしょうか。アジア人がたくさんいます。特に日本人と韓国人。学校全体でもそうだと思います。

-海瀬さんのところの門下では、どんな比率ですか?

海瀬  日本、韓国、ロシア、アイルランド人などですかね。西洋人が3~4人くらい、5~6人がアジア人という感じです。

-でもドイツ語が必要なんですよね。

海瀬  守衛さんや事務局の人は全員ドイツ人なので。そういう方々とのやりとりも必要ですからね。

Image-日本人以外の国の人とうまく付き合うコツはありますか?

海瀬  私は、外国人の知り合いが少ないので・・・。積極的に話しかけたり、輪に加わっていくというのは大事なんじゃないでしょうか。

-そうですよね。やはり話題は音楽のことですか?

海瀬  他愛もない話ですね、芸能ニュースやサッカーの話など、共通の話題を見つけて話しています。

-住む場所も、自分で探されたんですか?

海瀬  たまたま先輩が同じところに住んでいらして、そこが空いているよと紹介していただいたんです。

-ラッキーでしたね。

海瀬  そうですね。その先輩は、前から知り合いだったのではないんですが、受験前に先生に会いに行ったとき、レッスンの時間が、たまたま前後してたんです。そのとき、「あ、この人日本人だ!」と思って、レッスンが終わるのを待ち構えて話を聞いたんです。そしたら、同じアパートの部屋が空いていると言うことで、大家さんにお話してもらうようにお願いしたんです。

-自分から話しかけたことによって見つけられたんですね。

海瀬  気になることがあったらどんどん聞いて、スパッと決めていかないと。特に住宅は、みんながいい所を探していますからね。

-悩んでいる暇があったら行動しないとって感じですね。大変な部分もあるかと思いますが、留学して良かったと思う瞬間はどんな時ですか?

海瀬  言葉が分からなくてストレス感じたり、レッスンで自分にない部分を指摘されて悔しく思う時こそ、留学している醍醐味を感じますね。ベルリンには世界でも超一流のオーケストラやオペラがあります。そこに良く足を運ぶのですが、そういった一流のものに間近で触れられた時なども、留学して良かったと思う瞬間ですね。

-そこで自分が変わったなとか、成長したなって思うのでしょうか?

海瀬  自分ではまだよく分からないですけど・・・。でも、日本に帰ったとき、先生に久々に聞いていただいたりして、「変わったね」とか「良くなったね」みたいに言ってもらえると嬉しいですね。

-こんなこと知らなかった、とかいう発見はありますか?

海瀬  ありますね。私はとにかく音色の種類を増やしたいと思って来たので、そういう面で、先生も細かく指摘してくださいますから、新しい発見はたくさんあります。

Image-それをどんどん習得している最中なんですね。

海瀬  毎回毎回、同じようなことを言われてしまうので、成長してないなってがっかりするときも多いですけどね。くじけそうになりますけど、ここで諦めるわけにはいかないっていう気持ちで頑張っています。

-前向きに考えられて素晴らしいです。ベルリン芸大なんてなかなか入れない学校ですし。海瀬さんが受けられたときは、どのくらい受験者がいてどのくらい合格されたんですか?

海瀬  130人くらい受験して、5~6人ですね。前に受験していて、入学時期をずらしてくる人もいるんですけど、その人たちを入れても10人くらいでしたから。

-試験官はどのくらいいらしたんですか?

海瀬  1次試験は午前午後に分かれていて、それぞれに分かれて先生がいるんですけど、2次試験は全教授が来ていましたね。

-それは緊張しますね!

海瀬  でも、フレンドリーな感じでしたよ。それよりも、ベルリン芸大の試験は、すごく大きなホールであったのですが、響きがかなりないところなんです。だから慣れていないと大変ですね。先生方は和やかでしたけど、ホールに対して緊張しました。

-今は2年生ということですが、卒業されてからの進路はどうお考えですか。

海瀬  私は最終的に日本に帰って、日本で音楽活動をしていきたいと考えています。

-プロのピアニストを目指されるんですね。

海瀬  なれるかなれないかは別ですけど。あとは、教えたりして音楽で生きていけたらと思います。

-音楽教授を目指したいとかはありますか?
 
海瀬  もし、そういったチャンスがあれば、ですね。

Image-最後に、これから留学する人にむけてのアドバイスを。

海瀬   今は、ある程度のお金さえあれば、音楽的なレベルに関係なく比較的誰でもが留学しやすくなり、インターネットで簡単にどこでもつながれる時代だと思います。飛行機で簡単に日本と行き来も出来ます。街中には日本人もたくさんいて、日本のものも簡単に手に入ります。一昔前の先輩方が留学していた時の苦労を思うと全く状況は違うと思うので、なぜ自分は留学するのかということを、心に決めてから来た方がいいと思います。まずは「行ってみたい、見てみたい」という好奇心があることが大前提だと思うのですが、今の時代でしたら、何かしら自覚を持っていかないとブレてしまうと思うんです。ある程度、留学に対する大きな目標を持つというか、自分は最終的にどうなっていたいのか、というのを考えてくるのも大事だと思いますね。人によってはとりあえず来てから考える、というのも良いのでは、という方もいらっしゃいますが。現在はどこに行っても留学生もたくさんいて、私の周りで、とりあえず来たけど、語学も出来ずにどうしていいか分からないという人もいて、そういう人はトラブルに巻き込まれたりしています。ですから、自分の中に一本考えを持ってきたほうがいいと私は思います。

-しっかりした意思を持っていないと、せっかくの留学を活かせないということですね。

今日は、参考になるお話をたくさんお聞かせ下さって、本当にありがとうございました!

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海瀬京子ピアノリサイタル

開演: 2010年10月8日(金) 19時...(18時30分開場)
入場料金: 3,500円  
会場: トッパンホール 112-8531 文京区水道1-3-3 tel:03-5840-2200
主催・お問い合わせ: カノン工房 このメールアドレスはスパムボットから保護されています。閲覧するにはJavaScriptを有効にする必要があります。

 

広瀬ゆう子さん/ヴァイオリン/ウィーン国際音楽ゼミナール/オーストリア・ウィーン

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。


Image広瀬ゆう子さんプロフィール
二歳からバイオリンを始める。慶應義塾大学中退。ウィーン国際音楽ゼミナール参加。

—  現在までの略歴を教えて下さい。

広瀬 二歳の頃からバイオリンを始めて、はじめは鈴木メソッドに通っていました。本当にバイオリンが好きで、「バイオリンを続けるか、幼稚園に行くかどちらにする?」と両親に聞かれて、「バイオリン!」と答えたほどでした。途中体調を崩した事もあって、自宅近くのバイオリン教室に変わりました。ドイツから帰国されたばかりの有名な先生だったのですが、そうと知らずに入りました。中学生の時にジュニアオーケストラに入団したんですが、経営難で潰れてしまって‥それでシニアオーケストラに入りました。高校に進み、その後音楽大学へ進学したい気持ちもあったのですが、「堅実な人生を歩んでほしい」という両親の希望で慶応大学に入学し、その際ユースオーケストラに移りました。大学では室内楽のサークルで活動していました。

—  今までバイオリンを中断したことはないのですか?

広瀬 じつは高校の吹奏楽部の時に少しだけあまりやっていない時期があります。シニアオーケストラでドヴォルザークの『新世界』を演奏した時に、管楽器が素晴らしいと思ったんです。それで私も木管楽器をやってみたいと、浮気心がでちゃいました(笑)。中学校では少人数の合唱部に所属していたので、大所帯の部に属してみたかった、というのもあって、高校の吹奏楽部に入りました。でも実際に入部してみると、木管楽器はとても人気があって、経験者が優先されたので、チューバの担当になっちゃいました(笑)。今はもうチューバは演奏していませんし、マウスピースも高校に置いてきました。その間は部活動が忙しくて、バイオリンは週に一度程度しか弾けませんでした。それも親から決められて一時間だけだったんですが、まったく弾かない時期はないですね。

Image—  いつ頃から留学したいと考えていましたか?

広瀬 高校時代からドイツにバイオリン留学したいという思いがありました。海外のディプロマコースの存在を知って、社会人になった後で、働いて貯めたお金で留学することができる、いつかは音楽で夢を叶えたいと思っていました。

—  何がきっかけですか?

広瀬 大学2年生の時に体調を崩して退学せざるを得なくなってしまい、それからは派遣社員として社会に出ました。その頃、よく悪夢にうなされていて‥。夢にバイオリンの先生が出てきたんですよ。音楽をやれと私に言っているようでした。それで音楽を志すことに決めました。そうしたら、たまたま友人がドイツ留学すると言うんです。私が前からドイツに行きたかったのに、「先にドイツに行くなんてずるい!私も行く!」と(笑)。バイオリンの先生がハンブルグ交響楽団の客演コンサートミストレスだったこともあって、ドイツには前々から興味がありました。ノイシュバンシュタイン城(シンデレラ城のモデルとなったミュンヘン近くの城)が大好きで、ドイツ語も好きだったんです。

— 実際にはオーストリアのウィーン国際音楽ゼミナールに参加されていますが?

広瀬 最初はドイツに行きたかったんです。ですが、ドイツのコースはオーディションで聴講生と受講生に分かれるような、レベルの高い講習会だったので、まずはウィーンを検討することにしました。いずれは長期留学をしたいのですが、これまで海外に行ったことがないので、まずは短期から、と考えて、アンドビジョンのスタッフの方に薦めていただいたウィーン国際音楽ゼミナールにしました。よく考えてみると、私は英語しか話せないので、ドイツだと田舎に行ってしまったら言葉が通じなくなるおそれがあるけど、ウィーンだと都市だから英語が通じて安心だな、と思ったんです。それに、ウィーンからだとミュンヘンも近いので、帰国する際にドイツに寄ることもできるかと。ゼミナール終了後、本当にミュンヘンやノイシュバンシュタイン城にも寄って帰って来ることができたんですよ。

Image—  準備期間はどのくらいでしたか?

広瀬 3ヶ月ほどでした。あっという間でした。

—  学費はどのように捻出されたのですか?

広瀬 派遣社員として働いていたお金と、子供の頃からのお年玉や入学祝などの貯金に、祖母からもらった成人祝いを足しました。

—  ウィーンでは実際に英語が通じましたか?

広瀬 そうですね。ホテルや大きいお店、チケット売り場などでは普通に通じました。観光客が行くような場所では大概通じたと思います。ですが、バーなどに行くと、マスターは話せても、その奥さんは話せなかったり、常連さんが話せなくて通訳してもらったりしました。私自身、父親の薦めで英語は小さい頃からやっていて、これまでも読み書きはできました。ただ、英会話のチャンスが日本ではなかなかないので、ウィーンに行ってからコツを掴むまではたどたどしいものでしたが、2週間ほどでそれもスムーズにできるようになりました。

—  ドイツ語(オーストリアの公用語)は特別に勉強して行ったのですか?

広瀬 もともと語学が好きなので、独学で少しかじってはいたのですが、留学が決まってからは仕事もしていたので、なかなか時間がとれなくて‥。でも英語が通じるということだったので、語学の勉強をするよりは楽器を弾いた方がいいかな、と、特に勉強はしませんでしたが、挨拶程度はドイツ語で会話することができました。

—  ツィエンコフスキー先生のコースを選ばれたのはどうしてですか?

Image広瀬 ゼミナールのブロックⅡはポーランド人のツィエンコフスキー先生とロシア人のアレンコフ先生お二人の講師で、どちらに教えていただくか迷っていました。以前ツィエンコフスキー先生にレッスンを受けられた方が「ツィエンコフスキー先生はとてもよかったよ」と言われていたのと、バイオリンの先生に相談したら、どちらもお名前をご存知だったんですが、「ロシア人は厳しいらしいわよ」と言われたので、ポーランド人のツィエンコフスキー先生にしました(笑)。

—  ツィエンコフスキー先生にレッスンを受けてみて、いかがでしたか?

広瀬 大変気さくな方で、レッスン中はもちろん真剣に教えてくださるんですが、普段はフレンドリーに接してくださいました。今まで習った日本人の先生達と違っていたのは、本場ヨーロッパ、ウィーンの、最先端の演奏を教えてくれたことです。たとえば、「チャイコフスキーの第2楽章はコンソルディーノ(ミュートを付けて)と楽譜には書いてあるけれども、作曲した当時は規模が小さい所で演奏していたからで、現在は大きなホールで弾くから基本的にはミュートは付けずに弾くんだよ」と。それが今回の留学で一番感動したことです。弓順も、カール・フレッシュ版よりも、ペーター版よりも、オイストラフ版の楽譜がいいよ、と教えていただきました。それに、私のレベルに合わせて、具体的に私のテクニックの悪いところを指摘してくれて、とにかく真剣に教えてくださいました。自分のレベルとはちょっと違うな、ということは一度もありませんでしたね。他の生徒さんにも一人一人のレベルに合った指導をされていました。

—  それでは一時間はあっという間でした?

広瀬 はい、あっという間でした(笑)。

—  レッスンは何人で行われるんですか?その中に日本人はどのくらいいました?

広瀬 十三人ほどで、日本人は三分の一くらいかな?韓国人と足したら半分くらいだったと思います。なかにはウィーン国立音大に合格して、ツィエンコフスキー先生の門下生としてこの後入学する、というポーランドの男の子もいましたが、アジアの方が多かったですね。音大生の方や音大浪人の方が多かったのですが、日本人で、音大卒業後に自分でお教室をされているという方も参加されていました。

Image— レッスンはどんな形で進められましたか?

広瀬 最初はコースごとにみんなで集合して、レッスン日と時間を決めました。ツィエンコフスキー先生の場合はその後すぐレッスンだったんですが、なかにはバイオリンを持って来ていない生徒もいました。時間は朝の9時から遅くても夕方の4時くらいには終わる感じです。自分の弾きたい曲を希望して教えてもらって、基本的にはレッスン一回に一曲、私は全部で五曲教えてもらいました。毎日レッスンを受けていた方は結構大変だったと思います。私の場合、途中体調を崩して入院してしまったので五曲でした。入院前後はアンドビジョンや講習会のスタッフの方がちゃんと連絡をとってくれて、意向を酌んで体調が回復した後半にレッスンを集中していれてくださり、臨機応変に対応してもらうことができました。

—  周囲の人の学習態度は日本とは違いましたか?

広瀬 そうですね、何分日本人が多かったのですが(笑)。それでも、韓国人の方などは先生がいらっしゃる前からピアノと合わせていたりして、レッスンに参加されている時点で意欲的な方が多いな、とは感じました。

—  現地でのレッスン以外の練習はどうされていましたか?

広瀬 ホテルの自分の部屋で練習していました。時間が決められていて、9時から12時と、14時から20時まででした。

—  レッスン以外の時間はどうされていました?

広瀬 そうですね、練習以外の時間は観光を楽しみました。シェーンブルン宮殿からハイリゲンシュタット(ベートーベンゆかりの地)まで、くまなく周りました。駅の近くに、行きつけのバーまでできて、地元の方との交流を楽しみました。他のレッスン生も、どこにも観光に行かなかった、という人はいなくて、シェーンブルン宮殿だけには行ったとか言っていました。ちなみに、シェーンブルン宮殿よりも、私は王宮宝物館の方がお薦めです(笑)。

—  どうやって現地の方と交流したんですか?

広瀬 高校の英語の先生から、「日本の5円玉は穴が開いていて、貨幣としてとても珍しいから、海外に行く時は持って行くといいよ」と聞いていたので、留学が決まってから一所懸命5円玉を貯めていました。でもホテルでは「これ、コインランドリーで見つけた」とか言われてあまり‥(笑)。
それから、千代紙を1セット持って行きました。電車の中とかで鶴を折っていると、周りの人が珍しそうにジーッと珍しそうに見てくるんで、差し上げるととても喜んでもらえました。日本のこと知っている方には「オリガミー!」って言われて(笑)。知り合った5歳くらいのイタリア人の女の子には作り方を教えてあげました。その子のお母さんが手伝って、お父さんがビデオまで撮って。そしたら、その女の子がお礼にと、左右の頬に唇を寄せる挨拶、あれをしてくれたんです。すごく嬉しかったです!折鶴はきっかけとしてとてもよかったですね。ホテルでチップを置くときに一緒に添えておくと、一緒に持って行ってくれていました。

—  宿泊先のホテルはどうでしたか?

Image広瀬 とてもよかったです。スタッフのみなさんとても親切で、ほかのレッスン生から聞いた話にだと、朝食が7時からと決まっていたんですが、それよりも早く出なければいけない時があって、フロントに相談すると、早い時間に合わせてお弁当を作ってくれたそうです。宿泊とセットになっている朝食がとても美味しかったです。ハムが何種類もあって、ズッキーニがシャキーンとしていて。蜂蜜やヘーセルナッツバターや、ジャムがたくさんありました。ジュースも何種類も用意されていたし。ホテルには共同ですがキッチンも使えますので、自炊できます。近くにはスーパーがありますし、部屋も、とびきり新しい、というわけではないんですが、ちゃんと綺麗に掃除されていて、広くて。ちなみに2人部屋より1人部屋の方がバスルーム広いです(笑)。

—  バスタブ付きですか?

広瀬 バスタブはさすがにないです。

Image—  ドライヤーはありますか?

広瀬 部屋には付いてないんですが、フロントに言えば貸してもらえました。

—  生活費はどのくらいかかりましたか?

広瀬 そうですね‥。食費の金額で変わってくると思うんですが、高級なレストランや日本食店は、それはもちろん高いです。でも、駅前とかにおっきなピザが2ユーロくらいで売ってるんですよ。焼いてすぐ切ってくれます。シュニッツェル(ウィーン風カツレツ)は3ユーロで売っています。ちなみにマヨネーズとケチャップは別売りです(笑)。ウィーンにはねぎるという習慣はないんですが、たぶん、食費は抑えようと思えばいくらでも抑えることができると思います。朝食は宿泊費とセット料金なので、朝たくさん食べるようにしてタンパク質をそこで摂って、あとはパンとジャムで生活するとか(笑)。交通費はとても安いです。1回券は1.7ユーロですが、一週間フリーパス券があって、それが10.50ユーロなんですよ。それをよく利用していました。切符はクレジットカードでも買えます。今ユーロが円に対して高くなっていますけれど、もともと物価が安い国らしくて、私はそんなに高くは感じませんでした。

Image—  何か不便なことはありましたか?

広瀬 特別ありませんでした。レッスン生の中には英語やドイツ語があまりできなくてちょっと困っている子もいたようです。本はドイツ語のものしか売ってないので、よく分からない。それくらいですね。

—  ホテルから学校まではどのくらいの時間かかりましたか?

広瀬 そうですね、30分かからなかったと思います。ホテルからシュネルバーン(郊外電車)の駅まで3分かからないくらいだったし、電車の本数は頻繁にありましたから。駅を出て大学まではすぐなので、20分くらいかな?

—  電車の中の治安はどうでしたか?

広瀬 よかったですよ。たまに、本当にたまにヘンな人はいましたが。

Image—  留学する際に持っていった方がいいと思うものがあったら教えてください。

広瀬 音楽面では、とにかく曲は多めに用意しておくことです。多いにこしたことはありません。生徒が少ない時とか、予定している曲数よりも多く教えてもらえることがあります。バイオリンの方はピアノ伴奏譜も持っていかれるといいと思います。ピアノ伴奏有りか無しかを選ぶことはできるんですが。楽譜に関することで言うと、もし同じ曲を日本でも習っていたら新しく楽譜を買っていかれると、書き込みが混ざらずにいいと思います。生活面では、ホテルのキッチンにはグラスや鍋やフライパンなどの調理器具は揃ってるんですが、お皿や食器がないんですよ。お皿1枚とスプーン1本、持っていくと便利だと思います。あと、ヨーロッパはシャンプーとコンディショナーに分かれていないので、気にされる方はご自分がお使いのものを用意されるといいと思います。それから、日本に電話やメールをする機会もあると思うんですが、日本の時刻が分かるように、世界時計とか、なければ腕時計を2つ持っていくと便利だと思います。

—  日本とウィーンでの違いは感じましたか?

広瀬 そうですね、音楽的なことで言えば、日本では譜面は暗記して弾くのが当たり前だという風潮がありますよね。実際私もプロなら覚えるのが当たり前だと思っていたんです。ソナタに関して言えば、ウィーンでは譜面を見ない方が逆に悪いイメージを持たれるそうなんです。ソナタはピアノと2人だけど室内楽だから、見るのが当たり前だと言われました。私が暗譜で弾いたらびっくりされました(笑)。そういった日本では知らない常識みたいなものがウィーンにはきっといっぱいあるんでしょうね。まぁ、私が特に音大に入ってないから余計それが多かったかもしれないんですけど。あとは、音の鳴り方が全然違うと思いました。空気が違うと感じましたね。文化面では、向こうではすれ違う人と必ず挨拶するんですよ。日本では絶対ないことですよね。みんなフレンドリーで、親切で。荷物を棚に上げるところとか必ず手伝ってくれるし。そんなウィーンの文化が好きでした。道路の幅ひとつにしてもすごく居心地よかったですね。生活面では、虫をね、あまり気にしない文化らしくて‥網戸が付いてない家がほとんどなんですよ。それでハエや小バエが入ってきたりはします。一度、ホテルに持ち込んだサワークリームに蟻がたかって大変だったことがありました。硬いんですよ、ウィーンの蟻って(笑)。日本でやるみたいにプチって指で潰そうとしても潰れないんで、ハウスキーパーの人に来てもらって取ってもらいました。都市部では人を刺すような蚊はいませんでしたね。たぶん山の方に行かないといないと思います。

Image—  留学して良かったと感じる瞬間はどんな時でしたか?

広瀬 今付いているバイオリンの先生も素晴らしい方ですし、日本でも十分音楽の勉強はできると留学する前は思っていました。まぁ、多少は違うのかな、とは思っていましたが。でも、留学してみると「全然違うな」と思いました。やはり、日本は狭いと感じました。さきほどお話したように、チャイコフスキーのコンチェルトにしても、最新の弾き方があるということが分かりました。ほかにもたくさんヨーロッパの新しい技術を教えていただいたので、もっと練習して自分のものにしていきたいと思います。音楽面以外では、ウィーンにはコソボから来て働いている人がたくさんいるんです。紛争で家族を亡くした方とも話をしました。自分がいかに井の中の蛙だったか思い知らされました。オーストリアという広い所に行ったおかげでそういう自分に気付くことができた時に、留学してよかったと思いました。お金を貯めてまたどこかに留学したいです。

—  留学をして、自分が成長したな、と思うところはありますか?

