山口研生さん/ピアニスト/ドイツ・ベルリン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はドイツ・ベルリンでピアニストとしてご活躍中の山口研生(ヤマグチケンセイ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2008年5月)


ー山口研生さんプロフィールー

山口研生さん
山口研生さん

1969年生まれ。東京都出身。5歳よりピアノを始める。桐朋学園大学音楽学部卒業。92年DAAD(ドイツ学術交流会)奨学金を受け渡欧。ベルリン芸術大学卒業。これまで江戸弘子、柴沼尚子、エーリッヒ・アンドレアス、パスカル・ドヴァイヨンの各氏に師事。98年ポルト市国際ピアノコンクール第3位(ポルトガル)、99年第28回セニガリア国際ピアノコンクール第1位および室内楽賞受賞(イタリア)。2000年には、コンクール優勝経験をもつピアニストのみが参加する第11回モンテカルロ国際ピアノコンクール(モナコ)に優勝し、注目を集める。現在ベルリンを拠点に、ヨーロッパ、アメリカ、日本各地において独奏の他、室内楽など多方面にわたり活動している。



—  初めに簡単な略歴を教えてください。

山口 5歳でピアノを始めて、高校から桐朋学園へ進学し、大学にも4年間行きました。大学卒業後すぐにドイツに留学し、1992年にベルリン芸術大学に入学しました。

—  もともとご両親が音楽をされていたんですか?

山口 父がクラシック音楽を非常に好んでいました。私が生まれたときには、もう家にアップライトのピアノがありまして、それを父が弾いていました。それから姉がいるんですが、姉はいやいやピアノをやっていましたね。私はといえば、家族の二人が弾いていたので、物心ついたときには勝手に弾き始めていたようです。それを見た親が、この子は興味があるんだな、思ったようで、5歳くらいになったら近所のピアノの先生に見てもらおうか、ということで近所の先生のところに通うようになりました。

—  近所の先生というのは?

山口 すぐ近くの美大生のところに1年程通いました。それがピアノを始めたきっかけです。

—  楽しかったですか?

山口 楽しかったですね。5歳のときなのであまり覚えていませんが(笑)、イヤだと思ったことはないですね。日本でみなさんがやるようにバイエルから始めたのですが、進み方が早かったようでわりとすぐに終わって、ブルグミュラーやソナチネで練習していました。

—  そうなんですか。

山口 それで、父がすごくクラシックの音楽が好きなので、ラジオで流れている曲をカセットに録ったりして。それで、父も専門家ではないのでわからなくて、父が私に弾かせたい曲を楽譜を買ってきて与えるわけです。まだバイエルをやっていたときにショパンの協奏曲とかのベートーベン協奏曲とか……。それを弾けって言うんです(笑)。

—  すごいですね(笑)。

山口 ええ。でも、それが今の初見力に繋がっている気がします。

ベルリンで活躍中
ベルリンで活躍中

—  「できるわけない」とは思わなかったんですか?

山口 ショパンの曲の最初の何小節かを一生懸命弾いたりしましたね。

—  もともと家の中にクラッシックがあったんですね。

山口 ええ、そうですね。それで、それが嫌ではなかったんです。でも、子どもですから1年に1回くらい、嫌だなと思うこともあって、そういうときには、喝が入るんです(笑)。ピアノの鍵をかけられてしまったりとか…(笑)。そこで喜んでしまえれば良かったんですが、そうではなかったんですね。

—  一般的に中学生や高校生になるとロックやポップに興味がいくと思うんですが、そういう中でクラッシックをやり続けていたんですか?

山口 そうですね。全然疑問に感じていなかったです。もちろんテレビやラジオではそういった音楽もあふれていたんですが、特に他の方面には興味を示さなかったんです。ただ、姉はクラッシックに限らず、割と幅広く音楽を聴いていたので、日本のポップスなどを聴く機会はありました。

—  お姉様はまだ音楽をされているんですか?

山口 確か家にはピアノがあって、娘が二人いるんですが、上の子がブラスバンドをしていると聞きました。

—  音楽に興味がある家系なんですね。

山口 そうですね。親戚にも合唱団で歌っている人がいますし、父も合唱団をやっていましたし、ギターも弾きましたね。

—  家族でアンサンブルをしようと思えば出来るんですね。

山口 といいますか、していました(笑)。家に歌の楽譜があって、姉や父が歌うのを伴奏していましたね。それこそ、今やっていることと同じじゃん!って話ですが(笑)。だから、教育云々ではなくて、自然とそういうことが身に付いていた環境でしたね。今、振り返ると、生活していく中に自然と音楽がありましたね。

コンチェルトを奏でる
コンチェルトを奏でる

—  山口さんはソロですか?

山口 基本的にはずっとソロです。伴奏はソロと同時にしていて、それを今もしているという感じです。そのときにしていたことが全部、今の仕事になっている感じです。高校には作曲科というのもあったので、そこの連中が作った曲を弾いたりもしていました。ベルリンでもまったく同じことをしていましたね。

—  ベルリン芸術大学にはどういったきっかけで行かれたんですか?

山口 大学生になったくらいから漠然と留学したいなという希望があって、ただどこがいいのか分からなかったので、いろいろな人に話を聞いていたんです。それから桐朋には海外から先生をお招きして公開講座をしていただくというシステムがその当時あって、それをかなり活用していました。当時ついていた実技の先生もそれを勧めてくださったので、あらゆる先生のレッスンを受けました。アメリカからいらっしゃる先生もいれば、フランス、ロシア、ドイツ、イギリスと……それで、どこに留学するか迷っていました。

—  それはプライベートレッスンですか? それとも桐朋のマスタークラスのような感じですか?

山口 両方ありました。全て公開レッスンでした。

—  なるほど。それでいろんな先生のレッスンを受けて、どのようにベルリンに決めていかれたのですか?

山口 留学を考えたときに、現実的に費用の問題があって、両親からも奨学金を取れたら行っていいよ、と言われていたんです。それで、たくさんの奨学金制度に申し込んだんです。その中にDAAD(デーアーアーデー)というドイツ学術交流会のものもありました。それで、それらを申し込んでいるときに私が最初についたアンドレアスという先生が桐朋に来ていたんです。それでレッスンを受けて、そのときに日本の実技の先生が「彼に決めちゃいなさいよ」、と「あなたの弱点を全部おっしゃってたよ」、と。それで、僕もこれだ!とピンときていたわけではないんですが(笑)、そうだよなっ、という感じだったんです。

—  なるほど。

山口 それから、その数年前の20歳のときに、国際コンクールで初めてヨーロッパに行き、当時はまだ将来的にベルリンに行くなんて予想もしていなかったんですが、以前から留学していた友人がベルリンにいたので、どういったところか様子を見てきた経験があったんです。ベルリンの壁があいたのが1989年、その翌年、1990年、大学3年生のときでした。

—  ええ、ええ。

山口 コンクール自体はベルギーだったんですが、そこからベルリンの友人のところに列車に乗って行き、1か月くらい時間をとってヨーロッパを見て回りました。コンクールはとりあえず出てみて、という感じで、実技の先生にもコンクールよりヨーロッパがどういうものか見てきなさいと言われていたんです。

—  その経験もあって、ベルリンを選んだんですね。それですぐに受験されたんですか?

山口 いえ、日本の大学の卒業が3月で、アンドレアス先生に電話で奨学金を受けたことを話したら、「じゃあ、僕が推薦状を書きましょう」って言ってくださったんです。だから、ものすごくタイミングが良かったですね。そういうタイミングってすごく大切だなと思いました。

—  それで、奨学金を受けられたんですね。

山口 他は全部落ちてしまったんですが、めでたくDAADの奨学金だけ取れたんです。それで、1年間奨学金がもらえることになって、親への言い訳もできて、留学することになったんです。DAADの奨学金というのは最初の4か月だけ語学研修が出来るんです。フライブルクというところにありました。それに参加するために5月に出発しました。6、7、8、9月と滞在して、その間にベルリンとフライブルクを往復して、入試を受け、10月からベルリンに通うことになりました。

パスカル・ドゥヴァイヨン先生と
パスカル・ドゥヴァイヨン先生と

—  ベルリンの学校にはどのくらい通ったんですか?

山口 ベルリン芸術大学は本来5年間なんですが、日本の大学を卒業してから行ったので、日本で取っている学科などの単位が免除になって、ベルリンの大学の5学期目、つまり3年生から始められるんです。やらなければいけなかったのは、一部の学科と合唱でした。学科といってもドイツ語で受けるので大変でしたが、ちょうど同じ時期に高校卒業後にベルリンで高校から行っていた友人が、最初からベルリン芸術大学の講義を受けていて、どっちがいいかというのはその人によると思いました。初めからドイツで受ければ言葉が身に付くのも早いでしょうけど。

—  大学を卒業されてプロで活動されていくわけですが、クラシック音楽をドイツでやっていくのに良い点と悪い点を教えてください。

山口 悪い点を考えてみましたが、特にないんですよね。他の面でドイツの悪いところはいっぱいありますけど(笑)。でもそれを言ったら、どこの国にも悪いところはありますからね。良い点は、クラッシック音楽やそういった文化的なものが身近にあるということですね。日本でクラッシック音楽の演奏会というと、コンサートホールでかしこまってというイメージですが、ドイツではそうではない場所で演奏を聴く機会が非常に多いです。例えば教会やサロン風の空間,宮殿の広間のようなところに音楽があるわけです。

—  やはり身近ですか?

山口 身近ですね。例えば、オペラ劇場にしても、旧東と西を合わせて3か所あって、そこで年中やっているわけです。構えずに気軽に楽しめる良さがあるなと思います。余談ですが、日本でもオペラを楽しめるようにはなってきましたが、それでも来日公演となると、秒ごとにいくらかな?なんて考えてしまって(笑)、気軽ではないですよね。まぁ、経費がかかることなので仕方ないとは思うのですが。

—  ドイツでは演奏をする機会も日本にいるより多いということですよね。

山口 そうですね。そういう教会での演奏など細かい仕事も多いですね。細かいので報酬も笑ってしまうような額だったりしますが(笑)、結局そういう仕事もしていかないと、話が先に繋がっていかないというところはありますよね。

—  小さな仕事もして、仕事の幅を広げていくという感じでしょうか?

山口 私はそういう風にやってきましたね。

ドイツの湖畔で
ドイツの湖畔で

—  様々な国がある中でドイツを留学先にすることで重要だなと思われることはありますか?

山口 近道ではあると思います。やはりドイツ語をマスターするということは大切だと思うんです。それはいかにドイツ語圏の作曲家のレパートリーが重要視されているかということに繋がるんですが、バッハから始まり、モーツァルト、ベートーヴェン、ロマン派ではシューマン、ブラームス、そういった作曲家たちが喋っていた言葉なので、それを知るというのはすごく近道だと思うんです。

—  本質に直に触れられるような感じなんでしょうか?

山口 そういう環境でもあると思います。例えば、ベルリンは少し車で郊外に出ると、15分や20分で湖や森のある場所に出られるんです。そういうので、イメージがわきやすいということはありますね。

—  なるほど。作曲したときのイメージをを想像して演奏できるということですか?

山口 そうですね。東京にいてシューベルトを弾きたいと思っても、どうイメージして弾いたらよいのか分からなかったんです。

—  高層ビルを見てもイメージはわきにくそうですもんね。

山口 ははは(笑)。でも、のちに日本を旅をして日本でもそういうところはあるなとわかったんですが。ただ、私は東京生まれの東京育ちなので、そういった意味ではドイツに与えてもらったものは大きいなと思います。

—  他に何かドイツと日本の違いはありますか?

山口 時間の感覚がゆったりしていますね。逆にとろい(笑)。早くして、と感じることもあります。私は最近、日本の機能的なところがすごく好きですね。みんなちゃんと仕事してるな、みたいな(笑)。それは国を離れてみて、初めて気がつきました。

—  その後、ドイツで仕事をされていくわけですが、日本人がドイツで仕事をするにあたって、有利な点、不利な点ってあるんでしょうか?

山口 私は伴奏の仕事をよくするんですが、同僚には日本人が大変多いです。それは日本人の協調性が買われているんじゃないかなと感じますね。アンサンブルっていうのは、やはり1人ではできないので。その点は有利な点と言えると思います。それからドイツで、日本人っていうと、だいたい印象がいいですね。

—  へー、そうなんですか。

山口 そうですね、良い印象を持ってくれる人が多いです。反対に悪い点は、「日本人なんかにクラッシックができるか」みたいな人もなかにはいるんですよ。実際に私の先生も言っていたのですが、コンクールの審査員に行くと、「日本人に分かるわけがない」と言う人もいるようです。

—  あからさまにですか?

山口 はい。もう演奏を聴いてもいないそうです。そういうこともあるようです。

—  そのあたりはかなり不利な点ですね。

山口 でも、どんどん変わってきているとは思います。実際に能力さえあれば、彼らが耳を貸してくれることも多いです。最近、日本人はだんだん数が減ってきているのですが、韓国人の方が増えていて、しかもとても優秀です。韓国の評判は良くなってきていますね。

—  そうなんですね。

山口 私の通ったベルリン音大なんて、大学名を略してアルファベットで“UdK”(ウー・デー・カー)と書くんですが、そういう人たちが”Unterkunft der Koreaner(ウンタークンフト デア コレアーナー)”、つまり韓国人の宿泊所だなんて、冗談を言ったりするんですよ(笑)。

—  そんなに多いんですね。

山口 多いです。音大もそうですが、例えば夏のフランスで行われるクールシュベールの講習会が夏休みと重なることもあって、来る人が非常に多いですね。

—  日本人よりも多いですか?

山口 そうですね。そういう印象です。他の国はどうか分かりませんが、ドイツへの留学生は楽器に関わらず増えていますね。

Image —  山口さんにとってクラッシックとは何ですか?

山口 人の言葉になってしまうんですが、私が最近とても気に入っている南米ブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスが言ったことなんですが、音楽というのは、返事を期待しない手紙のようなものだと。要するに未来の自分の知らない人、会わない人、どこにいるかもわからないような人に向けたメッセージである、と。その言葉が印象に残っています。

—  ははぁ。なるほど。

山口 それと、父がぼそっと「生きていく上で辛いことがあった時期にふと音楽が流れてきて、すごく癒された、やっぱり頑張って生きてみようかな、って思った」って言ってたんです。

—  素晴らしい言葉ですね。

山口 音楽って、そういうものであると思うんです。やはり演奏者の心、心だけではないですね、すべてがあらわれる気がします。

—  演奏者の状態、心の成熟度、ということですか?

山口 全部出ると思います。具体的にどうとは言えないのですが、今までの経験上、それは確かに人に伝わるものだと思います。

—  人間が深まっていけば深まっていくほど、それが必ず伝わっているという感じなんですね。

山口 はい。

—  逆に表面的にやっていれば、それは伝わらないということですよね。

山口 そうですね。嘘はつけない、ということです。

—  なるほど。それは非常に重い言葉ですね。

山口 多少は捉える人による違いもあると思いますがね。

—  ところで、良い演奏をしたときと、少し調子が悪いなというときと、やはりお客さんの反応は違いますか?

山口 必ずしも一致しませんね。例えばレパートリーでも自分があまり得意ではなく、これでいいのかなと思いながら弾いていたら、評価が良かったということもありましたし、逆に大学のレッスンのときに気持ちよく弾けたのに、先生に「救いようがない」と言われたこともありますし(笑)。具体的な話をすると、ブラームスには特別な思い入れはないのに、必ず良い評価を受けるんです。だからたまにブラームスをやりたいんです(笑)。逆に僕はシューマンがすごく好きなので、あらゆる先生の前で弾いたのですが、自分では気持ちよく弾いたつもりでもみんな同じ怖い顔をするんです(笑)。それ以来、シューマンから逃げていますね。

Image —  今後の目標などを聞かせていただいてもいいですか。

山口 正直なところ、これしか道がないというか、今さら音楽以外は考えられないと言いますか……。生活の安定を考えれば、もっと他にいいこともたくさんあるのでしょうが、道を誤ってしまったというか……(笑)。これしかできないので、これを究めていこうと思っています。それには、何事にも意欲的に幅広く取り組んで行きたいと思います。

—  なるほど。

山口 ソロはもちろん、機会があればオーケストラやいろいろな楽器とのアンサンブルもやっていきたいと思います。脱線しますが、ピアノって一人で弾こうと思えばいくらでもできてしまうわけです。弦楽器だと人と共演する機会も多いですが、ピアノの場合、一人で弾くのだけになってしまう人が周りを見ていても多いんです。それはやはり良くないと思っていて、例えば、ピアノ協奏曲を1つ弾くにしても、共演するオーケストラのそれぞれの楽器をわかっていたほうがいいと思うんです。

—  そうするとソロだけでなく、オケや室内楽など全般的に深めていかれたいということでしょうか?

山口 そうですね。バランスよく、やっていきたいです。

—  プロの音楽家で活躍する条件や秘訣を教えてください。

山口 そうですね、私自身、未だに必死って感じです(笑)。うまく流れに乗れたスーパースターは別ですけど、やっぱりね、大変なんですよ。周りにいた同僚達も、ここ(ベルリン)にいたいのか日本に帰るのか、まずは選択しなければならなかったんです。それで大半は日本に帰って行きました。ただ帰っても生計を立てなければならないので大変なようです。学校で教えようと思っても勤め先がなかなかなかったりね……。

—  なるほど、なるほど。

山口 私の場合は、とにかく実技を究めながら、同時に半分くらい伴奏の仕事などで時間を取られていましたね。ただ、それが向いていたんですね。それに自分が気がつく前に周りが気づいてくれて、自然に仕事ができるようになっていたという状況です。ただ、自分の前に出された仕事はいつも、「はい」と引き受けていました。

—  チャンスは確実にものにしていくということですね。

山口 そうですね。そういうのが億劫な人もいると思うんです。そういう人はソロだけになってしまう。自分のピアノの練習の差し障りになるからということで断ってしまう、それは人それぞれだと思いますが、私は人との交流は大切だと思いますね。私の場合は、そうしているうちに、ベルリン芸大ヴァイオリン講師のマリアンネ ベトヒャーという人が現れて、ある日、講習会で予定していたピアニストが出来なくなってしまったからやってくれないかと急に頼まれて、その仕事が次の仕事に広がっていきましたから。彼女自身もコンサートをしているので、サポートもしますし、そこからも新たな仕事にも繋がっていきます。

—  宣伝もしてくれるでしょうしね(笑)。

山口 そうなんです。それで、彼女はもちろん演奏も素晴らしいのですが、そういうことに関してものすごく才能があるんです。彼女を見ていると、こうやって演奏家をしていくんだ、と思います。ものすごいアピールをしますから。それでまた彼女は人柄も良いので、彼女の人柄を信頼して仕事に繋がっていくんでしょうね。

—  人柄も良くて、アピールもできるんですね。でも、そういう人とずっとやっていけるというのは、山口さんにとってもすごくチャンスですよね。

山口 そうなんです。それで、私の師事していたドヴァイヨンが、「キャリアを築きたいなら練習なんてしてちゃだめで、電話の前に座ってなきゃ」って冗談で言うんですが、それは半分は当たってたりするんですよね。本当はダメですけどね(笑)。

—  でも、それは仕事を取るという意味では当たっていますよね。面白いですね(笑)。

山口 そうですね。はははは(笑)。

Image —  海外に留学しようとしている読者にアドバイスをお願いします。

山口 やはり留学というのはせっかくの機会ですし、それを実現するための周囲の援助は多大なものです。そういう機会を与えられたのだから、何事にも貪欲に、間違いを怖れずに挑戦していくのがいいと思います。日本だと間違いはタブーという傾向があるけど、ドイツは割と間違いに寛大なところがあります。やはり間違いがないと学ばないと思うんです。

—  ええ、ええ。

山口 それから、大切なのは、成功することを第一の目標と考えない、目標の定め方が重要になってくると思います。留学する国によっても傾向が違ってくるのかもしれませんが……。この前、友人が留学する国によって演奏の仕方に傾向があると言っていました。アメリカの場合、自分を前に出す、自分のキャリアを考えてやっていく、それが演奏に現れている、と。ドイツはまったくそんなことはなくて、私の場合、またこんなところからやり直すの?という感じでした。本当に基礎的なことから学び直しましたね。

—  今日は素晴らしいお話を本当にありがとうございました。

植村理葉さん/バイオリニスト/ドイツ・ベルリン

植村理葉さんプロフィールー

バイオリニスト植村理葉さん
バイオリニスト植村理葉さん

桐朋女子高等学校音楽科を卒業し、ケルン音楽大学でイゴール・オジム氏に師事。文化庁芸術家在外研修員(3年派遣)として研鑚を積み、最優秀成績で卒業。ローザンヌ音楽院ではピエール・アモワイヤル氏に師事、首席で卒業。多くの指揮者に認められ、ヨーロッパでのオーケストラとの協演は80回を超える。ケルン室内オーケストラ、プラハ・シンフォニエッタ、州立ハレ・フィルハーモニー管弦楽団などとも協演し、ドイツやサンクトペテルブルクの音楽祭にも数多く招かれている。また、ドイツ国内主要ホールでのコンサートツアーで演奏したシューマンの協奏曲は、ドイツ・ソニーからCDも発売されている。
全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門小学生の部全国1位、ミケランジェロ・アバド国際コンクール優勝、レオポルド・モーツァルト国際コンクールでは最高位に加えモーツァルト特別賞を受賞、第15回新日鉄音楽賞フレッシュ・アーティスト賞を受賞、他数多くの受賞経歴を持つ。



-はじめにこれまでの経歴を教えてください。

植村 4歳でヴァイオリンを始めて、小学校5年生のときに毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクールで優勝しました。高校は桐朋の音楽科に入学し、3年生のときに毎コンで2位になって、翌年、卒業後にケルンに留学してイゴール・オジム先生に師事しました。海外のミケランジェロ・アバドのコンクールで優勝、モーツァルトコンクールで最高位に入賞しました。また、第15回新日鉄音楽賞フレッシュ・アーティスト賞を受賞しました。ケルン音大も含めてケルンに6年いた後、スイスのローザンヌでピエール・アモワイヤル氏に師事し、その後、今から8年ぐらい前にベルリンに来ました。ケルン音大にいた頃から、運よくオーケストラでソリストとして招待されることが多くなり、そのほとんどが定期演奏会で80回ほどになります。

-ヴァイオリンを始めたきっかけは何ですか?

植村 母が「ヴァイオリンを弾いてみる?」って言ってくれて、私はすぐに「やる!」って・・・・。

-そうすると、お母様もヴァイオリンをされているんですか?

植村 いえ。専攻は音楽学だったんですけれど、母はヴァイオリンではなくピアノです。私の手も母と同じで小さいだろうっていうことで、将来的なことも考えてヴァイオリンを勧めてくれたようです。家にはピアノがあったので、ピアノには慣れ親しんでいたと思います。

-ご自身は子どもの頃、ヴァイオリンとピアノどちらが好きでしたか?

植村 どちらがということはあまり記憶にないですが、ヴァイオリンが単旋律なのに比べて、ピアノは一人で全部奏ける曲がほとんどなので、そういう意味でピアノもすごく好きでした。違うものとしてピアノは楽しく奏いていた気がします。

-現在でもピアノは併行して奏いてらっしゃるんですか?

植村 ピアノは、小さい頃からずっと母に習っていましたし、桐朋でもケルン音大でも副科でピアノをとっていました。ケルンにいた頃は家にピアノもありましたし。その後、ローザンヌに行ってからは、副科ではなかったんですけれども、学校のレッスン室にピアノがあったのでそれを奏いていました。卒業後は学校のレッスン室も使えない状況になり、家にもピアノをおいていなかったのでだんだん遠ざかってしまいましたが、また奏きたいですね。

-ヴァイオリンを始めた頃、将来は外国に行こうと思っていらっしゃいましたか?

植村 そうですね。はっきり覚えているのは「ヴァイオリンを始めたい?」って母に聞かれたときに、パーッと自分のイメージで思い浮かんだのが、オーケストラをバックに大きな会場でソロで奏いているっていう光景でした。

-その頃からイメージされていたんですね。

オケをバックに
オケをバックに

植村 多分、テレビでそういう番組を見たことがあったんだと思います。それで、オーケストラをバックに奏くということしか考え付かなかったのかなと(笑)。

-それでも、いつかプロとして、と思っていたんですね。

植村 ヴァイオリンをやるということは、ソリストとしてやっていくということだ、と疑いもなく思っていましたね。

-クラシックに興味を持ったきっかけは何ですか? 身のまわりにクラシックがあったからでしょうか?

植村 そうですね。音楽といえばクラシックが普通だと思っていて。

-他のジャンルに気が移るということはなかったですか?

植村 なかったですね。あんまりしっくりこなかったといいますか・・・・、たとえば小学校に入ってクラスの人たちが歌っていたり、すごく古い話ですが、トップテンを見ていましたけど、それはそれで単なる娯楽という感じで、好んで聴くということはしなかったです。

-留学を具体的に考えたのはいつ頃ですか?

植村 少なくとも高校に入った頃には考え始めました。

-当時、留学は珍しいですよね。

植村 そうですね。今は、高校でも大学でも留学は増えていますよね。私は外国に早く出たかったし、やっぱり自分で独立して勉強したいっていう気持ちが強くありました。

-どうしてドイツを選んだんですか?

植村 実は最初はニューヨークを考えていたんです。当時はソリストといえばジュリアードで学ぶというのが主流だったんです。それでアスペン音楽祭に
高校のときに行きましたら、先生も良かったですし、なんの疑いもなくジュリアードに行こうと思っていました。

-それがどうしてドイツになったんですか?

植村 高校3年生のときに、桐朋に教えにいらしていたオジム先生のレッスンを受けたんです。それがすごく良かったんですね。確か10月か11月だったと思うんですが、そのときからジュリアードよりも、オジム先生の教えてらっしゃるドイツへの留学を急に考え始めました。

-急に変更したんですね。

植村 はい。桐朋では第二外国語を選択できたのですが、それまではドイツに行くということが全然頭になかったので、フランス語をとっていたくらいだったんです(笑)。でも、音楽を学ぶのだったらヨーロッパがいいという考え方もあることも手伝い、急遽ドイツへの留学を決めました。結局、ドイツ語も全然できない状態でドイツに発ちました。

-ドイツに行きたいというよりはオジム先生につきたくて、ドイツに決めたという感じでしょうか?

植村 そうですね。ほんとに。

-先生との出会いというのは大事なんですね。

植村 そうですね。先生というのはすごく大事だと思います。それから先生との相性も大切なことだと思います。

-学校に入ってから先生を探すより、事前に探したほうがいいと思いますか?

植村 そうですね。できれば講習会などで実際に習ってみるのが一番いいと思います。いい先生はたくさんいますが、自分との相性がいいかどうかはまた別の話だと思いますので。レッスンを実際に受けてから決めるのがいいと思います。すごく人気のある先生で、生徒もいっぱい持っていて、という状況であれば、その先生ときちんと話し合って、例えば個人レッスンを受けながら順番を待って、その間に語学準備をするのがお勧めです。

-何よりも先生が大事ということですね。

植村 もちろん外国に来てから先生とコンタクトを取った方で、いい先生にめぐり会えた方もいらっしゃると思います。またその人自身、先生も大事だけれどどうしてもそこの場所で学びたい、という他の強い目的を持っていれば、またちょっと違うかもしれないです。それでも、やっぱり先生との相性というのはとても大事だと思いますね。


-オジム先生との出会いは貴重だったんですね。

植村 そうですね。出会えてラッキーだったと思います。もし、出会っていなくて、ニューヨークに行っていたら、また違う人生だっただろうなって思いますね。具体的には想像できないですけれど……。

-ケルンに行かれる前に長期でご留学されたことはあるんですか?

植村 ないです。アスペン音楽祭に2週間か3週間行ったくらいですね。

-先ほど、ドイツ語をまったく話せない状態で留学された、という話があったんですが、不安ではありませんでしたか?

植村 オジム先生はすごく英語がお上手で、英語をどんどんしゃべる方なので、レッスンでのコミュニケーションにはあまり不安を感じませんでした。行く前の不安というよりは、行った後の大変さのほうが(笑)。

-実際に行ってみて何が大変でしたか?

植村 一人暮らしも初めてでしたし、気候も東京に比べるとずっと北のほうなので、暗くて陽が差さないんです。それに、当時は日本に比べて、お店にかわいいものや素敵なものが全然ないんですよ。たかがそんなことっていう感じですが(笑)、一人暮らしで気分転換に街に出てもすてきなものとかがなくて、探し上手な人だったら、いいものを見つけ出したりするのかもしれないですけど、パッと見てかわいいものが何もない状態だったから、気分も暗くなってしまうんです。そういう面でもとても気が滅入ってしまって……。でも、そんなときでも、すごく熱心に教えて下さった先生がいたから乗り越えられたんです。

-なるほど。

植村 もともと現地に友達がいる人は別かもしれないですけど、そういう意味でも先生は大事だなと思いました。海外生活という慣れない状況に加えて、先生との相性でも辛い思いをしてしまうのは大変だと思います。今はインターネットも普及していますし、あの頃とは比べものにならないほど、気が滅入らない環境にはなっているとは思うんですけどね。

-それで、ケルンに6年滞在されて、そのあとスイスに行かれたんですよね。スイスに行かれたのはどうしてですか?

植村 日本では高校だけ卒業して留学したので、ケルン音大では授業を全部取らなきゃいけなかったんです。それが終わって、ケルンでの学業を終える頃に、次にまたちょっと違う先生に習いたいと思ったんですね。それで講習会に参加して、3人ぐらいの先生のレッスンを受けたら、どの先生も素晴らしい方だったので、どこに行っても自分は満足だなと思っていたんですが、一番先にとんとん拍子に話がついて、気がついたら決まっていたのがローザンヌだったんです。ローザンヌの学校には2年間通いました。ケルンのソリストコースは、ローザンヌに行ってからも併行して通い、試験を受けて卒業しました。

-学校はどちらだったんですか?

植村 ローザンヌのコンセルヴァトワールです。先生はピエール・アモワイヤル、ソリストとして活躍していらっしゃる方です。

-ドイツとスイスの音楽的な違いはありましたか?

植村 違いはかなり感じました。やはりドイツは昔から作曲家がたくさん出ていますし、すごく音楽的な街だなと感じていました。スイスももちろん作曲家を出していますが、ドイツに比べると数も違いますし、歴史も違うので、音楽的にはニュートラルな印象を受けましたね。そんなに強い音楽的要素を感じることはなかったです。でも、すごくきれいなところなんですよね、ローザンヌは。自然が美しくて。

-ええ、ええ。

植村 ケルンで様式感を重点的に習った後で、先生もソリストの立場から教えてくださったということも、よかったですし、スイスの方はわりと気さくで明るい方達ばかりでしたので、人間関係にも恵まれ、楽しく過ごす事ができました。スイスにいる間は、せっかくローザンヌに来たのだし、先生の教えは貴重だ、そう思いながらやっていましたね。ただドイツに帰りたいという気持ちは変わらずに強かったので、学校が終わると、またベルリンに戻ったんです。

-そのときは、ケルンではなくてベルリンにされたんですね。

植村 ケルンに住んでいた頃にベルリンに行ったことがあり、そのときにすごく街が気に入ったんですね。そしたら縁があって、またいい先生にめぐり会って、その方がベルリンにお住まいでした。

-その後、ベルリンに8年くらいいらっしゃるんですよね。

植村 ローザンヌの学校が終わってからですから、9年ぐらいですね。

ドイツの新聞にも掲載
ドイツの新聞にも掲載

-ドイツでクラシックを学ぶにあたって良い点や悪い点、日本と違うところなどあるかと思いますが、そういったところを教えてください。まず、良い点はありますか?

植村 先ほどもお話したように、ドイツは作曲家もたくさん出していることもあって、音楽の大事な面というのが学べると思います。例えば、極端に言えばソリスティックに弾くという面よりも日常の生活からも音楽的なことを学ぶことのできる国だと思います。

-なるほど。

植村 オーケストラも州立や国立のオーケストラがいくつもあって、すごくいい響きですし、クラッシック音楽が、昔から歴史があって根付いているので、音楽家の立場や地位がしっかりしていると感じます。演奏を気に入って下さればソリストして使ってくれるところも良い点だと思います。

-そういったチャンスが多いということでしょうか?

植村 何がチャンスになるかは、それぞれの性格で違うと思いますが、わりと公平に見て下さり、演奏さえ気に入ってくれれば使って下さるというところがあります。何も持ってない者にとってはありがたいですね。

-他のものを持っていないとはどういうことですか?

植村 例えば、紹介がなくてもとにかく演奏を気に入ってくれればソリストとして招待してくださるということです。

-反対に悪い点はありますか?

植村 考えてみたんですけど、悪い点は分からないです。

-日本と違う点はありますか?

植村 そうですね。仕事の依頼のときにドイツだと「いくらで奏いてくれますか?」とか「いくら要求する?」ということをはっきり聞いてくるんですよね。たぶんドイツがいちばん顕著だと思うんですが、そこが一番日本と違いますね。直接的なんですけど、そういう言い方をしてくれるので、こちらも気をもんだり、心配しないで済むんです(笑)。

-まず値段だけ聞いてくるのですか?

植村 いえ(笑)。「何月何日にどこで奏くのをいくらで奏いていただけますか?」という感じです。我々にとってはすごくありがたいです。

-重要なことですよね。でも、おもしろいですね。

植村 ドイツの人というのは、ざっくばらんというか、ほんとに直接的に事務的にコミュニケーションとる人達だと思います。

-日本はそういうわけにはいかないですよね。

植村 そうですよね。そこは難しいなと思ってしまいますね。私があまり気をまわすことが得意じゃないからかもしれないですけど(笑)。

-ドイツで仕事をするにあたって日本人が有利な点はありますか?

植村 日本人だから、有利だったとか不利だったとか感じたことはないです。

-語学が堪能だからでしょうか?

植村 いえいえ、ドイツ語は全然堪能でないですよ。

-では、言葉で不便を感じたことはありませんか?

植村 最初の頃はありましたね。オジム先生は英語が得意だったとはいえ、英語でコミュニケーションとるわけです。例えば、レッスンの日にちを変更してもらうときに、どうして日にちを動かしたいのかを言葉を尽くして説明しなければいけないのに、丁寧に伝えられなかったりして、こんな時は、もっときちんと伝えられればいいのになぁ、と思うことはありましたね。

-ええ、ええ。

植村 でも、話を聞かない人だったら仕方がないのですが、話を聞いて下さる方だったら、語学が堪能でなくても誠実に伝えようという気持ちで話せば、それはそれで伝わるので、なんとかなると思います。逆にいえば、私にとっては日本語のコミュニケーションの方がすごく難しいです。もちろん日本語はネイティブですが、日本語でも苦労する面がたくさんあります。だから、そういう意味では、何語だからどうということではないように思います。英語だったから…とか、ドイツ語だったから…と感じたことはありません。すべての言語においてそれぞれ苦労するな、っていうのはありますけれども(笑)。

-それでも仕事を見つけるにあたって、言語が有利に働いたり、不利に働いたりはしませんでしたか?

植村 どうでしょうね。広くいえば語学力に含まれるのかもしれませんが、どれだけ機転をまわせるかとか、どれだけ自分の主張を言えるか、っていうところで苦労しました。でもそれは、語学力というよりもその手前の段階の問題だろうなと思うことがあります。

-なるほど。

植村 もちろん、そこをクリアした上で、語学力が足りなくてっていう段階まで来ている人であれば、語学の問題になってしまうと思うんですけどね。でも、そこまで来ていれば、必要に応じて語学もできるようになると思うんです。だから、語学は出来るに越したことはないですけれども、私自身はそれ以前にコミュニケーションの取り方とか、語学以前の問題が大きいので、その部分も大事かなと思います。

-やはりドイツでは自己主張もはっきりしていかないと難しいでしょうか?

植村 そうですね、自己主張は必要ですね。少なくとも謙遜はしない方がいいと思います。自分がしていることよりも低く言うようなことはしない方がいいですね。どうしても日本人は謙遜が染み付いているから難しいとは思いますが……。私も今でも反省することがいっぱいあるんです。

-やはり、そうなんですね。

植村 でも、逆にいえば、言葉通りのことが多いのですごくわかりやすいことは確かですね。それはスイスに行ったときに感じました。スイスはドイツに比べてもう少し社交的というか、言っていることがそのままというわけじゃないことがあるんです。社交上はそう言ったけど直接そういう意味ではなくて、他のことを意味している、ということが結構あって、スイスにいた頃は、それを身につけるのがかなり難しいなと思っていたんです。それに比べると、ドイツはすごく単純で、言っていることがそのままだし、ズバズバ言ってくれて、また、わからないことがあればはっきり質問してきます。逆にコミュニケーションがすごく取り易いですね。

-分かりやすい国民性なんですね。

植村 そうですね。

-今のお仕事を見つけたきっかけを教えてください。

植村 クラシッシェ・フィルハーモニー・ボンというオーケストラがボンにあって、ケルンにいた頃にそこでソリストとして使って下さったのが最初です。そのオーケストラは、ドイツ中の主要ホールでツアーするオーケストラだったので、大ホールでたくさん奏けて、良かったと思っています。一回ソロで弾いて、また次も指揮者が呼んで下さって、ということで繋がり、また、他のオーケストラでは客演指揮者のときに弾いて、その方が彼自身のオーケストラのところに呼んで下さったりすることもありました。そんなふうに繋がってここまできているので、とても良かったと思います。

-ソリストはオーディションで選ばれるわけではないんですね。

植村 オーディションで公募はしていないです。少なくとも私は聞いたことないですね。クラシッシェ・フィルハーモニー・ボンのオーケストラで奏いていた人達は、のちのちベルリン・フィルのオーケストラの団員になったり、他のオーケストラのコンサートマスターになったりと、素晴らしい方が多かったです。そのオーケストラをバックにたくさんの経験を積めたことがありがたいことだったと思います。

-素晴らしいご経験ですよね。日本でオーケストラと協演されたことはございますか?

植村 名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会や、東京フィルハーモニー交響楽団とパガニーニのコンツェルト、群馬交響楽団などとも協演しました。でも、回数はドイツでのほうが圧倒的に多いです。

新聞でチャイコの批評
新聞でチャイコの批評

-日本人とドイツ人、どちらが演奏しやすいと感じますか?

植村 お互いに思っていることかもしれないですけど、日本人だとあんまり主張がみえてこないので、お互い見合っちゃうんですよね。どうしたらいいのって感じになっちゃうことがあって(笑)。ドイツのオーケストラだと、パワーがあってこういう音楽をするっていうのが伝わってくるので、そうやってくるんだったら私はこうやりかえす、みたいな感じで、相乗効果でどんどんいい音楽になっていくんです。ドイツのオーケストラですと、本場ならではの土台がしっかりあるから、そういう意味で奏きやすいです。日本のオーケストラも、なんというか・・・キメ細やかですね。外国で学んできている人が多くなってきていることもあるのか、すばらしい演奏も増えていると思います。

-やはり国民性みたいなものが音楽にも表れるのでしょうかね。

植村 そうかもしれないいですね。ただ、ちょっと不思議というか、どうしてなんだろうって考えることがあるんです。日本人はわりと和を大切にするので、みんなが一緒に弾くオーケストラが向いていて、自己主張の強いドイツ人はソリストが向いていると思うんですが、でも実際は、ドイツ人がソリストとして奏くよりもオケで奏くほうが得意、日本人はどちらかと言えば、ソロのほうが得意なような気がします。そこは矛盾しているなって、ときどき疑問に思うんですよ。

-そうですね。おもしろいですね。どうしてでしょう?

植村 もしかしたら、みんなと一緒に合わせようとする和の気持ちが強過ぎると、音楽的な自己主張が引っ込んでしまって、結果としてはオケの「響きあう」ということに繋がらないのかなとも思います。

-今後もソリストとしてオーケストラと協演していく予定ですか?

植村 そうですね。今後とも日本でも海外でもソリストとして活動する演奏家であり続けたいです。

-他に今後されたいことは何かありますか?

植村 去年まで3年間、毎日新聞社の学生音楽コンクールで審査員をしていたんですけれど、小学生、中学生、高校生の演奏を聴いて、私がこれまで学んできたことを伝える、ということもしていきたいと思いました。日本で演奏会があるときなどは日本におりますので、そのときは直接教えて、いないときはアシスタントに見てもらうといった形をとっていけないか、考えています。

-音楽的な夢はありますか?

植村 真剣に取り組めて、時間も十分作れて、音楽的に相性のいい人達が集まれたら、ベートーヴェンのカルテットの全曲演奏をしたいというのが夢です。ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタは10曲あるんですけれど、その10曲全てを演奏するツィクルスを三周したんですよ。それで今度11月に朝日カルチャーセンターでまた一番から奏くのですが、何回奏いてもベートーヴェンのソナタは奏き足らないというか、魅力が尽きなくて……。あるとき、結局これはカルテットにつながっていくものなんだなと思ったんです。ただ、カルテットはメンバーの音楽的相性がとても重要で、合わせの時間もたくさん必要なので、4人とも共通した時間がやりくりできて、4人とも集まりやすい場所にいるかということが大事なので、すごく難しいと思うんです。でも、いつか実現できればすごいことだと思います。

-実現できるといいですね。

植村 はい、本当に「夢」ですね。

-植村さんにとって、音楽とはいったい何ですか?

植村 それを一言で申し上げるのはとても難しいのですけれども、私が演奏会で心がけていることは、作曲家のなかで何が鳴っていたか、何が言いたかったかを伝えるということです。そして音楽が一番生きる演奏をするのが理想だと思っていて、そうすることによってコンサートで聴衆の皆様に伝わるようにと思っています。演奏会のときはいつも作曲家が感じた世界や考えた世界を生きた形でお客さんと共有したいと思っています。

-なるほど。

植村 それから、音楽以外のことをやっている仲の良い友人が何人かいるんですが、その人たちの話を聞いていると、どんな分野でも突き詰めていくと、共通している事が多いと感じます。私はそれを音楽で表現するわけですが、他の分野の人は、表現する方法が違う。もしかしたら、私がしている音楽というのは、表現手段としては比較的表現がしやすいものなのかもしれないとも思います。ただ、表現の仕方が物質みたいな形にはならないので、うやむやにもなりやすいですし、形にならない分、必要ないって思われたり、予算がなければカットされちゃったりする部分でもあるかもしれません。でもだからこそ逆に、専門的とか精通しているとかとは別に、純粋に音楽が好きな人には良い音楽は必要とされているんだなと思ったりもします。私は人前で奏いたりとか、音楽をすることによって自分やまわりのことを考えたりとか、経験を積んだり、また音楽を通していろんな人と知り合い、影響しあっています。つまり、音楽によって、いろいろ精進しています。だから、私にとって、音楽というのは「私の人生の中に入り込んでいること」です。

-素敵なお言葉をありがとうございます。

植村 いえいえ。

-最後にプロを目指している方に、プロで成功する秘訣やアドバイスがあればお願いします。

植村 ドイツでプロとしてやっていくためには、謙遜しないことが大事だと思います。それから留学するにあたっては、相性がいい先生に教わることだと思います。

-いい先生と出会うことは非常に大事なんですね。

植村 はい。私自身、出会いに恵まれてきたことでここまで来れていると思います。先生がいい音楽家であっても、性格的に合わないといったことで苦労してしまうのはもったいないです。苦労しなくていいところで苦労している人を周りでわりと見てきていますので、そういう面で、私はラッキーだったと思っています。

-なるほど。今日は貴重なお話をありがとうございました。

植村 どういたしまして。


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植村理葉さんによる朝日カルチャセンターレクチャー
ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタの魅力を分かち合いたくて、ドイツでソリストとして活躍中の植村理葉が皆様をお誘いいたします。至近距離での演奏をご堪能ください。
日時:2008年11月8日午後1時
場所:新宿住友ビル7階朝日カルチャーセンター
演奏曲目:ベートーヴェン ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第1番、第2番、第3番
詳細リンク:
http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=30602&userflg=0
詳細は:http://www.riyo-uemura.com

金沢多美さん/ピアノデュオ/イスラエル

金沢多美さんプロフィールー

ピアノデュオで活躍中の金沢多美さん
ピアノデュオで活躍中の金沢多美さん

東京都出身。国立音楽大学付属高校卒業。リュエイユ=マルメゾン地方音楽院、パリ国立高等音楽院卒業。ヨーロピアン・モーツァルト財団から奨学金を得てモーツァルト・アカデミーで研鑽を積む。96年にイスラエル人ピアニスト、ユヴァル・アドモニーとデュオ結成。以来、数々の国際コンクールで優勝。2000年東京国際ピアノ・デュオ・コンクール第1位、2001年ローマ・ピアノ・コンクール、デュオ部門第1位受賞、2002年イブラ・グランド・プライズ優勝。2005年大阪国際室内楽フェスタでメニューイン金賞獲得。2008年グリーグ国際ピアノ・コンクール・デュオ部門第1位受賞。2008年にイスラエル文化省より「文化大臣賞」を受賞。現在デュオは、イスラエルを拠点に演奏活動。アジア音楽祭、ブダペスト春の音楽祭、バード・ヘレンハルプ音楽祭、オデッサ・ディアローグ、イスラエル音楽祭等から招聘。イギリスBBC放送、NHK、よみうりテレビ、イスラエル国営放送、BNRブルガリア放送、ブダペスト国営放送等に出演。2008年7月にナクソスからリリースされたリストの交響詩(2台ピアノ版)4曲を収録したCDは、世界各国で放送され、国際的に高い評価を得ている。デュオはイスラエルの芸術高校で教鞭を執り、ピティナ(日本)、韓国国立芸術大学、ノルウェー国立アカデミー等でマスタークラスを行い、後進の指導に力を注いでいる。



-最初に、簡単に略歴を教えてください。

金沢 幼い頃住んでいた所の近所にピアノの先生がいらっしゃって、当時子供がピアノを習うという流行があったこともあって、そこで兄が習い始め、後に私も4歳くらいから習い始めました。それから国立音大付属の小学校に入学しまして、付属の高校まで進みました。高校卒業後パリに留学し、最初の2年間はパリ郊外のリュエイユ=マルメゾン地方音楽院で勉強をし、その後、パリ国立高等音楽院に入学しました。卒業後、進路を迷っている時に、偶然ヨーロピアン・モーツアルト財団のモーツアルト・アカデミーのポスターを見つけたので、そこに申し込んで、奨学金を頂き、プラハで1学期、クラコフで1学年在籍しました。そこで(現在の夫である)イスラエル人のピアニストと知り合い、これからピアノ・デュオでプロとしてやっていこうと決めました。翌年、カナダのバンフ・センターという、プロを目指す人やプロとして活動する人がプロジェクトに専念するために滞在する芸術センターで、デュオを結成するため1年程滞在しました。そこでレパートリーを増やすことに取り組み、コンサートに出演し、録音もしました。それ以来、デュオを専門に演奏しています。98年からイスラエルに住み、演奏活動の他、高校で室内楽やデュオを教え、プライベートではソロのレッスンもしています。

-小学校から音楽の学校に通われましたが、それはご自身の希望ですか?