広瀬 私、お金を貯めてまた留学したいと思っているんです。最初はウィーンに行って、広い世界を見て、世界を知った気になったんですけど、よく考えてみると、ウィーンって世界的な観光地なので、そこで観光したり、住んでいる人達って『世界が100人の村だったら』風に考えると、世界のほんの一部のお金持ちの人達なんですよね。だから、これからは東南アジアとか、貧しい国の人達のこともちゃんと見なければいけないと思ったんです。それで、本などでいろいろと勉強するようになりました。そういうところに目を向けることができたところは成長したと思いますね。もともと私、僻地に学校を建てるのが夢なんです。それが一層強まりました。

Image—  今後の進路について聞かせてください。

広瀬 ウィーン国立音楽大学への入学を当面の目標に、私立の音楽院を踏み台にしても行きたいなと思います。将来的な目標としては、これは中学生くらいからの夢なんですが‥。葉加瀬太郎さんや、高嶋ちさ子さんみたいに、クラシックを身近に聞いてもらえる音楽家になりたいです。「ジュピター」のようにクラシック音楽が流行したように、ざっくばらんに一般の方にもクラシックを楽しんでもらえたら、と思います。ヨーロッパに移住したいという希望もあります。帰国したら、たとえ他の仕事をしながらでも、ファミリーコンサートみたいな、一般的な方が知っている曲だけを集めたコンサートがしたいな、と思っています。「これ好きだけど、題名が分からない」って曲、みなさんきっと多いと思うんですよ。そういう曲を集めて、青島広志さんみたいに自分でMCもしながらコンサートしたいんです。一人でも多くの人に、クラシック音楽に親しみを持ってもらえたらな、と思っています。いくらこれから技術を磨くと言っても、今からテクニカルな演奏家になるのは無理だと自分でも分かっているので、そちらの方面で活動できたらな、と思っています。教えるよりは、自分が弾きたい方なので、普段は教えながらでも、楽器を弾く友達はいっぱいいるので、そういうコンサートをやっていけたらと思います。

—  これから留学する人に、心しておかなければいけないことを教えてあげてください。

広瀬 レッスンを受ける際は、曖昧な返事はなるべくしない方がいいと思います。先生もたぶん困っちゃうので。生活面では、いくら英語が通じるといっても、挨拶程度のドイツ語は覚えて行った方がいいと思います。「こんにちは」「ありがとう」くらいでいいと思いますが。それから、クレジットカードがレストランでもスーパーでも使えますし、切符とか小さい金額のものでも何でも買えて、領収書が一緒に出てきます。その領収書にクレジット番号や有効期限がきちんと書いてあるんです。それがあるとインターネットショッピングが出来てしまうので、万が一その領収書が他人の手に渡ると、クレジットカードが悪用される可能性があります。だからくれぐれも失くさないように注意してください。それからこれは女性限定ですが、ナンパ注意です(笑)。面倒くさいです。英語が分からないフリしていればいいと思います。他には、先ほどウィーンは治安が良いと言いましたけれども、いくら治安が良いとは言っても、日本より治安が良い国はまずないです。大学の教授から教えてもらったことですが、パスポートは首から提げるタイプよりも、お腹に巻くタイプとかの方が良いと。私はずっとスカートかズボンだったので、パスポート、額が大きいお金、電車のパスなどの貴重品は袋に入れてウェストに挟んでました。ウィーンで一度、私が駅のインフォメーションを探していたら、おばあさんが駆け込んできて、「バッグ盗まれました」って言ってるのを見たことがあります。だから置き引きにも十分注意してください。ウィーンはある程度英語が通じるといっても、それは日常会話程度のことなんですね。何があるかわかないので、私は医学用語を入れた電子辞書を持って行って、入院した時に医学用語をドイツ語で表示したりしてとても役に立ちました。あとは、常備薬は必ず携帯するとか、国際電話のかけ方は何があるか分からないのでマスターしておくとか、海外保険は入るとか‥。どこに留学するにしろ、「留学する際の注意点」ガイドはアンドビジョンでもいただけるので、必ず読んだ方がいいと思います。

—  今回の留学は入院されて大変でしたね。

広瀬 ちょうど行きの飛行機の中で『300』という映画を見たんですよ。ゲルマン民族の話なんですけど、救急車をホテルの方が呼んでくださったら、体格が良いドイツ人が2人来て怖かったです(笑)。ちなみに救急車は451ユーロでした‥(留学生保険でカバーされます)。

Image—  最後に一言、これから留学される方にどうぞ。

広瀬 ウィーンは世界的に有名な観光地で、いろんな国からいろんな人達が集まってくる所です。特に夏期講習の時期は観光の季節でもあるので、いろんな方と触れ合うことで、本当にこれからの人生を変えるだけの衝撃を受ける可能性は十分にあると思います。

—  ありがとうございました。

福森道華さん/ジャズピアニスト/アメリカ・ニューヨーク

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロに皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでご活躍中のジャズピアニスト福森道華(フクモリミチカ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽家としてニューヨークで活躍すること」についてお話しを伺ってみたいと思います。

ー福森道華さんプロフィールー

ジャズピアニスト福森道華さん
photo by TAKEHIKO TOKIWA

愛知県立芸術大学音楽部作曲科を卒業。上京後、鈴木コルゲン宏昌さんに師事し、東京で8年間活動。2000年に渡米。Steve Kuhnにジャズ・ピアノを師事 し、ニューヨーク市立大学大学院音楽学部ジャズ科を卒業。Lenox Lounge、Cleopatra's Needle、University Street、Beekman Tower Hotel等に出演。ギリシャツアー、アルバムのレコーディングと音楽活動を広げています。ジャズライブハウス「ブルーノート」へも出演し、実力が高く評価されています。また、「CDで学ぶピアノの弾き方/気楽に楽しむポップスピアノ」(ナツメ社)の著者であり「ハモンドオルガン/キーボード ジョーイ・デフランセスコ イン」(ATN)の翻訳なども行っています。


ー  そもそも音楽に興味をもったきっかけを教えていただけますか?

きっかけですか?3才のときに母親に地元の音楽教室に連れて行かれたことですね。自宅にピアノがたまたまあったので...。

ー  小さい頃だと興味があったというわけではなかったと思うのですが、やり始めていって、プロになろうと思った瞬間とかがあったわけですか?

そうですね、3才以降、常にやっていたので、そのまま何も考えずに音大に行き、今はジャズをやっているんですけど、あえてこの道に入ろうとしたのは、音大を出てからですね。

ー  日本ではクラシックから始めたようですが、何故ジャズに行き着いたのでしょうか?

あんまり大きくは言えないんですが、音大まで行って、私はクラシックがあんまり好きじゃないと思って。音楽教室はクラシックもやらせるし、ポップスみたいなのもあるんですが、よく考えてみるとそっちの方が好きだったな、というのに気がついて。それまでは学校でも音楽の時間は普通の授業より好きだな、とか音楽だったら何でも好きだったんですが、いざ100%クラシック音楽の環境に入って、ちょっと違うなっていうのがあって。よくよく考えたらテレビでやってる歌謡曲の方が好きって。

ー  今でもクラシックはあまり?

ジャズの道に入ってからは、こっちに必死なんですよね。時間がないから聴いていないですね。

ー  ブラジル音楽がお好きだそうですが、ジャズに進まれたのはなぜですか?

ブラジル音楽はそれで仕事が出来るとは知らなかったんですね。ホントは大学卒業してから、商業音楽家になりたかったんですよね。歌手の人に楽曲を提供する作曲家みたいな。で、そういう人になるならジャズの理論とか知っていた方が良いかな、と思って、テレビでたまたまジャズフェスティバルみたいなのをやっていて、このアレンジがすごい!、この人につきたい、と思ったときに、Dr.JAZZとして日本のジャズを支えて育ててくださった内田修先生にお会いして話したら鈴木君につきたいのか、紹介してあげるから、是非つきなさいと言われて..。鈴木先生が教えているのがアンミュージックしかなかったんですね。それで鈴木先生についてからすごく奥深くて、のめり込んで、難しくて、ジャズしかできない、他のことをやる時間がなく、今に至るという感じですね。

ー  そのころから一気にジャズに変換して、東京でもジャズという感じだったんですね。
 

ジャズピアニスト福森道華さん
Zinc Barでのライブ

変換というか、ふと考えたら他のことをやる時間がなかったし、難しかったし。自分にもあっていたし、すごく好きだったので。たまたま拾ってくれるバンドとかもあったので、東京に行った瞬間からジャズにドボっとはまったという感じですね。ご縁があったんですね。横道を考える暇がなかった。そんな中でブラジル音楽がすごく好きでよく聴いていたのですが、ニューヨークに行ってみたところ、そのブラジル音楽とジャズの両方がすごいクオリティーで存在するので、ニューヨークに住もうかな!、将来あこがれのバーに出れたらいいよな〜!みたいに思って。ZINC BARっていう憧れのBarにでれたらいいよな〜と思ってたんです。そこのバーでは、ぱっと見たらどう考えてもブラジル人しか弾いてないので、まさか自分がステージに出れるとは思っていなかったんですけど。次の人生はブラジル人なりたいと思いますけどね(笑)。本当はブラジル音楽とジャズ一緒にやりたいと思うんですけど、ブラジル音楽もすごい難しいんですよね。リズムの問題で。天才だったら出来たかもしれないんですけど自分の容量はよく分かっていますので(笑)。

ー  渡米を考えたきっかけを教えてください。

ジャズを初めたときから私を育てて頂いた、歌手の植村美芳子さんに、会ったときからニューヨーク行こうよって言われていたんです。でも、お金がないじゃないですか、もちろん。どうやってニューヨークへ?日々手一杯なのに、どうやってお金を貯めてニューヨークへ行くんだ?という感じだったんです。ある日、お金がようやく貯まったので、植村さん今年は行けそうなんですけど、と言ったら、ホントに〜って言われて。私が部屋借りるから、居候でいいから連れって言ってあげるわよ、っていわれて、行ったら初日からはまってしまったんです。私はもうここに住んでしまえ〜、これは住むしかないな、という風に思ってたんですね。

ー  1番そういう風に思われたのはどう部分なんですか?

やっぱり音楽ですよね。すごいショックを受けたんですよね。レコードしか聴いたことがないじゃないですか。いわゆる勉強するとか、ブラジル音楽にしても CDを聴いてう〜んという感じがあるみたいな(笑)。生を聴いて、生ってCDの百倍ぐらい迫力が有るじゃないですか、もちろん東京でもブルーノートとか行ってましたけど、それを1/10ぐらいの値段、もしくはタダで聴ける生活があるなんて。自分がそこに入るなんて夢にも思っていなかったので、とりあえずすがるように、聴けるだけでもいいや〜、という感じで。まさか自分が、そういう人たちに混じるとか、そんなおこがましい事は全然考えていないです。ほんと聴けるだけで有り難うございます、という感じで。

ー  現状で福森さんの音楽スタイルはご自分ではどのようなものだと思っていらっしゃいますか?また、ご自分の音楽をどのように作っていくのですか?

アメリカ来てから音楽に対して、変わったと思うのは、日本にいるときはすごく頭で考えていたんですよ。音楽のことを。とにかくすごい頭で考えていたんですね。こっちに来てからジャズが生まれた国で、ジャズが発展してきた土地で、こうして聴いている訳じゃないですか。しかも、びっくりするような大御所を間近で聴いて、その人たちの音楽を浴びるように聴いからは、頭で考えるんじゃなくて、心から伝えなきゃいけないんだ、っていうのがありますね。自分が日本とニューヨークにいてすごく変わったと思うのはそこですね。それで、それを感じられたのは幸せだなあと思うんですけど。Steve Kuhnに付いているというのもありますし、こちらでは全てがそういう思考なので。Steve Kuhnからは、君は何のために音楽やっているの?って。伝えるものがなければ意味がないじゃないかと。わたしが100万回練習した曲をSteve Kuhnが、なんだこれは〜!って言って、僕はこんなの30年ぐらい弾いていないけどね、と言って、30年ぶりに弾いた彼のその一発が、私の100万回の練習よりも100万倍うまいんですよ、というかずっと良いんですよ。

ー  舞台の上ではどのような事を考えて演奏しているのですか?それとも自然に演奏しているんですか?
 

ジャズピアニスト福森道華さん
Zinc Barで活躍する日本人ピアニスト

日本にいる時は考えて演奏していたんですよ。今は、自然が自然にでるようする、という事ですね。そして頭で考えなくて良いぐらい、練習する。自然に自分がでるように、自分が何を感じているかがすぐに手に伝わるような訓練をしておく。日本ではそれをしていたつもりでも伝わっていなかったんですよね。回路が間違っていた、というか、間違っていたとは言わないですが、あれはあれでよかったんですけど。実際気持ちよくスイングするというのはどういうことか、っていうのを、今自分がスイングしているかということをおいておいても、体でこういうことじゃじゃないのかなっていうのを何となく感じ始められたんですね。そのことは一生考え続けることです。だいたいこっちで育ってないし(笑)。そういうことは良く言われるんですよ、僕達はこちらの音楽を聴いてきて、英語を話してこういう風にスイングしているけど、だいたい君思考回路日本語でしょ、って(笑)。

ー  やっぱりジャズって、ツーカーの部分があると思うんですけど日本人と演奏するときと外国人と演奏するときと、一緒にやるときは感覚はちがうものですか?

やりとりの仕方は一緒です。日本で学んだHow to Jazzでも全然OKです。でもその先のどうやってスイングするとか、あこがれのレコードで聴いていた演奏に近づくには、っていう答えが、今でもずっと探しているんですけど、先生にも言われるんですけど、難しいんですよね。それはもう心で感じるっていうことなんですね。

ー  体に染みついてくるっていうような感じですか?

やっぱり年中浴びるようにあの音楽を聴いて、ですかね。

ー  それはやっぱりずっと住んでいないと分からないような感じですか?

世の中には分かる人もいると思います。私のような人間は、住んで5年たって、やっとなんとな〜くわかりはじめて、でもやっぱり分かってないんだろうなって、感じですかね。こんなこと言っていてもSteve Kuhnに言わせればNever ever swingとか言われちゃうんですけど。やっぱり本では勉強するじゃないですか。奴隷制度があって、アフリカ音楽と西洋音楽の融合みたいな、そういうのをものをこちらにいると身近で感じるんですよね。例えば、ゴスペルとかを見ると、こういうのが根底にあるのね、とか。

ー  ニューヨークに住んでると浴びるように感じるって事ですよね。

ニューヨークに住んでるとテレビも英語でCM流れても英語じゃないですか。その行間に流れる音楽も英語で流れるじゃないですか。日本に帰るとそれが全部日本の音楽、そこにまず、違いを感じます。だから、例えばただテレビでもこれを30年聴いて育ってきたか、きてないかで違うだろうなと。

ー  その部分で根本的な違いが出てくるってことですか。じゃあ更に30年間そちらに住み続けていけば、いわゆる自分の目指している音楽に近づけるということなんですか?

近づけたら良いですね。でも、そういう意識をずっと持ち続けることが大切だと思っています。

ー  音楽活動をする上でどのようなこだわりをお持ちですか?

う〜ん。ないです(笑)。今は電話がかかってくれば何でもお受けしています。

ー  演奏上でもないですか?

ないです。言われたものは何でもやります(笑)。よく分からないんですけど、どうやら私はたくさんの曲を知っているらしいのですよ。日本で最初に入れてもらったバンドがデキシーランドジャズで、普通の人が知らない古い曲から、歌伴をたくさん演らせて頂いていたので、歌手の人達が好む曲まで。そういう意味でも使ってもらえることが多いです。なので、雇ってくださった日本のバンドリーダーに感謝しています!。よく言われるんですよ、あなた多分日本人で結構若いわよね、なんでそんなおばあちゃんが知っているような歌知っているの?って(笑)。

ー  音楽活動して最も興奮することはどんなことでしょうか?

一緒に演奏している人達と、今なんかすごく通い合ってるなって感じるときですかね。その瞬間ってすごい曖昧なんですけど、グルーブしてるというか。自分なりにスイングしているってときですね。

ー  その時はお客さんにも伝わるものですか?

伝わると思います。のってない時ってお客さん、聴いてないんですよ。Zinc Barとかでもざわざわざわ〜っとしてて。で、やっぱりワッってバンドがするとお客も聴いてるんですよ。正直ですよね(笑)。     

ー  自分たちが今日はのってないな、という時はお客さんものってないなってなっちゃうんですか?

うーん、自分たちは100%でやっていたとしても、なんかのきっかけでうまくいかないことがあるんですよね。わかんないですけど。常に良い状態を目指してはいるんですけど。音楽からエネルギーを感じるか感じないかでうまくいかないことがあるんです。ダラダラした演奏をしようと思ってなくても、結果的にエネルギーが音楽に行き届いていないとそれがお客さんに伝わるんですね。

ー  ミュージシャンは盛り上がっていこうとしてもいまいちのれないときがあるって言うことですよね?

そうですね。いつも音を出した瞬間にときにバーンと来るのが理想なんですけど。

ー  日米の観客の違いはありますか?
 

ジャズピアニスト福森道華さん
ライブの後のホッと一息

そんなに違いはないような気がしますけど、例えばレストランで演奏する時にお客さんは聴こう、聴かないはあまり関係ないはじゃないですか。ただ、アメリカ人の方が楽しもうという雰囲気を持っていますよね。日本人の方がちょっと構えちゃう?っという感じ。でも日本人の人は慣れてきたら、良い感じで聴いてくれます。

ー  ジャズクラブのお客さんも日米で違う感じですか?

ジャズクラブはジャズが流れてるって分かってるから、そんなに違いは感じませんね。

ー  福森さんにとって、ジャズって、音楽ってどんなものでしょう?

なんでしょう、もうこんなに長くやってしまったんで、人生の相棒といったところでしょうか。そんなこと言いながら、いろいろ趣味はもっているんですけどね(笑)。

ー  ニューヨークで最も受けた影響って何ですか?

ニューヨークで音楽的に、う〜ん、やっぱりSteve Kuhnに付いていたんですけど、やっぱり一番影響を受けましたね。音楽に対する姿勢というか。姿勢って言っても私よく分からないんですけどね。ああいう偉大な人って、1時間半ぐらいのレッスン受けるだけでもものすごい、なんかワーって言うオーラみたいなものがあるんですよ。天才オーラというか。横で弾いてくれてるだけでも影響は受けますよね。

ー  技術とか、うまい下手とかそういうわけではないんですよね?

そういうんじゃないです。多分Steve Kuhnの人生がその音に詰まっていて、その音を通して、影響を受けるみたいな感じでしょうね。

ー  それがご自分の演奏にも出てくるって感じですよね。

ええ、マニアですので。オタクやなあ、と思うんですけど。彼のレコード集めてるし、ニューヨークでのライブはほぼ100%聴きに行ってます。

ー  将来の夢を聴かせて頂けますか?

もっとうまくなりたいですよね(笑)。(技術的ではなく)もっと自分を伝えられる音楽家になりたいですね。結果的に自分を伝えて、ハッピーを共有できたらいいですよね。

ー  お客さんがいいと思っている事はミュージシャンに伝わるものなんですか?

伝わります、さっきのざわざわしているって言うのと同じで、のっているときはエールの交換みたいな。そうするとミュージシャンものってきて。相互に良い感じですよね。

ー  海外でミュージシャンとして活躍する何か秘訣というか成功する条件はあるとお考えですか?

私が成功しているかどうかよくわかんないんですけど、やっぱり必死になることですかね。ジャズの場合、ニューヨークが本場じゃないですか、それで、そこを毎日毎日憧れてくる人が何百人といる訳じゃないですか。で、自分の前には何万人といる訳じゃないですか。だから必死でやっていかないと、ついて行けないですよね。

ー  逆に言えば、必死でやればチャンスがあるって言う感じですか?

そうですね。

ー  海外で勉強したいと考えている、読者にメッセージをお願いします。

海外で勉強するという夢は絶対叶うと思います。それはもう自分で努力して、お金を貯めれば叶うじゃないですか。勉強して卒業するまでは出来ると思うんですよ、誰でも。でもそこから先がスタートって言うか。それを活かせるような心がけというんですか、あと熱意です。それと努力の方向を間違わないようにする事。留学する方に取っては先の先かもしれないんですけど。演奏家になりたいといっても演奏家になれる人は、ほんの一握りの人達だけなので、演奏家になりたい場合はやはり覚悟を決める事です。必死さと方向を間違わないことですね。やっぱり難しいので空回りしてしまうこともありますし。自分の必死が報われるような努力をしないとダメです。あと練習だけではなく、アンテナも張らなくてはいけない。仕事を取るという意味です。やっぱりいろんな人と交流をはかっていないと、情報が入ってこないですね。そういうのも大事だと思います。もちろんチャンスが来たときに、自分の実力がそれに伴っていないとダメです。夢を持って留学されて、その夢を叶えるためには、常に自分の実力が伴っていないといけないので、そういう状態である事が必要ですね。

福森さんのオフィシャルホームページでもライブ情報を公開しています。
 

川口成彦さん/ピアノ/オヴィエド国際夏期講習会/スペイン・オヴィエド

音楽留学体験者でなくては分からないような、音楽大学、音楽専門学校、音楽教室のコースプログラム、夏期講習会、現地の生活情報などを伺ってみます。将来の自分の参考として活用してください。


Image川口成彦さんプロフィール

2009年夏、オヴィエド国際夏期講習会において、ガリーナ・エギャザローワ教授のコースを受講。


-最初に、川口さんの簡単なご経歴を教えてください。

川口  受賞歴としては、第2回青少年のためのスペイン音楽ピアノコンクール第一位、最優秀スペイン音楽賞受賞、横浜開港150周年記念ピアノコンクール第3位です。

-素晴らしい受賞歴ですね。以前から他の国の音楽よりも、スペイン音楽に興味があったんですか?

川口  はい、スペイン音楽”も”好き、という感じですね。民族色の強い音楽ですので、スペインも好きだし、チェコやノルウェイの作家も好きですね。

-ピアノを始められたのは、いつごろですか?

川口  小学校1年生からです。

-現在は、東京芸術大学の学生さんですよね。

川口  はい。でも、ピアノ科ではないんですよ。音楽を研究する学科で、ピアノも研究しているという感じです。

 -将来の夢は、演奏家になることですか?

川口  一応、音楽を研究しながら演奏するというのが夢ですが、学校の先生になれたら満足かな、とも思っています。

Image-柔らかい雰囲気なので、生徒さんにも好かれるでしょうね。さて、今回講習会に参加されたきっかけを教えてください。

川口  スペインのコンクールで賞金をいただきまして。今まで、海外で音楽を学んだ経験がなかったので、いい機会だから行ってみようと思いました。

-では、今回が初めてだったんですね。スペインを選ばれた理由は?

川口  そのコンクールがスペイン音楽だったことと、今年がアルベニス没後100周年だったことです。興味を持っていましたので、ぜひ今年スペインに行きたいと思っていました。また、グラナダなどスペインの世界遺産に憬れていまして。独特な美しさがあるので、それを観てみたかったというのもあります。

-講習会の参加者は、どのくらいの人数でしたか?

川口  ピアノは12人でした。ほとんどスペイン人だったんですけど、スペイン在住のアルメニア人やロシア人などもいて、僕以外は全員スペイン語を話せる人たちでした。

-皆さんは、どんな方々でしたか?

川口  とてもいい人たちでした。スペイン人は気さくな方が多いので、皆さんのほうから話しかけてくれて、嬉しかったです。

-講習会のスケジュールは、どんな形でしたか?

川口  明日は誰にしますと、先生が決められ、平等な回数レッスンを受けられるようになっていました。だいたい、2日か3日に1回レッスンがある形ですね。自分のレッスン以外は、練習をしたり、他の方のレッスンを聴講したりしていました。最後の3日くらいで選抜コンサートがあり、それで締めくくられました。

-レッスンは何時間くらいでしたか?

川口  だいたい1時間です。じっくり見てもらえました。

Image -コンサートは勉強になりましたか?

川口  はい。コンサートに出演させてもらったんですが、日本人のいない会場で演奏することは、もちろん初めてでしたので、すごく緊張したんですが、やはりとても嬉しかったです。他のバイオリンやチェロの生徒の演奏を聞けたのも、すごく刺激になりました。

-素晴らしいですね!では、先生についてお伺いします。どんな先生でしたか?

川口  普段は優しい方なんですが、レッスン中は厳しい方でした。身長も2メートルくらいある女性で、怪獣みたいな先生だったんです(笑)。厳しく根本的な部分を注意してくださいました。ひとつの曲としての問題点ではなく、これからピアノを続けていく上でも、ためになる指摘をずいぶん受けました。教え方も上手な先生で、とても勉強になりました。

-その中で最も印象に残っていることは?

川口  和音についてですね。ピアノ音楽は和音がたくさん出てきますが、和音の中のひとつひとつの音の響きに、順序というか優劣があるわけです。それを判断してよく聞くことを習いました。たとえば、ソプラノが一番輝き、その次がバス、アルト、テノールの順だとか。それを全部吟味しながらコントロールしていく力や、耳を養っていきなさいという指導を受けたことが、一番印象に残っています。

-新しい音楽の世界を開いたのですね。レッスンはスペイン語だったんですか?

川口  はい。スペイン語、あるいはロシア語でした。友だちが英語に訳してくれました。

-先生はロシアの方だったんですか?

川口  ロシア語圏の方ですね。スペイン語かロシア語かを話される先生でした。

-練習はどこでされたんですか?

川口  学校の中に練習室が何個かありました、。すごく弾きやすいアップライトピアノが置いてありました。

Image-その練習室は、何時間かごとに、皆さんでシェアする形ですか?

川口  いえ。いったん入ったら、ずっとそのまま使えます。僕は、ずっと占拠していました(笑)。

-他の講習会では、交代で、という形が多いようですが、ラッキーでしたね。どのくらい練習されましたか?

川口  多い日は9時間くらいです。せっかく来たから頑張ろうと思いまして、一日中こもっている日もありました。

-レッスンや練習以外の時間は、何をされていたんですか?

川口  街を散策したりしていましたね。オヴィエドは世界遺産の街なので、とてもキレイなところなんですよ。そして、バスで少し行けば、また別の世界遺産の街がありますし。中世以前の教会があったりして、とても素晴らしかったですね。

-世界遺産を見ると、人生観が変わるという方もいらっしゃいますが。

川口  基本的に、僕は日本が大好きなのですが、日本とはまた違う空気があって良かったです。近くにサンティアゴ・デ・コンポステーラという、キリスト教の第三の聖地があるんですが、そこへ向かう巡礼の方もたくさんいらっしゃったんです。心からキリスト教を信仰している人たちを見て、とても感慨深かったですね。

Image -街の様子はいかがでしたか?