金沢 いえ、それは自分の意思ではなく、母に“手に職を持つべきだ”という考えがあって、音楽学校に行ったらいいのではないか、と思ったそうです。女の子だし、芸術に触れさせようという考えで、最初から音楽家にしよう、と考えていたわけではないと思いますが……。

-ご自身は普通の公立学校ではない学校に通うことに抵抗はありませんでしたか?

金沢 そうですね。まだ物心もついていませんでしたし、私の小さい頃は“お受験”のようなこともなくのんびりとしていたので、私も何の準備もないまま受験しました。幼稚園を休んで、入試に行ったのですが、“幼稚園を休んでまでどこに行くんだろう?”って思っていました(笑)。

-そうすると、気がついたら音楽の小学校にいた、という感じですね。

金沢 ええ、そうですね。

-その後、高校までピアノを習われていたそうですが、ご留学を考えたのはいつ頃ですか?

金沢 小さな頃から、クラッシック音楽や西洋文化に憧れを抱いていて、ヨーロッパに住んでみたいという夢がありました。小学校の頃のピアノの先生が、ウィーンに留学された方だったのですが、その先生のお話を聞いて、いつかは必ず行きたいと思っていました。音楽系の学校にずっと通っていたので、大学まで進み、卒業したら留学をして……と思っていたのですが、ヴァイオリニストの叔母がいまして、その方に高校3年生のときに相談をしたら、「早く行った方がいいわよ。高校を卒業したら、もう留学したほうがいい」と言われました。そこで、さすがに悩みましたが、両親も私の意思を尊重してくれたので、チャンスがあるなら高校を卒業したらすぐに留学したいと思いました。

-そのとき不安はありませんでしたか?

金沢 もちろん不安はありましたが、それ以上に周りが理解してくれて、行かせてもらえるというこの素晴らしいチャンスへの喜びのほうが大きかったです。

イスラエルで活躍中の金沢さん
イスラエルで活躍中の金沢さん

-フランスを選ばれたことには何か理由があったのですか?

金沢 私の場合、前もって国の音楽事情を調べた末選んだわけではなく、叔母が「私の知り合いがいるから」ということで、フランスに決めたんです。パリはピアノを勉強するのにいい所だし、生活も私がある程度アレンジするからそこに行きなさい、と勧められました。

-そうすると、その叔母さまがほとんどオーガナイズしてくださったんですね。

金沢 始めのうちはそうでしたね。言われたのでそこに飛び込んで行ったという感じです。

-では、留学前に先生に会ったり、レッスンを受ける機会はなかったんですね。

金沢 そう、なかったんですよ(笑)。叔母を100%信頼していましたね。いまどき、こんな方、いらっしゃらないですよね(笑)。

-そうですね(笑)。やはり先生との相性というのもあると思うので……。

金沢 そうですよね。でも、叔母の言葉だけを信じて行ったのですが、始めに入学したリュエイユ=マルメゾン地方音楽院でついた先生は、パリのコンセルヴァトワールを引退なさったルセット・デカーヴ先生という方で、昔はマルグリット・ロンの弟子で、後に彼女のアシスタントを務め、現在のパリの教授達を皆教えたような大御所の先生だったんです。そういうフランス派のピアノ奏法の真髄のような方に教わることができて、本当に幸運だったなぁ、と思っています。

-実際に受けてみて、相性はばっちりだったんですね。

金沢 ばっちりというか……、かわいがっては下さいましたし、私もまっさらの気持ちで行ったので、先生の仰ることなら、と一生懸命勉強していました。留学の形やキャリアの成り立ち方というのは人それぞれですから、こんな乱暴な留学をした人もいたんだ、とご参考になれば嬉しいです(笑)。

-その後、パリ国立高等音楽院に進まれたわけですよね。

金沢 そうですね。デカーヴ先生の勧めもあって、そうしました。

-パリ国立高等音楽院というとヨーロッパではトップクラスの学校ですが、当時の入試の様子など覚えていらっしゃいますか?

金沢 二次試験まであって、一次試験はプログラムAとプログラムBを用意することになっていました。プログラムAはショパンのエチュード1曲とクラッシックまたはロマン派の任意の曲を1曲、Bは別のショパンのエチュード1曲と近代の曲を1曲。それで試験の場で、どちらかのプログラムを弾くよう、審査員から指示がありました。

-当日までわからないんですね。

金沢 そうですね。どちらが当たるかはその場まで分からないので、どちらも用意しておかなければいけませんでした。それが一次試験で、その2週間後に二次試験があるのですが、課題曲は二次試験の1か月前に発表されました。なので、その1か月の間に二次試験の曲も完成させておかなければいけない。私達が入学した年は、バッハのフーガ、ショパンのインプロンプチュ2番、プロコフィエフのソナタ2番の2楽章が課題曲でした。その他に初見のテストがあり、その年はフルートとのアンサンブルでした。

-倍率もものすごいですよね。

金沢 そうですね。競争は厳しいですね。だいたい300名ほど受けて、受かったのが16名でした。でも、フランス人の中にはダメだったらまた来年、と何年も何年もかけて受験する人も多くいました。

-パリ国立高等音楽院の先生探しはしましたか?

金沢 私の場合は、その前にリュエイユ=マルメゾン地方音楽院にいて、デカーヴ先生についていたので、その先生が紹介して下さったブルガリア出身のヴァンシスラフ・ヤンコフ先生という方のクラスに入りました。最初の3年間ヤンコフ先生についた後、先生が引退なさり、引き続いて就任されたパスカル・ドゥヴァイヨン先生に2年間ついて勉強しました。お二人は全くタイプが違いますが、それぞれ素晴らしい演奏家で教育者でもあり、こういった方々について学ぶことができたのはとても恵まれていたと思います。

-当時、日本人の方はどれくらいいましたか?

金沢 結構いましたよ。例えば、私の入った年はピアノ科で日本人が多く、4人いて、他の楽器では、ヴァイオリン一名、フルート一名、ハープ一名、ギター一名いました。他の学年にもピアノ科の他にも弦楽器、管楽器や、作曲科に何人かいて当時から日本人に人気のある学校だったと思います。

-小学校から高校まで日本で音楽を習ってらして、その後、いきなり海外のレッスンを受けたわけですが、日本との違いで驚いたことはありましたか?

金沢 そうですね。驚いたというか感銘を受けたのは、音の響きや音の質に大変繊細な感覚をもって音楽と接し、またそれを具体的に生み出すためのテクニックを教えて頂いたことや、曲の構築性や様式について西洋音楽という自分達の文化として身についていることを教えて下さったことです。特にフランス音楽を勉強したときは、自分達の普段使っている言葉のように自然に知っていることを伝えて下さった、という感じがしました。デカーヴ先生は私が習っているときは既に80歳を越えていたので、フランス音楽の作曲家と直に交遊があったり、それこそフォーレとロマンスがあったようなんです(笑)。それくらいフランス音楽と身近な人達から、教わることができて、そのエッセンスに触れることができた気がします。それはやはり日本では得られなかったことだと思います。あと私にとっては、先生が国際的演奏活動をなさっていて、その現役の演奏家に教わることができる、ということにすごく感動して、実際に演奏されている方からアドバイスを受けると、より実感がわいて信頼できました。

-プロの音楽家として活動されようと思ったのは、この頃からですか?

金沢 漠然とですが、音楽を自分の職業にしていくんだろうな、と思い始めたのは、中学校、高校の頃からだと思います。ただ、どうやったら音楽家になって、それを仕事にできるのか、ということがよく分からなかったですね。パリに来た頃も、よしこれでやっていくんだという決意はありましたが、具体的にどうしていけばいいのかは、分からないままでした。

-ご留学して、より具体的になったりはしましたか?

金沢 才能がある人は沢山いるし、皆が夢を抱いているので、音楽で成功するというのは厳しい世界ですよね。ただ、その頃から私はアンサンブルに向いているな、と思ってはいました。

-そうなんですね。それは、どうしてですか?

金沢 舞台に立つときに一人ではない、ということが心強かったですし、人と合わせて一つの結果にするという作業が楽しくて、それが自分の性分に向いていると感じていました。

イスラエル文化大臣賞授賞式にて
イスラエル文化大臣賞授賞式にて

-現在は、ご主人と2台のピアノ・デュオで活躍されているわけですが、最初にデュオを始めたのはいつからなんですか?

金沢 実は、彼と出会うまではあまりデュオの経験がなかったんです。連弾は小さな頃から弾いていましたが、デュオはあまり経験がなく、どちらかというと他のアンサンブルのほうに興味がありました。でも、彼と恋をしてカップルになって、自分たちはこれから一緒に生活していくという確信があって、そこで、2人ともピアニストとして別々にキャリアを積むよりも共に力を合わせてやっていこう、という考えが彼にあり、デュオとして活動していくことになりました。

-ご主人も金沢さんと出会う前は、あまりデュオの活動をされていなかったんですか?

金沢 そうですね。ただ、彼のほうが少し経験はあったそうです。彼はテル・アヴィヴ大学やロンドンのロイヤル・アカデミーで勉強していた頃、デュオを弾く機会があって、このジャンルの可能性を信じていたようです。

-素敵ですね(笑)。

金沢 いえいえ、実質的なところもあるんですけど……(笑)。

-今までこんなにデュオで活動されたことはない、とおっしゃっていましたが、ソロとの違いやデュオならではの難しさはどんなところにありますか?

金沢 技術的なところで言えば、ピアノは複数の声部を奏でる楽器ですよね。その声部の音色を弾き分けることで、オーケストラのように弾くこともできるわけですが、それが2台になると、声部も倍になるわけです。だから、弾いている時に、自分はどの声部を押しているのか、バランスはどうか、ということを常に意識しなければいけません。そうしないと、ただ音が氾濫しているという状況になってしまうんです。遠近感を持たせるということにすごく気を使います。それは、他の室内楽でも言えることですが、特に同じ楽器でこれだけテクスチュアが厚いと、一つ一つの声部の音量、音質、キャラクター、タッチに意識を集中させて弾かなければならないのです。それは、その分自由さがないと言ってしまえばそうかもしれませんが、自分達で何を築いているのかきちんと分かっていれば、素晴らしい結果が生まれます。2人で作り上げていく作業は、本当に煩雑ですが……。

デュオコンサート
デュオコンサート

-その分、お相手が旦那さまなので、スムーズではないのですか?

金沢 うーん……、皆さん、そうおっしゃってくれるのですが、やはり、仕事に対してはとても厳しいですね。仲良くというわけにはいきません。怒られたり、怒ったり……(笑)。やはり、作り上げて行く作業は、試練があって当然ですよ。でも、私たちはプライベートでもわりと演奏のことに没頭しているので、これで2人が別々のキャリアに進んでいたら、逆に接点がなかったかな、と思うので、2人で一緒に目指すことがあってよかった、と思っています。

-イスラエルの音楽事情を教えてほしいのですが、クラッシックは盛んなところなんですか?

金沢 イスラエルというと日本では紛争の国、危険な所、というイメージがあるかもしれませんね。イスラエルは、中近東に位置するユダヤ人国家で、国家としてはまだ60年しか経っていません。国家としては若いですが、4000年もの歴史があり、ご存知の通りキリストが生誕した所であり、何千年もの離散の末戻って来たユダヤ人の築いた国です。クラシック音楽事情に関しては、ヨーロッパ各国や旧ソ連の各国から移民して来た人達が築いた土壌がきちんとある所なんです。なので、オーケストラもあれば、ホールもあるし、教育システムもきちんとある国です。特に90年代のソビエトの崩壊で、旧ソビエトから多くの音楽家も移民して来ました。そういうこともあって、音楽のレベルはすごく高いと思います。

-ロシア系の音楽がどちらかと言えば、盛んなんですか?

金沢 ロシアだけでなく、ハンガリー、ルーマニア、ポーランドなど、どちらかというと東ヨーロッパの方々が多いですね。ユダヤ人が大半ですが、そういった彼らの優れた特性に触れることができるのもイスラエルならではだと思いますし、それはとても幸せなことだと思います。

-オーケストラも沢山あるんですか?

金沢 そうですね。一番有名なのは、来日公演もするイスラエル・フィルだと思いますが、他にもオーケストラは沢山あります。

-今後、イスラエルのオーケストラに入団したい、という方がいらっしゃるとしたら、比較的簡単に入れるものなのでしょうか?

金沢 どうでしょうか。イスラエル・フィルは、空きがあるとオーディションを開いていますので、海外から来てメンバーとして演奏していらっしゃる方もいますね。

Image-音楽学校は沢山あるんですか?

金沢 大学、アカデミーに属する音楽学校は、テル・アヴィヴにあるテル・アヴィヴ大学ブッフマン・メータ音楽院とエルサレムにあるルービン音楽アカデミーがあります。あと夏期講習では、ニコライ・ペトロフなど有名な先生が教えに来るピアノのマスタークラスがあり、シュロモ・ミンツが主催しているヴァイオリンの夏期講習もあります。

-それは毎年、開催されるんですか?

金沢 そうですね。よかったら、是非、イスラエルにもいらしてください。

-そうですね、留学を考えている人の中にはイスラエルが気になっている方もいらっしゃると思います。

金沢 日常生活は非常にのんびりしたところもあって、危険なところを除けば、普通に生活もできるので、是非、考えてみてほしいですね。

-今後、夏期講習だけでなく、アカデミーに留学されたい方も出て来るかと思うのですが、受験状況はどのような感じでしょうか?

金沢 入学するのは、それほど大変ではないと思います。ヨーロッパのように留学生も沢山いて……、という環境ではないですし、あまりレベルが高くない人から既に演奏活動をされている若手の方もいます。先生と縁があれば、イスラエルへの留学も良いと思います。

-アカデミーに通われているのは現地の方が多いのですか?

金沢 そうですね。でも、多くはありませんが、テル・アヴィヴの大学は上海の大学と交流があるようで、常に何人か中国からの留学生もいますし、ヨーロッパからの留学生もたまにいます。実は、今年度ヴァイオリン科に日本からの留学生も一人いるんですよ。

-ちなみに、この音楽アカデミーに入るには語学の証明は必要ですか?

金沢 現地は、ヘブライ語ですが、英語ができれば問題ないと思います。普段の生活でもヘブライ語ができなくても、英語ができればあまり困ることはないと思います。

Image-日本人がイスラエルで演奏家として活動するにあたって、有利な点や不利な点は何かありますでしょうか?

金沢 有利な点というか……、ありがたいことに日本のイメージというのは悪くはないし、政治的にもイスラエルと摩擦があるわけではないので、温かく受け入れて下さいますね。最近では、漫画などのサブカルチャーやお寿司なども人気があります。そういう意味で興味を持ってくださるので、溶け込みやすいですね。不利な点は、日本人だからというわけではありませんが、新しく入って来た人間として、前からある音楽や仕事の輪に入っていくのは大変でした。そこにうまく認めてもらって、入れてもらうのは、後から来る者には少々不利というのはしょうがないですよね。

-それはイスラエル人の国民性というか、気質から来ているのでしょうか? 仲間意識が強い、といったことは感じますか?

金沢 そうかもしれません。何せ小さな国なので、皆が皆を知っている、という “村”のような感じがあります。でも反対に打ち解けてしまえば、顔パスというか、コネが効いてしまう社会で、例えば「洗濯機を買おうかな」と言うと、「僕のおじさんの近所に住んでいる人のいとこがそういう仕事をしているから、買わないでそこに行け」と言われたりするんです(笑)

-面白いですね。

金沢 やっぱり、ドイツやフランスといったヨーロッパではそうはいきませんよね。やはり、キャリアを築くということを考えると、そういうこともすごく重要だと思います。1人で仕事をしていけるわけではないので、そうやって人の輪に入って、継続させていくということが必要になってくるんです。そういうことって、学校では教えてくれませんし、私達も試行錯誤を繰り返して、身に付いていったことですが、やはり、人の繋がりというのはすごく大切だと思います。それは与えてもらうだけではなく、自分が与えてもらったら、今度は与えてあげる、音楽の世界であっても、そういうギブ&テイクで成り立っている、人間の営みであるということを分かってしまうほうが楽なんですよね。だから、表面的なお付き合いでない人間関係を築くことが大事だと思っています。

-ところで、今回の金沢さんのお話を読んで、イスラエルに対するイメージが変わる人も多いと思うんですよ。

金沢 そうだといいですね。やはり、知られていないということが残念です。これだけクラシック音楽のレベルや密度が高い国だということを皆さんに知ってほしいですね。ヨーロッパからなら4時間くらいで来られますし、ユダヤ人の音楽に直接触れてみたいという方は、是非来て頂きたいと思います。

Image-今後の音楽家としての目標を教えていただけますか?

金沢 ピアノ・デュオが自分達のアイデンティティのようになっているので、これからもデュオとして、レパートリーを増やし、演奏し続けたいです。また、このメディアをより浸透させるため、フェスティバルやマスタークラスなど開催し盛り上げていけたらな、と思います。それから、イスラエル音楽の演奏や初演など今までもやってきたことですが、これからも作曲家の方達とコラボレーションしていきたいと思っています。やはり一緒に創造する意義とその喜びがあるので。彼の方は、いずれ作曲も手がけたいと考えているので、彼の曲を二人で演奏するコンサートが未来像になっています。

-金沢さんご自身はいかがですか?

金沢 実際、演奏についての目標ですが、フランス人女優のジャンヌ・モローがインタビューで言っていたのですが、役に入っていく時は、自分を空にして、中にエネルギーが流れる管のようになると例えていました。それを聞いて、あぁなるほどな、と思いまして、私も演奏する時は、そういう境地でいたいと思いました。エネルギーがよどみなく流れる管、媒体でありたいと思ったんです。そういう気持ちで演奏できるときもたまにあって、そういう時は、あぁ良かったと思えるんですよね。

-最後にこれから留学を考えている方にアドバイスをお願いします。

金沢 今は留学に関する情報も沢山あって、気軽に海外にも行けて、逆に海外から日本に先生もいらして講習も受けやすい環境なので、皆さん、よりスマートに選択されて留学なさる方が多いと思うんです。でも例えば、留学先で希望の学校に入れなかったり、卒業できなかったり、希望の先生につけなかったり、ついてもレッスンをあまりしてくれない、という予想できないことが起きる場合もあります。はっきりしたプランがあるのは結構だと思いますが、そういう壁にぶつかってしまったときに、臨機応変に対応して、プランと違っても大丈夫、という気持ちを持ってほしいです。自分の希望や目標を大局的に見ることが大事だと思います。そういう時に、しっかり自分と向き合って、考えて悩み抜くということがいい経験になって、人間が生きのびていく力というのが養われていくと思います。一人で悩むだけじゃなくて、助けを求めることも力のひとつだと思いますし、恥ずかしがらないで、めげないで、予定と違ってもいいんだ、と。

-なるほど。

金沢 それから、留学というのは、一時的な講習会と違って、そこに住んで生活をするということなので、現地で出会う人達とのコミュニケーションするということを大切にしてほしいと思います。私自身、日本を離れて久しいですが、日本人というのはコミュニケーションに対して、気を回すことが上手だけど、その反面、依存心が強い気がします。空気を読む、というのは本当に日本人らしい表現で、空気は読めないものなんですよ(笑)。やはり、わかってもらえない時はわかってもらえないような表現しかしていない、ということなので、そういう責任感を持って、コミュニケーションをとってほしいと思います。それは、語学力の有無ではなくて、伝えたい意思があるのかが、重要だと思います。心から語りかければ、イスラエルでもフランスでもどこの国に行っても返ってくるものはあるし、人と繋がる喜びというのはあります。自分がそこに一時的に留学をして、何かを学んで帰る、与えてもらう側だけだというのではなく、自分も何かを与えられる存在で、きちんと交流ができるという認識をもって留学をしてほしいなと思います。

Image-ありがとうございます。最後に、成功の秘訣があれば、教えていただけますでしょうか。

金沢 偉そうにいうほど成功していませんが(笑)、失敗の連続で覚えたことをお話させて頂きますね。音楽を職業にしている方というのは、音楽大学やアカデミーを卒業した方が多いと思います。そういう学校を出て、スムーズにキャリアが築けるのが、いいに越したことはないと思いますが、そうでなかった場合、知恵を絞って、自分なりのクリエイティブな戦略を持ちかけるくらいの姿勢でいなければ、何も起こらないと思います。私も若い頃は依存心が強くて、きちんと弾けていればいいことがあるんじゃないかと夢見ていたのですが、ある程度戦略を持って、アグレッシブに仕掛けていかないとダメだと思います。具体的に言うと、コンクール、コンクール……というと嫌かもしれませんが、やはりコンクールで採った賞をマスコミ伝えて話題を作ったり、あまり使われていないホールを見つけて、市町村の人にかけあって、自分の巣にしてしまう、とかね(笑)。

-えー! それは、金沢さんがされたことですか?

金沢 そうですね(笑)。イスラエルで。そうやって、自分の場所を作って、そこに知り合いの演奏家を呼ぶ。そうすると、向こうも貸しがあるということで、今度は彼の巣に呼んでくれる。そうやって、自分で知恵を絞って、どんどん発言権を身につける。自分でアピールして、売り込むのっていい気持ちはしないし、難しいことだとは思いますが、出しゃばらずエレガントな線を守りながら、謙遜もせず、自分の幅を広げていく。それからチャンスというのは、自分が準備万端に用意できたときに転がってくるものではなくて、いつ転がっているかわからないものだから、そういう時にいつでもぱっと心を開けるようにしておくのが大事だと思います。一期一会という言葉もありますし、そこでもじもじしていたら、本当にもったいないんですよ。

-本当にそうですよね。

金沢 そうやって、人と繋がりができて、依頼があったら、まずイエスと答えるようにしています。交渉などは彼がすることが多いので、彼の対応を見て学ぶことも多いんです。私はどうしても日本人的なんですよね。例えば、「6月にこういう曲を演奏してほしい」という依頼を受けると、その時期はあのコンサートも入っていたから手が回らないんじゃないか、とか、二股になってしまうんじゃないか、とか考えてしまって、「少し考えさせてください」と答えるのが誠実である、と思ってしまうんですよ。でも、そうではなくて、まずは、イエス。やりたいということを伝えるのが大事なんですね。その後で、曲は変えられるか、とか、日程の相談をすればいいんです(笑)。厳しい世界なのでハッタリでもいいから、まずは、熱意を伝えていくことが大事なんですよ。

-なるほど。

金沢 あとは、そうやって行動していても、断られ続けることもあります。でもそれは、あまり個人的に否定されていると考えずに、とにかく続けていくということが大切なのではないかと思います。失敗から学んだ事ですが、少しでも皆さんの参考になればいいな、と思います。

-はい。本当に今日は貴重なお話をありがとうございました。

金沢 こちらこそ、どうもありがとうございました。

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東京で金沢さんのデュオリサイタルが開催されます!
世界で活躍するデュオのコンサートに足を運んでみてはいかがでしょうか?

◆デュオ・アドモニー リサイタル◆

金沢多美 & ユヴァル・アドモニー
2台ピアノによるリスト交響詩 ~人間性のドラマを奏でる~
「オルフェウス」「理想」「前奏曲」「マゼッパ」
10月26日(月)19:00 開演 東京文化会館小ホール
一般 ¥4000(全自由席) / シニア・学生 ¥3000
チケット取り扱い: 
• チケットぴあ 0570-02-9999( Pコード331-570)
• 全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) www.piano.or.jp/concert/support
• 東京文化会館チケットサービス 03-5685-0650
• IVSテレビ制作 03-5261-9545 (12:00~19:00土日・祝日を除く)
後援: イスラエル大使館/ (社) 全日本ピアノ指導者協会/ ナクソス・ジャパン(株)
助成: 財団法人日本室内楽振興財団
お問い合わせ: IVSテレビ制作


川見優子さん/ヴァイオリン/マレーシア・フィルハーモニー・オーケストラ/マレーシア

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回マレーシア・フィルハーモニー・オーケストラ(MPO)でご活躍中の川見優子(カワミユウコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2009年6月)


ー川見優子さんプロフィールー

マレーシア・フィル川見優子さん
マレーシア・フィル川見優子さん

北九州市小倉北区生まれ。3才よりピアノ、6才よりヴァイオリンを始める。第43回全日本学生音楽コンクール西日本大会ヴァイオリン部門中学生の部第1位。桐朋女子高校音楽科、桐朋学園大学を経てプラハ芸術アカデミーに留学。プラハ芸術アカデミー修士課程を栄誉賞を受けて卒業。アカデミー在学中、J・ビェロフラーヴェク氏指揮、プラハ芸術アカデミー学生のコンサートミストレスを務める。弦楽カルテットの第一ヴァイオリン奏者としてオランダのチャールズ・ヘンネンコンクールで3位、マルティヌー国際音楽コンクール弦楽四重奏部門(プラハ)で2位を受賞。アマデウス弦楽四重奏団、アルバンベルグ弦楽四重奏団などから指導を受ける。ヴァイオリンを篠崎永育、三木妙子、江藤俊哉、石川静、V・スニーチルの各氏に、室内楽を、原田幸一郎 藤井一興、L・コステツキー(スメタナカルテット), P・メシエーレル(ターリヒカルテット)の各氏に師事。又、I・スターン、A・デュメイ、Z・ブロン各氏のマスターコースを受講。これまでに、韓国KBSシンフォニーオーケストラ、チェコのピルゼン・オーケストラ、パルドゥビツェ室内フィルハーモニー、プラハ室内フィルハーモニー、スロヴァキアのコシツェ・フィルハーモニーなどにソリストとして共演。2004年よりマレーシア・フィルハーモニー・オーケストラ(MPO)入団。

-まずはじめに簡単な自己紹介をお願いします。

川見 3歳からピアノ、6歳からバイオリンを始めました。中学校1年生のときに、全日本学生音楽コンクール西日本大会ヴァイオリン部門中学生の部で1位を受賞しました。高校から東京に上京して、桐朋女子高校音楽科を卒業、その後、桐朋学園大学ソリスト・ディプロマコースを経て、20歳のときにプラハに留学しました。プラハ芸術アカデミーに5年間在籍して修士課程を終了し、2004年からマレーシア・フィルハーモニー・オーケストラに入団しました。
 
-3歳のときにピアノを始めたのはご両親の影響ですか?

川見 はい、そうです。母がピアノの先生をしていたので、自然とピアノを聴いて育っていました。
 
-バイオリンに転向されたのはどうしてですか?

川見 母がバイオリンのレッスンに連れて行ってくれたことは覚えていますが、自分から行きたいと言ったのかどうかは覚えていません。気がついたら、バイオリンを弾いていたという感じです。
 
-バイオリンの方がお好きでしたか?

川見 そうですね。ずっと、ピアノとバイオリンを両立して同じくらいやっていたのですが、小学校4年生からコンクールに出るようになって、その頃からバイオリンが主になってきました。
 
-中学校1年生で、コンクール1位をとられたということですが、コンクールには精力的に参加されていたんですか?

川見 毎年コンクールには出ていました。同じバイオリンスクールに通っている周りの子たちも参加していたので、自分も一緒に参加する、という感じでした。
 
-1位になったときは、うまく弾けた!という感じだったんですか?

川見 あまり覚えていないんですよ(笑)。ただ、すごく嬉しくて、それがきっかけのひとつとなって、音楽の道に進むことを、考えるようになりました。
 
-高校に入学した頃は、音楽家としてやっていこうという気持ちはあったんですか?

川見 そうですね、ありました。桐朋の音楽教室に小学校5年生の頃から通っていたんですけれども、中学校2年生の頃から、レッスンのために上京するようになりました。その頃から自然と音楽の道に進みたいという気持ちになっていきました。
 
-なるほど。それで、高校を卒業されて、大学に進まれたんですよね?

川見 大学とは違うのですが、ソリスト・ディプロマコースというコースに進みました。でも結局、卒業せずにチェコに行きました。
 
-ご留学を考え始めたのはいつ頃からだったのですか?

川見 外国に興味を持ち始めたのは、15歳のときに北九州音楽祭で、フィンランド人の世界的指揮者オッコ・カム指揮のKBSシンフォニー・オーケストラ(韓国)と共演した時です。その後、フィンランドのクフモ音楽祭に全額奨学金をいただいて、音楽祭に参加したのですが、初めてヨーロッパを訪れて、外国の方たちと交流する機会があり、海外に興味を持つようになりました。
 

ヴァーツラフ・スニーチル教授と奥様と先生のご自宅で
ヴァーツラフ・スニーチル教授と奥様と先生のご自宅で

-なるほど。それで、プラハを選ばれたのはどうしてですか?

川見 海外留学を考えていた時に、江藤俊哉先生や石川静先生に相談しました。江藤先生も、親身になって、アメリカなら、どの学校が一番私に合っているか等、色々相談に乗って下さいましたが、石川先生が、演奏旅行で、頻繁に日本とプラハを往き来されていましたので、私の録音テープをプラハ芸術アカデミーの教授、ヴァーツラフ・スニーチル先生に持って行って下さいました。スニーチル先生がそのテープを聞いて「教えてあげるから、いらっしゃい」と言って下さったので、思い切って留学しました。何も分からないまま行ったので、不安も大きかったのですが、結果的にはとても充実した留学生活を送ることが出来ました。
 
-ご留学前にチェコで師事する先生のレッスンを受けずに行かれたのですか?

川見 いえ、レッスンは受けました。その時にすぐ、この先生に教えていただきたいと思いました。
 
-そうやって、素晴らしい先生と出会えることって、なかなかないですよね。

川見 そうですね。先生との相性もとても大事な要素だと思います。先生の音楽に対する謙虚な姿勢、研究熱心なところをとても尊敬しています。先生の音楽に対するお考えに共感する部分がたくさんありました。
 
-プラハ芸術アカデミーは先生がOKをくだされば、入学は可能なんですか?

川見 そうですね。他の試験もありますが、そういう部分もあります。ただ、席が空いていない場合もあって、とても忙しい先生だと、1年も2年も待たされるということもあるかと思います。
 

ヴルタヴァ沿いにあるスメタナ博物館
ヴルタヴァ沿いにあるスメタナ博物館

-チェコ語は勉強されてから行かれましたか?

川見 行ってから勉強を始めました。
 
-レッスンは英語ですか?

川見 最初のうちは英語でした。しばらくするうちに、レッスンを先生の母国語で受けたい、先生のおっしゃることを全部理解したいと思うようになり、語学学校や夏季集中チェコ語コースにも通い、チェコ語の勉強を始めました。
 
-チェコ語というと、あまりなじみのない方が多いと思いますが、やはり語学の習得は大変でしたか?

川見 チェコ語は難しいですね。スラブ語系の言語で、格変化が多いです。女性、男性、中性とあって、さらに複数でもそれぞれ女性、男性、中性があります。語学の習得は、とても大変でした。
 
-現地で音楽理論の授業もありましたか?

川見 はい。ただ、留学してすぐに本科に入ったのではなく、最初は研究生としてレッスンだけ受けていました。授業は受けなくてよかったので、その空いた時間で語学学校に通ったりしていたんです。スニーチル先生のところでもっと長く勉強したいという気持ちがあったのと、桐朋でソリスト・ディプロマコースに進んだものの、きちんと終了していないので、もう一度しっかり学び直そうと思い、アカデミーの本科に編入しました。それが留学して2年経ってからです。それからは、理論や音楽心理学、歴史も学びました。授業はチェコ語だったので、内容は半分くらいしか分かりませんでした……(笑)。
 

モルダウ川とお城とカレル橋
モルダウ川とお城とカレル橋

-ご留学されて感じた日本とチェコの音楽(家)の違いは何かありますか?

川見 スタイルが違いますね。チェコ人の演奏は、フレーズがすごく流れていく感じがあって、弓の使い方もサササーと流れていくんです。日本 だと、もっと歌い込むような印象があります。また、歴史的にロシアの影響を受けていますので、奏法がロシア系に近いです。
 
-チェコの音楽に触れて、何か戸惑いはありましたか?

川見 戸惑っている余裕はなく、がむしゃらに頑張っていた感じです(笑)。
 
-ご留学して、ご自身が一番変わったことは何ですか?

川見 日本にいた頃は、枠にはめて考える癖があって、こうしなきゃいけないとか、こうじゃなきゃダメだとか、そういうふうに考えていたんです。留学して、そこから解放されました。間違っていても、主張はしていいんだ、と思えるようになりました。間違っていれば、学生であるうちは先生が指摘してくださいますしね。留学してからは、ああしてみたらどうだろう、こういう方法も可能かもしれない・・と、自由に考えられるようになりました。それから、自分の意見を言うのがこわくなくなりましたね。
 
-そういうことは音楽にも繋がってくるでしょうね。

川見 はい。そうですね。
 

冬・自然(マイナス・10度?)
冬・自然(マイナス・10度?)

-チェコ・フィルに入団されたのですか?

川見 チェコ・フィルはオーディションに合格しましたが、入団はしていません。これから入団、というときに、マレーシア・フィル入団を決めました。
 
-そうだったんですね。ちなみにチェコ・フィルのオーディションについて、お伺いしてもよろしいですか?

川見 募集はアカデミーの掲示板で見て応募しました。一次審査は、スクリーンがあり、誰が音を出しているのか分からないようになっています。モーツァルトのコンチェルトとオーケストラ・パートの何曲かを演奏しました。聴いている人は多かったようで、弦楽器以外の人も含めて団員全員とはいかないまでも半分以上の人が聴いていたようです。一次審査が午前中に終わり、すぐに結果発表があって、午後には二次審査がありました。応募者は20人程度で、4人が二次に進んで、そのうち3人は日本人でした。
 
-なかなか珍しいですね。

川見 そうですね。審査の方法ですが、一人一人が100ポイントを持っていて、その合計を人数で割って出し、何パーセント以上だったら合格ライン、としていたようです。そういうシステムですので、1位の人だけが入団できるのではなく、2位の人でも合格ラインに達していて、1年以内に席が空けば入れるというシステムでした。
 
-二次試験はどんな内容だったのですか?

川見 ロマン派のコンチェルトとオーケストラ・パートです。スクリーンなしで、顔が見える状態でした。この時の常任指揮者はマーツァル氏で、彼がオーディションを進めていました。
 

隣国スロヴァキアで山登り
隣国スロヴァキアで山登り

-二次に進んだ4人のうち、何人が合格したんですか?

川見 覚えていません。私は2番目での合格でした。1番目の人は、チェコ・フィルにセカンド・バイオリンで在籍していた人で、ファーストに移動を希望して、オーディションを受けていました。彼女は一次審査は免除されました。
 
-それで、結局マレーシア・フィルに行かれたわけですよね。こちらのオーディションはどうやって知ったのですか?

川見 インターネットに募集が出ていました。音楽雑誌にもオーディションの広告を出していたようです。マレーシア・フィルは、今、ちょうどロンドンでオーディション・ツアーをやっています(注:インタビュー2009年6月)。オーディションのためにマレーシアに来てもらう、となるとなかなか、参加者が集まらないという事情もあり、毎年、首席指揮者、オーケストラマネージャー、各パートの首席の人たちが一緒に世界を旅行しています。今年は、ロンドンとミュンヘンだけでしたが、日本、中国、オーストラリア、シカゴ、ニューヨーク、ベルリン、プラハ、ブダペスト……いろいろなところを回っています。
 
-川見さんのときは、プラハに来ていたのですか?

川見 はい、そうです。プラハ芸術アカデミーがオーディションの会場でした。
 
-マレーシア・フィルのオーディションはどのようなものですか?

川見 一次、二次とは分かれていなくて、一人が30~45分くらいかけて弾きます。課題曲はモーツァルトのコンチェルトとロマン派のコンチェルト、Tuttiポジションのオーディションであれば、他に7、8曲のオーケストラ曲を弾きます。タイトルポジション付きのオーディションを受ける場合は、さらにオーケストラのソロ・ヴァイオリン・パートを数曲弾きます。
 
-そのときはどのくらいの人が受けていましたか?

川見 プラハでのオーディションは10人程度だったと思います。他の各都市では20人ほど受けていたようです。
 

プラガカメラータと日本公演で
プラガカメラータと日本公演

-プラハでのオーディションでは何人が通ったのですか?

川見 2人でした。もう一人の合格者が私の夫(ヴィオラ奏者)で、二人で合格しましたので、チェコ・フィル入団が決まっていましたが、マレーシアに行く決心をしました。1人だけだったら、マレーシアに来る勇気はなかったと思います。
 
-じゃあ、二人でマレーシアに行こう、という感じだったんですね。

川見 そうですね。
 
-でも、マレーシアに行かれるということに不安もありましたか?

川見 そうですね。マレーシアと言われても、思い浮かぶことが、ビーチ、虎・・・くらいで(笑)。海が綺麗でダイビングスポットとして遊びに行く国というイメージですよね。でも、いつもそうですが、あまり深く考えずに行動に移してしまう性格です。
 
-実際に行かれてみてどうでしたか?

川見 思っていたよりも街の中心は近代都市で、私たちの働いているホールはツインタワーという一時は世界で一番高かった建物の中にあります。ホールだけではなく、ショッピング・モールやトップ企業のオフィスも入っていて、便利がよく、とても環境がいいところです。
 
-では、生活で困るようなことはありませんか?

川見 はい 特に困る事はありません。ただ、国としては、チェコの方が好きです。プラハの街は石畳で、お城や教会など9世紀、10世紀のものがたくさん残っていて、歴史を感じます。マレーシアは、歴史が浅く、まだ発展を目指している国です。またクラシック音楽は、裕福な層のもの、高尚なものという印象があるようで、まだ人々の間に根付いていません。一方、プラハでは、毎日、どこかの教会やホールでコンサートが頻繁に行われていて、気軽にコンサートに立ち寄れる、という環境です。マレーシアはそういう面では物足りなさを感じます。一方、だからこそ、マレーシアでのクラッシック音楽の普及に貢献できているかもしれない、と思うところもあります。
 
-マレーシア・フィルはマレーシアを中心にコンサートをされているんですか?

川見 はい。ほとんどがマレーシア国内での演奏活動で、毎年1カ所、海外公演をしています。今年は、9月に日本に行きます。私はこれまでに、オーストラリア、中国(上海、北京)、台湾、シンガポールに行きました。
 
-団員さんは国際色豊かなんですか?

川見 団員は今100人弱いますが、マレーシア人は5人しかいません。他は、アメリカ、カナダ、ヨーロッパの国の人達で、全部で23か国くらいですね。日本人は8人います。
 
コミュニケーションは英語ですか?

川見 はい、そうです。
 
-先ほどもお話がありましたが、マレーシアでのクラッシック音楽はまだまだ普及していないんですか?

川見 指導者も限られていますし、教育システムがまだ整っていないんです。だから、私たちが今しなければいけないのは、しっかりとした指導者を育てる事だと思っています。まだ、間違った方向で音楽学生が指導されていることがあるんです。15歳の時に私のところへ習いに来た生徒がいましたが、本当に最初から教え直さなければいけなかったこともありました。
 
-でも、そうやってクラッシック音楽の普及に携わるのも素敵なことですよね。

川見 自分のできることをしようと思っています。一人の人間にできることは本当に小さなことだと思いますが、オーケストラの中には教育熱心な人もいて、管楽器のアンサンブル、弦楽アンサンブルを学生のために作り上げて指導している同僚達はいますし、学生たちに人前で演奏する機会を与えたり、底上げをはかろうとしています。私自身もアウト・リーチはしていて、病院や学校などに出向いて演奏しています。
 

ヴルタヴァ側と国立歌劇場
ヴルタヴァ側と国立歌劇場

-今、川見さんはマレーシアで音楽活動をされているわけですが、将来的に夢や目標は何かありますか?

川見 室内楽、小編成のアンサンブル、特に弦楽カルテットに惹かれます。学生の頃は室内楽をたくさん勉強しましたが、オーケストラ曲をあまり知りませんでした。モーツァルトの室内楽曲やソナタはたくさん知っていても、交響曲やオペラをあまり知らない、というのでは偏るかなと思いますので、今は色々な作曲家の交響曲を知る時期だと捉えています。いずれは、夫とヨーロッパに戻って小編成のアンサンブルで活動できたらいいな、と思います。
 
-ちなみに旦那さまはどちらのお国の方なんですか?

川見 スロバキア人です。
 
-では、旦那さまもいずれはヨーロッパに戻りたいとお考えなんですね。

川見 そうですね。話は少し変わりますがマレーシアは常夏の国ですので、四季がありません。四季は恋しいです。少し前までは、音楽をやるならどこの国にいても同じだと思っていたのですが、やはり住む国の環境というのは大きいなと思います。
 

プラハの冬
プラハの冬

-将来、音楽家になりたいと思っている日本の学生にアドバイスをお願いします。

川見 音楽だけでなく、語学も勉強しておいた方がいいと思います。私は喋れずに渡ってしまったので、あまり言えないのですが、勉強するだけだったらなんとかなる語学のレベルと仕事をしたいと思ったときに必要になる語学のレベルは少し違います。語学力で、人との交流や入って来る情報の量も変わってきます。人との交流が、豊かなほど人間的にも成長できると思いますし、その成長は音楽にも影響してくると思います。勇気を出して人と接する機会をたくさん持ってみてください。
 
-そうですよね。コミュニケーションは大事ですよね。

川見 ええ。また、たとえ、最初に就職したところが自分の希望と違うところでも、希望を持ち続けていれば、きっとチャンスは回って来ると思います。
 
-多くの方がひどく悩んでなかなか動けないという方がいます。

川見 情報収集はとても大事なことですが、「悩むより行動に移してみるほうがよい」と思うのです。不況の中、金銭的な問題もあるかもしれませんが、講習会に参加してみることで、「よく分からない」目標がはっきりと見えてくるかもしれません。いきなり留学しますと、その国や先生との折が合わなかったときに精神的にダメージが大きいので、講習会などを利用するのが一番良いと思います。音楽留学は、「この国にいく」「この学校に入る」というより、「この先生に是非習いたい」と思ったその先がチェコだったり、ドイツだったり、フランスだったりすることが、多いと思いますが、一方でフランス人の演奏スタイルが好きだとか、ドイツのオーケストラの音が好きだとか、チェコ人作曲家を深く知りたい、などということもあって、留学先を「国」で決めることもあるかもしれないですね。動機がどんなものにしても、実際にその空気に触れて初めてわかる事ってたくさんあると思います。例えばチェコで言えば、室内楽が盛んな国なので、四重奏を勉強したい、というはっきりした目標を持った人には良い国かもしれません。もう今は活動していないですが、プラハカルテット、スメタナカルテット、世界の第一線で大活躍中のプラジャークカルテット、メンバーはオリジナルと変わりましたけれど、ターリヒカルテット、ヴラッハカルテット、コツィアンカルテットや若手のハースカルテット、など、プロの弦楽四重奏団の多い国だと思います。
 
-最後に川見さんにとって音楽とは何ですか?