川口  スペインでも北のほうの街なので、治安が良いほうらしくて、安心して生活出来ました。

-街の中でショッピングしたりするときは、スペイン語ですか?

川口  はい、スペイン語です。英語も通じる方は少しいますが、ほとんどはスペイン語オンリーでした。

-お友だちと一緒に行かれたんですか?

川口  ほとんど一人でしたね。そのほうが気楽ですので。でも、夜はバルに友だちと行ったりして、すごく楽しかったですよ。スペインはバル巡りが盛んで、一つの店に行ったら次の店のタダ券をくれたりするので、夜通し遊べてしまうんです(笑)。

-スペインならではの雰囲気ですね。

川口  はい。あと、日が沈むのが夜10時なんです。夕食もそれくらいからですから、子どもでも11時くらいまでは起きているんです。10時くらいからワイワイ始まるのは、スペインならではですね。それでいて、昼もにぎやかなんですよ。この人たちはいつ休むんだというくらい、一日中人がたくさんいて、楽しんでいました。

Image -昼は何をされていたんですか?

川口  街を散策したり、サルスエラという歌劇も観に行きました。オペラとは違う、スペインで生まれ、スペインだけに根付いてきた歌劇です。舞台装置がすごくて、言葉は分からなかったんですが、音楽も素晴らしくて感動しました。あとは、演奏会も聴きに行ったりしましたね。

-素敵ですね。宿泊先はどんなところでしたか?

川口  街の中のフラット(アパート)でして、そこを4人でシェアしました。

-ルームメイトは、どんな方々でしたか?

川口  全員バイオリンの講習生でした。年齢はみなさん年上だったんですが、みんないい人たちでした。スイス人とスペイン人、それから、ギリシャと日本のハーフの人がいました。この人は、ベルギー在住の有名なバイオリニストなんですが、やはり、一人だけ断トツにレベルの高い人でしたね。この前来日したので、演奏を聴きに行ってきました。

-良い出会いだったんですね。フラットの大家さんは、そこには住んでいなかったんですか?

川口  ええ。なので、まったく自由に暮らしていました。

-そのフラットと講習会場は、どのくらいの距離があったんですか?

川口  歩いて10分くらいです。何度も行き来できるような距離でしたので、バスは利用しませんでした。

Image -食事はどうされていたんですか?

川口  ほとんど外食です。スーパーでパンが60セントくらいと、安いんです。2、3個買って、200円くらい。水が1リットル30セントくらいですから、それが一番安く済ませるときのパターンでしたね。ちょっとしたカフェでパスタを食べると6ユーロくらい、700円程度でしょうか。日本とそんなに変わらないくらいですね。ちょっと贅沢してレストランに入ると、10ユーロくらいはかかりました。お店もたくさんあったし、味もおいしかったので、まったく困りませんでした。

-日本と物価に差はなかったんですか?

川口  ちょっと安いくらいでしょうか、今は。

-外国人の方とお話されたりしたと思いますが、上手く付き合うコツは何でしょうか。

川口  なんでもいいから話すということです。ある友だちとは、「好きなピアニストは?」「この曲知ってる?」「ビートルズ知ってる?」など、ひたすら質問し合っていましたね(笑)。「お互いさっきから、~知ってる?って聞いてるだけだけど、楽しいね。」って笑ってました。スペインで日本のマンガがブームらしく、「名探偵コナン知ってる?」って聞かれたりもしましたよ。ただ、一人になりたいときは、無理をしないことも大事だと思います。「今日は本を読みたいから」とか「今夜はバルはやめておく」とか、自分のやりたいことを優先させてた時もありました。その分、一緒にいるときはたくさんしゃべりましたけど。

Image-自分のペースを崩しすぎないように、ということですね。

川口  ええ。疲れているときに、さらに英語で話すのは、やはり疲れますから。無理に話すと、無愛想な顔してるかもしれなくて、相手に嫌な思いをさせてしまうかもしれないじゃないですか。基本的には、たくさん話しましたけど、疲れているときはそんなふうにしていました。

-お互い無理をしないことも大事ですね。では、特に困ったことはなかったんですか?

川口  あまりなかったかもしれませんね。プラス思考なタイプなので。生活面では、全く苦労せず、楽しく快適に過ごすことができました。あえて言えば、もっと話せたら良かったということですかね。もっと日本のことも教えたかったし、もっとスペインのことも聞きたかったです。

-講習会に参加して良かったと思った瞬間は、どんなときでしたか?

川口  いちばん良かったのは、コンサートで演奏できたことです。自分では納得いかない部分のあった演奏だったのですが、「ブラボー!」って言ってもらったりして、観客の皆さんがとても温かかったです。演奏が終わったあとも、「日本人なのに、よくスペインの音楽をこんなに表現できたね」って褒めてもらったりしたんです。本場の人たちに、自分の演奏が認められたっていうのがすごく嬉しかったですね。日本じゃなくても、音楽って通じるんだなって改めて思いました。あとは、外国にも友だちができたことです。今まで音楽をやっている友達は、日本人しかいなかったですから、世界に広がったというのは、とても嬉しいことです。

Image -良い経験だったのですね。ぜひその出会い大切にしてください。

川口  はい。スペイン人の友だちは、来年日本に行きたいって言ってるんですが、どうやら本気で来そうです(笑)。

-留学して、ご自身が一番変わったことや、成長したな、と思うことはどんなことですか?

川口  自分はどこでも生活できるんだな、っていうのが分かったというか(笑)、自分に自信がつきました。もともと一人旅は好きで、日本国内では、一人でどこにでも出かけていたんですが、今回は初めての海外でしたから。やはり最初は不安でしたが、それをやり遂げたという達成感を感じました。日本人が一人もいない街だったので、特にそう思いましたね。

-日本とスペインで、大きく違う点は何でしょうか?

川口  スペイン人は明るく社交的で、誰とでも仲良くなれるという感じでした。日本人ではなかなかない感覚ですね。偶然、街の中で結婚式を見たんですが、それも日本とは大きく違ってました。スペインには、ガイタというバグパイプみたいな楽器があるのですが、街中にガイタが鳴り響き、「今日、新婚さんが誕生しましたよ!」と、街全体で祝福していました。ひとつの幸せをみんなで共有しようという感じで、お祭り状態でしたね。あと、違うことといえば、やはり、日が沈むのが10時ということでしょうね。昼からたっぷり遊んでいても、まだ明るい。そして暗くなってからもまだ遊びますからね。マクドナルドでビールも飲めますし(笑)、一日中、たくさんの人が楽しんでいることは、一番違う点でしょうか。

Image -スペインのお国柄なんでしょうね。では、今後、留学される方にアドバイスをお願いします。

川口  英語はすごく重要です。今回、それを実感しました。「英語は地球語」になってきています。どの国の人たちも英語は教育されているので、子どもでもみんな話せるんです。もしかしたら、日本の英語教育は遅れているんじゃないか、とも思いました。自分の英語力がないだけなんですが(笑)。もっと事前に勉強していたら、レッスンももっと充実していたかもしれないし、交友関係ももっと深く広くなっていたかもしれない・・・・そう考えると、やはり悔しいですから、英語の勉強だけは、きちんとしておいたほうがいいと思います。

-今後の活動や進路など、具体的なプランがあれば教えてください。

川口  4年生には卒論を書かなければいけないので、そろそろテーマを決めて、研究していかなければいけないですね。コンクールは、たぶんいろいろ受けると思います。優勝をするためにコンクールを受けるというより、その練習が充実したものになるので、コンクールは結果にこだわらずたくさん受けたいです。

-卒業論文は、スペイン音楽を研究されるという可能性もありますか?

川口  はい。スペインは候補ですね。

-今後のご活躍をお祈りしております。本日は本当にありがとうございました!

奥山彩さん/ピアニスト/フランス・パリ

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はフランス・パリでコンサートピアニストおよび音楽院講師をされているピアニスト奥山彩(オクヤマアヤ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「パリで学ぶピアノ・パリでの音楽活動」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います(インタビュー:2005年12月)。

ー奥山 彩さんプロフィールー

パリ・ピアニスト奥山彩さん
(C) Kazuko Wakayama

岡山生まれ。幼少よりピアノを始める。フランス、エコール・ノルマル音楽院を経て、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科卒業。パリ高等音楽院古楽器科卒業(フォルテピアノ)。ピアノをブリジット・エンゲラー、ミシェル・ベロフ、室内楽をアラン・ムニエ、ピエール・ロラン・エマールに師事。フォルテピアノをパトリック・コーエン、歌曲伴奏をケネット・ヴァイスに師事。フランス、サン・ノム・ラ・ブロテッシュ・ピアノコンクール1位。日本教育連盟主催ピアノオーディション奨励賞。フランス、スペイン、ドイツ、スイス、オーストリア、ベルギーにて、ソロ、室内楽のコンサート、リサイタルを行う。鎌倉FMにて横浜みなとみらいホールのリサイタルを放送。オリヴィエ・マレシャルと2台ピアノのデュオを組み、フランス各地でリサイタル。ピアニスト、イヨルク・デムス氏に招かれ、トゥーロン城で演奏。ベルギー、オーステンドにおけるPianoFest'招待。現在、パリで演奏活動のほか、ヴェジネ市立音楽院、パリ6区ラモー音楽院にて非常勤講師、試験審査員など、後進の指導を行っている。

 

ピアニスト奥山彩さん新聞掲載
フランスでの新聞掲載記事

—  簡単な経歴を教えていただいてよろしいですか?

奥山 近所にたまたまピアノを教えていた先生がいらしたので、三歳半くらいから遊びがてらピアノを始めました。

—  ピアノはご自分で始めようと思われたのですか?

奥山 ほんとに小さかったので、あまり覚えていないのです。両親は音楽家ではないのですけど母が小さい頃にピアノをやっていたので家にアップライトピアノがありました。ピアノの先生のお子さんも同じ年くらいだったので一緒に遊んだりしました。それで興味を持ってちょっとずつ教えてもらいに行くようになりました。幼稚園くらいからみんなもうピアノをやっていたのでそれで一緒に始めました。小学校三年生くらいの時にもっと本格的な先生に習うというふうになって、鎌倉に住んでいる宮原峠子先生という先生のところに習いに行くようになりました。先生は桐朋を出て、ドイツ留学をされた方でした。今は愛知芸大の先生をされています。その先生の勧めで実家が鎌倉なので、鎌倉の桐朋大学付属子供のための音楽教室へ通うになりました。

—  桐朋の子供のためのピアノ教室はいつから行っていたのですか?

奥山 小学校5年の時から行くようになってそれで音楽をやっている友達が出来るようになりました。それで小、中と普通の公立の学校だったんですけど高校受験の時に音楽高校に行くか普通高校に行くか選択がありました。それで私はまだその頃、それほど音楽を一生やっていこうとか決意みたいなものはまだなかったのですが、たまたま才能があるから音楽をやりたいのだったら、音楽高校を受けたらいいのではないかというふうに勧められて、受けてみたのですけど駄目だったんです。それで結局、普通の高校に行きました。でも音楽は好きなので将来的にピアノはどうしようかなと迷っていたんです。ずっと宮原峠子先生に習っていて、先生に小学生のころからあなたはどちらにしろちょっと変わっているから早いうちに日本のシステムに入るのじゃなくて、例えば音高に行ったとしても途中で辞めるくらいの感じで外国に出たほうがいいんじゃない、というふうに言われていました。

—  変わっているというのはどういう部分でしょうか?
 

パリ・ピアニスト奥山彩さん
(C) Olivier Fadini

奥山 まあ感性が(笑)。型にはめようとしてもはまらないというか。

—  素晴らしいじゃないですか音楽家としては。

奥山 そのへんの言葉は良く分からないのです(笑)。小学校六年生の時から先生になんとなく言われていたことなので。先生の生徒さんでフランスに行かれた方がいらしたこともあってだと思うのですけど、そういうふうになんとなく教え込まれていたので。

—  小さい頃から将来外国に行くんだ、と思っていたのですか?

奥山 なんとなくですね。フランスに行ったら素敵かな、くらいです(笑)。小学生なので(笑)。

—  そこまで意志ががっちり固まっているわけないですよね。

奥山 固まってないですよ、本当に。私もふわふわしていたので、高校生の時は。普通の高校生活は楽しかったし(笑)。それで高校1年と2年の春休みにフランスのコンクールを受けに行ったらどうですか、と先生に勧められたんです。日本でぼんやり過ごしているより、一度外を見に行ったらいいのではないかということで。

—  フランスですか?

奥山 宮原先生の生徒さんだった方で、フランスに留学されたあとエコール・ノルマルの先生になった方が、私が16歳の時、私の演奏を名古屋で聞いてくださったんです。それで、フランスの小さいコンクールがあるから受けてみたらと言われました。それがいいきっかけになると良いのではないか、ということでセッティングして下さいました。3月か4月だったかな。春に受けることになって、その時1ヶ月パリに来てレッスンを受けたりコンクールを受けて賞を頂いたりして、ああフランスはいいな、と思いました。コンクールで演奏を聴いてくださる審査員の雰囲気もとても暖かく、また、フランス留学されている方の話を聞いて、こういう方向に行ってみようかなと思うようになったんです。

—  いつごろクラッシックの専門になろうと思ったのですか?

奥山 高校生位ですね。高校生の時にすごくいろいろ考えたんです。何でピアノをやるのかとか、なんで音楽を続けているのかとか、世の中の役に立つのかなとか。それで、フランスに初めて行った後の次の夏に、ザルツブルグ音楽祭のザルツブルグアカデミーに行きました。ヨーロッパで勉強している人のレッスンや演奏会をたくさん見て、今やっているままだと自分は駄目だなというふうに感じたんです。たまたま小さい頃からお世話になっている調律師の方が田崎悦子先生を車に乗せていた時に私の弾いているカセットテープを先生に聞かせてくださって、それがきっかけで田崎悦子先生に教えていただくようになりまして、先生はすごく素敵な方で憧れるというか、そういうふうになりたいなと思って、何か引っ張られるような形で、クラッシックをやろうと、本気でやろうと思ったんです。

—  プロになろうと思ったのはどうしてですか?

奥山 田崎悦子先生にレッスンしていただけますかとお電話を差し上げました。田崎先生は18歳の時から一人でアメリカにいらした方で、親が電話してくるより自分でするほうが良いと言われました。それで、電話で先生に「あなたはピアニストになりたいの?」と聞かれて、「はい、なりたいです。」と言いました。「なりたくないです。」なんて、言えませんよね(笑)。     

—  自分に言い聞かせたわけですね。

奥山 それが初めてピアニストになりますというふうに言った事でした。だから田崎先生に習うということはピアニストになると思って習うことなんだなというふうに理解したんです。途中で辞めさせられそうになったりしたんですけど(笑)。

—  何故ですか?不真面目だったりしたんですか(笑)?

奥山 その時は曲をいろいろやっていて、自分の曲をやっていたのと人のバックの曲を頼まれてやっていました。先生の生徒のレッスンの時にコンチェルトの伴奏を頼まれたんです。でも自分の曲は練習しているけど人の曲は全然練習していなくてそれで先生が怒っちゃって。

—  それはまずいですね。今ではあり得ない事でしょうね(笑)。

奥山 本当ですね(笑)。プロだったら全部しないとだめです。引き受けたことは最後までちゃんとやるという。仕事だったら許されないですよね。初見でもなんでも本番なら、寝なくでもやるじゃないですか。だからそういう意味で良くなかったですね(笑)。

—  日本で高校を卒業してすぐにフランスに行こうと思ったのですか?

奥山 普通高校に通いながら、田崎先生に習っていて、留学というのはしたいと思っていたんです。でも、音大や普通大学の選択肢もありました。大学受験して、大学に通学するのも日本だと住宅事情から通学時間などがずいぶんかかりますから、その分、ピアノの練習や語学など留学の準備をして、私にとっては、そのままフランスに行くチャンスに賭けたほうがいいんじゃないか、ということになったのです。

—  言葉はどうしていたのですか?

奥山 高校生の時からフランス語を勉強していました。高校生のときは週1回学校に通って、高校卒業してから週2、3回くらい行っていました。卒業しても1年半くらい日本にいたのでその間に勉強していました。

—  ドイツ、オーストリア、アメリカなど他の国もあるのに何故フランスなのでしょうか?
 

パリ・ピアニスト奥山彩さん
演奏会での一場面

奥山 きっかけが結構ありましたからね。それに感性としてはドビッシーが好きです。フランスものは全体的にやっぱりすごく好きです。かっちりしたものよりも流動性のあるというか、ハーモニーというか色がある感じの曲が好きです。それに自分自身ではドイツはちょっときっちりとしたイメージがあったので、フランスのほうがあっているんじゃないかしらというふうに言われて。あとは実質的な問題で、アメリカの学校はTOEFLとかあるじゃないですか。ドイツの学校は大学卒業してないと行けないんですよね。第2期から入るには。1期から入るとドイツ語が出来ないといけないし、心理学とかそういう外国人には難解な授業もあるし。そして、フランスは下の年齢制限がないんです。上の制限は22歳未満と決まっているんですけど。私の時は入学試験は実技だけだったんですけど。今はソルフェージュの予備試験とかあるようですね。私は本当に実技一発勝負だけだったので、そういう意味でシンプルでした(笑)。

—  音楽が出来れば入れたということですか?

奥山 そうですね。あと年齢も関係ないですね。フランスの学校は、どちらかというともともと完成している人よりも今後の才能を見るという試験なようです。ものすごくテクニックとか完璧に出来ている人よりは、いろいろな可能性がある人の方が入りやすいらしいですよ。そういうふうに言われたので、だったら可能性があるかなと思ったもので。

—  最初は、エコール・ノルマルに行かれていますよね。そのあとパリ国立高等音楽院に行かれている。

奥山 最初、エコール・ノルマルに登録して。それでその間にパリ国立高等音楽院の試験を受けたりしていました。エコール・ノルマルは実質8ヶ月くらいしか行っていないんです。エコール・ノルマルという学校は私立の学校で誰でも入れるんです。普通に登録して、授業料を払えば(笑)。レベルはいろいろで、入る時に先生がレベルを決めます。1から6まであって、6段階というのはなかなか難しいので日本で音大を卒業した人だと5か6で入るんです。そういう感じで一年ずつ試験を受けて上がっていって、コンサーティスト・ディプロマ(演奏家資格)まであります。入ることよりは試験を受けてディプロマをもらうことに意味があるという学校です。先生は有名な先生から、若い先生までいろいろです。ピアノ科だと何人くらいいるのかな。たくさんいらっしゃるんですよ(笑)(編集注:注:2005年12月現在 ピアノ科講師46人)。

—  学生さんは何人位いるのですか?

奥山 ちょっと把握できないくらいです。

—  日本人の方はどの位いるのでしょうか?

奥山 エコールノルマルは、どちらかというと日本人、韓国人の生徒が半分以上だと思います。実質外国人がとても多い学校だと思います。

—  現地の方というよりも外国人が多い学校ですね。

奥山 外国人はたくさんいます。中にはエコールノルマルに登録しているけれどもレッスンはあまり受けないでディプロマ試験のみを受ける人もいます。

—  そういうのもいいのですか?

奥山 いいみたいですね。

—  結構自由なんですね(笑)。

奥山 とても自由です。先生さえ承諾してくだされば、何でも自由な感じです。だから求めるものさえあれば、いろいろできると思います。

—  人によるでしょうが、奥山さんは、エコールノルマルよりコンセルヴァトワールの方が合っていると思ったわけですね。

奥山 コンセルヴァトワールというのはフランス各地にいろいろあります。国立高等音楽院と言われているのはパリとリヨンにあります。そこはエコールノルマルと違って入学試験があってピアノ科だと200人くらい受けて、入るのは15人から20人位です。年によるんですけど、卒業生が出た数だけ入れるということになります。コンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)は、ピアノ科全体の生徒が80人位いると思います。授業料は完全に無料です。

—  それは国立だからですか?

奥山 国立なので授業料は完全に無料です。学校に登録するための登録料のみ必要で、日本円で4万円位です。それだけで1年間通えますのでほとんど無料みたいなものですね。それで学校の施設や練習室の利用、ピアノ科ですと先生のレッスンが受講できます。レッスンが週に2回1時間ずつあって、その他いろいろな授業もあります。それが本当に全部国の予算でまかなわれています。

—  実際エコールノルマルと比較してレベルはいかがでしたか?

奥山 レベルはエコールノルマルのトップの人とコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)のトップの人とそんなに変わらないと思います。ただ、コンセルヴァトワールの生徒の方が全体的に年齢は若いですね。コンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)に、フランス人は15歳位から入学試験を受け始めます。平均年齢だと20歳をいっていないくらいです。20歳で入るとちょっと年上の人って感じがしますね。

—  学校に入る前に師事する先生を見つけておくのですか?それとも学校に入ったあとに師事する先生を見つけるのですか?

奥山 学校に入る前に師事した方がいいです。まったく先生を知らないで試験を受けに行かないほうがいいです。

—  まったく先生を知らないと入りにくいのでしょうか?

奥山 どうなのでしょうね。大体先生を指定して、試験を受けるので。先生を知らないと先生の方もその生徒を取りにくいと思います。結局、試験があって一番から順番に並んで、一番の生徒から希望の先生の所にいけるんです。ただ、先生が気に入られている生徒だと、順番を無視して、とってくださるケースもありますね。

—  先生が引っ張ってくれるということですね。

奥山 学校に習いに行くというよりは先生に習いに行くという感じですね。

—  コンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)には、一般的な授業や講義みたいなものはあるのですか?

奥山 ピアノと室内楽とソルフェージュは、年の初めに試験があります。それで免除される人がたくさんいるのですが、免除されないとそれらの科目は受講しなくてはいけないのです。あとは、楽曲分析とオプションで好きな授業を二つ以上取れます。オプションはいろいろあります。即興、合唱、理論、指揮、音楽史、美術史、音響に関することなどいろいろです。選択で授業を受ける感じですね。

—  自分の好きなように選んでいいということですよね。

奥山 私はそこでフォルテピアノ(編集注:初期のピアノ・古楽器)や即興演奏を習いました。

—  フランスは非常に楽曲分析が厳しいというか、よくやるなと思うのですけど、かなり細かいところまで分析するのですか?実際その辺りはどうなのでしょうか?

奥山 コンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)の授業で、外国人で一番大変なのがその授業です。週に1回3時間ぶっ続けであるんですよ。1回1時間半やって途中で10分くらい休むんですけど、また1時間半あるのでほとんど3時間ぶっ続けです。だからやっぱりすごい気分的に重いですよね。レベルは初級レベルから上級レベルまであるんですけど。私のように普通の楽器の生徒がやるのは初級レベルですね。知らない曲を聞いてどんな曲でも大体どの時代のどの作曲家のどういうスタイルの曲かというのを口頭で言えるような感じです。

—  結構厳しそうですね。

奥山 時代背景や曲のスタイル、調整とかいろいろありますよね。そういうことが出来るようになるわけです。試験も、選択式などの質問形式ではなくて分かることを全部言わなければならないので。

—  試験は質問に答えるわけではなくて全部答える感じですか?

奥山 一曲聞いて、分かることを全部紙に書くという感じです。

—  そういう試験なんですね。これは辛いですね(笑)。

奥山 そうですね。曲の名前と時代だけ書けばいいというわけではないので。

—  ちょっと知っていればいいというわけではないですね。

パリ・ピアニスト奥山彩さん
お城での演奏会に出演

奥山 ちょっと知っていればいいというわけではなくて、ここから自分で分析して、使われている楽器だとかそこから何を言っているかとか、そういうところまで勉強しなくちゃいけないのである意味きついですね。そういうアナリーズ(Analyse)というのは音楽ではメシアンが始めたらしいのです。メシアンは最初その授業をフィロゾフィー・ドゥ・ラ・ミュジック(philosopie de la musique)、音楽哲学というふうに呼ばれていたそうですね。だからもう哲学なのです。

—  哲学ですか?非常にフランスらしいですね(笑)。

奥山 深い。深く分かっていくのだという。

—  楽器分析と聞くとただの分析かなと思うのですけど、実際は哲学なのですね。

奥山 そうなんです。音楽家としての音楽哲学なんです。そういうふうにお聞きしました。それでそういう授業を始めたのだと。そういうふうに歴史的に今につながってきているんですね。私が習っていた先生は実際にメシアンに作曲を習われた方でした。

—  メシアンですか?本物ですか。すごいな。

奥山 そうですね。今先生をしている方はメシアンに習われたりした方です。メシアンに作曲を習われたという人がそういう楽曲分析の先生をしていらっしゃる。

—  すごい。

奥山 すごいですね、考えると。そういうふうに歴史的に私たちまでつながってきている。そういう意味では、私はピアノをブリジット・エンゲラー先生とミシェル・ベロフ先生に習ったんですけど、ある意味ラッキーですよね。

—  そうですよね。先生にはどうやってコンタクト取ったのですか?
 