川見 3歳の頃からずっと音楽に触れているので、生活の一部になっています。
 

楽器製作者ピラーシュ氏の自宅
楽器製作者ピラーシュ氏の自宅

-本当に生活そのもの、なんですね。

川見 そうですね。大きな影響を受けてきました。落ち込んだ時にクラシック音楽を聴くと元気になりますし、素晴らしい作品に触れる時、わくわくします。また、演奏家として舞台に立ち、聴いて下さる方とその時間を共有しているときとても幸せです。
 
-ありがとうございました。


〜〜〜〜以下、MPOの日本公演日程〜〜〜〜
 2009年9月にマレーシアフィルハーモニー管弦楽団(MPO)は、
日本ツアー4公演を下記の日程で行います。

9月8日19:00開演 ザ・シンフォニーホール(大阪)
9月9日18:45開演 愛知県芸術劇場コンサートホール(名古屋)
9月11日19:00開演 札幌コンサートホールKitara(札幌)
9月14日19:00開演 東京オペラシティコンサートホール(東京)

スメタナ 交響詩「モルダウ」
ブラームス ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77
ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」

指揮 クラウス・ペーター・フロール
ヴァイオリン ワディム・レーピン
 
MPO公式サイト
http://www.malaysianphilharmonic.com/
 
また、ツアーのあとに、MPOメンバーによる室内楽演奏会を東京・ルーテル市ヶ谷センターホールで行います。
 
詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.h2.dion.ne.jp/~kikukohp/mpcs.html
 

渡辺泰人さん/ピアニスト/ウィーン国立歌劇場バレエ学校ピアニスト/オーストリア・ウィーン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回ウィーン国立歌劇場バレエ学校ピアニストでご活躍中の渡辺泰人(わたなべやすひと)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2009年8月)


ー渡辺泰人さんプロフィールー

渡辺泰人さん
渡辺泰人さん

日本大学芸術学部音楽学科ピアノ専攻及び同大学院修士課程修了。芸術学部長賞を受賞し、読売新人演奏会に出演。同大学院在学中、日本大学大学院海外派遣奨学生として渡欧、ウィーン国立音楽大学ピアノ演奏科第一ディプロマ課程修了。その後ミュンヘン国立音楽大学研究課程を経て、ザルツブルグ・モーツァルテウム国立音楽大学ピアノ演奏科に在籍。第6回モルコーネ市国際ピアノコンクール(イタリア)第2位入賞をはじめ、これまでに国内外の数多くのコンクール、及びオーディションにて入賞。現在はウィーンに在住し、ソロのみならず、ピアノ三重奏団“ヴェルトハイムシュタイン・トリオ・ウィーン”、及び“サロンオーケストラ・アルト・ウィーン”のピアニストとして演奏活動を行っている。現在、ウィーン国立歌劇場バレエ学校ピアニスト及びウィーン市民学校ピアノ講座講師。

-では、最初に、渡辺さんのご経歴をお願いします。

渡辺  日本大学芸術学部の音楽学科ピアノ専攻を経て、同大学院の修士課程まで、日本で勉強しました。そして、大学院に在学中に、日本大学大学院の海外派遣奨学生制度に選ばれ、前からあこがれていたオーストリアに渡った後、ウィーン国立音楽大学ピアノ演奏科(今と制度が多少変わっている)に入学しました。ここで第一ディプロマを取得した後、ドイツのミュンヘン国立音楽大学の研究過程に進学しました。研究過程終了後、再びオーストリアに戻り、ザルツブルグのモーツァルテウム国立音楽大学に入学しました。その後、仕事を始め、現在に至っています。

-ピアノを始められたきっかけは?

渡辺  両親の影響が大きかったです。父が、ジャズピアノがとにかく大好きでして。生まれた子どもには、絶対にピアノをやらせたい、という夢があったらしいです。そして、僕が思いっきりターゲットになりました(笑)。

-お父様もピアノを弾かれるのですか?

渡辺  いえ、楽器はやりませんが、すごくたくさんのCDやレコードを持っていて、いつもいつも音楽を聴いていました。

-では、小さな頃から家中にジャズが流れていたんですね。

渡辺  他にももちろん、モーツァルトやショパンなどのクラシックも流れていて、幼稚園や小学校時代を振り返ると、家には、常に音楽が流れていたように思います。父の影響が大きかったのですが、母親がバレエの先生をやっていたということも影響していると思います。でも、生まれた僕の背格好や体型などを見て、「この子にはバレエは向かないな」と、初めから、その道に進ませようとはしなかったみたいです(笑)。

-ピアノを始めたのは何歳くらいですか?

渡辺  たぶん3歳半くらいだったと思います。まだ幼稚園に行っていた頃でした。

-音楽系の大学に進まれる方は、音楽家を志す方が多いと思いますが、音楽の道で生きていこうと意識されたのは、いつくらいでしたか?

渡辺  今考えると、かなり小さい頃からですね。漠然とではありましたが、ピアノを教える先生になりたいって考えていました。ピアノと一緒に生きていくというか、どこかでピアノに関わっていたいっていう気持ちは、昔からありましたね。

-お父様から、ジャズをやれとは言われなかったのですか?

渡辺  いえ、言われませんでした。まずはクラシックを勉強して、気が向いたらやればいい、という感じでした。とにかく、与えられた練習を頑張ってやりなさい、という態度で僕に接していました。

-日本の大学で修士課程まで6年間学ばれていて、派遣制度で留学が決まったということですが、それまで全く留学を考えたことはなかったんですか?

渡辺  憧れはありました。大学4年の頃に、松浦豊明先生が東京芸術大学から日本大学大学院へ赴任されて来たんです。僕は、まだ学部生でしたが、ちょっと早めに先生の門下に入れていただきました。松浦先生は、芸大の教授だったときには大変お忙しい先生で有名でしたが、僕が教わった頃は、受け持ちの生徒が少なかったこともあり、とても気さくに接してくださいました。気が向くと電話をくださって、「週末、お茶飲みに来ない?」などと誘っていただくことも多かったんですよ。先生の奥様がケーキを焼いてくださったりして、僕たち門下生はみんな、先生のお宅に月に一回は伺っていました。そのときに、先生が収集されている古い音源のレコードを聴かせてくださったり、昔ドイツに留学されていた頃の品々を見せてくださったんです。当時のコンサートのプログラムや楽譜などを。それから、先生の奥様も、同時期にドイツに留学されていたということもあって、お茶のお菓子も、当時のドイツで教わったレシピで作ってくださったんです。なので、東京にいながらにしてヨーロッパの雰囲気が先生のお宅には漂っていて、その頃から、そんな様子にとても憧れていたんです。「絶対にドイツ語圏に行きたい!」と気持ちは強かったですね。ですから、派遣奨学生として選ばれたときは、夢が現実のものになったという感じでした。

シュテファン大聖堂
シュテファン大聖堂

-この留学前は、ヨーロッパに短期留学などで行かれたご経験はあったのですか?

渡辺  実は、派遣奨学生に応募した前後で、受かるかどうかは分からないけれど、下見をする必要はあるなと思っていたんです。そこで、ドイツ・オーストリア周辺を南から北にかけて見て回ったんです。初めに憧れのウィーンから入りました。旅行といえば旅行なのですが、僕の中では完全に「下見」でした。

-いろいろ巡った中でも、やっぱりウィーンがいいな、と思われたんですか?

渡辺  初めから憧れはあったんですが、実際に自分の目で見てそう思いました。他の街と比べても、やはり、ウィーンに着いた瞬間の直感が違いました。今振り返ってみても、「ああ、僕はここで勉強するんだ!」っていう強い印象がありましたから。もう、確信といってもいいくらいでした。そして、派遣奨学生として選ばれた時、留学先は、迷わずウィーンに決めました。

-派遣奨学生のシステムとして、留学先で師事する先生は、大学院側が選んでくれるのですか?

渡辺  いえ、この制度は、留学先の学校や先生を、自分で決めなければいけないんです。応募時点で、コンタクトを取らなければいけなかったので、そのコンタクト取りも兼ねて下見したんですよ。ウィーンで師事することになった先生は、知っている教授や先生方を頼って、皆さんから紹介された中のお一人でした。

-では、コンタクトを取った先生は、他にもいらっしゃったんですか?

渡辺  ええ。でも、やはり、ウィーンで勉強するんだという気持ちが強くて、ウィーン国立音大の先生にしました。

ウィーン楽友協会大ホール
ウィーン楽友協会大ホール

-渡航前に、ご自身が抱いていたウィーンのイメージと、実際行かれてからの印象の違いはありましたか?

渡辺  やはり、渡航前のウィーンのイメージは、TVなどで見る「華やかな音楽の街」という表面的なものでした。実際に行ってみると、治安の良し悪しや、街自体が抱えている問題が分かってきたりして、華やかな部分だけではないんだということが分かりました。ショックではあったのですが、それゆえにもっとウィーンを知りたい、という気持ちにもつながりました。

-ちなみにショックだったこととは、どういったことですか?

渡辺  まずは、移民の多さですね。オーストリアは、今でこそ小さな国ですが、大戦前は非常に大きな国で、戦争に負けた代償で、多くの労働力を受け入れた背景があります。主にトルコや旧ユーゴスラビア系など東側の人々なのですが、初めは、「ここはトルコなのか!?」と思うほどで(笑)、僕にとってはすごくショックでしたね。まあ、最終的にはそれもすべてひっくるめて、ウィーンなんだと思えるようにはなったんですけど。

-確かに、日本人はウィーンに対して、そういうイメージって持ってないですよね。

渡辺  ないですよね。それこそ、ニューイヤーコンサートの映像で見るような、華やかなホールや、ドレスで着飾った紳士淑女ばかりがいるイメージですよね。でも実際、そういう方々は、ほんの一部であって・・・。

-実際、ウィーンで学んでみて、日本での勉強仕方との違いなどで、ショックを受けられたことはありましたか?

渡辺  ウィーンで勉強し始めてショックだったことは、結局は「表現すること」を勉強するんだな、ということでした。ヨーロッパ系の学生たちの、「自らの語り口で、どこまでその作品を表現し切れるか」という、彼らの突き詰めていく姿勢に衝撃を受けました。日本だと、楽譜から音楽を読み取っていく理論的な作業や、技術的なことを学ぶのが中心だったんです。でも、ウィーンでは、「ここはもっとこういう音色で弾かなければ」とか「もっとこういうイメージで」などと、何より自発的なファンタジーを持った勉強が大事だったので、そういう部分では、少し戸惑いましたね。

ウィーンのカフェ
ウィーンのカフェ

-生活面ではどうでしょうか、カルチャーショックはありましたか?

渡辺  土日にほとんどの店が閉まるので、すごくゆったりした生活だなと思いました。東京だと人も多くて、慌ただしい中でピアノを勉強していたのですが、突然、大きな空間にポンと置かれたような感覚でした。それが虚無感だったというのではなくて、居心地よい感覚でしたが。

-ウィーン国立音大は、ご自分で受験されたのですか?

渡辺  実は、海外派遣奨学生の制度は、一年間のみという制度だったんです。大学院からの派遣の留学生とはいえ、正規の学生ではありませんから、師事した先生に頼る形で、ウィーン国立音大に出入りさせてもらっていたんです。なので、レッスンや授業を見学したりしか出来ませんでした。そこで、先生から、「これから先もウィーンにいたいのであれば、正式に受験してみてはどうか?」と言われたんです。日本大学にもすぐに確認を取り、休学中であるということで、ウィーン国立音大を受験することは問題ないとのことでしたので、実は、派遣留学生の期間中に受験したんです(笑)。

-え!? 大丈夫だったんですか?

渡辺  はい。休学中ということと、修了演奏試験や修士論文もすべて済ませ、卒業式に出席するだけの状態で渡航していましたから、問題ありませんでした。というわけで、派遣されてから3ヵ月後に受験したんです。ただ、授業が本格的に始まったのは、さらにその3ヵ月後でした。なので、最初の半年間は、レッスンや授業を聴講したりして過ごし、半年後から正式な学生として勉強を始めた、ということなんです。

-ちなみに、ドイツ語は、日本で勉強されていたんですか?

渡辺  派遣奨学生に決まってから、とりあえず1ヶ月間だけ東京のドイツ語学校に通って勉強しました。ですが、修士論文や渡航の準備などでバタバタしていたので、それ以外は参考書をパラパラめくる程度でした。

-となると、本格的に勉強し始めたのは、現地に行ってからですか?

渡辺  はい。一応、日本の大学でも2年間ドイツ語の授業はあったのですが、それは1ヶ月間行った東京のドイツ語学校くらいの内容で。本格的には、ウィーンに行ってから勉強を始めた、という感じです。今思えば、日本でのドイツ語の勉強内容は、ウィーンでの1週間分くらいにしかならなかったな、と(笑)。

-そうなんですか! それでは、けっこうご苦労されたのではないですか?

渡辺  はい。留学したての頃、街行く人々の会話は、宇宙語にしか思えませんでした(笑)。

-レッスンは、もちろんドイツ語ですよね。

渡辺  そうです。僕がウィーンで師事していたヴァッツィンガー先生は、語学に関しては厳しくて、「出来るだけ早くドイツ語をマスターしなさい」という方針でした。ですので、ドイツ語が全く分からない生徒に対しても、英語で話すことは全くありませんでした。でも、音楽は、用語がイタリア語だったり、隣で先生が見本を見せてくれたりするので、理解できてしまうんですよ。ですので、レッスンに関しては、あまり困らなかったというのが正直なところです。

マスタークラス伴奏
マスタークラス伴奏

-結局、ウィーン国立音大には何年いらしたんですか?

渡辺  3年です。

-ご卒業されてから、ミュンヘンに行かれたんですよね。

渡辺  ウィーン国立音大では、実は、先の課程に進学し始める状況だったんですけれど、1年の留学のつもりが、この時点で3年になっていましたから、「この先そんなに長くない。それならば、別の環境で別の先生に会ってみたい。」という気持ちが強くなりました。なので、受験をしなおして、ミュンヘン国立音大に入学しました。結局、その後のモーツァルテウム国立音大へも、同じ気持ちで移ったんですけれども。

-ミュンヘンを選ばれたきっかけは何だったんですか?

渡辺  同じドイツ語圏の中でも、他の国であるドイツに興味があったというのと、ドイツの中でも南にあるので、オーストリアに近いことが一番の理由でした。その距離感のお陰で、ウィーン国立音大の卒業前から、ミュンヘンにレッスンを聴講しに行ったりしていました。

-先生を決められてから、ミュンヘンへ行かれたのですか?

渡辺  ヴァッツィンガー先生も本当にいろいろ力を貸してくださったんです。ミュンヘン音大の先生を推薦してくださったのも、ヴァッツィンガー先生でした。

-ドイツとオーストリアでは、音楽性の違いはありましたか?

渡辺  やはり、国民性に影響していると思うんですけれど、ドイツのほうが、構築性を重んじるスタイルですね。オーストリアは、前にも言ったように、表現することや、自分という媒体を通して自分らしく奏でる、ということに重点を置いていましたので、その違いはありました。

-住みやすさの違いはありましたか?

渡辺  物価の面では、それぞれ高いものと安いものが違うという感じで、トータルとして大差なかったのですが、決定的に違ったのは住宅環境でした。

-税金が高いそうですね。

渡辺  ミュンヘンは、アパートの家賃が高くて、探すのが大変でした。平均的に、ウィーンでミュンヘン分の家賃を払えば、ミュンヘンの部屋の2倍も3倍も広い部屋に住めるという状況でした。住環境においては、ウィーンのほうが断然良かったです。

-寮には入られてなかったんですか?

渡辺  いえ、どの街でも、ずっとアパートに住んでいました。

-ドイツとオーストリアでは、コミュニケーションの取り方の違いはありましたか?

渡辺  ドイツ人のほうが、初めは距離を置く感じなんですけれど、一度打ち解けると、それからは温かく、人間と人間の付き合いが出来る感じはあります。オーストリアは、それよりもっとラフという気がしますね。

-オーストリアのほうがラテン系に感じますが・・・?

渡辺  国がイタリアに接していますからね。簡単に言うと、ドイツ人とイタリア人をたして2で割ったのが、オーストリア人の気質なのかも知れません。

-なるほど! さて、ミュンヘンでの生活を経て、再びオーストリアに戻られ、モーツァルテウム国立音大に入学されるわけですよね。「オーストリアに戻ろう、ザルツブルグに行こう」と思われたきっかけは何だったんですか?

渡辺  本当に不思議だったのですが、始めにウィーンで感じた気持ちが、ミュンヘンに行った後も、ずっと気持ちの中にあったんです。この先、まだ勉強できるのであれば、オーストリアで勉強したいと。また、ドイツよりもオーストリアで勉強するほうが、自分に合っているような確信があったので、オーストリアに戻ろうと決意しました。

- 一度、日本に帰ろうとは思われなかったのですか?

渡辺  はい、思いました。実は、この頃から、職探しを視野に入れながら勉強を続けていたんですけれど、これといった決定打がなかったので、勉強を続けるという形を取っていました。

シュトラウスII世
シュトラウスII世

-ウィーンとザルツブルグで、大きく違うことはありましたか?

渡辺  決定的に違ったのは、ザルツブルグでは、シーズン中の音楽会が少ないということです。有名なザルツブルグ音楽祭はあるのですが、夏だけのものですし。ウィーンのように大きなオペラ座がないし、楽友協会のような大きなホールもないので、なかなか演奏会に足を運べるチャンスがなかった、というのが大きかったです。

-それは大きいですね。やはり、本場の音楽を観るという意味ではウィーンが一番ということですか?

渡辺  ええ。でもミュンヘンもすごく良かったですよ。バイエルン州立歌劇場やガスタイクのホールなどで、連日たくさんの演目がありましたし。

-それで、モーツァルテウムをご卒業されて・・・?

渡辺  実は、モーツァルテウム国立音大を卒業する前に、仕事のことが見え始めたので、ディプロマを取らずにそのまま出てしまいました。

-お仕事というのは?

渡辺  初めは、日本に帰って引き続き仕事を探すか、お声掛けをいただいた、ウィーンでの小さな仕事に就くか迷っていました。それで、日本で一度、区切りをつけるために、数ヶ月間、コンサートをしながら過ごしたんです。結局、この数ヶ月の間に、やはりウィーンでお話をいただいた仕事をやってみようと決心しました。

-ウィーンで仕事をしようと決意した、決定的な理由を教えてください。

渡辺  モーツァルテウム国立音大に行った時点で、留学期間がだいぶ長くなっていたので、ひょっとしたら自分は慣れ親しんだオーストリアで、充実した仕事をやっていけるのではないか、と漠然と感じていました。その気持ちに正直に頑張ってみようと、思い切って決断しました。

- 一番最初のお仕事とは、どんなお仕事だったんですか?

渡辺  最初は、現地の普通高校の音楽の先生だったんです。ピアノの個人レッスンもあったのですが、カトリック系の学校だったので、ミサが毎週ありますから、ピアノと同じウェイトで合唱のレッスンがあったんです。これに立ち会合って、指導するというのが僕の任務でした。

-このお仕事は、どのようにして見つけたんですか?

渡辺  学生時代、この高校のミサで、何度も演奏をさせていただいていたんです。当時、チャペルのパイプオルガンが壊れていたので、キーボードでオルガン部分を弾かせていただいていました(笑)。そういったつながりで、欠員が出たときに、「やってみないか?」と声をかけてもらったんです。このオファーが魅力的で、日本でコンサートをしていた数ヶ月の間に、オーストリアに戻ろうと決意したんです。

-実際に、学生さんに音楽を教えるというのはどんな感じでしたか?

渡辺  初めは、僕で勤まるのだろうか、という不安がありました。それに、僕は、カトリックの人間ではないので、ミサの流れとか、基本的なことから勉強する必要があったんです。でも、相手が高校生だったので、あの年代特有の人懐っこさで接してくれて、すぐに不安はなくなり、楽しんで出来るようになりました。

シェーンブルン宮殿
シェーンブルン宮殿

-このお仕事は、何年くらいされていたのですか?

渡辺  実は、後に得た仕事との関係で、1年足らずで辞めざるを得なくなってしまいました。音楽の授業だけでは、仕事として本当に少なかったので。大きな仕事を探さなければいけないと考え始めて、在職中からいろいろなところに履歴書を送ったり、オーディションに応募したりしていました。それこそ200~300という数です。ピアノに関わる仕事なら何でも片っ端から応募する、という感じでしたね。空いている時間に作業していました。

-現地で日本人が仕事を得るというのは、やはり難しいことなんですか?

渡辺  はい。大学以外のほとんどの音楽学校は、採用試験の規準に、「オーストリア国籍、もしくはEUの国籍を持つ者」と記載されてます。たとえば、現地の方と結婚された日本人などであれば、それでも相当大変ですが、かろうじて潜り込めるかもしれませんけど・・・。日本人というだけで、最初の採用規準にひっかかってしまうので、非常に難しかったです。友人に、自分からどんどん履歴書を送ったほうがいい、とアドバイスされていたので、そうしていました。

-そんな中で、なんとか次の職を得られたんですよね。

渡辺  はい、でも、簡単ではなかったです。地方のコンセルバトワールの採用試験を受けたときも、最終選考までパスしていたのですが、試験官から「あなたは、ウィーンに住んでいるけれど、このくらいの少ない時間枠の仕事だったら、あなたが住んでいる場所には合わないんじゃないの?」と言われて、僕の次の成績を取っていた人が採用されたこともありました。この人は、その街に住んでいるオーストリア人だったんです。こういう悲しい思いとか悔しい思いを何度もして、だんだん分かってきたことが、「明日からでもすぐ仕事が出来る」という距離感のほうが見つかりやすい、ということでした。たとえば、ドイツの大学や劇場にも応募したんですけれど、「あなたはウィーンに住んでいるようだけれど、こちらに引っ越してくる気はあるのか?」という返事を何度も受けたりしましたから。やっぱり自分は、ウィーンとその周辺で一生懸命探さなければいけないんだな、と思い始めた矢先、ある日突然、街中で携帯が鳴ったんです。それが、なんと、夢のまた夢だと思っていた、ウィーン国立歌劇場からだったんです! 「あなたの履歴書を見たのですが、明日、バレエ学校の伴奏の試験をやるので、午後来てください」と。採用試験にエントリーしていたのですが、その連絡でした。

オペラ座舞踏会
オペラ座舞踏会

-急な電話ですね!

渡辺  日本じゃありえないですよね(笑)。僕としては、母がバレエの先生だし、妹も踊っていることもあって、バレエには親しみがあるというだけで、ダメもとで応募していたんですよ。だから、一瞬躊躇したんです。受けても無理だろう、と思っていましたから。でも、「行けません、なんて言っちゃだめだ!」と自分を奮い立たせて、試験を受けに行きました。その採用試験を経て、今に至っているというわけです。

-すごいですね! 採用試験はどんな内容だったんですか?