パリ・ピアニスト奥山彩さん
ミシェル・ベロフ先生と共に

奥山 もともと習いたかった先生は別にいらっしゃって、彼に入学前にレッスンしていただいていました。私がコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)に入学した年は彼のクラスに一席しか席が開いていなくてこの先生にとっていただけなかったんです。それで、ロシアで勉強されて、素晴らしいコンサート・ピアニストであるブリジット・エンゲラー先生にコンタクトを取って入れてくださいって言ったのですね。それで、彼女のところに入りました。先生と三年間やってそのあとエンゲラー先生に、私は現代のレパートリーが好きだったので、ミシェル・ベロフ先生と合うのじゃないか、と言われてベロフ先生に途中で変わったんです。

—  先生に紹介してもらってミシェル・ベロフ先生に変えてもらったんですか?

奥山 私はミシェル・ベロフ先生に習えると全く思って入ってなかったのでラッキーでした。

—  紹介がなければ習えないわけですもんね。

奥山 直接行っても当時は彼も生徒をあまりとらなかった時期だったので、なかなか難しかったでしょうね。

—  コンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)は、フランスの音楽を多く勉強するのですか?

奥山 他の国よりはフランス音楽を多く勉強する、というくらいの感じです。でも全部やりますね。それに、コンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)は現代曲を必ずやります。あと初見のクラスというのが結構進んでいます。初見のクラスも週に1回あるんですけど、それもかなり難しい楽譜をいきなり見て弾くという感じです。現代曲を2分くらい見て大体の構造をぱっと見て骨組みだけ弾く感じです。曲の感じをすぐつかむとか、読み方ですね。完璧に弾くのではなくて大体こんな感じの曲みたいな訓練はかなりさせられます。

—  それはプロになるためには初見で弾けることが重要だということですよね。

奥山 完全にそうですね。専門家になるための訓練ですよね。

—  コンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)の場合は語学の試験はないと仰ってましたが、どの程度語学はできればいいのでしょうか?

奥山 今は、ソルフェージュの予備試験というのがあるので、言っていることなどある程度聞き取れないと難しいと思いますが。ただ、普通に出来れば入ることは入れます。でも、入ってからがすごく苦労するかな、と思います。語学が出来ないと授業も分かりませんし。

—  授業は、全部フランス語でやりますもんね。

奥山 全く出来ないよりは中級レベル位までやって来られる方がいいと思います。自分にとっても先生にとっても。先生もいつも語学力については文句を言っていますので。

—  語学力ですか?

奥山 言葉のわからない生徒は先生も大変じゃないですか。日本人は日本人同士で固まりがちなのでなるべくフランス語は礼儀としてというか、外国の社会に入っていく立場から最低限勉強していったほうが私はいいと思います。

—  コミュニケーションの出来る人のほうがフランス人と仲良く出来ますしね。

奥山 コミュニケーションというか言葉が出来たほうが来てから早くいろいろ吸収できますよね。

—  長い間フランスにいらしてフランスのいい点、悪い点がいっぱいあると思うのです。音楽をやるにあたって。それは何か教えていただけますか?(編集注:在仏12年)
 

パリ・ピアニスト奥山彩さん
サロンコンサート

奥山 パリに限定して言うとやっぱり音楽家や芸術家の人口密度が高いというか、可能性がたくさんあることですね。それがすごくいいと思います。この土地に、ある意味芸術的レベルが高い人がたくさん集まっているので。学校にも先生はいますし、この先生のレッスンを受けたいということになっても、パリに住んでいる方がものすごくたくさんいらっしゃるので、そういう意味ではチャンスが多いです。

—  逆に悪い点って何かありますか?

奥山 なんかすごい時間にルーズです。時間にルーズというよりは日本人の感覚から言うと口で言ったら実行するじゃないですか。口だけでいつまでたっても実行がないというか…(笑)。もちろん人によりますけど。あとはお給料も安いと思います。音楽のお仕事というのは日本でもパリでも大変なのは一緒だと思いますが。パリではちょっとしたサロンコンサートの機会は探せば結構あります。

—  フランスで仕事を始めるにあたって留学する必要性はあると思いますか?

奥山 留学はビザなどの点から見ても、外国に出るのに、ある意味一番簡単な手段だと思うんですよ。それを利用するのは最初の手段として良いと思います。あとは最低限のコミュニケーション能力は必要だと思うので慣れる意味でも留学するのはいいと思います。

—  フランス人は時間にルーズということでしたが、レッスン時間には遅れるのですか?

奥山 例えばブリジット・エンゲラー先生は演奏家なのですけど、自分が遅れてきても生徒は絶対先にいるべきだという人でした。上下関係とか、常識的な礼儀として。でも、本当のプロの人は、時間は正確です。一流の人はやっぱり遅れたりしないですね。時々、演奏家の先生はお忙しくて遅れてきたりはしますけど、来なかったりとか(笑)。

—  来なかった?

奥山 行ったら来なかった。でも一般的に一流の方は、すごい時間にきっちりしています。例えば現代曲で有名なピエール・ロラン・エマールという先生に習っていたのですけど、彼なんて5分刻みみたいな感じです。大げさに言えば、来週の13時5分にレッスンをしようという感じです(笑)。

—  そんな感じですか(笑)。

奥山 どんなに忙しくても必要であればレッスンを入れてくださいます。でも本当に細かいです。フランス人には、そういう人も中にはいますね。通常は、レッスン時間がずれたり、やっていて長くなったりは良くあります。レッスンはほとんど時間が決まって無くて順番だけ決まっていたので2時間位ずれてずっと待っていたりします。でも私の先生はそうやって待たせて違う人のレッスンを聞かせるのが好きだったのでそういう意味もあるかと思います。

—  フランスで仕事をするという意味で、日本人で有利な点、不利な点はありますか?

奥山 不利な点のほうが多いと思うのです。ヨーロッパで勉強されている、または活躍されている日本人の優秀な音楽家の人数がものすごく多くいるので。だから日本人が来るとまた日本人が来たというふうに思われることが多いです、現実的に。

—  それはどういう意味ですか?

奥山 やっぱりヨーロッパやフランスでもどこでも外国人に仕事をとられるというのがあるじゃないですか。音楽は伝統芸能なので、外国人がアジア人が演奏しているよりは、ヨーロッパ人の顔をしている人が演奏した方がある意味自然と言ったらおかしいんですけど、そういう事があるのかなと。

—  日本でお琴を弾いている人が西洋人だったらちょっと違和感があるみたいな事ですね。

奥山 言い方はおかしいのですけど、そういう変な固定観念を持っている人はやっぱりたくさんいると思います。もっと開いたことを言っている人がいてもやっぱり心の中ではヨーロッパ人の方が優れていると思っているのに決まっているので。日本人はたくさん勉強して自分たちの音楽というか芸術を素晴らしく真似して、と言ったらおかしいけれども勉強して、そこまでやってくれてえらい人達だ、みたいなところがあると思います。その中で自分の個性とか壁というのを壊して超えて行くというのには時間かかかると思いますね。だからいきなり来てぱっと入るのだったら相当の実力がある人だったら、来られる人もいらっしゃいますけど実際はかなり難しいと思います。

—  人脈が大事ということでしょうか?

奥山 人脈ですね。つながりとか。一つ一つ仕事をしてある意味最高の仕事というか自分の最高の音楽を見せていくことだと思っています。後はやっぱり言葉という意味でもコミュニケーションという意味でもいきなり「こんにちは」と言ったくらいではしゃべれないと向こうは頭で思っていますので。

—  有利な点はいかがですか?

奥山 例えば伴奏ピアニストとしてやっていく場合、仕事をするという意味では期限内にちゃんと仕上げるとか、技術面もしっかりしているという評判があるので、そういう意味では信用されやすいと思います。

—  日本人のほうが信用されやすいのですね。

奥山 そうですね、まじめな人種っていう事でしょうね。でも逆に利用されているような場合もあるので気をつけないといけないと思います。言ったらやってくれるだろうと。ある程度自分がやりたい事というのを提示していかないと流されて、その場限りみたいな感じになることも結構あると思いますね。

—  奥山さんにとってクラッシックもしくは音楽とはどういうものですか?

奥山 「今の時点」だと人生そのものですね。音楽をやって初めて自分が一つになるというか、とても深いものですね。

—  それはやっぱりクラッシックですか?

奥山 クラッシックというのは100年、200年前に作曲家というか芸術家がいて、それで作品を書いてそれがずっと残ってきたものです。それはモネの絵とかゴッホの絵とか画家の中でもたくさん人がいるうちで素晴らしいものが残っているのと同じように、音楽も、時間をかけて理解して表現して磨いていくような過程がやっぱり好きですね。

—  なるほど。

奥山 クラシックは、時間をかけて深めて理解して、自分の人生をかけてといったらおかしいのですけど、そういう感じで細部まで磨くというのでしょうか。音に対しても非常にこだわりを持って全てが重なった時に、ある意味感動が生まれたりします。自分一人だけ感動するのではなく。だから演奏会があったら演奏会の時点だけではなくて前々から、積み重ねていってそこで到達するような感じですね。

—  音楽を日常でやっていて、喜びが最高潮に達する時があると思うのです。演奏会でも練習でも。それはどういう時でしょうか?

パリ・ピアニスト奥山彩さん
熱演中の奥山さん

奥山 演奏会というのはある意味ゴール地点なので、入った瞬間というのはそんなに面白いという感じではないのですけど興奮みたいなのはあるんです。面白いなと思うのはやっぱり楽譜と向かい合って勉強していく過程で一つ一つ発見していくことですね。発見というか、インスピレーションがだんだん湧いてきて形にしていく過程が面白いです。出来てしまったらあとは人に見せるんですけど、人にみせるというのは別のことだと思っています。それは例えばコンディションを整えたりすることです。演奏会が一番好きで、来てくださった方々とそういう濃い時間を分かち合うのがやりたいことなんですけど、一番脳が面白がるのは発見の過程ですね。他のミュージシャンと弾いて新しいものが生まれてきたりするのも面白いです。

—  「お客さんに見せる」段階よりもその「前段階」が面白いということですね?

奥山 それが一番面白い。でも、お客さんに見せた段階でやっぱり音楽が変わるんです。自分がとことん理解して勉強して時を重ねても見せる時になるとまた変わるんですよね。ある意味そこで一段階ステップアップするんです。それもまた面白いです。それは自分だけの力とかいうんじゃなくて、その時の雰囲気だとか、アコースティックだとか感じることだとかあるんですけど。そこで生まれてくるものというのは。

—  これは面白いと思いますよ。今まで一生懸命練習や解釈をして自分が最高だと思っていることが、お客さんやいろいな条件によって自分が思っていないことが出てくるのですからね。

奥山 そうですね。急に違うことやったり(笑)。

—  違うことやるのですか?

奥山 本筋は変わらないのですけど、もっとよくなることもあるし、悪くなることもあります。例えばお話する機会があったとしても、話し方というのは目の前にいる人によって変わりますよね。それと同じ事が起こりますね。自分の中ではこういうものを作ろうと決めてやっているのですけれど。

—  ソロとアンサンブルとどちらのほうがお好きなんですか。

奥山 私はアンサンブルすごく好きなんです。パートナーは、すごくあう人じゃないと出来ないんですけど。

—  自分の方が合わないなと思うのですか?

奥山 いろんな人と試してやってみようと思って、実際にやってみてもいるのですけど、この人とやったほうが良いというのが最近分かってきましたので。レベルとかフィーリングとかいろいろあるんですよね。やっぱり気質がソリスト気質というふうに言われてしまうことが多いんですね。自分ではどうにもならない(笑)。

—  日本人の方と演奏する機会もあるでしょうし、現地フランス人の方と演奏する機会もあるでしょうけれども、どちらの方がやりやすいのですか?

奥山 日本人は正直やりやすいです。すぐにあいます。

—  やっぱり奥山さんが日本人というのがあるんでしょうか?

奥山 何かテンポの感覚とか拍子の感覚とかでしょうか。それに日本人は合わせるのがすごく上手です。誰でも、日本人同士だと、ほとんどずれません。

—  フランス人はずれるということですか?

奥山 ずれる。もう信じられない。こんなにずれないというくらいずれます。本当に神経疑うくらい(笑)。プロ同士だったらずれないように最後はやります。でも、ずれる人は本当にずれますし、勝手に弾いてます(笑)。だからというわけではないのですが、合う人と会えば非常に合うのでそれはすごく面白いですね。

—  奥山さんの今後の音楽としての夢を聞かせていただけますか?

奥山 音楽としての夢はいっぱい演奏の機会を増やすこと、それにいろいろ人とコラボレーションしていきたいです。アンサンブルとしてもそうですし、例えば他の分野、映像や舞踏の人などそういう意味でもいろいろやっていきたいですね。なんか私は「交換(Echange)」と、「分け合う(Partage)」みたいなことに今すごく興味があるのです。

—  それはあるものを、気持ちを通して、「交換し」「分け合う」のですか?

奥山 いや自分の気持ちというか持っているものですね。それは例えば芸術家の「フィーリング」だとか「インスピレーション」などです。興味としては、知らない作曲家の人も新たにやってみたいし、持っているものを深めるのもいいのですけれども、一番興味を持っているのはそれを「交換」することなのです。

—  面白いですね。

奥山 一人でやるにはやっぱり制限があるし、今の時代だとショパンコンクール1位とかチャイコフスキーコンクール1位などを目指すのは、20代までは良いと思うのです。でも、そういうことには限りが出てくると思います。いろんな人と関わり合って自分を高めてオリジナリティーを探求していった方が良いかなと思います。

—  確かにショパンコンクール1位とかチャイコフスキーコンクール1位とかというのはすごいのですけど、それ以上ではありえないですよね。例えば先ほど言われた映像の方といっしょにやるとか、ダンスの人と一緒にやるとか、そのほうが面白いと思いますね。

奥山 選択肢をコンクールだけにしたら、他の人と関わるというのは絶対無理じゃないですか。一日10時間、家に閉じこもって練習するしか道はないような感じになりますよね。それにチャイコフスキーコンクールを受けるとしたらコンクールのための曲を弾くしかないのです。そうではなくてもっとテクニック的に難しくない曲や、もっと単純なコンクールでは栄えなくても素晴らしい作品を勉強する時間もとれないことが多いのです。20代にそれを全然勉強しないことになるんですよ。感性が鋭くて一番吸収できる時期に、それもまたもったいないと思います。

—  いろんな人と一緒にやるというのは次のステップということですね。

奥山 いろんな人と一緒にやるとか、いろんな世界の人と関わりたいというのは次のステップとして、そういう経験を通して、自分を深めたいという感じです。

—  いろんな人とやるのは一番面白いことだと僕も思うのです。観客も含めて、音楽というのは一人のものではないと思うので。いろんな人とやるのが一番面白いのかなと思いますね。

奥山 ソロと言われながらも他の人とやってソロの演奏の中にもそれを取り込んで、こう色彩というか。自分のパレットを増やしたいと思っています。

—  プロのミュージシャンとして、フランスで活躍出来るような秘訣とか、仕事がとれるような理由とか、成功する条件は何かあるとお考えですか?

奥山 最終的には成功する条件はどこでも一緒だと思うのです。やっぱり努力と、努力して人への思いやりを持つことです。あとは自分のやりたいと思っているチャンスを常に逃さないように待機している状態にすることです、精神的に。

—  精神的にですか?

奥山 そうですね。精神的なテンションを保つのって結構難しいと思うんです。ある時やりたいな、と思うことがあっても、一週間くらいたったら、もういいかな、と思ったりするじゃないですか(笑)。そういう意味で続けること、継続が大事ですよね。途中で失敗してもそんなにあきらめないで何度もトライしていくことが大事だと思います。

—  人間なんでやる気が落ちる時もあるし、これを保っていくということは難しいと思いますね。

奥山 保つということは難しいですよね。私も結構落ち込むので。一人の時間がすごく多いので。特にピアノをやっている人は。だから自問自答ばっかりしている人がたくさんいると思います。でもある意味捨てていかなきゃいけないものがあると思うんですよ(笑)。学生の時はやっぱり可能性をいっぱい探るので可能性の中でおぼれてしまうような感じです。でもやっぱりプロになろうと思った時点でなんといったらいいのかな、開き直りというのとは違うと思うのですけど捨てる部分があるんです。

—  学生のときは、自分が世界のトップピアニストで、例えばニューヨークのカーネギーホールでいつも演奏するだとか、常時、そのような場にのみ自分がいると思っているのでしょうね。
 

パリ・ピアニスト奥山彩さん
奥山さんのコンサート

奥山 そうですね。でもプロになるということはいきなりそんなカーネギーホールに行くことではないですよね。一つ一つ積み重ねていって、その頂点にカーネギーホールがあればすごく素晴らしいことなのだと思います。やっぱり音楽家、特にクラッシックだったら20代で最高を目指すなんてやっぱりありえなくて、 20代があって30代があって40代があると思います。80才でもまだ現役でコンサートやっている方もいらっしゃいますので。やっぱり上には上がいて、何というのかな、謙虚な姿勢というか長い目で見るようにした方がいいと思います。プロというのは、中学校の上は高校とかそういうのではないので今やっていることが40代になった時に花開くといいなという長いスタンスでいるとやっぱり気持ち的にはいいんじゃないかなと思いますね。

—  フランスで音楽を勉強したいと考えている日本の方に何かアドバイスがあれば教えて頂いてよろしいですか?

奥山 フランス留学する方は、まずとりあえず来てみてください。いきなり長期で来ないで例えば2週間とか1ヶ月とか期間を決めてトライしてみると良いと思います。とにかく一回来て本場を見ることが大事だと思います。そして、もし来たいと思われたらあきらめずに頑張ってください。

—  長期留学する前に短期で一回見るというのは大切ですよね。

奥山 私も一回見るチャンスがあったので。夢というのはどんどん膨らんでしまうのでやっぱり見ないといけないと思います。来て、見て、触ってみないといけないですね。

—  考えてばかりだと実際は違ったというのもありますしね。

奥山 来た後に、もしかしたら来たくないかもしれないですし。文化の違う所で生活するのは大変ですので、日本に居た方がいいと思うかもしれないし、違う国の方がいいと思うかもしれません。学校を見学したり、短期で2週間〜1ヶ月くらい春休みや夏休みを利用して一度来られるのがいいと思います。

ー  ありがとうございました。

 

布谷史人さん/ソロマリンバ奏者/アメリカ・ボストン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はアメリカ・ボストンでソロマリンバ奏者としてご活躍中の布谷史人(ヌノヤフミト)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2006年11月)


ー布谷史人さんプロフィールー

マリンバ奏者
布谷史人さん

秋田県生まれ。山形大学教育学部総合教育課程音楽文化コースを経て、ボストン音楽院修士課程マリンバ・パフォーマンス科修了。アーティスト・ディプロマ科マリンバ専攻修了。ボストン音楽院でナンシー・ゼルツマン、パトリック・ホーレンベルクに師事。その他、岡田知之、目黒一則、須藤八汐、三村奈々恵、池上英樹の各氏に師事。Ima Hogg 若手音楽家のためのコンクール(テキサス州ヒューストン)1位。世界マリンバコンクール(ドイツ)、The National Young Artist Competition(テキサス州オデッサ)、The Eastern Connecticut Symphony Young Artist Competition(コネチカット州ニュー・ロンドン)、Percussive Arts Society国際マリンバコンクール(アメリカ)等で入賞。大曲新人音楽祭コンクール、クラシック音楽コンクール・打楽器部門最高位(日本)。ヒューストン交響楽団、Di Pepercussio Ensemble、東方コネチカット交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団と共演。現在ボストン在住。



―  簡単な略歴を教えていただいてよろしいですか?

布谷 7歳からピアノを始めました。小学校の時に学園祭でマリンバを初めて見たのですが、それ以来マリンバに憧れがありましたね。その後、中学校からずっと打楽器をやり、17歳からマリンバを本格的に勉強しています。

―  その後はマリンバだけをお続けになっているのですか?

布谷 大学は音楽大学ではなく、教育科のある山形大学に行ったのですが、その時は打楽器も勉強しなければいけなかったので、打楽器もマリンバも両方均等にやっていました。アメリカの学校ではマリンバ科がありそこに入学したので、留学後はマリンバを主に勉強しました。

―  アメリカに留学しようと思ったきっかけはありますか?
 

ボストン・マリンバ奏者
日本人マリンバ奏者と

布谷 留学というか、マリンバを勉強する引き金になった先生(大学2年頃から学外で習っていたピアノの先生)がいるんです。山形大学のカリキュラムでは、打楽器専門の先生が年に4回しか来ません。それだけだとあまりにもレッスン数が少ないと感じたので、大学2年の終わり頃に思い切ってそのピアノの先生にマリンバを教えてくださいとお願いしたんです。先生はそれを快く引き受けて下さいました。そこからは常に新しいものの発見でした。音楽というもの、音楽をすることの喜び、苦しみ、深さ。本当にいろいろなものを学びました。その先生との出会いで、真剣に音楽を勉強しようと決めたと言っても過言ではないですね。そしてマリンバの世界に目を向けるために、世界で活躍している何人かのマリンバ奏者に出会う機会があり、その方々から色々と海外のお話しを聞いていくうちに、海外に興味を持ち始めました。

―  アメリカやヨーロッパ、アメリカの中でも西側、東側がありますが、ボストンに留学先を決めた理由は何かありますか?

布谷 ヨーロッパでは、オーケストラ奏者になるためのプログラムが主流で、ソロでマリンバのみを勉強することはまず不可能だと聞きました。自分としてはマリンバのみを勉強したかったので、大学3年生頃からお世話になっていた三村奈々恵さん(注:マリンバ奏者)からお話をいろいろ聞き、マリンバ専攻で修士課程が取れる大学ということで、三村さんが通っていたボストン音楽院に行こうと、大学4年の夏に急に考え始めました。

―  ボストン音楽院に行かれてどうでしたか?

布谷 アメリカ留学を急に決めたので、英語を準備する時間はほとんどありませんでした。最初は英語が全然出来なかったので、英語の授業から受講しました。その英語のクラスでは、いろいろな国の人と友達になり、ボストン探索をしたり、協力したり、毎日いろいろな発見があって楽しかったです。プライベートレッスンは、英語があまり達者でない留学生を教えるのに慣れている先生でしたので、英語が出来なくても身振り手振りと簡単な単語で何とか教えてくれました。

―  ボストン音楽院は、入学時にTOEFLは必要ですか?

布谷 僕はスコア自体を持っていましたが、恥ずかしながら入学するための点数には達していませんでした。多分、その当時はそんなに重要視されていなかったのだと思います。今は必要みたいですね。

―  オーディションはテープですか?

布谷 テープでもいいし、もちろんライブオーディションでも良かったです。僕はあまりよく分からなかったのでテープで出しました。ただ、自分の担当になる予定の先生に自分の事を知られていないのであれば、直接来てオーディションを受けたほうがいい印象を与えられると思います。奨学金の額も変わってくると思います。

―  初年度から奨学金はもらえますか?

布谷 優れている人には多少なりともちゃんとくれます。ただ、奨学金は主にオーケストラの楽器の専攻生に多く振り分けられるので、マリンバ専攻生は高額な奨学金をもらうのは難しいと聞きました。僕の場合、修士課程の時は多少もらっており、その後のアーティスト・ディプロマでは全額奨学金を得ることができました。

―  マリンバ科は何人いたのですか?

布谷 修士課程は、三〜四名です。学校自体がそんなに大きくはないので三〜四人でも結構多いほうだと思いました。

―  ボストンは、治安などいかがですか?

布谷 場所によってですが、アメリカでは比較的良いほうだと思います。何区域か危ないと聞いています。危ない区域は決まっているのでそこに行かない限り大丈夫だと思います。
 

マリンバコンサート
マリンバのコンサート

―  音楽をアメリカで勉強することで良い点・悪い点はどのような事がありますか?

布谷 アメリカは、国自体が本当に自由だと思うんです。いろいろな人がいるし、いろいろな演奏方法もあるし、いろいろな音楽もある。それが刺激になっていいなと思います。逆にいろいろありすぎて広く浅くになりがちな部分もあるような気もしますね。ただ、ボストンやニューヨークなどの東海岸側は、地理的にもヨーロッパに近く、たくさんの音楽家がヨーロッパから渡ってきます。そのおかげで、クラシックの本場の音楽を聴く機会もありますし、クラシックの勉強を本場の人から習う事も可能だと思います。そして、マリンバという楽器自体が珍しく、アメリカは珍しいものが好きなところがあるので、作曲専攻の生徒や作曲家の先生方がマリンバを使った室内楽曲やソロの曲を書いてくれますね。その曲を演奏するチャンスがありますし、マリンバの作品を書いてくれる作曲家の方と、マリンバの可能性や、その作曲家の書いた曲の意図等のお話をする機会がありますね。

―  アメリカでもマリンバはあまり知られていないのですね?

布谷 そうですね。演奏会をすると「今までマリンバを聴いたことがなかった」という人はたくさんいます。コンサートマリンバの歴史は浅いので、仕方がないと思いますが。でも、中にはマリンバをジャズで聞いた事があるとか、昔メキシコで聞いたとか、そういう人がいて僕も驚くことがあります。

―  アメリカに留学されて一番大事な事はなんですか?

布谷 目標みたいなものはしっかり持って勉学に励む事が大事だと思います。そして、留学は親等からの金銭的・精神的サポートが必ず必要だと思いますので、そのサポートをしてくれている方達への感謝の気持ちも忘れてはいけませんよね。また、ボストンは日本人が多いので、日本人とばかり遊んだりせず、いろいろな人と交流を持っていろいろな文化や経験をしていく事も大事かなと思います。

―  学校を卒業後、アメリカでいろいろな仕事をなさっていると思いますが、アメリカで仕事をする上で日本人に有利な点・不利な点があるとお考えですか?

布谷 それはまだ、感じたことはないです。ただ英語がアメリカ人みたいに流暢に話せないことが不利というか、思ったことがすぐに英語に出てこないことがストレスになることはありますけどね。

―  東海岸、西海岸の都市部では、言葉がある程度できれば、あとは実力で仕事をもぎ取っていけるという事ですね?

布谷 そうだと思います。

―  クラッシック音楽というのは、布谷さんにとって何ですか?

布谷 自分と向き合う鏡みたいなものですね。音も音楽性も感受性もほとんど人間性から来るものだと思っています。人間性を磨いてこそ音楽が高まっていくとも思います。音楽は心のよりどころですね。

―  そのときの自分の状況が音に反映されるという事ですか?

布谷 ほとんどそうだと思います。

―  ロックとかポップとかそういうジャンルには興味が無いのですか?

布谷 そういうジャンルの影響を受けて作られたマリンバの作品がありますので、そういうのは何曲か演奏したことあります。でも、そういう音楽は、自分は聞くほうが好きですね。あとは、ジャズを六ヶ月くらい勉強した事はあります。でも、何かしっくりこなかったですね。クラッシックの演奏とジャズの演奏とでは頭の使い方が全然違うので、今からもう一度一からジャズを勉強するよりは、今はクラッシックの方に時間を費やしたいと思っています。でも余裕が出てきたら、いつかはちゃんとジャズを勉強したいと思っています。
 

ソロマリンバ奏者
ソロマリンバ

―  今後の音楽的な夢があれば教えていただいてよろしいですか?

布谷 マリンバでクラシック音楽を演奏することがまだあまり世に浸透していないので、まずマリンバという楽器があることを世の中に確立して、その上で、マリンバで奏でる音楽、そしてその良さを世間に広めていきたいと思っています。曲も、マリンバのオリジナル作品はまだそれほどありませんので、僕が尊敬する作曲家の先生に委嘱していき、後世に残せる作品も作って行きたいですね。そしてマリンバで奏でる僕の音楽を通して、いろいろな人がいろいろなことを考えられるような、感じられるような、深い音楽を創って行きたいと思っています。ピアノやヴァイオリン奏者の方は、そのような演奏をされる方はたくさんいますが…。要するに音で勝負できる音楽家になりたいということです。最近、マリンバの演奏自体がエンターテイメントになりがちな事が多いと思いますので。

―  エンターテインメント的というのは?

布谷 奏者がマリンバから出る音をよく聴かずに、体の動きのみを考えて演奏する事です。それがいいと思ってやっている人はもちろんいいと思うのです。マリンバを演奏する事は、やはり動きを伴いますし、そういう体の動きに自分の思考が働いてしまうことは仕方がないと思うのです。でも僕は「動き」を第一に考えた音楽ではなくて、自分の奏でるマリンバの音に対してもっと敏感に耳を働かせてよく聴き、作曲家の書いた音符を深く追求して、その作曲家の意図を理解し音楽を創っていけるような音楽家、マリンバ奏者になりたいと思っています。

―  アクションっぽくなる、見られがちということですか?

布谷 そうですね。「見ていて綺麗だね」とか「手が早く動いて凄い」と言われるよりは「音楽が深いね」と言われるほうが嬉しいですよね。でも実際問題、マリンバを演奏することには大きな動きが伴うので、難しいですけどね。

―  マリンバの演奏は、ソロとオーケストラの両方になりますか?

布谷 オーケストラの中でマリンバを演奏する事もあるのですが、それはオーケストラの打楽器奏者がマリンバを演奏することになります。マリンバ奏者がそのような仕事に雇ってもらえる事は稀でないでしょうか。マリンバ奏者は、主にソロのコンサート、ソリストとしてオーケストラをバックに演奏、室内楽で演奏、BGMで弾く、レセプションで演奏することがほとんどだと思います。

―  マリンバというのはいつ頃から登場した楽器なのですか?

布谷 コンサート楽器としてある今日のマリンバの原型が登場してから80年くらいです。マリンバは、アフリカが起源だと言われているのですが、確かではありません。その起源と言われるアフリカのバラフォンという楽器が南アメリカのグアテマラやメキシコに渡り、すべて木で作られているマリンバが出来たのがマリンバの始まりと言われていますね。そして80年ほど前に、とあるアメリカの楽器会社がその南アメリカのマリンバを発見して、今のマリンバ(共鳴管が鉄製)の原型を作りました。そこからいろいろ楽器会社が開発して、今僕が使っているような5オクターブの楽器がおおよそ30年程前に出来ました。
 

マリンバ奏者
ソロマリンバ奏者

―  布谷さんは、アメリカで演奏家として活躍されているわけですが、マリンバ奏者を目指す方がアメリカで音楽家として活躍する秘訣はありますか?

布谷 まずは技術的にも音楽的にもあるレベルに達していることが必要だと思います。そして、人間的にも、音楽家としてもバランスが取れていることも大事だと思いますね。活躍する秘訣ですか・・・あったら自分も教えて欲しいくらいですね(笑)。マリンバ奏者として生きていくのは、引かれていないレールの上を歩くのとほぼ一緒と言っても過言では無いくらいですので、強い精神力で頑張っていかなくてはいけないと思います。それでご飯を食べていかなくてはいけないですし、生きるためにお金をどうやって稼ぐか考えていかなくてはいけません。でもお金の事だけを考えていては、良い音楽は創れません。だからといって家にこもって練習ばかりしていたって、ご飯は食べれませんし….。そのバランスも難しいですよね。自分の優れているところを見つけて「自分はこういう事が出来るんだ、こんなことをしてきたんだ」と、アピールしていくことが大切だとも思いますね。

―  アピールの仕方はどういうふうにされましたか?

布谷 一番いいのは演奏をたくさんの人に聞いてもらうことだと思います。演奏を聞いてもらう上で履歴書が印象的だと良いと思いますので、コンクールで賞に入っているとか、自分にしかないレパートリー・プロジェクトがあるとか、そういうものを全面的にアピールしていくといいと思います。アメリカと日本では人のつながりが少し違いますしね。

―  どういう意味ですか?

布谷 日本の場合、横のつながり(師弟関係)で仕事を頂く事が多いと思うのです。そのつながりが無いと仕事が出来ないという話も聞いた事があります。アメリカでももちろん先生のツテでお仕事をいただくという事もあるのですが、日本ほど師弟関係の有無で厳しい思いをすることは無いと思います。アメリカの場合は、知らない誰かが「いいな」と思ったら、その人と少し話しをしただけで、「僕の息子の結婚式で演奏してくれる音楽家を探していたところなのだけど、君の連絡先を教えてくれないか」と話をしてくれたり、「君の経歴、面白いこと書いているね」と興味をもって話しかけてくれる人などがいます。コンクールで多数の入賞経験があるとコンサートを運営しているグループから演奏会の依頼があったりします。面識の無かった作曲家の先生でも演奏を気に入ってくれると「君のためにマリンバの曲を書きたいのだけど」と言ってくれる方もいましたね。本当にいろいろなチャンスがアメリカには転がっている気がします。ですので、たくさんの方に演奏を聞いてもらう事が一番大事だと思います。

―  コネクションがなくても実力次第で、仕事のチャンスが生まれてくる可能性があるのですね。

布谷 あると思います。だから僕もここにいれると思うのです。

―  海外に音楽留学をしたい方が日本にはたくさんいらっしゃいます。そういう方にアドバイスをいただけますか?
 

マリンバフェスティバル
マリンバフェスティバル

布谷 海外留学は、人生経験にもなりますし、自分を知ることが出来る良い機会だと思います。ただ先程も言いましたが、留学をする事は精神的にも金銭的にも大変ですし、それをサポートしてくれる人たちに対して感謝することを忘れず、一生懸命死ぬ気で頑張ってもらいたいなと思います。日本人は他の国の方に比べて金銭的に恵まれていると思います。恵まれているからこそだと思うのですが、「海外にいる」というステータスに満足して、遊んで終わったり、音楽留学で来ているはずなのに語学をちょっと勉強して帰国する、という方がいるので、そういうことのないようにして欲しいなと思います。アメリカにいる日本人がそういう目で見られるのは恥ずかしいと思いますので。もちろん死ぬ気で頑張れとは言ったのですが、息抜きも大事ですよね。自然を見たり、美術館に行ったり、映画を観たり、美味しいものを食べたり…。ストレス発散のためにパーッと遊ぶことも大事だと思います。また、アメリカでは一つの観念が通用しないことも多いので、頑固に物事を一つの側面から捉えず、何事に対しても受け入れられるような寛大な気持ちを持つ事が大事だと思います。アメリカは、日本で常識なことが常識でなかったりする国です。最初は、びっくりするかもしれないし、ストレスになるかもしれないのですがそれも世間勉強ですのでしっかり受け入れる用意が必要だと思います。

―  いろいろとありがとうございました。

布谷 ありがとうございます。


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石川政実さん/ジャズギタリスト/アメリカ・ニューヨーク

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はアメリカ・ニューヨークでジャズギタリストとしてご活躍中の石川政実(イシカワマサミ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2008年3月)


ー石川政実さんプロフィールー

ジャズギタリスト石川政実
ジャズギタリスト石川政実

1965年東京都出身。11歳で、はじめてギターを手にし、ロック、フュージョンを経て、大学時代に、ジャズ演奏を開始。1990年、ニューヨークのニュー・スクール大学ジャズ&コンテンポラリー・ミュージック科に留学、ジム・ホール、レジー・ワークマン、ジョー・チェンバース、ジョン・バッシーリらに師事。その後、ニュー・スクール、ジャズ科のファウンダーでもあるアーニー・ローレンス・グループに起用される。自己のグループでも55バーや、アングリー・スクワイア等に出演、NYのローカル・シーンで注目される。1993年に一時帰国、自己のグループ、井上信平、岩瀬竜飛らとも首都圏のライヴ・ハウスを中心に演奏をした。2000年、再度ニューヨークにて活動を再開する。現在、ゴスペル・シンガー/ピアニストのL.D.フラジァーのグループ、ロニー・ガスペリーニのグループ、田井中福司トリオなどを中心に活動しており、2007年12月に発表されたロニー・ガスペリーニのニュー・アルバム「North Beach Blues 」(Doodlin Records www.doodlinrecords.com)における演奏が好評を博している。



—  石川さんとジャズの出会いを教えてください。

石川 大学時代にジャズ研に入り、ジャズを始めました。卒業後、1990年に趣味が高じてニューヨークに渡り、ニュー・スクール大学というジャズプログラムのある学校に入学しました。

—  そこでジャズを学ばれたんですか?

石川 ニュー・スクールでは、ギターはジム・ホール、セオリーはケニー・ワーナーやギル・ゴールドスタインといった有名な先生からジャズの基本的な教育を受けました。結局、4年間のコースのうち2年間通って大学は中退しまして(笑)、その後1年間くらい、ニューヨークで演奏をしていました。学校を辞めたあとにニュー・スクールを創ったアーニー・ローレンスという人のバンドに誘われてそこで演奏しをしていたんです。その後、1993年に一度帰国しました。

—  帰国後、再度渡米されるまでどのくらい日本にいらっしゃったのですか?

石川 5、6年活動していました。演奏ではなかなか食べられなかったので、教えて生活をしているところがありましたね。

Image —  その後、またニューヨークに?

石川 ええ、1999年にまたニューヨークに戻り、それからはこちらを拠点に活動しています。

—  ニューヨークに戻られたきっかけは?

石川 実はあまり深くは考えてないんです(笑)。正直にいうとかっこ悪いんですが、女房が留学したいといったのがきっかけだったんです。当時は、だらだらとですが、教えることで生活できていたので、ニューヨークへ戻るのということは批判的な気持ちのほうが強かったんですね。ニューヨークで音楽で食べていくのは大変だし……、と思っていたので。でも、配偶者ビザが取れるということもあって、じゃあ、また行ってみるかなくらいの軽い気持ちでした。ところがニューヨークに戻ってみると、やはりこっちがいい、と思ったんです。忘れていた血が騒ぎ出したといいますか、音楽をやる気になったんです。

—  ニューヨークのほうが音楽ができると思われたんですね。

石川 昔の知り合いからトラの仕事をまわしてもらって、到着2日目くらいから病院のギグなどをさせてもらいました。これがすごく楽しくて、やはりこっちでやろう、ニューヨークでやっていこう、と思いましたね。

—  ところで、日本での大学は音楽の学科ではないですよね?

石川 ええ、慶応大学の法学部法律学科です。

—  優秀な大学ですよね。そのままいけばエリートになれる可能性もあったと思うんです。それでも音楽を選んだのには何かあったんですか?

石川 好きだったんでしょうね。でも、実は1年間だけサラリーマンをしたことがあるんです。大学卒業後、印刷会社に勤めました。大学卒業のときに、ジャズギターなんかで食べられるわけがないと思って、諦めて就職したんです。でも、忘れられなかったんでしょうね。それで会社を辞めたんです。

—  周りからの反対はありましたか?

石川 はははは、そうですね(笑)。でも、もともとミュージシャンになりたかったのに、親の反対もあって就職したんです。それでも働いてみたら、やっぱり無理だったんですね。

—  自分の魂が捨てられなかったんですかね?

石川 そうですね。音楽ってやっぱりそういうところがありますよね。一回やってしまうと、やめられなくなってしまう。非常に危険だと思いますよ。危険な人、いっぱい見ています(笑)。日本のミュージシャンの中にも、大学でジャズ研の盛んなところ出身の方は多いですよね。東京大学、一橋大学、早稲田大学、といったところの人もたくさんいますよね(笑)。

—    そもそも石川さんは音楽への興味は大学に入る前からあったんですか?

石川 ええ。子供のときから音楽は好きでした。小学生くらいからロックを聞くのが好きで、ギターを買ってもらったのが小学5年生、11歳くらいのときです。

—  ロックとジャズというのは、似て非なるものだと思うのですが、大学時代にジャズに傾倒していったのはどうしてですか?

石川 楽器を始めたのが人より早かったこともあって、うまい!なんて周りから持ち上げられてね(笑)、ギターを弾くのは好きだったので、「これを究めていこーう!」と思ったら、難しいことをしてみたいとおのずとジャズに興味を持ち始めました。それにロックだとどうしても歌の伴奏をするような形になると思うんですが、そうではなく楽器をメインにした音楽へと自然に流れていった感じです。

Image —  楽器をメインにしたジャンルといえば、クラシックやフラメンコなど他にもあると思うのですが、そこでジャズだったのはどうしてですか?

石川 そうですね。急にジャズを始めたわけではなくて、高校生くらいのときにインストゥルメタルのフュージョンをやり始めたんです。フュージョンというのはジャズっぽい要素もありますから、そういうのを演奏しているうちに元のジャズのほうをきちんと勉強したほうがいいかなと思ったんですね。

—  アメリカでジャズをしてみて、日本と違う良い点、悪い点はありますか?

石川 ジャズの表面的なテクニックというのは、日本でも勉強出来るし、日本のミュージシャンもそうやって演奏していると思うんです。でも、アメリカに住んで、黒人の人、いわゆるオールドスクールの人たちに接することで、ジャズのルーツの部分であるブルースやゴスペルを肌で感じることができるし、黒人の人たちのライフスタイルも学んでいくことができます。

—  やはりライフスタイルからなんですね。

石川 多分、そうだと思います。だから、アメリカ、特にNY以外で本当の意味でジャズを勉強するのはある意味難しいのではないかと。。表面上のテクニックは身につけることができても、ジャズ独特のフィーリング、ブルース、ソウルを身につけるっていう意味では、ここで学ぶことは幸せな事だと思います。

—  やはりフィーリングがないと自分のやりたいこととは……。

石川 まったく別のものになってしまう。口ではなかなかうまく説明できないんですが、そこが重要ですよね。

—  例えば、ボストンにはバークリーなど有名な学校がありますが、そういう街ともニューヨークは違うものですか?

石川 ニューヨークにいれば、例えばそのへんにいる楽譜も読めないミュージシャンたちと一緒に演奏して肌で接して、身につけていける部分が非常に大きいんです。

—  楽譜が読めない人とでもジャズでは会話ができる、ということですね。

石川 本来のジャズは聞いて耳でとらえて演奏するという音楽だったので、そういう部分が非常に大切だと思うんです。

—  ちょっと学術的な感じになってしまっているということですか?

石川 そうなんですよ。だからジャズが本来もっているエネルギーが失われつつあると思います。

Image —  アメリカでもそういう傾向が見られるということですか?

石川 見られますね。

—  どういうところに行けば、そういうソウルを感じられる演奏を見ることができますか?

石川 現在、非常に少ないと思います。ベテランのミュージシャンたちが次々と亡くなってしまっているので。だから、最近の売れている人たちの演奏を聴くよりは、ベテランの人たちの演奏を聴くのがいいと思います。日本ではあまり有名ではない人とかね。あとは、僕はまずはゴスペル・チャーチに行くことをお勧めします。

—  ゴスペル・チャーチですか?

石川 そこでルーツを感じることができると思います。黒人の人しかいないようなゴスペル・チャーチに行ったら、ものすごいエネルギーを感じて、衝撃を受けると思います。ハーレムとかブルックリンとか、ブロンクスとかですね。僕はそうでした。昔のミュージシャン、例えばセロニアス・モンクにしてもゴスペル・チャーチ出身ですし、そういう人たちは根本的に違うと思います。

—  ジャズミュージシャンというのは、もともとはそういう人ばかりだったんですよね。

石川 本来はそういうところから来ているものですからね。僕は、ゴスペルの人たちと演奏していて非常に厳しく教わったんですよ。“Young jazz musicians are missing something”って。彼らは演奏中に叫んでいるんです“Feel,You gotta feel more!”って。だから、上っ面で弾いたりしたら、怒鳴りつけられる。そういうのはやはり学校ではできない経験ですよね。日本でも“feeling”とか“feel”っていうけれども、なかなか本当の意味がわからなくてね。それはやはり口ではなかなか説明できないんですけれど、そういう独特の部分がジャズという音楽の力になっている。原点ですよね。

—  そのフィーリングというのは、だいたいどれくらいでわかってくるものでしたか?

石川 それは……。いや、まだわかってないかもしれないですね(笑)。それは、一生をかけてどんどんどんどんより深めていかなければいけないものだと思いますし。

—  現実的なことをお聞きしたいのですが、アメリカで仕事をするときに日本人に有利な点、もしくは不利な点はありますか?

石川 普通の仕事であれば、日本人は真面目で時間に対してきちっとしているので、信頼される部分はあるかもしれません。でも、もう少し高いレベル、例えばジャズクラブで仕事をしていこうとすると、同じ実力であれば日本人であるということで偏見の目で見られることはありますよ。

—  なるほど。

石川 日本人がジャズをやっているということが向こうの人にとってどういうことかといえば、アメリカ人の寿司職人のところにわざわざ食べにいくか、という話ですよ。だから、よほど実力をつけて質の高い演奏が出来なければいけないと思います。こっちでやっている日本人はみんなそうやって頑張っていると思いますね。

—  日本で頑張る以上のことを求められているわけですね。

石川 日本には日本人しかいませんからね。ニューヨークは本当にミュージシャンが多くて、世界中から集まってきていて、とにかく数が違いますから。こっちでやろうと思ったら大変ですし、とても鍛えられます。

—  石川さんにとってジャズとは何でしょうか?

石川 ジャズとはですか……、うーん、難しいですね(笑)。やはり、パッションとかそういうことになると思います。

Image —  身体の内にあるものということでしょうか?

石川 そうですね。学校では、いかにクリエイティブになるかという話が中心であったように思います。そういうアイデアは、ジャズを面白くするための1つの要素として取り入れるべきものですが、それだけではないと思います。

—  それよりも大事なことがあると。

石川 一番大切なのはフィーリングですよね。ジャズの元をたどれば、アフリカの奴隷たちがアメリカに渡ってきて、最初はほとんどリズムだけで鼻歌を歌っていたわけです。それに西洋のハーモニーを少し取り入れて、それがだんだんと洗練されておしゃれになってきたわけです。つまり、西洋のハーモニーを取り入れたというのは、あくまで付随的なものですから、いかにクリエイティブにやったところで、クラシックの完成度にはかなうわけがないんです。即興でやっているわけですから。

—  なるほど、なるほど。

石川 ですから、ジャズ特有のリズムがジャズという音楽の命、力の源になっていると思うんです。それが表現されていれば、質の高いクラシックにも負けない芸術性の高いものになると思います。だから、ジャズは根本的にクラシックと違うものとして、聴かなければいけないし、演奏しなければいけないと思っているんですよ。それがいま、世界的に誤解されているので、そこと戦っていますね。一番大切なことはそこではないということを伝えたいですよね。いかにフィーリングを感じ、こめるか、そこが大事ですよね。

—  技術的になってしまって、元の本質を忘れていってしまうということはありますよね。

石川 ええ。ジャズに限らず、フィーリングが失われているとは思いますね。やっぱり音楽というのは時代を反映しますから、デジタル〜、デジタル〜(笑)となってくると、やっぱりみんな忘れてしまうんです。フィーリングの深いところを求めなくなってしまう。iPodで音楽を聴いて、と、世の中とにかく簡単になりすぎちゃっているから、創られる音楽も演奏される音楽もそういうものになってきてしまっていると思います。そこにいかに立ち向かうかというのが僕の使命だと思っています。

—  石川さんはそういった想いで演奏されていて、やはりお客さんの反応は違うと思いますか?