渡辺  バレエのトレーニングのクラス90分を、ピアノ伴奏してくださいと言われ、その場で弾きました。バレエの伴奏に関しては、音楽大学では教えてもらえるものではないし、ほとんどのピアニストは、どうやるのか知らないと思うんです。たまたま僕は、家族がバレエをやっていて、伴奏の経験もあったというのが功を奏したのでしょうね。それまでは、母や妹とは全然違う分野で活動しているんだっていう気持ちがありましたけど、この育った環境のおかげで、なんとか90分やり遂げられたんだと思います。

-他の応募者の方と一緒だったんですか?

渡辺  僕が受験した日は、僕だけだったのですが、別の日にも試験は行われていたみたいです。定年退職される方がいたので、欠員を埋めるための採用試験だったんです。

-試験は、一度弾いただけで、特に担当官との面接などはなかったのですか?

渡辺  ディレクターと面接がありました。後から知ったのですが、試験の最中、オペラ座の関係者やバレエ学校のトレーナー、他のピアニストなどが、代わる代わる僕の演奏を審査していたようです。そして、ディレクターから、「他のピアニストが病欠のときなどにやってみないか?」と言われたんです。

-もう、その場で話があったということですか!?

渡辺  はい。その場で言っていただきました。ウィーン国立歌劇場のバレエ学校のディレクターだったんですが、その場で仕事に関する細かいことも話し始めたので、これはポジティブに取っていいんだな、と。

-それは本当にすごいことですね! 日本人の方が、そういうお仕事に就かれるということは、なかなかないですものね。

渡辺  いえいえ。運やタイミングも大きいなって、本当に思うんです。

-その後、どのくらい経ってから、そのお仕事を始められたのですか?

渡辺  すぐに、しょっちゅう電話がかかってくるようになったんですよ。バレエ学校のピアニストに病欠が出るたびに、連絡が来るようになったんです。でも、ふたを開けてみたら、定年退職されるはずだった方が、その後2年近くも在職されていたので、その期間は非常勤という形でした。正式に常勤のピアニストになったのは、去年の9月からです。

-そうなんですか。ちなみに就労ビザは問題なく下りたのですか?

渡辺  はい、幸い、勤務先がウィーン国立歌劇場ですので、非常勤でやっているときから、国立オペラ座が、労働許可書など必要な書類を発行してくださったんです。逆に、労働許可書を出さずに外国人を雇っていると、雇用者側に問題が出て来るんですよ。なので、非常勤を始めて1ヶ月くらいで、すぐ郵送されてきました。実際「こんなに早く!?」って驚きましたね。その点に関しては、本当に幸せでした。そして、これらの書類を提出したら、ビザはすぐに下りました。

バレエ団研修生クラス
バレエ団研修生クラス

-週に何回くらいのペースでお仕事していたんですか?

渡辺  非常勤のときは、まちまちでしたね。仕事のない週もあれば、病欠が出たときは一気に10日間とかもありました。いろいろな演目のリハーサルや、バレエ学校側の都合で時間割が変わったときなどに、常勤ピアニストの都合がつかなかったような場合も、電話がかかってきました。

-今は、どういう形ですか?

渡辺  今は、クラスを持たせていただいているので、毎週月曜日から金曜日までです。時々週末も入りますが。

-ソロではなく、伴奏者として弾くことに関して、何か気をつけていることはありますか

渡辺  伴奏に関しては、日本にいた頃から声楽や器楽の伴奏など、好きだったのですすんで勉強させてもらっていました。ただ、バレエの伴奏は特殊なので・・・。 気をつけることは、テンポ感とかリズムの抑揚ですね。たとえば、ジャンプのときにずっしり弾いてしまうと、重くなって飛べなくなってしまったりしますし、体の大きさには個人差があるので、回転も人によって速さが違ったりします。だから重さや軽さ、どこにアクセントをつけてどこをなめらかに、どこを歯切れ良く・・・など、拍子とか拍とかに関する部分は気をつけています。

-細かいお仕事なんですね。この仕事のやりがいは、どんなところに感じますか?

渡辺  結局、バレエピアニストという職業は、ジュークボックスのような存在にならなければいけないんですよ。「こういう動きに合わせて、何か弾いて」と言われたら、そのように弾かなければいけないですし。でも、踊り手さんたちが、自分のピアノに合わせて、楽しそうにレッスンを受けている姿を見ると、「ああ、自分の音楽で、こんなに楽しんでくれているんだ」と嬉しくなりますね。そういうことに、やりがいを感じます。

-渡辺さんのように、外国で仕事をしたいという日本人の方がたくさんいると思いますが、仕事を見つけるコツはありますか?

渡辺  「自分には、これくらいしかできないだろうな」と、自分で思っている判断よりも、もっと大きな夢を持って、そこに近づいていくエネルギーを失わないように、自分の楽器を演奏し続けていくことなのかな、と思います。

-最後に、一番難しい質問を(笑)。渡辺さんにとって、クラシックとは、そして音楽とはどういう存在でしょうか。

渡辺  ・・・・・・(笑)。やはり、僕という人間は僕なんですけれど、音楽を通して、いろいろな人間になれることでしょうか。威張った人間、悲しんでいる人間、ロマンチックな人間、コミカルな人間・・・。音楽の表現を通して、自分がいろんな役者になれるというか、そういうことがやはり魅力ですね。

-今後、海外で活躍したいという方に、「これはやっておいたほうがいいよ」など、何かアドバイスがあれば、教えてください。

渡辺  海外で働く人は、皆さん開口一番におっしゃると思うんですけれど、言葉が一番大切ではないかと。言葉の次に大切なものがあるとすれば、コミュニケーションを取ることですかね。努力をしてコミュニケーションの力をつける、というのはおかしいですけれど、音楽の世界でも、結局人と人とのつながりなので、言葉の壁を越えた、コミュニケーションの努力は必要かなと。

ウィーン国立歌劇場
ウィーン国立歌劇場

-日本人は、引っ込みがちですもんね。積極的になれないというか。

渡辺  日本人として活かせる長所って、たくさんあると思うんです。それを生かしつつ、自分をもっと周りに溶け込ませるようにできればいいのかな、と。全部楽しんでやってしまえたらベストですけれど。

-日本人として活かせる長所というのは、具体的にどんなこところでしょうか?

渡辺  きちんとしているところとか・・・。僕が言うのもなんですけれど(笑)。日本人は、きちんとしているというイメージを持たれています。約束に関することだったり、礼儀正しさなどは長所ですよね。そういうのを活かしつつ、自分たちが日本にいるときより、ちょっとだけ積極的に話しかけてみたりだとか、挨拶したりとか。ちょっとした心遣いでコミュニケーションは膨らむので、そこは努力すればいいのかな、と、。

-最後になりますが、渡辺さんの音楽家としての夢、目標を教えてください。

渡辺  当面は、今の状況をもっと自分が楽しめるように、バレエのピアニストとして経験を積んでいきたいです。と、同時に、今まで積み上げてきた、ソロのピアノの勉強や室内楽、その他のアンサンブルなども、並行してレパートリーを広げていけたらいいなと思っています。

-ご活躍をお祈りしています。今日は、お忙しいところ、本当にありがとうございました!
 

布施菜実子さん/ヴァイオリン/ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団/ドイツ・ミュンヘン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回ドイツ・ミュンヘンフィルでご活躍中の布施菜実子(ふせなみこ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2009年8月)


ー布施菜実子さんプロフィールー

布施菜実子さん
布施菜実子さん

東京生まれ。4歳よりヴァイオリンを始める。桐朋女子高校音楽科を経て桐朋学園大学を1998年に卒業。在学中には仙台フィルハーモニー管弦楽団と共演したほか、東京文化会館小ホールにて新人音楽家デビューコンサートなどに出演。またカール・ライスター弾き振りのオーケストラにてコンミスを務めるなど多数の学内オーケストラにてコンミス、首席を経験。卒業後すぐに渡独。ミュンヘン音楽大学ではマイスタークラスに入学し、2000年にマイスタークラスディプロムを取得、卒業。Münchener Kammerorchesterの契約団員を経て、2000年のマイスタークラス卒業と同時にミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団に入団。現在オーケストラ以外に、室内楽などを中心に演奏活動を行っている。これまでにヴァイオリンを故鈴木共子、朱貴珠、クルト・グントナーの各氏に、室内楽を店村眞積、堀了介、村上弦一郎、バルトーク・カルテット、アルバンベルグ・カルテット、アマデウス・カルテットなどに師事。


-では、最初に、布施さんのご経歴を教えてください。

布施  4歳からバイオリンを始め、6歳で桐朋学園大学付属「子どものための音楽教室」に通い始めました。桐朋学園女子高校音楽科を経て、桐朋学園大学を卒業し、ミュンヘン音楽大学マイスタークラス(大学院)に2年間在籍しました。卒業後、すぐにミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団に入団し、現在に至っています。

-素晴らしいご経歴ですね!

布施  いえいえ。私はコンクールなどはほとんど受けていませんので、コンクール歴はないんですよ。

-それは意外です。では、音楽に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?

布施  実は、それほど、音楽やクラシックに興味はなかったんです。バイオリンも、自分からやりたいと言って始めたわけではありませんでした。母親が、自分がバイオリンをやりたかったから、ということで、私に始めさせたんです。桐朋学園の高校に入るまでは、他のお友だちと同じように、普通にポップスなども聴いていました。その頃は、プロの音楽家になるなんて、全然考えてもいませんでしたね。

-それでは、クラシックに興味を持ち始めたのは、高校に入学してからなんですか?

布施  そうですね。音楽高校だったので、素晴らしい経歴を持つ子たちがたくさんいたんです。コンクールで全国一位とか、地方から出てきている人もいましたし。そんな中にいたら、かなり刺激を受けまして。やっと目覚めたというか、初めて、自分の意思で練習するようになったんです。

-大きな刺激だったのでしょうね。

布施   はい。そして、高校三年生の頃、ザルツブルグ夏期講習会・モーツァルテウム音楽大学夏期国際音楽アカデミーに参加したんです。そこで初めて、ヨーロッパの音楽を聴いたんです。先生だけじゃなく、参加している講習生の演奏も聴いているうちに、「ヨーロッパの音楽って、クラシックって素晴らしい!」って、感動したんです。その頃からですね、留学を考え始めたのは。

ミュンヘンフィル布施さん
ミュンヘンフィル布施さん

-ザルツブルクの講習会が、留学するひとつのきっかけになったのですか?

布施  はい。きっかけのひとつではありました。でも、師事していた先生に相談しましたら、「高校を卒業してすぐというのは、少し早いのではないか。」とアドバイスをいただきまして、大学で勉強してから、ということにしました。実は、大学2、3年の頃には、大学の先生から、「そろそろ留学してもいい時期ではないか。」と言わてはいたんです。でも、休学するよりは、やはり卒業してから留学したいと思いまして・・・。そして、4年生になってから、これがもうひとつの大きなきっかけになるのですが、スイスのレンクで行われた講習会に参加したんです。

-ザルツブルグだけでなく、スイスでも講習会に参加されたんですね。

布施  はい。そして、そこで、すごく素晴らしい先生に出会ったんです。ミュンヘンで教えてらっしゃる、とても有名な先生でした。「どうしても、この先生に習いたい!」と思った私は、講習会が終わってから、先生に直接、先生のもとで勉強させてほしいと話しに行ったんです。しかし、先生のクラスは、すでに入る順番を待っている方が大勢いたので、来年入るのは無理、とのお返事でした。でも、私は、そこで諦めなかったんです(笑)。今となっては、無謀だと思うのですが、日本に帰ってからも、先生に何度かご連絡したんです。もちろんお返事をいただくことはありませんでしたが・・・。そういう状況なのに、単純に、行ったらなんとかなるだろうと思ってたんですね。大学を卒業してすぐ、4月にはミュンヘンに渡ったんです。

-すごい勇気と行動力ですね!

布施  無謀ですよ(笑)。そして、渡航してからすぐ、先生にお電話したのですが、やはり、「今年は、定員が一杯だから、突然来られても無理だ。」と言われました。当たり前ですよね(笑)。ただ、一度聴いてもらったら、「マイスターのレベルには達しているから、試験には合格するだろう」と、ミュンヘン音大のマイスターコース受験を勧められ、大学の先生も紹介していただいたんです。そして、マイスターコースに合格しまして、その先生のクラスに入ることになったんですが、いろいろな事情がありまして、さらに別の先生に教えていただくことになったんです。正直、その先生のことは、全く知らなかったのですが、レッスンに行ってみたら、この方が、素晴らしい先生で・・・! 私が今いるミュンヘンフィルで、以前、コンサートマスターをやられてた方でしたので、オーケストラスタディもよく見てもらいました。人間的にも素晴らしい方で、今思えば、偶然に偶然が重なって、結果的に私にとって、とてもラッキーな出会いとなりました。

-そういう出会いって、本当、分からないものですね。

布施  ええ、あれだけ講習会で出会った先生に習いたい!って思っていたのに・・・。結果的には、すべて無駄ではなかったですね。

-元をたどれば、講習会だったわけですからね。

布施  はい。やっぱり夏期講習っていうのは、大きなきっかけになりますから、留学したいと考えている人であれば、ぜひ、積極的に参加してほしいですね。
 

ミュンヘンフィルの皆さんと
ミュンヘンフィルの皆さんと

-では、留学に関することをお伺いしますが、クラシックを勉強するに当たって、ドイツの良い点、悪い点があったら教えてください。

布施  ドイツに限らず、ヨーロッパの街では、大小関わらず、毎日どこかでコンサートをやってます。安い値段で、気軽に良い音楽を聴くことができるんです。それがすごく良いことですね。日本だと、何ヶ月も前から予約して、頑張って予定を空けて行くって感じですけど。そんな堅苦しいイメージはなくて、「買い物のついでに行ってみよう」っていう感じで、それこそ、ジーンズを穿いてても行けてしまうんです。学生時代には、学割を使って、たくさんオペラを見ました。今思えば、それが私にとって、大きな収穫でしたね。

-日本だと、そうは簡単に行けませんものね。

布施  大ごとになりますもんね。それに、こちらでは、コンサートに行かなくても、あちこちに教会がありますから、ちょっとのぞいてみたり、街の雰囲気を味わっているだけでも、大きな価値があると思います。

-そういうことも、音楽に影響するでしょうからね。

布施  はい。音楽は、やはり人間の内面を映し出すものですから。たとえば、日本の音大生のように、部屋にこもって練習ばかりしているよりは、街に出て一息入れるのも必要だと思います。外に出て、ドイツ人の生活を直接肌で感じたり、何か感動したりすることによって、それが音楽に生きてくるのじゃないのかな、と思います。

-では、何かドイツの悪い点はありますか?

布施  あまり感じたことはないですね。自分から来たくて来たので。自分にとっては、すべてが新しくて、プラスになることばかりでした。いつもポジティブに物事を考えていないと、外国で暮らしてるというだけで、気が滅入ったりすることもあるでしょうし。

-そうですね。ホームシックで、マイナス思考になったりすることもありますからね。

布施  単純なことで言うと、食事なども全然違いますから、そこでホームシックになってしまう方も多いですよね。たぶん、自分の気持ちの持ちようではあると思うんですけど。自分が、そこで何をしたいのかっていう目的があって、楽しみになる部分が多ければ、ホームシックになっても頑張れるのではないかと思うんですけど。

-まさに、その通りですね。さて、ドイツ留学するにあたって、一番重要なことは何だと思いますか?

布施  もちろん、語学は大切だとは思います。留学前に、少なくとも簡単な会話程度はできたほうがいいと思います。ただ、渡航してからでも、コミュニケーションを通して、語学は上達しますから、一番大事なことだとは思わないんです。それ以上に、現地に知り合いがいれば、事前に、なるべく多く情報をもらうことが大事だと思います。特にドイツは、ビザを取得したり、事務的なことがとても大変です。最近は、インターネットでたくさん情報は得られると思うのですが、学校や街によって、少しずつ事情が異なることも多いですからね。

-留学前の情報収集がキーなのですね。

布施  はい。私は、来たばかりの頃、練習するより、事務的なことをする時間のほうが多かったんですよ。学校の入学手続きもそうですし、滞在ビザも、たくさん書類上の手続きを踏まなければいけなくて。だから、これらの事務手続きや書類作りは、日本で準備しておいたほうが絶対にいいです。こっちに来てから、「あの書類が一つ足りない。親に送ってもらわなくては。」などというのは、本当に時間の無駄でしたから。

ミュンヘンフィル
ミュンヘンフィル

-では、今、お仕事をされていて、日本人で有利な点、不利な点はありますか?

布施  最近では、日本人だから、というような人種差別的なことは、ほとんどないと思います。ミュンヘンは保守的な街って言われてますけど・・・。オーケストラも、外国人はなるべく入れたくないらしいって話も聞いていたんですけどね。でも、いざ入ってみたら、とてもインターナショナルなオーケストラでしたから、あまり人種的なことは気にしなくていいと思います。ただ、ドイツで、オーディションを受けるときには、招待状が必要なんですよ。ドイツの音大で勉強しました、というだけでは、なかなか招待状は来ません。そういう意味では、受けようと思ったときが、アジア人全般、たぶん不利だとは思います。ただ、オーケストラアカデミーやプラクティカント(研修生)を受験する場合には、招待状は必要ありません。そういうところで経験を積めば、ドイツのオーケストラで弾いていたという経歴を示すことが出来ます。私の考えではありますが、相手にそれ印象付けると、招待状をもらえる確率は高くなると思うんです。そこまで来れば、人種は関係ないです。

-布施さんは、招待状をもらったんですか?

布施  私の場合も、学校と並行して、ミュンヘンフィルの契約団員として、弾かせてもらっていたんです。そのオーディションは、誰でも受けられましたから。そこで採用されて、契約団員として活動を始めてから2ヵ月後に、正式オーディションを受けられたんです。最近は、日本人の方もオーケストラアカデミーやプラクティカントで、たくさん見かけるようになりましたから、皆さんもそうやって始められているのでしょうね。

-少しでも、ドイツで経験を積んでおくということが大切なんですね。

布施  はい。学校と並行してできると思うので、卒業してからと考えずに、在学中から、少しずつ始めたらいいと思います。特にドイツの場合は。

-では、続いて、難しい質問です。布施さんにとって、音楽はどういう存在ですか?

布施  私にとっての音楽は・・・、大きな「喜び」でしょうか。家で練習してても、コンサートで演奏してても、聴衆として聴いていても、曲の素晴らしさや、それによって作曲家の偉大さに感動するようになったんです。この感動は、言葉にするのは難しいのですが、本当に、喜びというか幸せというか…。その空間にいる、何千人という人々と、一つの音楽を共有できるって、なんて幸せなことなのだろう、と思うようになりました。でも、こういう風に感動できるようになったのは、こちらに来てからです。日本にいた頃は、ただ、がむしゃらに練習していましたから。試験に向かって頑張っていた、という感じで。こちらに来てから、音楽が「身の周りにある普通のもの」と感じられるようになりました。リラックスできるようになったというか、頑張りすぎなくなったというか・・・。そうしたら、突然、音楽が、自分にとって喜びに変わってきたんです。

-違った国の音楽に触れるというのは、そういう利点もあるのですね。

布施  ええ。たぶん、自分の視点が変わったと思うんです。気張らなくなったんですね。ですから、レッスンというものを、楽しんで出来るようになったんです。そして、新しいレパートリーを増やすことに専念するのではなく、今まで日本で練習した曲を、自分の新しい感覚で、もう一度弾いてみたいという欲求も出てきました。だから、レパートリーは、そんなに増えませんでしたけど(笑)。

-日本の音大生は、皆さん「テストが・・・」って、よくおっしゃってますものね。

布施  ですよね。私もその一人でしたから、すごく分かります。年に2回、試験があったんですけど、その試験に向かって曲を練習していました。試験の点数ばかり考えていて、楽しむという余裕なんか、全くありませんでした。音楽大学に限らず、学生にとって、試験の点数は常に気になるものですけどね(笑)

-プロの音楽家として活躍するコツや、成功する条件などを教えてください。

布施  成功する条件というのは、必ずしもないと思うのですが・・・。ひとつ言えることは、日本人は、謙遜する傾向にありますけど、ドイツで、それはしないほうが良いと思います。ドイツ人は、図々しいところがあるので、それに対抗できるくらいでないと、せっかくのチャンスを逃してしまうことにもなりかねません。たとえば、仕事がもらえそうなときに、謙遜して「自分で勤まるのでしょうか」などと言ってしまうと、そのまま不安として受け取られてしまいます。謙遜や社交辞令は、まったく通用しない国なので、ダイレクトに自己主張するのが大切ですね。

-自己主張は、日本人のニガテ分野のひとつですものね。

布施  ええ。日本人だと、相手のことを考えて「こういったら失礼かな?」などと考えて、自分の思っていることも言えなかったりしますよね。ドイツ人は、失礼だと思えば失礼だとハッキリ言いますから、まずは、思ったことをきちんと言うことが大事です。これは、勉強している学生でもそうだと思います。まして、ドイツ人の中で仕事をしようとしているのであれば、なおさら大切なことです。

-日本人にとっては難しいことかもしれませんが、大切なことですね。

布施  あと、よく聞くのが、こういう話です。すごく上手な方が、オーケストラのオーディションを受けて、自分でも良く弾けたと思っていたのに、不採用だったと。それは、その人の出来、不出来ではなく、オーケストラとの相性の話だと思うんです。「すごく上手だけれど、うちのオーケストラには、多分合わないな。」とか、そういうこともあるんです。受けている側にしたら、自分のレベルが低かったのか、などとショックを受けると思うのですが、プロになりたかったら、「ここと縁がなかった」って割り切って、次に向けて切り替えることも大事です。

-落ち込んでしまうでしょうけどね・・・。

布施  これに関しては、どの国の方でも同じです。どうしても入りたかったオーケストラで不採用になったら、やっぱり落ち込みますよ。でも、そこは頭を切り替えないと。
 

日本ツアー時に日本食
日本ツアー時に日本食

-最後になりますが、海外で勉強したいと考えている方々に、布施さんからアドバイスをお願いします。

布施  まず、自分が、海外で何を学びたいかを、明確にしておくことが大切だと思います。勉強できる時間は限られていますから、目的はハッキリ設定しておいたほうがいいです。たとえば、オーケストラに入りたかったら、学校は、オーケストラに入るための準備期間にする、という考え方もできます。また、留学後に日本に帰りたい、と考えているのであれば、ソロ活動に専念できるような勉強をするとか、やりたいことによって、勉強の仕方も変わってきますから。もちろん、現地に行ってから、自分の気持ちが変わることはあり得ることですが、ある程度は、しっかり目的を持っていくべきだと思います。

-目的を持って勉強するということですね。多くの学生さんにとって、とてもためになるお話だと思います!

布施  そう言っていただけると、嬉しいです。

-今日は、たくさん興味深いお話を聞かせていただいて、本当にありがとうございました!
 

根岸由起さん/ピアニスト/イギリス・ロンドン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回イギリス・ロンドンでピアニストとしてご活躍中の根岸由起(ネギシユキ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2009年11月)


ー根岸由起さんプロフィールー

根岸由起さん
根岸由起さん

1977年東京生まれ。父親の転勤により5歳から12歳半までニューヨーク在住。10歳からジュリアード音楽院プレ・カレッジに名誉奨学生として在籍。桐朋女子高等学校音楽科を経て桐朋学園大学音楽学部卒業後、アムステルダム音楽院オランダ国家演奏家資格取得、英国王立音楽大学にて、Postgraduate Diploma in Advanced Performanceおよび同大学修士課程を主席で卒業し、その後、アーティスト・ディプロマを修了。第7回ジュネス・ミュジカル国際音楽コンクール第2位など多数の受賞歴がある。これまでに阿部美果子、ヤン・マリス・ハウジング、ルース・ナーイ、田崎悦子、故園田高弘、故イリーナ・ザリツカヤ女史、ドミニク・メルレ、マレイ・ペライア等に師事。ヨーロッパ、アメリカなどで年間30-40回の演奏会を行う。2008年に初のCDをリリースし、BBCプレゼンターのアンドリュー・グリーン氏との対話・演奏形式でDVDをリリース。2010年には第1回サセックス州国際ピアノコンクール(イギリス)で世界的なピアニスト・アルトゥール・ピサロ氏、英国王立音大ピアノ科主任ラタルシュ氏などと審査員を務める予定。ブリュートナー・レジデント講師、ブリュートナー・アーティスト。ロンドン在住。


-最初に簡単なご経歴を教えてください。

根岸  5歳から12歳まで、父親の仕事の関係でNYに住んでいまして、5歳のときに日本人の先生からピアノを習い始めました。10歳から、週1回ジュリアード音楽院のプレカレッジに名誉奨学生として2年間通いました。12歳半で日本に帰国しまして、桐朋学園高校、同大学を卒業しました。そして卒業と同時に、オランダのアムステルダム音楽院に入学し、3年間在籍しました。その後、ロンドンへ移り、王立音楽大学修士課程とアーティストディプロマを取得し、今に至ってます。

-いろいろな所に住まれていたんですね。音楽に興味を持ったきっかけは、ジュリアードのプレカレッジですか?
 

イギリスで販売中の根岸由起さんのCD
イギリスで販売中の根岸由起さんのCD

根岸  もちろん、同じ頃に五嶋みどりさんやサラ・チャンさんなど、現在第一線で活躍されている方もいらっしゃったので、そういう刺激はジュリアードでたくさんありましたが、それ以前に父母の影響が大きいですね。プロではないのですが、両親が音楽好きで、常に音楽が流れている環境でしたし、母が歌を歌ってくれたりしまして。そういうところから、私も音感が良くて、ピアノをやっていたんです。NYにいたときには、身近に音楽がありましたから。父親が、リンカーンセンターやカーネギーホールとかで開かれるコンサートに連れて行ってくれたり、子供用のコンサートやイブニングコンサートに、家族4人で出かけたりしていました。ですから、ある意味幸運ですよね、小さい頃から良い音楽に触れる機会が多かったというのは。海外の一流の音楽家の演奏を聴けましたからね。そして、当時あこがれていた、一流の演奏家の皆さんが住んでいたのがロンドンだったんです。なので、漠然とではありましたが、ロンドンに住みたいなというのが、子どもの頃からの夢だったんです。

-子どもの頃からの夢を叶えられたんですね。

根岸  縁があったんでしょうね。でもやっぱり嬉しいですし、毎日楽しいです。

-アメリカはジャズなども盛んな国なのに、クラシックを選ばれたのは、やはりご両親の影響ですか?

根岸  そうですね、うちはジャズに縁がなくて。NYには、ブルーノートという有名なジャズバーがあるのですが、子どもでしたから、夜が遅いこともあって聴きに行かなかったんですよね。なので、ジャズという音楽は知らなかったです。今思えば、平日通っていた現地の学校が、音楽が盛んだったので、その影響も大きかったと思います。クラスでミュージカルや発表会があったりしたので、日本の音楽の授業のように、勉強という感覚がなかったんですね。「音楽は楽しい」という感覚が、幸い、その後につながったんじゃないかなという気がしますね。

-日本の音楽の勉強っていうと、「四分音符は~・・・」とかですものね。

根岸  やはり、アメリカはミュージカルや映画の国ですから、そういう意味では、ジャズ以上にそちらの音楽のほうが身近にありましたね。

-では、留学先でオランダを選ばれた理由は何だったんですか?

根岸  大学3年生の夏に、夏期講習に参加したのですが、それがオランダの音楽祭だったんです。そこに行ったきっかけは、各国からいろいろな名教授が集まっていたということでした。私も留学を視野に入れていましたから、どの先生に習おうか、という選択肢が多かったので、そこを選んだんです。そこで意気投合したのがオランダの先生だったというわけです。全く決めて行ったわけではなかったですし、他にも著名な先生がいらしたんですけど、その先生が、そのときの私にぴったり合った方でした。そして「では、ぜひ翌年からオランダへいらっしゃい」と言っていただいて。それから1年くらい留学準備をして渡航しました。
 

イタリアでリサイタル
イタリアでリサイタル

-ピッタリの先生に出会うというのも縁ですね。

根岸  はい。決めるときも、そんなに悩まずにパパっと決めてしまったんです。そのときの若さというか、勢いというか(笑)。あと、オランダは英語が通じますからね。オランダ語もあるのですが、すごく難しいですし、オランダ人も英語を話してくれるので、私としては「英語で話せる国」っていうのだけでも魅力的だったんです。他の語学を勉強してはいても、やはり気が進まなかったので(笑)。

-オランダは、お店などでも英語なんですか?

根岸  オランダ語なんですけど、外見がどうしても日本人なので、英語で話してくれましたね。オランダ人は、そういうところが柔軟なんですよ。

-では、オランダという国を選んだというより、先生を選ばれたということなんですね。

根岸  先生ですね。基本的に、音楽とオランダが結びついていなかったですからね。オーケストラとかが素晴らしいのは知っていましたけど、そんなに身近ではなかったので・・・。
 

ピアニスト・アルトゥール・ピサロ氏と
ピアニスト・アルトゥール・ピサロ氏と

-オランダの学校はどんな雰囲気ですか?実践が強いのでしょうか、学術的なのでしょうか?

根岸  オランダって、ロマン派の作曲家がいないんですよね。現代ものが著出しているんですけど、ある意味、ピアノは特別強いっていう感じではありませんでした。ただ、ドイツや北欧、インドネシアやメキシコなど世界中から学生が集まっていまして、学校のカラーというよりは、そういうインターナショナルな雰囲気がありましたね。よく来日されるブロン先生という先生がいらしたので、日本からも留学生が来てましたし。ジャズもありましたので、自由な雰囲気でしたよ。ピアノやバイオリンは、学術や実践が強いというわけではなくて、それぞれの先生のクラスで成り立っていたって感じですね、。

-最近オランダへ留学を希望される方が多いので、どんな感じなのかお聞きしたくて。

根岸  素晴らしいところですよ。コンセルトヘボウという、オーケストラもホールも素晴らしいですし。すぐ目と鼻の先にそれがあったので、わたしは、練習の後に出かけたりしてました。あと穏やかで、住みやすい国ですよね。

-留学が初めてという方でも行きやすいですか?

根岸  そうですね、英語も通じますし、人が親切で治安もいいし、街も素敵で住みやすいですよ。ロンドンみたいに大きい街でもないし。私の経験からなのかもしれませんが、次へ行くためのステップアップの場所っていうイメージもあります。

-さて、オランダを経て、イギリスに移られたわけですが、それはやはり夢だったからですか?

根岸  アムステルダムからロンドンは距離も近いですし、アムステルダムに留学していたのは、まだ20代前半でしたから、もう少し勉強したいという気持ちがありました。夏期講習も毎年参加していたんですけど、3年目の夏期講習で、ロシア人の先生で、ショパンをすごく素敵に演奏される方がいらして、その先生がロンドンで教えられているということを知ったんです。その当時、先生ももちろん大事でしたけど、住む場所も大事に考えていましたから、その先生と出会ったとき、「あ、ロンドンだ!」と。これは行くしかないいう感じで飛びつきました。しかし、私が王立音大を受験した年に、その先生が心不全で亡くなられてしまったんですよ。これが初の留学経験だったら、たぶん動揺して日本に帰ってたかもしれないですね。でも、私の場合は、ロンドンに住みたいという気持ちがありましたし、学校も決まっていたので、移ることにしました。なので、先生に習いに行くというより、ロンドンに行く、学校に行くという目的で行きましたね。

-では、師事する先生は、渡航してから決められたのですか?

室内楽の仲間と
室内楽の仲間と

根岸  そうです。大学の主任が、亡くなられた先生の生徒を集めて話し合い、振り分けたんですけど、私は新入生だったので、代わりに入られた新しい先生につく形になりました、その方はオーストラリア人でしたが、長年イギリスで教えられていた経験豊かな方でした。息も合いまして、在学中はずっとその先生についていました。

-先生との相性は大事ですよね。

根岸  何を求めるかによりますが、私の場合は、ピアノを極めたいというか、勉強したいという気持ちがありましたので、学校も大事ですが、先生との個人レッスンが一番の核となりますから、重要ですね。

-そう考えると、本当に先生に恵まれてらっしゃいますね。

根岸  そうですね。私の場合は、合わない先生は初めから興味がなくなってしまうので(笑)。留学先を決めるにも、この先生とは合う!と強く思わないと、決められなかったと思いますよ。

-先生との相性が分からないと、留学先も決められないということですね。

根岸  ええ。今の時代、どこにでも行くことが出来ますよね、特に日本は選択肢がありすぎて、何で決めるかといえば、音楽の場合は先生になるんでしょうね。研究だったらその研究内容や教授によるんでしょうけど。

-さて、今現在はロンドンでどんな活動をされているんですか?

根岸  3年前に卒業しまして、そのまま居続けているのですが、ピアノの場合は、オーケストラに入ることが出来ませんので、ピアノを教えることが生活の基盤となっています。今、18人生徒を持っているのですが、それが限度ですね。演奏活動したいので、とにかく練習時間や移動時間を工面しながら、演奏の機会を作っているという感じです。

-生徒さんはイギリス人が主ですか?

根岸  半分は、日本人の大人の方ですね。ロンドンには日本企業もたくさん入っていますので。これも縁なのですが、ネットワークの広い方と出会いまして、その方を通して日本人の生徒さんとたくさん出会うことができました。あとの半分は、現地の子どもとか、ドイツ人やオランダ人ですね。国際都市の象徴という感じですね。
 

イギリスで一番古く大きいバーン
イギリスで一番古く大きいバーン

-楽しそうですね!

根岸  そうですね、和気あいあいとやっていますよ。でも、割り切って、深入りしないでやっています。本業は演奏と考えていますから。

-なるほど

根岸  これも出会いだったんですけど、学生の頃とにかく演奏の機会を持ちたくて、ロンドンの教会のランチタイムコンサートで演奏していたんです。そのとき、あるドイツのピアノメーカーのイギリス支店の方に出会ったんです。そして、卒業と同時に、生徒さんの紹介や、演奏会の紹介、CDリリースなどのお世話になるようになりました。半分エージェントのような感じです。そこを通して演奏会の機会を持たせていただいてます。

-本当に素敵な出会いに恵まれてらっしゃるんですね。

根岸  次から次へつながっていくというのは、縁ですよね。人生おもいしろいなと思いますね。ロンドンの素晴らしいところは、トップの現役の演奏家が住んでいますから、エージェントからの情報が多いんですよ。オーケストラやホールもたくさんありますし、機会も多いです。ショパンコンクールとか大きなコンクール以外にも、小さなオーディションも多いです。ピアノのエージェントを通してつながると、さらに広くつながるというか。

-人脈が大事なのですね。

根岸  本当にそうですね。才能や経歴があれば良い、という時代ではなくなってきたんでしょうね。人との出会いを大事にして、礼儀を尽くすということが出来ない人は、演奏が上手でも嫌われていきますからね。あと、日本は肩書きや経歴を重視しますが、他の国では関係なかったりすることもありますからね。もちろん、国際的なコンクールも素晴らしいですが、今はそれも世界中でたくさんあって、1位の人もたくさんいるわけでしょう。クラシック業界は飽和状態なんですよね。だから、インターネットも発達していますけど、トップの方でもブログを書いていらしたりして、いかに情報を発信するか、になってきましたよね。だから、「私はこんな経歴がある!才能がある!」と気取っていても何にもならないですから。周りのイギリス人を見ていても、情報の発信が上手だから演奏の機会が多いという人ってたくさんいますよ。
 

葉加瀬太郎氏Vnのロンドン公演で
葉加瀬太郎氏Vnのロンドン公演で

-なるほど。では、仕事をするに当たって、日本人が有利だなと思う点や不利だと思う点は?

根岸  信頼度が高いという点では日本人がトップですよね。金銭感覚もそうですし、何か頼んだ場合でも、必ずそれをやり遂げるという確実性が信頼につながっているんでしょうね。それはよく言われます。不利な点としては、受身がちという傾向があるかもしれないですね。あと、私の場合は、幸い語学で苦労はしていないですが、語学って本当に大事だなと思います。いくらコンクールで優勝しても、自分から積極的にいろいろなところにコンタクトを取ったりしないと、実際やっていけないですから、それには語学はどうしても必要ですね。

-言葉が通じる人と通じない人とだったら、やはり通じる人のほうが採られるということでしょうか。

根岸  もちろん演奏の内容が大事なのでしょうけど、表現に対する積極性ですね。英語がペラペラじゃなくても、やる気を見せて、意思疎通を図ろうとすればいいと思います。つまり、受身ではなく積極的にということですね。

-日本人は、間違えたら恥ずかしいということを気にして、消極的になりますものね。

根岸  そうですね。でも、最近周りの日本人の方々を見ると、皆さんたくましく生きてらっしゃいますよ。慣れもあるのでしょうが、度胸がついてくるのでしょうかね。日本にいても、積極的に出て行かないと、芸の世界は限られた人しか出来ませんので、積極性は必要でしょうから、それは世界共通でしょうね。

-よく、留学を希望される方に、「言葉が分からなくてもどうにかなりますよね?」と言われますが、結局帰ってくると「言葉が分からないことが悔しかった」という感想が一番多いんですよ。言葉が分からないことにより、消極的になってしまったというか。

根岸  分かります。私自身もそうなんですよ。英語はともかく、ドイツ語やフランス語は苦手なので、そこには留学しなかったというのもありますし。無意識に避けてたかもしれませんね。

-ドイツ語やフランス語は勉強されていたんですか?

根岸  大学では習っていたのですが、やはり英語が身についていましたので、ついついそちらに流れていったというか・・・(笑)。フランスやドイツに行ったとき、ちょっとした会話は出来るのですが、込み入った話は分からないですからね。それを今から勉強するかと考えると、ちょっと気が遠くなりますね(笑)。

-難しいですものね。

根岸  友人でドイツやフランスに留学して、長年暮らしている人たちを見ると、本当に尊敬しますね。

-でも、根岸さんは、何かあってもプラスに変えたり、偶然をチャンスに変えていく力はすごく強いと感じたのですが。
 

イギリスで発売されているDVD
イギリスで発売されているDVD

根岸  それは、アメリカで育ったという特性なのかもしれません。アメリカの学校では、「間違ってもいいからとにかく手を上げろ」という教育でしたので。日本や他の国だったら、答えが確実に分かっていないとい手を上げないという雰囲気があるかもしれないですが、アメリカ人は口が達者で目立ちたがり屋なので(笑)。

-日本人は間違えることが恥ずかしいんですよね。アメリカ人は積極的ですものね。

根岸  くだらないことを話しても説得力があればいいんですよ、アメリカという国は(笑)。

-そういう積極性は、やはり大事なんですね。

根岸  最終的に、表現したいものや意欲が強ければ強いほど、世の中を渡っていくときに強いと思います。アメリカ人だけでなく、いろいろな国の方を見ていてそう思いますね。先生に言われて、それを受身でとらえているだけでは、それっきりですから。自分で試してみたり、断られるのが前提でも、いろいろなところににコンタクトを取ってみたりするのが大事なんだと思います。

-一度断られると消極的になってしまうということもありますよね。

根岸  それもあるかもしれませんね。日本人は良い意味でも悪い意味でも、真面目ですからね。

-自分から出て行く力がないとダメなんですね。

根岸  日本ではどうか分かりませんが、ロンドンという街ではそうですね。今年で9年目になるんですけど、今でもそう思います。

-そういうのが活躍の条件なのかもしれませんね。

根岸  やはり、大切なのは実力なのでしょうけど、実力がある人は、本当にたくさんいますから。その中で少しでも秀でるためにはどうするか、そういうことを考える力が大事なのかなと思います。

-人間力が大事なんですね。実力もありつつ、人間としても素晴らしい方というのが成功するのでしょうね。

根岸  全てにおいて秀でているというより、個性があるというか、それが強ければ強いほどいいんじゃないかなと思います。生まれ持ったものもありますけど、ある程度は成長していく中で身につくものもあると思います。
 

スコットランドで雄鹿狩り
スコットランドで雄鹿狩り

-どうしても日本の方は、「この学校じゃなきゃダメ、有名だから」とか言ってしまいがちですが、自分で何が重要か見極めることが大事なんですね。

根岸  そうですね。業界の方の話を耳にすると、クラシックの名曲CDなんて出尽くしちゃっているんですよね。この時代、足りないものってないんですよ。だから、自分の出来ることを探したほうが、むしろ個性につながるんじゃないかと思います。演奏会のプログラムひとつでもそうです。有名な作曲家の曲を演奏するのも素晴らしいことですが、その中に新しい作曲家の曲を入れてみるとか、ちょっとテーマ性を入れてみるとか、工夫をしたほうが受けますね。それと、壇上でお話することも、お客様から受けがいいですよ。

-ただ上手であることより、少しでも自分らしさを持っていたほうがいいんですね。

根岸  今は、ほとんどそれが必要なんだと思います。特に、イギリスはビートルズなどのロックスターが出たり、とにかく芸能人が好きな国なので、エンターテイメント性を求める傾向があるかもしれません。ドイツとかならバッハやベートーベンを完璧に弾いてもらいたい、という傾向があるかもしれませんが・・・。イギリスは、アメリカよりも、英語という言葉が文化なんですね。演劇・舞台も充実していますし、そういう背景があるので、ただ演奏するだけでなく、そのほかの要素を求められるのかもしれません。

ヒーバー城にてリサイタル
ヒーバー城にてリサイタル

-ちなみに、アメリカ英語とイギリス英語の違いなどは感じましたか?

根岸  はい。実はそれ興味がありまして、日ごろから笑い話として情報を集めているんですよ! やはり、まずは発音が違います。アメリカは丸い感じの発音なのですが、ヨーロッパの人はアメリカ英語をバカにするんですよ。18歳のとき、初めて講習会でヨーロッパに行ったのですが、みんなに「アメリカ帰りか?」って言われましたね。そのときは「何で、そんなにいちいち言うのかな?」って思ってたんですけど。10年くらい経った今では、アメリカ人に「イギリス英語になってきたね」って言われるんです。でも、今でもイギリス人にはアメリカに住んでた?って聞かれるんですけどね(笑)。舞台を観に行って思うのですが、発音って大きいんですよ。アメリカ英語で、シェイクスピアとかを演じられても違和感があるんです。それを、少しだけカドをつけたイギリス英語でやるだけで、しっくりくるんですよ。

-それは、おもしろいですね!

根岸  それが表面的な違いなんですけど、言い回しもけっこう違いますね。同じ意味でも言い方が違うとか、地下鉄とかズボンとか、そういう単語も違いますし。やはり、ちょっとした違いはありますね。通じないことはないんですけど、それ何?みたいな事はありますね。それと、言葉ではないのですが、ここで育ってないから分からないということももちろんあります。中学高校時代に流行った歌とかジョークとか。これはしょうがないですけど。

-日本人は知っていても、外国の人は知らないことなどは多いですよね。

根岸  私も帰国子女ですけど、日本語の言葉遣いがすごく変だといわれましたね、小さい頃日本で育っていないので、かしこまった感じでしゃべっていたようです。

-私は、短期でアメリカに行ったことがあるんですけど、話す言葉があまりに硬すぎるようで、逆に伝わらないこともありました(笑)。こちらもスラングが分からなかったですし。

根岸  私も今の日本語分かりませんよ! ネットでニュースを見るのですが、「アラサー」とか「アラフォー」とか、何だこれ?みたいな(笑)。あとで調べて分かったんですけど。

-言葉はどんどん作られていきますからね。さて、ここで、難しい質問なのですが、クラシック音楽は根岸さんにとって、どういう存在ですか?

根岸  子どもの頃から身近にありましたし、大げさですが、私にとっては人生そのものですね。語学のお話をしましたが、もうひとつの「音楽語」という感じで、表現の手段の一つです。感情や経験、すべてが表現できるもので、自分自身から切り離せないものですね。あと、もう少し大きな意味で言うと、人類が残している素晴らしいもののひとつだと思います。バレエ、絵画、小説、映画、建築などに匹敵するというか、それ以上に残していくべきものだと思います。伝統文化であり、流行で消えていくものではないですから。

-今の音楽の多くが消えていってしまう中で、クラシックは残っていくし、残すべきですね。

根岸  どんな国のどんな人種でも、心を動かす力があると思います。不景気の中、戦争の中、テロの中、災害の中でも、音楽ってやはり人々を救う力あると思うんです。希望を与える力や、癒す力もあると。
 

英国王立音大の卒業式
英国王立音大の卒業式

-では最後に、海外で勉強したいと考えている方へ、アドバイスをお願いします。

根岸  やはり、積極的にいくということと、目的意識を持つということが大事ですね。夢は大きく、目的意識を持ってほしいです。現実的な話をすれば、自分に合ういい先生を見つけましょうとかになりますが、それにしても、まずは「自分はこういう演奏家になりたい」という信念が根になりますから。その信念に従って講習会に参加してみたり、旅に出てみたりしてほしいですね。あとは、語学を少しは身に着けておくと楽だと思いますよ。

-目的意識や目標がないと最後にぶれてしまいますもんね。

根岸  そして、何をやるにも、自分が楽しむという姿勢が一番ですよ。

-そうですね。本日は素晴らしいお話とアドバイスをありがとうございました!
 