石川 やはりぜんぜん違うと思いますよ。先月も日本に帰って三重県で演奏したのですが、すごく喜んでもらえたと思います。ジャズを余り聞いたことがない多世代の人達が手拍子をしてくれてね。ドラムの人は田井中さんといって、もうこっちで25年くらい黒人の中にまじって演奏してきた人なんですが、その人がまたみんなにわかりやすい、みんなが感じられる演奏をするんですよ。それはジャズを知っているとかではないんですね。知らなくても聴けば分かることなんですよ。

—  知っているかどうかなんて関係ないんですね。

石川 ええ。そこで、もし上っ面の演奏をしていたら、ジャズって難しいんだな、ふーん、で終わってしまうと思うんですよ。コードとかアイデアとか、アルペジオとかね(笑)。そうすると、みんなやっぱり聴かなくなってしまいますよね。

—  そうですね、クラシックを聴いているのと、同じ感じになってしまいますもんね。

石川 かといって、本物のクラシックのような完成度はない。中途半端な音楽になってしまう。力の弱いものになってしまうんですよ。

—  本来はもっともっと力強い土着の音楽だったのに。

石川 ええ、みんなが感じられる。それが私の目指すところです。みんなをハッピーにすることが私の目標です。

—  次に音楽的な目標を聞かせてください、と言おうとしたんですが、今ので十分ですね。

石川 そうです、そうです(笑)。そういうことです。

—  アメリカでプロの音楽家として活躍する秘訣、成功する条件はなんでしょうか。

石川 これは、成功してないだけに難しいですね(笑)。最近痛感していることは、ビジネスといい音楽をするっていうことは、まったく別のことだなということです。別の才能がいるんです。例えば同じミュージシャンでも、メールやホームページの更新にやたらと時間をかけたり、電話をかけることに命をかけたりと一生懸命売り込んでいる人がいます。僕自身、本当はそういうことにも時間をかけなければいけないんだろうけど、やっぱりそれよりも音楽のことを考えたり、楽器の練習に時間をかけてしまいますね。でも、一生懸命やっていれば、最低限の仕事は入ってきますよ。それは成功とは言えないかもしれませんが(笑)。

—  きちんと音楽で食べていけるということですよね。でも、そこが難しいところですよね。

石川 そうですね。やっぱりニューヨークは厳しいと思います。人に呼ばれて演奏することが多いんですが、やはり自分がバックアップに入ったからよくなったっていう状態にしないと、次に仕事は来ませんよね。様々なスタイルの人たちを上手に伴奏することは、経験も必要だし、非常に難しい。だから、僕はひたすら練習して、いい演奏ができるようにしていますね。

Image —  最後にジャズを勉強したい人やニューヨークに行きたい人にアドバイスをお願いします。

石川 いままでのことと重なるんですが、あまり理論にこだわらないことです。例えば、音を間違ったなんて気にすることないんです。ジャズはクラシックと違って、そういう音楽ではないんですよ。基本的にジャズに間違ったことなんてない。それよりももっと大切なフィーリングをつかんでほしいと思います。

—  それはやはりニューヨークに行って、感じたことですか?

石川 そうですね、オールドスクールの方から得るものが大きかったです。レコードを聴くにしても、さかのぼって昔のジャズやブルース、ゴスペルを聴いて参考にしたほうが、いまの難しいことをやっているものを聴くよりは、いい結果が得られると思います。

—  今日は本当にありがとうございました。

山口研生さん/ピアニスト/ドイツ・ベルリン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はドイツ・ベルリンでピアニストとしてご活躍中の山口研生(ヤマグチケンセイ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2008年5月)


ー山口研生さんプロフィールー

山口研生さん
山口研生さん

1969年生まれ。東京都出身。5歳よりピアノを始める。桐朋学園大学音楽学部卒業。92年DAAD(ドイツ学術交流会)奨学金を受け渡欧。ベルリン芸術大学卒業。これまで江戸弘子、柴沼尚子、エーリッヒ・アンドレアス、パスカル・ドヴァイヨンの各氏に師事。98年ポルト市国際ピアノコンクール第3位(ポルトガル)、99年第28回セニガリア国際ピアノコンクール第1位および室内楽賞受賞(イタリア)。2000年には、コンクール優勝経験をもつピアニストのみが参加する第11回モンテカルロ国際ピアノコンクール(モナコ)に優勝し、注目を集める。現在ベルリンを拠点に、ヨーロッパ、アメリカ、日本各地において独奏の他、室内楽など多方面にわたり活動している。



—  初めに簡単な略歴を教えてください。

山口 5歳でピアノを始めて、高校から桐朋学園へ進学し、大学にも4年間行きました。大学卒業後すぐにドイツに留学し、1992年にベルリン芸術大学に入学しました。

—  もともとご両親が音楽をされていたんですか?

山口 父がクラシック音楽を非常に好んでいました。私が生まれたときには、もう家にアップライトのピアノがありまして、それを父が弾いていました。それから姉がいるんですが、姉はいやいやピアノをやっていましたね。私はといえば、家族の二人が弾いていたので、物心ついたときには勝手に弾き始めていたようです。それを見た親が、この子は興味があるんだな、思ったようで、5歳くらいになったら近所のピアノの先生に見てもらおうか、ということで近所の先生のところに通うようになりました。

—  近所の先生というのは?

山口 すぐ近くの美大生のところに1年程通いました。それがピアノを始めたきっかけです。

—  楽しかったですか?

山口 楽しかったですね。5歳のときなのであまり覚えていませんが(笑)、イヤだと思ったことはないですね。日本でみなさんがやるようにバイエルから始めたのですが、進み方が早かったようでわりとすぐに終わって、ブルグミュラーやソナチネで練習していました。

—  そうなんですか。

山口 それで、父がすごくクラシックの音楽が好きなので、ラジオで流れている曲をカセットに録ったりして。それで、父も専門家ではないのでわからなくて、父が私に弾かせたい曲を楽譜を買ってきて与えるわけです。まだバイエルをやっていたときにショパンの協奏曲とかのベートーベン協奏曲とか……。それを弾けって言うんです(笑)。

—  すごいですね(笑)。

山口 ええ。でも、それが今の初見力に繋がっている気がします。

ベルリンで活躍中
ベルリンで活躍中

—  「できるわけない」とは思わなかったんですか?

山口 ショパンの曲の最初の何小節かを一生懸命弾いたりしましたね。

—  もともと家の中にクラッシックがあったんですね。

山口 ええ、そうですね。それで、それが嫌ではなかったんです。でも、子どもですから1年に1回くらい、嫌だなと思うこともあって、そういうときには、喝が入るんです(笑)。ピアノの鍵をかけられてしまったりとか…(笑)。そこで喜んでしまえれば良かったんですが、そうではなかったんですね。

—  一般的に中学生や高校生になるとロックやポップに興味がいくと思うんですが、そういう中でクラッシックをやり続けていたんですか?

山口 そうですね。全然疑問に感じていなかったです。もちろんテレビやラジオではそういった音楽もあふれていたんですが、特に他の方面には興味を示さなかったんです。ただ、姉はクラッシックに限らず、割と幅広く音楽を聴いていたので、日本のポップスなどを聴く機会はありました。

—  お姉様はまだ音楽をされているんですか?

山口 確か家にはピアノがあって、娘が二人いるんですが、上の子がブラスバンドをしていると聞きました。

—  音楽に興味がある家系なんですね。

山口 そうですね。親戚にも合唱団で歌っている人がいますし、父も合唱団をやっていましたし、ギターも弾きましたね。

—  家族でアンサンブルをしようと思えば出来るんですね。

山口 といいますか、していました(笑)。家に歌の楽譜があって、姉や父が歌うのを伴奏していましたね。それこそ、今やっていることと同じじゃん!って話ですが(笑)。だから、教育云々ではなくて、自然とそういうことが身に付いていた環境でしたね。今、振り返ると、生活していく中に自然と音楽がありましたね。

コンチェルトを奏でる
コンチェルトを奏でる

—  山口さんはソロですか?

山口 基本的にはずっとソロです。伴奏はソロと同時にしていて、それを今もしているという感じです。そのときにしていたことが全部、今の仕事になっている感じです。高校には作曲科というのもあったので、そこの連中が作った曲を弾いたりもしていました。ベルリンでもまったく同じことをしていましたね。

—  ベルリン芸術大学にはどういったきっかけで行かれたんですか?

山口 大学生になったくらいから漠然と留学したいなという希望があって、ただどこがいいのか分からなかったので、いろいろな人に話を聞いていたんです。それから桐朋には海外から先生をお招きして公開講座をしていただくというシステムがその当時あって、それをかなり活用していました。当時ついていた実技の先生もそれを勧めてくださったので、あらゆる先生のレッスンを受けました。アメリカからいらっしゃる先生もいれば、フランス、ロシア、ドイツ、イギリスと……それで、どこに留学するか迷っていました。

—  それはプライベートレッスンですか? それとも桐朋のマスタークラスのような感じですか?

山口 両方ありました。全て公開レッスンでした。

—  なるほど。それでいろんな先生のレッスンを受けて、どのようにベルリンに決めていかれたのですか?

山口 留学を考えたときに、現実的に費用の問題があって、両親からも奨学金を取れたら行っていいよ、と言われていたんです。それで、たくさんの奨学金制度に申し込んだんです。その中にDAAD(デーアーアーデー)というドイツ学術交流会のものもありました。それで、それらを申し込んでいるときに私が最初についたアンドレアスという先生が桐朋に来ていたんです。それでレッスンを受けて、そのときに日本の実技の先生が「彼に決めちゃいなさいよ」、と「あなたの弱点を全部おっしゃってたよ」、と。それで、僕もこれだ!とピンときていたわけではないんですが(笑)、そうだよなっ、という感じだったんです。

—  なるほど。

山口 それから、その数年前の20歳のときに、国際コンクールで初めてヨーロッパに行き、当時はまだ将来的にベルリンに行くなんて予想もしていなかったんですが、以前から留学していた友人がベルリンにいたので、どういったところか様子を見てきた経験があったんです。ベルリンの壁があいたのが1989年、その翌年、1990年、大学3年生のときでした。

—  ええ、ええ。

山口 コンクール自体はベルギーだったんですが、そこからベルリンの友人のところに列車に乗って行き、1か月くらい時間をとってヨーロッパを見て回りました。コンクールはとりあえず出てみて、という感じで、実技の先生にもコンクールよりヨーロッパがどういうものか見てきなさいと言われていたんです。

—  その経験もあって、ベルリンを選んだんですね。それですぐに受験されたんですか?

山口 いえ、日本の大学の卒業が3月で、アンドレアス先生に電話で奨学金を受けたことを話したら、「じゃあ、僕が推薦状を書きましょう」って言ってくださったんです。だから、ものすごくタイミングが良かったですね。そういうタイミングってすごく大切だなと思いました。

—  それで、奨学金を受けられたんですね。

山口 他は全部落ちてしまったんですが、めでたくDAADの奨学金だけ取れたんです。それで、1年間奨学金がもらえることになって、親への言い訳もできて、留学することになったんです。DAADの奨学金というのは最初の4か月だけ語学研修が出来るんです。フライブルクというところにありました。それに参加するために5月に出発しました。6、7、8、9月と滞在して、その間にベルリンとフライブルクを往復して、入試を受け、10月からベルリンに通うことになりました。

パスカル・ドゥヴァイヨン先生と
パスカル・ドゥヴァイヨン先生と

—  ベルリンの学校にはどのくらい通ったんですか?

山口 ベルリン芸術大学は本来5年間なんですが、日本の大学を卒業してから行ったので、日本で取っている学科などの単位が免除になって、ベルリンの大学の5学期目、つまり3年生から始められるんです。やらなければいけなかったのは、一部の学科と合唱でした。学科といってもドイツ語で受けるので大変でしたが、ちょうど同じ時期に高校卒業後にベルリンで高校から行っていた友人が、最初からベルリン芸術大学の講義を受けていて、どっちがいいかというのはその人によると思いました。初めからドイツで受ければ言葉が身に付くのも早いでしょうけど。

—  大学を卒業されてプロで活動されていくわけですが、クラシック音楽をドイツでやっていくのに良い点と悪い点を教えてください。

山口 悪い点を考えてみましたが、特にないんですよね。他の面でドイツの悪いところはいっぱいありますけど(笑)。でもそれを言ったら、どこの国にも悪いところはありますからね。良い点は、クラッシック音楽やそういった文化的なものが身近にあるということですね。日本でクラッシック音楽の演奏会というと、コンサートホールでかしこまってというイメージですが、ドイツではそうではない場所で演奏を聴く機会が非常に多いです。例えば教会やサロン風の空間,宮殿の広間のようなところに音楽があるわけです。

—  やはり身近ですか?

山口 身近ですね。例えば、オペラ劇場にしても、旧東と西を合わせて3か所あって、そこで年中やっているわけです。構えずに気軽に楽しめる良さがあるなと思います。余談ですが、日本でもオペラを楽しめるようにはなってきましたが、それでも来日公演となると、秒ごとにいくらかな?なんて考えてしまって(笑)、気軽ではないですよね。まぁ、経費がかかることなので仕方ないとは思うのですが。

—  ドイツでは演奏をする機会も日本にいるより多いということですよね。

山口 そうですね。そういう教会での演奏など細かい仕事も多いですね。細かいので報酬も笑ってしまうような額だったりしますが(笑)、結局そういう仕事もしていかないと、話が先に繋がっていかないというところはありますよね。

—  小さな仕事もして、仕事の幅を広げていくという感じでしょうか?

山口 私はそういう風にやってきましたね。

ドイツの湖畔で
ドイツの湖畔で

—  様々な国がある中でドイツを留学先にすることで重要だなと思われることはありますか?

山口 近道ではあると思います。やはりドイツ語をマスターするということは大切だと思うんです。それはいかにドイツ語圏の作曲家のレパートリーが重要視されているかということに繋がるんですが、バッハから始まり、モーツァルト、ベートーヴェン、ロマン派ではシューマン、ブラームス、そういった作曲家たちが喋っていた言葉なので、それを知るというのはすごく近道だと思うんです。

—  本質に直に触れられるような感じなんでしょうか?

山口 そういう環境でもあると思います。例えば、ベルリンは少し車で郊外に出ると、15分や20分で湖や森のある場所に出られるんです。そういうので、イメージがわきやすいということはありますね。

—  なるほど。作曲したときのイメージをを想像して演奏できるということですか?

山口 そうですね。東京にいてシューベルトを弾きたいと思っても、どうイメージして弾いたらよいのか分からなかったんです。

—  高層ビルを見てもイメージはわきにくそうですもんね。

山口 ははは(笑)。でも、のちに日本を旅をして日本でもそういうところはあるなとわかったんですが。ただ、私は東京生まれの東京育ちなので、そういった意味ではドイツに与えてもらったものは大きいなと思います。

—  他に何かドイツと日本の違いはありますか?

山口 時間の感覚がゆったりしていますね。逆にとろい(笑)。早くして、と感じることもあります。私は最近、日本の機能的なところがすごく好きですね。みんなちゃんと仕事してるな、みたいな(笑)。それは国を離れてみて、初めて気がつきました。

—  その後、ドイツで仕事をされていくわけですが、日本人がドイツで仕事をするにあたって、有利な点、不利な点ってあるんでしょうか?

山口 私は伴奏の仕事をよくするんですが、同僚には日本人が大変多いです。それは日本人の協調性が買われているんじゃないかなと感じますね。アンサンブルっていうのは、やはり1人ではできないので。その点は有利な点と言えると思います。それからドイツで、日本人っていうと、だいたい印象がいいですね。

—  へー、そうなんですか。

山口 そうですね、良い印象を持ってくれる人が多いです。反対に悪い点は、「日本人なんかにクラッシックができるか」みたいな人もなかにはいるんですよ。実際に私の先生も言っていたのですが、コンクールの審査員に行くと、「日本人に分かるわけがない」と言う人もいるようです。

—  あからさまにですか?

山口 はい。もう演奏を聴いてもいないそうです。そういうこともあるようです。

—  そのあたりはかなり不利な点ですね。

山口 でも、どんどん変わってきているとは思います。実際に能力さえあれば、彼らが耳を貸してくれることも多いです。最近、日本人はだんだん数が減ってきているのですが、韓国人の方が増えていて、しかもとても優秀です。韓国の評判は良くなってきていますね。

—  そうなんですね。

山口 私の通ったベルリン音大なんて、大学名を略してアルファベットで“UdK”(ウー・デー・カー)と書くんですが、そういう人たちが”Unterkunft der Koreaner(ウンタークンフト デア コレアーナー)”、つまり韓国人の宿泊所だなんて、冗談を言ったりするんですよ(笑)。

—  そんなに多いんですね。

山口 多いです。音大もそうですが、例えば夏のフランスで行われるクールシュベールの講習会が夏休みと重なることもあって、来る人が非常に多いですね。

—  日本人よりも多いですか?

山口 そうですね。そういう印象です。他の国はどうか分かりませんが、ドイツへの留学生は楽器に関わらず増えていますね。

Image —  山口さんにとってクラッシックとは何ですか?

山口 人の言葉になってしまうんですが、私が最近とても気に入っている南米ブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスが言ったことなんですが、音楽というのは、返事を期待しない手紙のようなものだと。要するに未来の自分の知らない人、会わない人、どこにいるかもわからないような人に向けたメッセージである、と。その言葉が印象に残っています。

—  ははぁ。なるほど。

山口 それと、父がぼそっと「生きていく上で辛いことがあった時期にふと音楽が流れてきて、すごく癒された、やっぱり頑張って生きてみようかな、って思った」って言ってたんです。

—  素晴らしい言葉ですね。

山口 音楽って、そういうものであると思うんです。やはり演奏者の心、心だけではないですね、すべてがあらわれる気がします。

—  演奏者の状態、心の成熟度、ということですか?

山口 全部出ると思います。具体的にどうとは言えないのですが、今までの経験上、それは確かに人に伝わるものだと思います。

—  人間が深まっていけば深まっていくほど、それが必ず伝わっているという感じなんですね。

山口 はい。

—  逆に表面的にやっていれば、それは伝わらないということですよね。

山口 そうですね。嘘はつけない、ということです。

—  なるほど。それは非常に重い言葉ですね。

山口 多少は捉える人による違いもあると思いますがね。

—  ところで、良い演奏をしたときと、少し調子が悪いなというときと、やはりお客さんの反応は違いますか?

山口 必ずしも一致しませんね。例えばレパートリーでも自分があまり得意ではなく、これでいいのかなと思いながら弾いていたら、評価が良かったということもありましたし、逆に大学のレッスンのときに気持ちよく弾けたのに、先生に「救いようがない」と言われたこともありますし(笑)。具体的な話をすると、ブラームスには特別な思い入れはないのに、必ず良い評価を受けるんです。だからたまにブラームスをやりたいんです(笑)。逆に僕はシューマンがすごく好きなので、あらゆる先生の前で弾いたのですが、自分では気持ちよく弾いたつもりでもみんな同じ怖い顔をするんです(笑)。それ以来、シューマンから逃げていますね。

Image —  今後の目標などを聞かせていただいてもいいですか。

山口 正直なところ、これしか道がないというか、今さら音楽以外は考えられないと言いますか……。生活の安定を考えれば、もっと他にいいこともたくさんあるのでしょうが、道を誤ってしまったというか……(笑)。これしかできないので、これを究めていこうと思っています。それには、何事にも意欲的に幅広く取り組んで行きたいと思います。

—  なるほど。

山口 ソロはもちろん、機会があればオーケストラやいろいろな楽器とのアンサンブルもやっていきたいと思います。脱線しますが、ピアノって一人で弾こうと思えばいくらでもできてしまうわけです。弦楽器だと人と共演する機会も多いですが、ピアノの場合、一人で弾くのだけになってしまう人が周りを見ていても多いんです。それはやはり良くないと思っていて、例えば、ピアノ協奏曲を1つ弾くにしても、共演するオーケストラのそれぞれの楽器をわかっていたほうがいいと思うんです。

—  そうするとソロだけでなく、オケや室内楽など全般的に深めていかれたいということでしょうか?

山口 そうですね。バランスよく、やっていきたいです。

—  プロの音楽家で活躍する条件や秘訣を教えてください。

山口 そうですね、私自身、未だに必死って感じです(笑)。うまく流れに乗れたスーパースターは別ですけど、やっぱりね、大変なんですよ。周りにいた同僚達も、ここ(ベルリン)にいたいのか日本に帰るのか、まずは選択しなければならなかったんです。それで大半は日本に帰って行きました。ただ帰っても生計を立てなければならないので大変なようです。学校で教えようと思っても勤め先がなかなかなかったりね……。

—  なるほど、なるほど。

山口 私の場合は、とにかく実技を究めながら、同時に半分くらい伴奏の仕事などで時間を取られていましたね。ただ、それが向いていたんですね。それに自分が気がつく前に周りが気づいてくれて、自然に仕事ができるようになっていたという状況です。ただ、自分の前に出された仕事はいつも、「はい」と引き受けていました。

—  チャンスは確実にものにしていくということですね。

山口 そうですね。そういうのが億劫な人もいると思うんです。そういう人はソロだけになってしまう。自分のピアノの練習の差し障りになるからということで断ってしまう、それは人それぞれだと思いますが、私は人との交流は大切だと思いますね。私の場合は、そうしているうちに、ベルリン芸大ヴァイオリン講師のマリアンネ ベトヒャーという人が現れて、ある日、講習会で予定していたピアニストが出来なくなってしまったからやってくれないかと急に頼まれて、その仕事が次の仕事に広がっていきましたから。彼女自身もコンサートをしているので、サポートもしますし、そこからも新たな仕事にも繋がっていきます。

—  宣伝もしてくれるでしょうしね(笑)。

山口 そうなんです。それで、彼女はもちろん演奏も素晴らしいのですが、そういうことに関してものすごく才能があるんです。彼女を見ていると、こうやって演奏家をしていくんだ、と思います。ものすごいアピールをしますから。それでまた彼女は人柄も良いので、彼女の人柄を信頼して仕事に繋がっていくんでしょうね。

—  人柄も良くて、アピールもできるんですね。でも、そういう人とずっとやっていけるというのは、山口さんにとってもすごくチャンスですよね。

山口 そうなんです。それで、私の師事していたドヴァイヨンが、「キャリアを築きたいなら練習なんてしてちゃだめで、電話の前に座ってなきゃ」って冗談で言うんですが、それは半分は当たってたりするんですよね。本当はダメですけどね(笑)。

—  でも、それは仕事を取るという意味では当たっていますよね。面白いですね(笑)。

山口 そうですね。はははは(笑)。

Image —  海外に留学しようとしている読者にアドバイスをお願いします。

山口 やはり留学というのはせっかくの機会ですし、それを実現するための周囲の援助は多大なものです。そういう機会を与えられたのだから、何事にも貪欲に、間違いを怖れずに挑戦していくのがいいと思います。日本だと間違いはタブーという傾向があるけど、ドイツは割と間違いに寛大なところがあります。やはり間違いがないと学ばないと思うんです。

—  ええ、ええ。

山口 それから、大切なのは、成功することを第一の目標と考えない、目標の定め方が重要になってくると思います。留学する国によっても傾向が違ってくるのかもしれませんが……。この前、友人が留学する国によって演奏の仕方に傾向があると言っていました。アメリカの場合、自分を前に出す、自分のキャリアを考えてやっていく、それが演奏に現れている、と。ドイツはまったくそんなことはなくて、私の場合、またこんなところからやり直すの?という感じでした。本当に基礎的なことから学び直しましたね。

—  今日は素晴らしいお話を本当にありがとうございました。

植村理葉さん/バイオリニスト/ドイツ・ベルリン

植村理葉さんプロフィールー

バイオリニスト植村理葉さん
バイオリニスト植村理葉さん

桐朋女子高等学校音楽科を卒業し、ケルン音楽大学でイゴール・オジム氏に師事。文化庁芸術家在外研修員(3年派遣)として研鑚を積み、最優秀成績で卒業。ローザンヌ音楽院ではピエール・アモワイヤル氏に師事、首席で卒業。多くの指揮者に認められ、ヨーロッパでのオーケストラとの協演は80回を超える。ケルン室内オーケストラ、プラハ・シンフォニエッタ、州立ハレ・フィルハーモニー管弦楽団などとも協演し、ドイツやサンクトペテルブルクの音楽祭にも数多く招かれている。また、ドイツ国内主要ホールでのコンサートツアーで演奏したシューマンの協奏曲は、ドイツ・ソニーからCDも発売されている。
全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門小学生の部全国1位、ミケランジェロ・アバド国際コンクール優勝、レオポルド・モーツァルト国際コンクールでは最高位に加えモーツァルト特別賞を受賞、第15回新日鉄音楽賞フレッシュ・アーティスト賞を受賞、他数多くの受賞経歴を持つ。



-はじめにこれまでの経歴を教えてください。

植村 4歳でヴァイオリンを始めて、小学校5年生のときに毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクールで優勝しました。高校は桐朋の音楽科に入学し、3年生のときに毎コンで2位になって、翌年、卒業後にケルンに留学してイゴール・オジム先生に師事しました。海外のミケランジェロ・アバドのコンクールで優勝、モーツァルトコンクールで最高位に入賞しました。また、第15回新日鉄音楽賞フレッシュ・アーティスト賞を受賞しました。ケルン音大も含めてケルンに6年いた後、スイスのローザンヌでピエール・アモワイヤル氏に師事し、その後、今から8年ぐらい前にベルリンに来ました。ケルン音大にいた頃から、運よくオーケストラでソリストとして招待されることが多くなり、そのほとんどが定期演奏会で80回ほどになります。

-ヴァイオリンを始めたきっかけは何ですか?

植村 母が「ヴァイオリンを弾いてみる?」って言ってくれて、私はすぐに「やる!」って・・・・。

-そうすると、お母様もヴァイオリンをされているんですか?

植村 いえ。専攻は音楽学だったんですけれど、母はヴァイオリンではなくピアノです。私の手も母と同じで小さいだろうっていうことで、将来的なことも考えてヴァイオリンを勧めてくれたようです。家にはピアノがあったので、ピアノには慣れ親しんでいたと思います。

-ご自身は子どもの頃、ヴァイオリンとピアノどちらが好きでしたか?

植村 どちらがということはあまり記憶にないですが、ヴァイオリンが単旋律なのに比べて、ピアノは一人で全部奏ける曲がほとんどなので、そういう意味でピアノもすごく好きでした。違うものとしてピアノは楽しく奏いていた気がします。

-現在でもピアノは併行して奏いてらっしゃるんですか?

植村 ピアノは、小さい頃からずっと母に習っていましたし、桐朋でもケルン音大でも副科でピアノをとっていました。ケルンにいた頃は家にピアノもありましたし。その後、ローザンヌに行ってからは、副科ではなかったんですけれども、学校のレッスン室にピアノがあったのでそれを奏いていました。卒業後は学校のレッスン室も使えない状況になり、家にもピアノをおいていなかったのでだんだん遠ざかってしまいましたが、また奏きたいですね。

-ヴァイオリンを始めた頃、将来は外国に行こうと思っていらっしゃいましたか?

植村 そうですね。はっきり覚えているのは「ヴァイオリンを始めたい?」って母に聞かれたときに、パーッと自分のイメージで思い浮かんだのが、オーケストラをバックに大きな会場でソロで奏いているっていう光景でした。

-その頃からイメージされていたんですね。

オケをバックに
オケをバックに

植村 多分、テレビでそういう番組を見たことがあったんだと思います。それで、オーケストラをバックに奏くということしか考え付かなかったのかなと(笑)。

-それでも、いつかプロとして、と思っていたんですね。

植村 ヴァイオリンをやるということは、ソリストとしてやっていくということだ、と疑いもなく思っていましたね。

-クラシックに興味を持ったきっかけは何ですか? 身のまわりにクラシックがあったからでしょうか?

植村 そうですね。音楽といえばクラシックが普通だと思っていて。

-他のジャンルに気が移るということはなかったですか?

植村 なかったですね。あんまりしっくりこなかったといいますか・・・・、たとえば小学校に入ってクラスの人たちが歌っていたり、すごく古い話ですが、トップテンを見ていましたけど、それはそれで単なる娯楽という感じで、好んで聴くということはしなかったです。

-留学を具体的に考えたのはいつ頃ですか?

植村 少なくとも高校に入った頃には考え始めました。

-当時、留学は珍しいですよね。

植村 そうですね。今は、高校でも大学でも留学は増えていますよね。私は外国に早く出たかったし、やっぱり自分で独立して勉強したいっていう気持ちが強くありました。

-どうしてドイツを選んだんですか?

植村 実は最初はニューヨークを考えていたんです。当時はソリストといえばジュリアードで学ぶというのが主流だったんです。それでアスペン音楽祭に
高校のときに行きましたら、先生も良かったですし、なんの疑いもなくジュリアードに行こうと思っていました。

-それがどうしてドイツになったんですか?

植村 高校3年生のときに、桐朋に教えにいらしていたオジム先生のレッスンを受けたんです。それがすごく良かったんですね。確か10月か11月だったと思うんですが、そのときからジュリアードよりも、オジム先生の教えてらっしゃるドイツへの留学を急に考え始めました。

-急に変更したんですね。

植村 はい。桐朋では第二外国語を選択できたのですが、それまではドイツに行くということが全然頭になかったので、フランス語をとっていたくらいだったんです(笑)。でも、音楽を学ぶのだったらヨーロッパがいいという考え方もあることも手伝い、急遽ドイツへの留学を決めました。結局、ドイツ語も全然できない状態でドイツに発ちました。

-ドイツに行きたいというよりはオジム先生につきたくて、ドイツに決めたという感じでしょうか?

植村 そうですね。ほんとに。

-先生との出会いというのは大事なんですね。

植村 そうですね。先生というのはすごく大事だと思います。それから先生との相性も大切なことだと思います。

-学校に入ってから先生を探すより、事前に探したほうがいいと思いますか?

植村 そうですね。できれば講習会などで実際に習ってみるのが一番いいと思います。いい先生はたくさんいますが、自分との相性がいいかどうかはまた別の話だと思いますので。レッスンを実際に受けてから決めるのがいいと思います。すごく人気のある先生で、生徒もいっぱい持っていて、という状況であれば、その先生ときちんと話し合って、例えば個人レッスンを受けながら順番を待って、その間に語学準備をするのがお勧めです。

-何よりも先生が大事ということですね。

植村 もちろん外国に来てから先生とコンタクトを取った方で、いい先生にめぐり会えた方もいらっしゃると思います。またその人自身、先生も大事だけれどどうしてもそこの場所で学びたい、という他の強い目的を持っていれば、またちょっと違うかもしれないです。それでも、やっぱり先生との相性というのはとても大事だと思いますね。


-オジム先生との出会いは貴重だったんですね。

植村 そうですね。出会えてラッキーだったと思います。もし、出会っていなくて、ニューヨークに行っていたら、また違う人生だっただろうなって思いますね。具体的には想像できないですけれど……。

-ケルンに行かれる前に長期でご留学されたことはあるんですか?

植村 ないです。アスペン音楽祭に2週間か3週間行ったくらいですね。

-先ほど、ドイツ語をまったく話せない状態で留学された、という話があったんですが、不安ではありませんでしたか?

植村 オジム先生はすごく英語がお上手で、英語をどんどんしゃべる方なので、レッスンでのコミュニケーションにはあまり不安を感じませんでした。行く前の不安というよりは、行った後の大変さのほうが(笑)。

-実際に行ってみて何が大変でしたか?

植村 一人暮らしも初めてでしたし、気候も東京に比べるとずっと北のほうなので、暗くて陽が差さないんです。それに、当時は日本に比べて、お店にかわいいものや素敵なものが全然ないんですよ。たかがそんなことっていう感じですが(笑)、一人暮らしで気分転換に街に出てもすてきなものとかがなくて、探し上手な人だったら、いいものを見つけ出したりするのかもしれないですけど、パッと見てかわいいものが何もない状態だったから、気分も暗くなってしまうんです。そういう面でもとても気が滅入ってしまって……。でも、そんなときでも、すごく熱心に教えて下さった先生がいたから乗り越えられたんです。

-なるほど。

植村 もともと現地に友達がいる人は別かもしれないですけど、そういう意味でも先生は大事だなと思いました。海外生活という慣れない状況に加えて、先生との相性でも辛い思いをしてしまうのは大変だと思います。今はインターネットも普及していますし、あの頃とは比べものにならないほど、気が滅入らない環境にはなっているとは思うんですけどね。

-それで、ケルンに6年滞在されて、そのあとスイスに行かれたんですよね。スイスに行かれたのはどうしてですか?

植村 日本では高校だけ卒業して留学したので、ケルン音大では授業を全部取らなきゃいけなかったんです。それが終わって、ケルンでの学業を終える頃に、次にまたちょっと違う先生に習いたいと思ったんですね。それで講習会に参加して、3人ぐらいの先生のレッスンを受けたら、どの先生も素晴らしい方だったので、どこに行っても自分は満足だなと思っていたんですが、一番先にとんとん拍子に話がついて、気がついたら決まっていたのがローザンヌだったんです。ローザンヌの学校には2年間通いました。ケルンのソリストコースは、ローザンヌに行ってからも併行して通い、試験を受けて卒業しました。

-学校はどちらだったんですか?

植村 ローザンヌのコンセルヴァトワールです。先生はピエール・アモワイヤル、ソリストとして活躍していらっしゃる方です。

-ドイツとスイスの音楽的な違いはありましたか?

植村 違いはかなり感じました。やはりドイツは昔から作曲家がたくさん出ていますし、すごく音楽的な街だなと感じていました。スイスももちろん作曲家を出していますが、ドイツに比べると数も違いますし、歴史も違うので、音楽的にはニュートラルな印象を受けましたね。そんなに強い音楽的要素を感じることはなかったです。でも、すごくきれいなところなんですよね、ローザンヌは。自然が美しくて。

-ええ、ええ。

植村 ケルンで様式感を重点的に習った後で、先生もソリストの立場から教えてくださったということも、よかったですし、スイスの方はわりと気さくで明るい方達ばかりでしたので、人間関係にも恵まれ、楽しく過ごす事ができました。スイスにいる間は、せっかくローザンヌに来たのだし、先生の教えは貴重だ、そう思いながらやっていましたね。ただドイツに帰りたいという気持ちは変わらずに強かったので、学校が終わると、またベルリンに戻ったんです。

-そのときは、ケルンではなくてベルリンにされたんですね。

植村 ケルンに住んでいた頃にベルリンに行ったことがあり、そのときにすごく街が気に入ったんですね。そしたら縁があって、またいい先生にめぐり会って、その方がベルリンにお住まいでした。

-その後、ベルリンに8年くらいいらっしゃるんですよね。

植村 ローザンヌの学校が終わってからですから、9年ぐらいですね。

ドイツの新聞にも掲載
ドイツの新聞にも掲載

-ドイツでクラシックを学ぶにあたって良い点や悪い点、日本と違うところなどあるかと思いますが、そういったところを教えてください。まず、良い点はありますか?

植村 先ほどもお話したように、ドイツは作曲家もたくさん出していることもあって、音楽の大事な面というのが学べると思います。例えば、極端に言えばソリスティックに弾くという面よりも日常の生活からも音楽的なことを学ぶことのできる国だと思います。

-なるほど。

植村 オーケストラも州立や国立のオーケストラがいくつもあって、すごくいい響きですし、クラッシック音楽が、昔から歴史があって根付いているので、音楽家の立場や地位がしっかりしていると感じます。演奏を気に入って下さればソリストして使ってくれるところも良い点だと思います。

-そういったチャンスが多いということでしょうか?

植村 何がチャンスになるかは、それぞれの性格で違うと思いますが、わりと公平に見て下さり、演奏さえ気に入ってくれれば使って下さるというところがあります。何も持ってない者にとってはありがたいですね。

-他のものを持っていないとはどういうことですか?

植村 例えば、紹介がなくてもとにかく演奏を気に入ってくれればソリストとして招待してくださるということです。

-反対に悪い点はありますか?

植村 考えてみたんですけど、悪い点は分からないです。

-日本と違う点はありますか?

植村 そうですね。仕事の依頼のときにドイツだと「いくらで奏いてくれますか?」とか「いくら要求する?」ということをはっきり聞いてくるんですよね。たぶんドイツがいちばん顕著だと思うんですが、そこが一番日本と違いますね。直接的なんですけど、そういう言い方をしてくれるので、こちらも気をもんだり、心配しないで済むんです(笑)。

-まず値段だけ聞いてくるのですか?

植村 いえ(笑)。「何月何日にどこで奏くのをいくらで奏いていただけますか?」という感じです。我々にとってはすごくありがたいです。

-重要なことですよね。でも、おもしろいですね。

植村 ドイツの人というのは、ざっくばらんというか、ほんとに直接的に事務的にコミュニケーションとる人達だと思います。

-日本はそういうわけにはいかないですよね。

植村 そうですよね。そこは難しいなと思ってしまいますね。私があまり気をまわすことが得意じゃないからかもしれないですけど(笑)。

-ドイツで仕事をするにあたって日本人が有利な点はありますか?

植村 日本人だから、有利だったとか不利だったとか感じたことはないです。

-語学が堪能だからでしょうか?

植村 いえいえ、ドイツ語は全然堪能でないですよ。

-では、言葉で不便を感じたことはありませんか?

植村 最初の頃はありましたね。オジム先生は英語が得意だったとはいえ、英語でコミュニケーションとるわけです。例えば、レッスンの日にちを変更してもらうときに、どうして日にちを動かしたいのかを言葉を尽くして説明しなければいけないのに、丁寧に伝えられなかったりして、こんな時は、もっときちんと伝えられればいいのになぁ、と思うことはありましたね。

-ええ、ええ。

植村 でも、話を聞かない人だったら仕方がないのですが、話を聞いて下さる方だったら、語学が堪能でなくても誠実に伝えようという気持ちで話せば、それはそれで伝わるので、なんとかなると思います。逆にいえば、私にとっては日本語のコミュニケーションの方がすごく難しいです。もちろん日本語はネイティブですが、日本語でも苦労する面がたくさんあります。だから、そういう意味では、何語だからどうということではないように思います。英語だったから…とか、ドイツ語だったから…と感じたことはありません。すべての言語においてそれぞれ苦労するな、っていうのはありますけれども(笑)。

-それでも仕事を見つけるにあたって、言語が有利に働いたり、不利に働いたりはしませんでしたか?

植村 どうでしょうね。広くいえば語学力に含まれるのかもしれませんが、どれだけ機転をまわせるかとか、どれだけ自分の主張を言えるか、っていうところで苦労しました。でもそれは、語学力というよりもその手前の段階の問題だろうなと思うことがあります。

-なるほど。

植村 もちろん、そこをクリアした上で、語学力が足りなくてっていう段階まで来ている人であれば、語学の問題になってしまうと思うんですけどね。でも、そこまで来ていれば、必要に応じて語学もできるようになると思うんです。だから、語学は出来るに越したことはないですけれども、私自身はそれ以前にコミュニケーションの取り方とか、語学以前の問題が大きいので、その部分も大事かなと思います。

-やはりドイツでは自己主張もはっきりしていかないと難しいでしょうか?

植村 そうですね、自己主張は必要ですね。少なくとも謙遜はしない方がいいと思います。自分がしていることよりも低く言うようなことはしない方がいいですね。どうしても日本人は謙遜が染み付いているから難しいとは思いますが……。私も今でも反省することがいっぱいあるんです。

-やはり、そうなんですね。

植村 でも、逆にいえば、言葉通りのことが多いのですごくわかりやすいことは確かですね。それはスイスに行ったときに感じました。スイスはドイツに比べてもう少し社交的というか、言っていることがそのままというわけじゃないことがあるんです。社交上はそう言ったけど直接そういう意味ではなくて、他のことを意味している、ということが結構あって、スイスにいた頃は、それを身につけるのがかなり難しいなと思っていたんです。それに比べると、ドイツはすごく単純で、言っていることがそのままだし、ズバズバ言ってくれて、また、わからないことがあればはっきり質問してきます。逆にコミュニケーションがすごく取り易いですね。

-分かりやすい国民性なんですね。

植村 そうですね。

-今のお仕事を見つけたきっかけを教えてください。

植村 クラシッシェ・フィルハーモニー・ボンというオーケストラがボンにあって、ケルンにいた頃にそこでソリストとして使って下さったのが最初です。そのオーケストラは、ドイツ中の主要ホールでツアーするオーケストラだったので、大ホールでたくさん奏けて、良かったと思っています。一回ソロで弾いて、また次も指揮者が呼んで下さって、ということで繋がり、また、他のオーケストラでは客演指揮者のときに弾いて、その方が彼自身のオーケストラのところに呼んで下さったりすることもありました。そんなふうに繋がってここまできているので、とても良かったと思います。

-ソリストはオーディションで選ばれるわけではないんですね。

植村 オーディションで公募はしていないです。少なくとも私は聞いたことないですね。クラシッシェ・フィルハーモニー・ボンのオーケストラで奏いていた人達は、のちのちベルリン・フィルのオーケストラの団員になったり、他のオーケストラのコンサートマスターになったりと、素晴らしい方が多かったです。そのオーケストラをバックにたくさんの経験を積めたことがありがたいことだったと思います。

-素晴らしいご経験ですよね。日本でオーケストラと協演されたことはございますか?

植村 名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会や、東京フィルハーモニー交響楽団とパガニーニのコンツェルト、群馬交響楽団などとも協演しました。でも、回数はドイツでのほうが圧倒的に多いです。

新聞でチャイコの批評
新聞でチャイコの批評

-日本人とドイツ人、どちらが演奏しやすいと感じますか?

植村 お互いに思っていることかもしれないですけど、日本人だとあんまり主張がみえてこないので、お互い見合っちゃうんですよね。どうしたらいいのって感じになっちゃうことがあって(笑)。ドイツのオーケストラだと、パワーがあってこういう音楽をするっていうのが伝わってくるので、そうやってくるんだったら私はこうやりかえす、みたいな感じで、相乗効果でどんどんいい音楽になっていくんです。ドイツのオーケストラですと、本場ならではの土台がしっかりあるから、そういう意味で奏きやすいです。日本のオーケストラも、なんというか・・・キメ細やかですね。外国で学んできている人が多くなってきていることもあるのか、すばらしい演奏も増えていると思います。

-やはり国民性みたいなものが音楽にも表れるのでしょうかね。

植村 そうかもしれないいですね。ただ、ちょっと不思議というか、どうしてなんだろうって考えることがあるんです。日本人はわりと和を大切にするので、みんなが一緒に弾くオーケストラが向いていて、自己主張の強いドイツ人はソリストが向いていると思うんですが、でも実際は、ドイツ人がソリストとして奏くよりもオケで奏くほうが得意、日本人はどちらかと言えば、ソロのほうが得意なような気がします。そこは矛盾しているなって、ときどき疑問に思うんですよ。

-そうですね。おもしろいですね。どうしてでしょう?

植村 もしかしたら、みんなと一緒に合わせようとする和の気持ちが強過ぎると、音楽的な自己主張が引っ込んでしまって、結果としてはオケの「響きあう」ということに繋がらないのかなとも思います。

-今後もソリストとしてオーケストラと協演していく予定ですか?

植村 そうですね。今後とも日本でも海外でもソリストとして活動する演奏家であり続けたいです。

-他に今後されたいことは何かありますか?

植村 去年まで3年間、毎日新聞社の学生音楽コンクールで審査員をしていたんですけれど、小学生、中学生、高校生の演奏を聴いて、私がこれまで学んできたことを伝える、ということもしていきたいと思いました。日本で演奏会があるときなどは日本におりますので、そのときは直接教えて、いないときはアシスタントに見てもらうといった形をとっていけないか、考えています。

-音楽的な夢はありますか?

植村 真剣に取り組めて、時間も十分作れて、音楽的に相性のいい人達が集まれたら、ベートーヴェンのカルテットの全曲演奏をしたいというのが夢です。ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタは10曲あるんですけれど、その10曲全てを演奏するツィクルスを三周したんですよ。それで今度11月に朝日カルチャーセンターでまた一番から奏くのですが、何回奏いてもベートーヴェンのソナタは奏き足らないというか、魅力が尽きなくて……。あるとき、結局これはカルテットにつながっていくものなんだなと思ったんです。ただ、カルテットはメンバーの音楽的相性がとても重要で、合わせの時間もたくさん必要なので、4人とも共通した時間がやりくりできて、4人とも集まりやすい場所にいるかということが大事なので、すごく難しいと思うんです。でも、いつか実現できればすごいことだと思います。

-実現できるといいですね。

植村 はい、本当に「夢」ですね。

-植村さんにとって、音楽とはいったい何ですか?

植村 それを一言で申し上げるのはとても難しいのですけれども、私が演奏会で心がけていることは、作曲家のなかで何が鳴っていたか、何が言いたかったかを伝えるということです。そして音楽が一番生きる演奏をするのが理想だと思っていて、そうすることによってコンサートで聴衆の皆様に伝わるようにと思っています。演奏会のときはいつも作曲家が感じた世界や考えた世界を生きた形でお客さんと共有したいと思っています。

-なるほど。

植村 それから、音楽以外のことをやっている仲の良い友人が何人かいるんですが、その人たちの話を聞いていると、どんな分野でも突き詰めていくと、共通している事が多いと感じます。私はそれを音楽で表現するわけですが、他の分野の人は、表現する方法が違う。もしかしたら、私がしている音楽というのは、表現手段としては比較的表現がしやすいものなのかもしれないとも思います。ただ、表現の仕方が物質みたいな形にはならないので、うやむやにもなりやすいですし、形にならない分、必要ないって思われたり、予算がなければカットされちゃったりする部分でもあるかもしれません。でもだからこそ逆に、専門的とか精通しているとかとは別に、純粋に音楽が好きな人には良い音楽は必要とされているんだなと思ったりもします。私は人前で奏いたりとか、音楽をすることによって自分やまわりのことを考えたりとか、経験を積んだり、また音楽を通していろんな人と知り合い、影響しあっています。つまり、音楽によって、いろいろ精進しています。だから、私にとって、音楽というのは「私の人生の中に入り込んでいること」です。

-素敵なお言葉をありがとうございます。

植村 いえいえ。

-最後にプロを目指している方に、プロで成功する秘訣やアドバイスがあればお願いします。

植村 ドイツでプロとしてやっていくためには、謙遜しないことが大事だと思います。それから留学するにあたっては、相性がいい先生に教わることだと思います。

-いい先生と出会うことは非常に大事なんですね。

植村 はい。私自身、出会いに恵まれてきたことでここまで来れていると思います。先生がいい音楽家であっても、性格的に合わないといったことで苦労してしまうのはもったいないです。苦労しなくていいところで苦労している人を周りでわりと見てきていますので、そういう面で、私はラッキーだったと思っています。

-なるほど。今日は貴重なお話をありがとうございました。

植村 どういたしまして。


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植村理葉さんによる朝日カルチャセンターレクチャー
ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタの魅力を分かち合いたくて、ドイツでソリストとして活躍中の植村理葉が皆様をお誘いいたします。至近距離での演奏をご堪能ください。
日時:2008年11月8日午後1時
場所:新宿住友ビル7階朝日カルチャーセンター
演奏曲目:ベートーヴェン ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第1番、第2番、第3番
詳細リンク:
http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=30602&userflg=0
詳細は:http://www.riyo-uemura.com

金沢多美さん/ピアノデュオ/イスラエル

金沢多美さんプロフィールー

ピアノデュオで活躍中の金沢多美さん
ピアノデュオで活躍中の金沢多美さん

東京都出身。国立音楽大学付属高校卒業。リュエイユ=マルメゾン地方音楽院、パリ国立高等音楽院卒業。ヨーロピアン・モーツァルト財団から奨学金を得てモーツァルト・アカデミーで研鑽を積む。96年にイスラエル人ピアニスト、ユヴァル・アドモニーとデュオ結成。以来、数々の国際コンクールで優勝。2000年東京国際ピアノ・デュオ・コンクール第1位、2001年ローマ・ピアノ・コンクール、デュオ部門第1位受賞、2002年イブラ・グランド・プライズ優勝。2005年大阪国際室内楽フェスタでメニューイン金賞獲得。2008年グリーグ国際ピアノ・コンクール・デュオ部門第1位受賞。2008年にイスラエル文化省より「文化大臣賞」を受賞。現在デュオは、イスラエルを拠点に演奏活動。アジア音楽祭、ブダペスト春の音楽祭、バード・ヘレンハルプ音楽祭、オデッサ・ディアローグ、イスラエル音楽祭等から招聘。イギリスBBC放送、NHK、よみうりテレビ、イスラエル国営放送、BNRブルガリア放送、ブダペスト国営放送等に出演。2008年7月にナクソスからリリースされたリストの交響詩(2台ピアノ版)4曲を収録したCDは、世界各国で放送され、国際的に高い評価を得ている。デュオはイスラエルの芸術高校で教鞭を執り、ピティナ(日本)、韓国国立芸術大学、ノルウェー国立アカデミー等でマスタークラスを行い、後進の指導に力を注いでいる。



-最初に、簡単に略歴を教えてください。

金沢 幼い頃住んでいた所の近所にピアノの先生がいらっしゃって、当時子供がピアノを習うという流行があったこともあって、そこで兄が習い始め、後に私も4歳くらいから習い始めました。それから国立音大付属の小学校に入学しまして、付属の高校まで進みました。高校卒業後パリに留学し、最初の2年間はパリ郊外のリュエイユ=マルメゾン地方音楽院で勉強をし、その後、パリ国立高等音楽院に入学しました。卒業後、進路を迷っている時に、偶然ヨーロピアン・モーツアルト財団のモーツアルト・アカデミーのポスターを見つけたので、そこに申し込んで、奨学金を頂き、プラハで1学期、クラコフで1学年在籍しました。そこで(現在の夫である)イスラエル人のピアニストと知り合い、これからピアノ・デュオでプロとしてやっていこうと決めました。翌年、カナダのバンフ・センターという、プロを目指す人やプロとして活動する人がプロジェクトに専念するために滞在する芸術センターで、デュオを結成するため1年程滞在しました。そこでレパートリーを増やすことに取り組み、コンサートに出演し、録音もしました。それ以来、デュオを専門に演奏しています。98年からイスラエルに住み、演奏活動の他、高校で室内楽やデュオを教え、プライベートではソロのレッスンもしています。

-小学校から音楽の学校に通われましたが、それはご自身の希望ですか?

金沢 いえ、それは自分の意思ではなく、母に“手に職を持つべきだ”という考えがあって、音楽学校に行ったらいいのではないか、と思ったそうです。女の子だし、芸術に触れさせようという考えで、最初から音楽家にしよう、と考えていたわけではないと思いますが……。

-ご自身は普通の公立学校ではない学校に通うことに抵抗はありませんでしたか?

金沢 そうですね。まだ物心もついていませんでしたし、私の小さい頃は“お受験”のようなこともなくのんびりとしていたので、私も何の準備もないまま受験しました。幼稚園を休んで、入試に行ったのですが、“幼稚園を休んでまでどこに行くんだろう?”って思っていました(笑)。

-そうすると、気がついたら音楽の小学校にいた、という感じですね。

金沢 ええ、そうですね。

-その後、高校までピアノを習われていたそうですが、ご留学を考えたのはいつ頃ですか?

金沢 小さな頃から、クラッシック音楽や西洋文化に憧れを抱いていて、ヨーロッパに住んでみたいという夢がありました。小学校の頃のピアノの先生が、ウィーンに留学された方だったのですが、その先生のお話を聞いて、いつかは必ず行きたいと思っていました。音楽系の学校にずっと通っていたので、大学まで進み、卒業したら留学をして……と思っていたのですが、ヴァイオリニストの叔母がいまして、その方に高校3年生のときに相談をしたら、「早く行った方がいいわよ。高校を卒業したら、もう留学したほうがいい」と言われました。そこで、さすがに悩みましたが、両親も私の意思を尊重してくれたので、チャンスがあるなら高校を卒業したらすぐに留学したいと思いました。

-そのとき不安はありませんでしたか?

金沢 もちろん不安はありましたが、それ以上に周りが理解してくれて、行かせてもらえるというこの素晴らしいチャンスへの喜びのほうが大きかったです。

イスラエルで活躍中の金沢さん
イスラエルで活躍中の金沢さん

-フランスを選ばれたことには何か理由があったのですか?

金沢 私の場合、前もって国の音楽事情を調べた末選んだわけではなく、叔母が「私の知り合いがいるから」ということで、フランスに決めたんです。パリはピアノを勉強するのにいい所だし、生活も私がある程度アレンジするからそこに行きなさい、と勧められました。

-そうすると、その叔母さまがほとんどオーガナイズしてくださったんですね。

金沢 始めのうちはそうでしたね。言われたのでそこに飛び込んで行ったという感じです。

-では、留学前に先生に会ったり、レッスンを受ける機会はなかったんですね。

金沢 そう、なかったんですよ(笑)。叔母を100%信頼していましたね。いまどき、こんな方、いらっしゃらないですよね(笑)。

-そうですね(笑)。やはり先生との相性というのもあると思うので……。

金沢 そうですよね。でも、叔母の言葉だけを信じて行ったのですが、始めに入学したリュエイユ=マルメゾン地方音楽院でついた先生は、パリのコンセルヴァトワールを引退なさったルセット・デカーヴ先生という方で、昔はマルグリット・ロンの弟子で、後に彼女のアシスタントを務め、現在のパリの教授達を皆教えたような大御所の先生だったんです。そういうフランス派のピアノ奏法の真髄のような方に教わることができて、本当に幸運だったなぁ、と思っています。

-実際に受けてみて、相性はばっちりだったんですね。

金沢 ばっちりというか……、かわいがっては下さいましたし、私もまっさらの気持ちで行ったので、先生の仰ることなら、と一生懸命勉強していました。留学の形やキャリアの成り立ち方というのは人それぞれですから、こんな乱暴な留学をした人もいたんだ、とご参考になれば嬉しいです(笑)。

-その後、パリ国立高等音楽院に進まれたわけですよね。

金沢 そうですね。デカーヴ先生の勧めもあって、そうしました。

-パリ国立高等音楽院というとヨーロッパではトップクラスの学校ですが、当時の入試の様子など覚えていらっしゃいますか?

金沢 二次試験まであって、一次試験はプログラムAとプログラムBを用意することになっていました。プログラムAはショパンのエチュード1曲とクラッシックまたはロマン派の任意の曲を1曲、Bは別のショパンのエチュード1曲と近代の曲を1曲。それで試験の場で、どちらかのプログラムを弾くよう、審査員から指示がありました。

-当日までわからないんですね。

金沢 そうですね。どちらが当たるかはその場まで分からないので、どちらも用意しておかなければいけませんでした。それが一次試験で、その2週間後に二次試験があるのですが、課題曲は二次試験の1か月前に発表されました。なので、その1か月の間に二次試験の曲も完成させておかなければいけない。私達が入学した年は、バッハのフーガ、ショパンのインプロンプチュ2番、プロコフィエフのソナタ2番の2楽章が課題曲でした。その他に初見のテストがあり、その年はフルートとのアンサンブルでした。

-倍率もものすごいですよね。

金沢 そうですね。競争は厳しいですね。だいたい300名ほど受けて、受かったのが16名でした。でも、フランス人の中にはダメだったらまた来年、と何年も何年もかけて受験する人も多くいました。

-パリ国立高等音楽院の先生探しはしましたか?

金沢 私の場合は、その前にリュエイユ=マルメゾン地方音楽院にいて、デカーヴ先生についていたので、その先生が紹介して下さったブルガリア出身のヴァンシスラフ・ヤンコフ先生という方のクラスに入りました。最初の3年間ヤンコフ先生についた後、先生が引退なさり、引き続いて就任されたパスカル・ドゥヴァイヨン先生に2年間ついて勉強しました。お二人は全くタイプが違いますが、それぞれ素晴らしい演奏家で教育者でもあり、こういった方々について学ぶことができたのはとても恵まれていたと思います。

-当時、日本人の方はどれくらいいましたか?

金沢 結構いましたよ。例えば、私の入った年はピアノ科で日本人が多く、4人いて、他の楽器では、ヴァイオリン一名、フルート一名、ハープ一名、ギター一名いました。他の学年にもピアノ科の他にも弦楽器、管楽器や、作曲科に何人かいて当時から日本人に人気のある学校だったと思います。

-小学校から高校まで日本で音楽を習ってらして、その後、いきなり海外のレッスンを受けたわけですが、日本との違いで驚いたことはありましたか?

金沢 そうですね。驚いたというか感銘を受けたのは、音の響きや音の質に大変繊細な感覚をもって音楽と接し、またそれを具体的に生み出すためのテクニックを教えて頂いたことや、曲の構築性や様式について西洋音楽という自分達の文化として身についていることを教えて下さったことです。特にフランス音楽を勉強したときは、自分達の普段使っている言葉のように自然に知っていることを伝えて下さった、という感じがしました。デカーヴ先生は私が習っているときは既に80歳を越えていたので、フランス音楽の作曲家と直に交遊があったり、それこそフォーレとロマンスがあったようなんです(笑)。それくらいフランス音楽と身近な人達から、教わることができて、そのエッセンスに触れることができた気がします。それはやはり日本では得られなかったことだと思います。あと私にとっては、先生が国際的演奏活動をなさっていて、その現役の演奏家に教わることができる、ということにすごく感動して、実際に演奏されている方からアドバイスを受けると、より実感がわいて信頼できました。

-プロの音楽家として活動されようと思ったのは、この頃からですか?

金沢 漠然とですが、音楽を自分の職業にしていくんだろうな、と思い始めたのは、中学校、高校の頃からだと思います。ただ、どうやったら音楽家になって、それを仕事にできるのか、ということがよく分からなかったですね。パリに来た頃も、よしこれでやっていくんだという決意はありましたが、具体的にどうしていけばいいのかは、分からないままでした。

-ご留学して、より具体的になったりはしましたか?

金沢 才能がある人は沢山いるし、皆が夢を抱いているので、音楽で成功するというのは厳しい世界ですよね。ただ、その頃から私はアンサンブルに向いているな、と思ってはいました。

-そうなんですね。それは、どうしてですか?

金沢 舞台に立つときに一人ではない、ということが心強かったですし、人と合わせて一つの結果にするという作業が楽しくて、それが自分の性分に向いていると感じていました。

イスラエル文化大臣賞授賞式にて
イスラエル文化大臣賞授賞式にて

-現在は、ご主人と2台のピアノ・デュオで活躍されているわけですが、最初にデュオを始めたのはいつからなんですか?

金沢 実は、彼と出会うまではあまりデュオの経験がなかったんです。連弾は小さな頃から弾いていましたが、デュオはあまり経験がなく、どちらかというと他のアンサンブルのほうに興味がありました。でも、彼と恋をしてカップルになって、自分たちはこれから一緒に生活していくという確信があって、そこで、2人ともピアニストとして別々にキャリアを積むよりも共に力を合わせてやっていこう、という考えが彼にあり、デュオとして活動していくことになりました。

-ご主人も金沢さんと出会う前は、あまりデュオの活動をされていなかったんですか?

金沢 そうですね。ただ、彼のほうが少し経験はあったそうです。彼はテル・アヴィヴ大学やロンドンのロイヤル・アカデミーで勉強していた頃、デュオを弾く機会があって、このジャンルの可能性を信じていたようです。

-素敵ですね(笑)。

金沢 いえいえ、実質的なところもあるんですけど……(笑)。

-今までこんなにデュオで活動されたことはない、とおっしゃっていましたが、ソロとの違いやデュオならではの難しさはどんなところにありますか?

金沢 技術的なところで言えば、ピアノは複数の声部を奏でる楽器ですよね。その声部の音色を弾き分けることで、オーケストラのように弾くこともできるわけですが、それが2台になると、声部も倍になるわけです。だから、弾いている時に、自分はどの声部を押しているのか、バランスはどうか、ということを常に意識しなければいけません。そうしないと、ただ音が氾濫しているという状況になってしまうんです。遠近感を持たせるということにすごく気を使います。それは、他の室内楽でも言えることですが、特に同じ楽器でこれだけテクスチュアが厚いと、一つ一つの声部の音量、音質、キャラクター、タッチに意識を集中させて弾かなければならないのです。それは、その分自由さがないと言ってしまえばそうかもしれませんが、自分達で何を築いているのかきちんと分かっていれば、素晴らしい結果が生まれます。2人で作り上げていく作業は、本当に煩雑ですが……。

デュオコンサート
デュオコンサート

-その分、お相手が旦那さまなので、スムーズではないのですか?

金沢 うーん……、皆さん、そうおっしゃってくれるのですが、やはり、仕事に対してはとても厳しいですね。仲良くというわけにはいきません。怒られたり、怒ったり……(笑)。やはり、作り上げて行く作業は、試練があって当然ですよ。でも、私たちはプライベートでもわりと演奏のことに没頭しているので、これで2人が別々のキャリアに進んでいたら、逆に接点がなかったかな、と思うので、2人で一緒に目指すことがあってよかった、と思っています。

-イスラエルの音楽事情を教えてほしいのですが、クラッシックは盛んなところなんですか?

金沢 イスラエルというと日本では紛争の国、危険な所、というイメージがあるかもしれませんね。イスラエルは、中近東に位置するユダヤ人国家で、国家としてはまだ60年しか経っていません。国家としては若いですが、4000年もの歴史があり、ご存知の通りキリストが生誕した所であり、何千年もの離散の末戻って来たユダヤ人の築いた国です。クラシック音楽事情に関しては、ヨーロッパ各国や旧ソ連の各国から移民して来た人達が築いた土壌がきちんとある所なんです。なので、オーケストラもあれば、ホールもあるし、教育システムもきちんとある国です。特に90年代のソビエトの崩壊で、旧ソビエトから多くの音楽家も移民して来ました。そういうこともあって、音楽のレベルはすごく高いと思います。

-ロシア系の音楽がどちらかと言えば、盛んなんですか?

金沢 ロシアだけでなく、ハンガリー、ルーマニア、ポーランドなど、どちらかというと東ヨーロッパの方々が多いですね。ユダヤ人が大半ですが、そういった彼らの優れた特性に触れることができるのもイスラエルならではだと思いますし、それはとても幸せなことだと思います。

-オーケストラも沢山あるんですか?

金沢 そうですね。一番有名なのは、来日公演もするイスラエル・フィルだと思いますが、他にもオーケストラは沢山あります。

-今後、イスラエルのオーケストラに入団したい、という方がいらっしゃるとしたら、比較的簡単に入れるものなのでしょうか?

金沢 どうでしょうか。イスラエル・フィルは、空きがあるとオーディションを開いていますので、海外から来てメンバーとして演奏していらっしゃる方もいますね。

Image-音楽学校は沢山あるんですか?

金沢 大学、アカデミーに属する音楽学校は、テル・アヴィヴにあるテル・アヴィヴ大学ブッフマン・メータ音楽院とエルサレムにあるルービン音楽アカデミーがあります。あと夏期講習では、ニコライ・ペトロフなど有名な先生が教えに来るピアノのマスタークラスがあり、シュロモ・ミンツが主催しているヴァイオリンの夏期講習もあります。

-それは毎年、開催されるんですか?

金沢 そうですね。よかったら、是非、イスラエルにもいらしてください。

-そうですね、留学を考えている人の中にはイスラエルが気になっている方もいらっしゃると思います。

金沢 日常生活は非常にのんびりしたところもあって、危険なところを除けば、普通に生活もできるので、是非、考えてみてほしいですね。

-今後、夏期講習だけでなく、アカデミーに留学されたい方も出て来るかと思うのですが、受験状況はどのような感じでしょうか?

金沢 入学するのは、それほど大変ではないと思います。ヨーロッパのように留学生も沢山いて……、という環境ではないですし、あまりレベルが高くない人から既に演奏活動をされている若手の方もいます。先生と縁があれば、イスラエルへの留学も良いと思います。

-アカデミーに通われているのは現地の方が多いのですか?

金沢 そうですね。でも、多くはありませんが、テル・アヴィヴの大学は上海の大学と交流があるようで、常に何人か中国からの留学生もいますし、ヨーロッパからの留学生もたまにいます。実は、今年度ヴァイオリン科に日本からの留学生も一人いるんですよ。

-ちなみに、この音楽アカデミーに入るには語学の証明は必要ですか?

金沢 現地は、ヘブライ語ですが、英語ができれば問題ないと思います。普段の生活でもヘブライ語ができなくても、英語ができればあまり困ることはないと思います。

Image-日本人がイスラエルで演奏家として活動するにあたって、有利な点や不利な点は何かありますでしょうか?

金沢 有利な点というか……、ありがたいことに日本のイメージというのは悪くはないし、政治的にもイスラエルと摩擦があるわけではないので、温かく受け入れて下さいますね。最近では、漫画などのサブカルチャーやお寿司なども人気があります。そういう意味で興味を持ってくださるので、溶け込みやすいですね。不利な点は、日本人だからというわけではありませんが、新しく入って来た人間として、前からある音楽や仕事の輪に入っていくのは大変でした。そこにうまく認めてもらって、入れてもらうのは、後から来る者には少々不利というのはしょうがないですよね。

-それはイスラエル人の国民性というか、気質から来ているのでしょうか? 仲間意識が強い、といったことは感じますか?

金沢 そうかもしれません。何せ小さな国なので、皆が皆を知っている、という “村”のような感じがあります。でも反対に打ち解けてしまえば、顔パスというか、コネが効いてしまう社会で、例えば「洗濯機を買おうかな」と言うと、「僕のおじさんの近所に住んでいる人のいとこがそういう仕事をしているから、買わないでそこに行け」と言われたりするんです(笑)

-面白いですね。

金沢 やっぱり、ドイツやフランスといったヨーロッパではそうはいきませんよね。やはり、キャリアを築くということを考えると、そういうこともすごく重要だと思います。1人で仕事をしていけるわけではないので、そうやって人の輪に入って、継続させていくということが必要になってくるんです。そういうことって、学校では教えてくれませんし、私達も試行錯誤を繰り返して、身に付いていったことですが、やはり、人の繋がりというのはすごく大切だと思います。それは与えてもらうだけではなく、自分が与えてもらったら、今度は与えてあげる、音楽の世界であっても、そういうギブ&テイクで成り立っている、人間の営みであるということを分かってしまうほうが楽なんですよね。だから、表面的なお付き合いでない人間関係を築くことが大事だと思っています。

-ところで、今回の金沢さんのお話を読んで、イスラエルに対するイメージが変わる人も多いと思うんですよ。

金沢 そうだといいですね。やはり、知られていないということが残念です。これだけクラシック音楽のレベルや密度が高い国だということを皆さんに知ってほしいですね。ヨーロッパからなら4時間くらいで来られますし、ユダヤ人の音楽に直接触れてみたいという方は、是非来て頂きたいと思います。

Image-今後の音楽家としての目標を教えていただけますか?

金沢 ピアノ・デュオが自分達のアイデンティティのようになっているので、これからもデュオとして、レパートリーを増やし、演奏し続けたいです。また、このメディアをより浸透させるため、フェスティバルやマスタークラスなど開催し盛り上げていけたらな、と思います。それから、イスラエル音楽の演奏や初演など今までもやってきたことですが、これからも作曲家の方達とコラボレーションしていきたいと思っています。やはり一緒に創造する意義とその喜びがあるので。彼の方は、いずれ作曲も手がけたいと考えているので、彼の曲を二人で演奏するコンサートが未来像になっています。

-金沢さんご自身はいかがですか?

金沢 実際、演奏についての目標ですが、フランス人女優のジャンヌ・モローがインタビューで言っていたのですが、役に入っていく時は、自分を空にして、中にエネルギーが流れる管のようになると例えていました。それを聞いて、あぁなるほどな、と思いまして、私も演奏する時は、そういう境地でいたいと思いました。エネルギーがよどみなく流れる管、媒体でありたいと思ったんです。そういう気持ちで演奏できるときもたまにあって、そういう時は、あぁ良かったと思えるんですよね。

-最後にこれから留学を考えている方にアドバイスをお願いします。

金沢 今は留学に関する情報も沢山あって、気軽に海外にも行けて、逆に海外から日本に先生もいらして講習も受けやすい環境なので、皆さん、よりスマートに選択されて留学なさる方が多いと思うんです。でも例えば、留学先で希望の学校に入れなかったり、卒業できなかったり、希望の先生につけなかったり、ついてもレッスンをあまりしてくれない、という予想できないことが起きる場合もあります。はっきりしたプランがあるのは結構だと思いますが、そういう壁にぶつかってしまったときに、臨機応変に対応して、プランと違っても大丈夫、という気持ちを持ってほしいです。自分の希望や目標を大局的に見ることが大事だと思います。そういう時に、しっかり自分と向き合って、考えて悩み抜くということがいい経験になって、人間が生きのびていく力というのが養われていくと思います。一人で悩むだけじゃなくて、助けを求めることも力のひとつだと思いますし、恥ずかしがらないで、めげないで、予定と違ってもいいんだ、と。

-なるほど。

金沢 それから、留学というのは、一時的な講習会と違って、そこに住んで生活をするということなので、現地で出会う人達とのコミュニケーションするということを大切にしてほしいと思います。私自身、日本を離れて久しいですが、日本人というのはコミュニケーションに対して、気を回すことが上手だけど、その反面、依存心が強い気がします。空気を読む、というのは本当に日本人らしい表現で、空気は読めないものなんですよ(笑)。やはり、わかってもらえない時はわかってもらえないような表現しかしていない、ということなので、そういう責任感を持って、コミュニケーションをとってほしいと思います。それは、語学力の有無ではなくて、伝えたい意思があるのかが、重要だと思います。心から語りかければ、イスラエルでもフランスでもどこの国に行っても返ってくるものはあるし、人と繋がる喜びというのはあります。自分がそこに一時的に留学をして、何かを学んで帰る、与えてもらう側だけだというのではなく、自分も何かを与えられる存在で、きちんと交流ができるという認識をもって留学をしてほしいなと思います。

Image-ありがとうございます。最後に、成功の秘訣があれば、教えていただけますでしょうか。

金沢 偉そうにいうほど成功していませんが(笑)、失敗の連続で覚えたことをお話させて頂きますね。音楽を職業にしている方というのは、音楽大学やアカデミーを卒業した方が多いと思います。そういう学校を出て、スムーズにキャリアが築けるのが、いいに越したことはないと思いますが、そうでなかった場合、知恵を絞って、自分なりのクリエイティブな戦略を持ちかけるくらいの姿勢でいなければ、何も起こらないと思います。私も若い頃は依存心が強くて、きちんと弾けていればいいことがあるんじゃないかと夢見ていたのですが、ある程度戦略を持って、アグレッシブに仕掛けていかないとダメだと思います。具体的に言うと、コンクール、コンクール……というと嫌かもしれませんが、やはりコンクールで採った賞をマスコミ伝えて話題を作ったり、あまり使われていないホールを見つけて、市町村の人にかけあって、自分の巣にしてしまう、とかね(笑)。

-えー! それは、金沢さんがされたことですか?

金沢 そうですね(笑)。イスラエルで。そうやって、自分の場所を作って、そこに知り合いの演奏家を呼ぶ。そうすると、向こうも貸しがあるということで、今度は彼の巣に呼んでくれる。そうやって、自分で知恵を絞って、どんどん発言権を身につける。自分でアピールして、売り込むのっていい気持ちはしないし、難しいことだとは思いますが、出しゃばらずエレガントな線を守りながら、謙遜もせず、自分の幅を広げていく。それからチャンスというのは、自分が準備万端に用意できたときに転がってくるものではなくて、いつ転がっているかわからないものだから、そういう時にいつでもぱっと心を開けるようにしておくのが大事だと思います。一期一会という言葉もありますし、そこでもじもじしていたら、本当にもったいないんですよ。

-本当にそうですよね。

金沢 そうやって、人と繋がりができて、依頼があったら、まずイエスと答えるようにしています。交渉などは彼がすることが多いので、彼の対応を見て学ぶことも多いんです。私はどうしても日本人的なんですよね。例えば、「6月にこういう曲を演奏してほしい」という依頼を受けると、その時期はあのコンサートも入っていたから手が回らないんじゃないか、とか、二股になってしまうんじゃないか、とか考えてしまって、「少し考えさせてください」と答えるのが誠実である、と思ってしまうんですよ。でも、そうではなくて、まずは、イエス。やりたいということを伝えるのが大事なんですね。その後で、曲は変えられるか、とか、日程の相談をすればいいんです(笑)。厳しい世界なのでハッタリでもいいから、まずは、熱意を伝えていくことが大事なんですよ。

-なるほど。

金沢 あとは、そうやって行動していても、断られ続けることもあります。でもそれは、あまり個人的に否定されていると考えずに、とにかく続けていくということが大切なのではないかと思います。失敗から学んだ事ですが、少しでも皆さんの参考になればいいな、と思います。

-はい。本当に今日は貴重なお話をありがとうございました。

金沢 こちらこそ、どうもありがとうございました。

************************************************
金沢多美さんの最新情報や演奏は下記ページからご覧になれます。
デュオのサイト:http://www.kanazawa-admony.com
youtube(演奏):http://www.youtube.com/user/admony
ナクソスのアルバム:http://ml.naxos.jp/album/8.570736

東京で金沢さんのデュオリサイタルが開催されます!
世界で活躍するデュオのコンサートに足を運んでみてはいかがでしょうか?

◆デュオ・アドモニー リサイタル◆

金沢多美 & ユヴァル・アドモニー
2台ピアノによるリスト交響詩 ~人間性のドラマを奏でる~
「オルフェウス」「理想」「前奏曲」「マゼッパ」
10月26日(月)19:00 開演 東京文化会館小ホール
一般 ¥4000(全自由席) / シニア・学生 ¥3000
チケット取り扱い: 
• チケットぴあ 0570-02-9999( Pコード331-570)
• 全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) www.piano.or.jp/concert/support
• 東京文化会館チケットサービス 03-5685-0650
• IVSテレビ制作 03-5261-9545 (12:00~19:00土日・祝日を除く)
後援: イスラエル大使館/ (社) 全日本ピアノ指導者協会/ ナクソス・ジャパン(株)
助成: 財団法人日本室内楽振興財団
お問い合わせ: IVSテレビ制作


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