花岡伸子さん/チェロ/英国フィルハーモニック管弦楽団/イギリス・ロンドン

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回英国ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団でご活躍中の花岡伸子(ハナオカシンコ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2009年12月)


ー花岡伸子さんプロフィールー
Image1971年生まれ。8才より中島隆久、藤原真理、山崎伸子の各氏に手ほどきを受ける。桐朋女子高等学校音楽科卒業後、同ディプロマコースを経て、アメリカに留学。岩崎洸氏に指導を受ける。1994年、伝説のチェリスト、ジャクリーヌ・デュプレを育てたウイリアム・プリース氏に招かれ、英国ロイヤル・カレッジに入学。同氏のほかスティーブン・イッサーリス、コリン・カー氏らに師事。ロイヤル・アカデミー音楽院大学院を首席で修了後BBCヤング・アーティストシリーズ、スピタフィールド国際音楽祭などに出演、スペンサー伯爵邸でのダイアナ妃メモリアル・コンサート、ヴィクトリア&アルバート美術館での天皇・皇后両陛下訪英記念晩餐会での演奏などがある。また、トーマス・ツェトマイヤー音楽監督率いるノーザン・シンフォニアのゲスト首席チェリストとして演奏し、絶賛を博す。日本人初の英国ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団員として活動するなど、現在ロンドンを拠点に、様々な音楽シーンで幅広く活躍している。


-まずは、簡単なご経歴をお願いします。

花岡  8歳でチェロを始めて、桐朋学園の「子供のための音楽教室」に通いました。そして、桐朋女子高等学校音楽科を経て、桐朋のソリストディプロマコースに進学。その後、イリノイ州立大学、英国王立音楽院に留学しまして、現在は、ロイヤルフィルで活動しています。

-いろんな学校に通ってらっしゃったんですね。チェロを勉強したいという気持ちが強かったんですか?

花岡  音楽の勉強というのは、だいたい先生を頼っていくので、自分が習いたい先生がいるところに行くっていうのが普通なんですよ。そうなると、どんどんこうやって進んでいく形になっちゃうんですよね。イリノイに行ったときも、日本人の先生だったんですが、その方が州立大学にいらしたので、そこに行ったというだけです。その後、英国に関しては、ロータリー奨学金というのをいただいたので、それの関係で英国に行くっていうのは決まっていたんですけど。

-ロータリーって取るのがすごく難しい奨学金ですよね!優秀でいらしたんですね。

花岡  ラッキーだったんですよ。

Image-花岡さんがチェロを始めたきっかけを教えてください。

花岡  姉がバイオリンを習っていまして、最初は、私もなんとなくバイオリンを始めました。その後、姉妹一緒というのもつまらないので、私はチェロに変えたという感じです。

-お姉様は、今もバイオリンを続けていらっしゃるんですか?

花岡  いえ。アート関係ですが、音楽とは関係ない仕事をしています。

-花岡さんが、チェロの魅力に目覚めたのは?

花岡  もう、成り行きというのでしょうか。それが自然な道だったというか、なるべくしてなったという感じでしたね、私の場合は。自分からどうしてもチェロをやりたい!という感じでもなかったので。

-生活の一部だったという感じですか?

花岡  そうですね、。それがそのままずっとここまで来た、という感じですね。

-チェロをやっていたから、クラシックに興味を持ったという感じですか?

花岡  うちは、小さいころテレビが無かったんですよ。あっても見させてもらえないという環境だったので。ですから、ポップスとか流行歌とかに疎かったんです。特に、両親がすごくクラシックが好きというわけではなかったんですけど、クラシックの方が他のジャンルの音楽より聞く機会が多かったんですね。

-当時は、どんな作曲家が好きだったんですか?

花岡  バッハが好きでしたね。あと、バロックやルネッサンス音楽とかがすごく好きでした。

-チェロの演奏家になろうと思い始めたのはいつ頃からですか?

花岡  プロを目指してっていうのは10歳くらいですかね。桐朋の「子供のための音楽教室」に通い始めた頃からでしょうか。桐朋の場合は、高校に入る前の段階からスペシャル教育が始まるんですよ。

-その時は、チェロの実技の他にも勉強することはあったんですか?

花岡  ソルフェージュや聴音などですね。これは、すごく勉強しなければいけませんでした。

-週一回のレッスンですか?

花岡  はい、毎週土曜日に桐朋の大学の校舎で行われていました。まず聴音やソルフェージュをやって、その後にオーケストラがありました。受験が近くなったら、プライベートに先生のところに行って、レッスンを受けましたね。実技ではなく、やはりソルフェージュや聴音の。

-受験対策のための塾通いという感覚ですね。

花岡  そうですね。それを経て桐朋の音楽高校に進んだんです。だいたい皆さんは、そのまま桐朋の大学に進むんですけど、私は、もうひとつのソリストディプロマコースという演奏家養成コースに進みました。その時には、すでにアメリカに行くということは決まっていたので、そこで1年過ごしてからアメリカに留学しました。

-漠然とでも、留学をしたいと思い始めたのは、いつくらいからだったんですか?

花岡  留学したいと思っていたわけではないんですけどね。高校2、3年のとき、桐朋のマスタークラスに、岩崎先生という方がいらしたんです。その時、「この先生につきたい!」と思いまして、そこで、アメリカに行きましょうということに決まったんです。でも、たぶん小さいころから漠然と、外国に行くのかなっていうのは、頭のどこかにあったんでしょうね。昔の日記に書いてあったのを見て、強く思っていたわけじゃなくても、自分の中で決まっていたというか、なんとなく口にしたことでも、後でそうなっていることってあるんだなって思いました。

-行きたい!と強く思っていたわけではなく・・ですか。

花岡  自分はこういう風になりたい!って言っていたわけじゃなくて、ぽろっと口にしたって感じですね。イギリスに行った頃に、ふと思い出したんですけど。小学校時代、友達同士で交換日記をやっていて、私そういうこと書いていたんですよ、そんなに知識もないのに、「何歳でイギリスに行って・・・、王立音楽院に行って・・・」って。チェロもそんなに熱心にやってた時期じゃないのに。そういうのもあるですね。

-なんだか運命的ですね。

花岡  結構、そういうのって皆さんにもあると思いますよ、。こんなことをやりたいなって漠然と思ってたことが、そういえばその通りになっているって。

-あったかな、私?(笑) では、アメリカへは先生に出会ったことがきっかけで行かれたんですね。

花岡  たまたま、アメリカに習いたい先生がいたからという理由ですね。その後、イギリスに行くと決まったのも、奨学金制度の規定によるものですし。ロータリー奨学金制度の場合は、留学先の言葉ができていないと奨学金が下りないんです。私は英語しか話せませんでしたから、ヨーロッパに行きたいならイギリスしかなかったわけです。フランスに興味はあったんですけど、フランス語は話せませんでしたからね。なので、私の場合は、強く望んでそこに行ったというわけではなく、最終的にそうなっていたという感じです。

Image-そういうきっかけだったんですね。では、イギリスに長くいることになった理由はなんでしょうか。

花岡  イギリスでは、特別先生に恵まれたというわけではなかったんですけど、居心地が良いんですよ。言葉だけではなく、イギリスの雰囲気や生活、ロンドンの街、音楽に対するみんなの姿勢っていうのが、居心地が良いというか。これも成り行きですよ(笑)。

-運命付けられているような感じもしますけどね。流れに逆らわずに行くというのも方法なんですね。

花岡  それも人それぞれだし、その人の選択ですからね。

-イギリスとアメリカで音楽を勉強することについてお伺いします。まずは、アメリカでクラシックを勉強するにあたっての、長所と短所を教えてください。

花岡  私が行ったのは、アメリカといっても、ニューヨークなどの都市ではなく、イリノイ州という田舎だったんです。なので、アメリカ全体の音楽のことはわからないし、19歳からの2年間だけだったので、音楽業界に詳しいわけではないのですが・・・。でも、アメリカはやっぱりアメリカかなっていう感じですね。クラシック音楽というのは、ヨーロッパの音楽だから、アメリカにとってもクラシック音楽というのは、外国の音楽なんですよ。アメリカ人がプロデュースするクラシック音楽は、ヨーロッパ人のするそれとは全く違います。音楽の種類が全然違うんですよ。日本のクラシックも違うと思いますけどね。ただ、アメリカで勉強する子たちは、いわゆるスターダムに上る、大きな通過点として考えていますから、層は厚いですよね。

-お国柄が音楽の違いにも表れるんでしょうか。

花岡  アメリカはヨーロッパではないですからね。欧米ってひとくくりにしますが、アメリカはアメリカです。これから行かれる人も、どっちが肌にしっくりくるかだと思うし、何をやりたいのかにもよって違うと思います。テクニックをとことん勉強したいっていうのであれば、アメリカも向いていると思うし、そうではないもっと根底にある、香りや血のようなものを感じたいなら、アメリカに行ってもそれはない、ということですね。

-英語圏ということで、イギリスとアメリカをセットで考える方も多いですけど、全く別物ですよね。

花岡  そうですね、でも、イギリスも特殊なんですよ。島国ですから、他のヨーロッパ大陸の国々と比べると、またちょっと違うんです。イギリスはイギリスなんですよ。もっともっとヨーロッパらしいっていうか、音楽というものを本当の意味で体感したいなら、ヨーロッパ大陸に行ったほうがいいと思います。ドイツやオーストリアなどに。楽器によっては、フランスもいいかもしれないですね。

-なるほど。では、イギリスでクラシックを学ぶ長所と短所を教えてください。

花岡  イギリスは、何でもある程度、適当っぽくて自由です。ただ、その分、教育メソッドがしっかりしていないというのはあります。フランスやロシアなどは、すごく教育メソッドがしっかりしているんですよね。それをAtoZで、最初から最後までやると、ある程度のところまでいけますっていう保障がありますが、イギリスはそういうのはないです。先生も系統立てて教えてくれませんし。本当に才能がある人は、たまにポーンと出てくることはあっても、教育によって出てくることはほとんどないです。

-すごく勉強になりました。イギリスは教育もしっかりしていると思っていました。

花岡  しっかりしてないですよ、音楽に関しては。こんなことを言うのもなんですけど、音楽的に素晴らしい国かというと、いろんな意味で、そうは言いがたいですね。それに、音楽をやっている人に対して、国からサポートがあるかと言えば、すごく少ないですし。ということは、外国人アーティストやミュージシャンにとっては、生き難い街と言えますね。私は縁あってここにいますけど、音楽を離れたところで、国の雰囲気が肌に合うとか、そういう部分ですよね。

-けっこう現実は厳しいんですね。

花岡  行ってみないと分からないこともありますね。イギリスに夢を持って来ても、生活の面で不便だったりすると、うーん・・・って思うこともあるだろうし、決める前に講習会などに行ってみたりするのも、ひとつの手だと思いますよ。

-それで、合う合わないは、何となくわかりますものね。ちなみに花岡さんは、行かれたんですか?

花岡  行きました、っていうよりも、ロンドンっていうのは決まっていたんですけどね。先生や学校を決めるために一回行きました。その時に、好きだなって思いましたね。リージェントストリートとか歩いて、「ああ、いい感じ!」って、心がワクワクしました。それも大事な要素ですよね。

-たとえば、アメリカに行きたいから、とりあえず行くっていうのは、少し危険な面もあるのでしょうか。

花岡  一回行ってみるのもいいでしょうけど。イギリスとアメリカで迷っているんだったら一回行ってみたらいいと思います、全然違うから。アメリカに行くって決めてるなら、それでいいと思いますけど。

-音楽的に魅力があっても、ドイツという国が合わない人もいるでしょうからね。

花岡  それ、わたしですね。ドイツなんて絶対ヤダって思うから(笑)。音楽的に素晴らしいのは分かっているんですけど、もう少しパーっとしたところがないとイヤなんですよね。これは、性格でしょうね。ドイツはすべてが田舎で小さいし、ダサめだし(笑)。人それぞれですけど、私は、もうちょっと都会的な場所が好きなので(笑)。

-人にそれぞれ合う合わないはあるので、一概にどこが良いとは言えないですもんね。

花岡  行ってみて失敗するのも、ひとつの経験だと思いますよ、若い人は特に。そのうち流れ着きますから、自分のベストな場所に。

-アメリカ、イギリス両国に留学を経験されて、最も留学に重要とされるものは何だと思いますか?

花岡  やはり、語学は必要だと思います。でもそれに関しては、行ってからでも社交性があれば大丈夫だとは思いますけどね。出来るようになるものだから。私も、アメリカに行ったときは、「How are you?」も言えないくらいでしたからね。準備なんかしていくタイプじゃないし、出たとこ勝負みたいな感じでした。わたしも社交的なタイプではなかったですけど、コミュニケーションは1対1でも取れるものだから、そういう意味で、人と関わるのがイヤでなければ上達していくものですよ。

-レッスンの時はどうされていたんですか?

花岡  一番最初は日本人の先生でしたから。でも、レッスンは意外と分かるんじゃないかな、と思います。弾いて見せてもらえたりするわけだから。あと大事なことと言えば、柔軟性かな。柔軟性と楽天的な考え方(笑)。それは留学とは関係なく、なんでもそうだとは思いますけど。

-それが顕著に出るのがやっぱり留学なんでしょうね。ある程度は流れの中でやっていくっていうのも大事なのかもしれないですね。花岡さんは、イリノイに行ったときは、英語の学校に通ったりしたのですか?

花岡  行きましたよ、海外留学生のための語学学校を大学が設けていまして。アメリカはTOEFLのスコアがないと大学に入れないじゃないですか。私はそんなの用意してないし、点も低かったので、最初の半年はそこに通っていました。大学の寮には住んでいましたし、レッスンは受けてましたけど。

-英語のスコアをとった後に、入学になるんですね。

花岡  生活は、大して変わりませんでしたけどね。

Image-音楽科目以外のことは勉強されたんですか?

花岡  はい。一応普通の大学でしたから。その頃は、全然語学が出来ていなかったから、なるべく言葉が必要ないクラスを取っていました(笑)。それに、そこには2年くらいしかいるつもりはなかったし、卒業するつもりもなかったから。レッスンが受けられれば良いという感じだったので。

-ある程度は、語学はできていたほうがいいのですね。

花岡  あと語学じゃなくてコミュニケーションスキルがあるというのは大事です。人との関わり方ですね、特にアメリカでは。

-やはり話さないとだめですか?

花岡  言語を通さないと最初のコミュニケーションはできませんからね。人と人とがコミュニケーションをするっていうことが出来ないと、誤解が生じたり上手くいかないことが出てきます。語学が出来てなくても、コミュニケーションをとろうという、基本的なマナーや姿勢があれば絶対伝わりますし。それが日本語でも出来ないような人っていうのは、語学とは別に問題が出てくると思います。

-日本で出来なかったら、外国語ではできませんよね。

花岡  生活面でも、大家さんとのやり取りとかがうまくいかなかったり、そういうのは語学の問題だけでなく、コミュニケーションスキルの問題。結局仕事だってコミュニケーションに左右されますから。

-どんな仕事をしているにしても大事なことですもんね。今、イギリスでお仕事する上で、日本人が有利な点や逆に不利な点はありますか?

花岡  有利な点は特にない!(笑) 不利な点はビザ!イギリスでビザを取るのは非常に難しいんです。最近は、少し変わってきて、オーケストラの仕事でも、ビザを取れる枠っていうのが出来たみたいですけど。だから、アジア人や外国人が、イギリスのオーケストラにいないっていうのはそういう理由です。帰らざるを得ないんですよ。

-そういう意味で、音楽を学ぶ人には優しくない環境なんですね。

花岡  それも含めて、ですね。大きな意味でいうと、アートに関して、国がそんなにお金を出さないんですよね。ということは、アーティストは非常に苦労するんですよ。アートってサポートがなければ成り立ちにくいんです。ビジネスなんですけど、他のビジネスとは違いますからね。

-ドイツなどでは、割とサポートされていますものね。

花岡  アーティストが労働条件の面などで守られているんですよね。そういうのが、イギリスは全くないですね。

-そう考えていくと、合う人は合うでしょうけど・・・という感じでしょうかね。

花岡  確かに魅力的な街ではあるから、金融も文化的にもいろんな物が集まってきていますし。

-今、オーケストラに日本人は花岡さんだけですか?

花岡  私が8年前に入った時は、ロイヤルフィルは私が初めての日本人でした。最近2人入りましたけど。すごく最近の話ですね。

-基本的には、イギリス人の割合が多いんですね。

花岡  9割方イギリス人です。音楽家の人たちが、外国人は入れたくないと言っているわけじゃなくて、国のシステムがそうだから入れないんですよね。高いハードルですね、ビザ取得は。大変なことなんです。

Image-イギリスでプロの音楽家として活躍する秘訣や、成功の条件はありますか?

花岡  私は、オーケストラという世界で今のところ生きているので、そこに限って言うと、ある程度の器用さは必要だと思います。なぜかと言うと、すごく仕事のスケジュールが厳しいんですよ。まったくリハの時間がなかったりとか、毎日毎日違うプログラムのコンサートをこなしていかなきゃいけないっていう状態。なので、しっかり練習してからでないと弾けないっていうタイプの人は難しいです。ある程度パッと見てパッと出来るような、器用さと集中力が大切なんです。あとは、パッと出て行ける度胸。

-日本人には、不得意な部分かもしれないですね。

花岡  イギリス人は意外と日本人っぽいっていうか、そこまで個人主義じゃなく、グループメンタリティも持っています。フランス人のように、みんながみんなが個人主義というわけではないので、それを無理なく築いていけるような、センシティビティとインディビジュアリティの両方を持っていることが大事ですね。かといって、日本人ほどは、繊細な神経は持ち合わせていませんので、あまり神経質になるとつぶれてしまいます。そういうバランス感覚は大事ですね。

-複雑ですね。

花岡  意外と複雑だし、複雑そうに見えて単純だし。

-日本人は迷ったりするかも知れませんね。

花岡  ある程度、お気楽な気持ちを持っていることも大事ですよね。イギリスはそういう人も多いので。

-やっぱり、いろんな意味でその国の状況に順応できないといけないですね。

花岡  それは向き不向きだったりしますね。おのずと自分の合ったところに流れ着いていくっていうのは、そういうことだと思います。合ってなければ流れ着きませんから。

-では、難しい質問になるかと思いますが、花岡さんにとってクラシック音楽とは何ですか?

花岡  クラシック音楽は難しいですよね。様式や理論の枠が、ものすごくキチンとあるものですから。それを超えたところにある、自由や美を表現出来たときに、揺るぎない感動とか大きい波が作れるものですね。ポップスやロックはノリで出来るものだけど、クラシックはノリだけでは無理ですからね。様式や理論がガッチリ出来たところで、ノリや自由っていうのが加えられると、いわゆる「マジカルモーメント」っていうのがクリエイトできます。そんじょそこらの人じゃ、たどり着けない世界ですけど。そこまで行きつくような才能がある人も少ないですし。

-なるほど。すごく説得力がありますね。さて、花岡さんの今後の音楽的な夢は何でしょうか。

花岡  結局、シンプルなところに行きつくんですが、私は、チェロが自由に弾ければ幸せだと思っているんです。それを聴きたいという人がいてくれて、それを表現する場所があれば、それでいいと思っています。一人でも聴きたいと言ってくれる人が多くなっていってくれればなと思います。自分の時間を使って来てくださるわけですから、その時間が価値のあるものだと思っていただけるような場を作って行きたいですね。私の音楽を通してそれが出来て、その場が増えていくことが理想ですね。

-そういう原点の部分を忘れないでいることは、素晴らしいですね。

花岡  素晴らしいかどうかは分かりませんが、それしか意味がないじゃないですか。そこが楽しいとこで、その中で「じゃあ具体的にどうやっていこう?」などは、もちろん一人のミュージシャンとして、色々頭の中にはありますよ。これをやってみたい、あれをやってみたいって。でも、結局は原点の上に成り立っているんですよ。

-では最後に、海外で勉強したいという方にアドバイスをお願いします。

花岡  海外に行きたいなら、行けばいいと思います。でも、場所はどこでもいいんですよ。結局は、自分の道を歩いていくことが大事で、それが海外なのか日本なのかは、おのずと決まってくることですから。やりたいことをやっていけばいいし、目の前にあることを頑張っていくことが大事なんです。やってみなきゃ分からないこともありますしね。留学してもイヤになって3ヶ月で帰ってくるかもしれないけど、それはそれで良し!その時その時で、一生懸命やっていれば、自分のデスティニーの方に行きますから、自分でも知らないうちに(笑)。

-素晴らしいメッセージをありがとうございます!今日はお忙しい中本当にありがとうございました。
 

赤坂-SCHAUPP 知英さん/ヴァイオリン/リンツ・ブルックナー管弦楽団首席/オーストリア・リンツ

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回オーストリア・リンツ・ブルックナー管弦楽団でご活躍中の赤坂-SCHAUPP 知英(アカサカ-シャウプチエ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「音楽留学」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います。
(インタビュー:2009年12月)


ー赤坂-SCHAUPP 知英さんプロフィールー

赤坂-SCHAUPP 知英さん
赤坂-SCHAUPP 知英さん

4歳よりヴァイオリンを始める。桐朋学園大学音楽学部卒業、併せて卒業演奏会出演。ドイツ国立デトモルト音楽大学を最高点(1,0)で卒業。卒業と同時にリンツ・ブルックナー管弦楽団第二ヴァイオリンに合格、入団。翌年には、ウィーン国立音楽大学postgradualに入学、最優 秀”Sehr gut”で終了した。同年リンツ・ブルックナー管弦楽団第一ヴァイオリンに合格。さらに08年からは同楽団第一ヴァイオリン首席奏者に就任。これまでにヴァイオリンを山岡みどり、篠崎功子、トーマス・クリスチャン、ゲーザ・ハルギタイ、クラウス・メッツェル他に、室内楽をヨハネス・マイスル、 アルテミスQ、バルトークQ他に師事。近年は新鋭ヴァイオリニストとして抜擢され、自身のオーケストラと共演したり、同オーケストラ団員を含めた弦楽四重奏団を結成。ウィーン、リンツを中心に 演奏活動、企画にも積極的に取り組んでいる。


-まずは、簡単なご経歴を教えてください。

赤坂  4歳でバイオリンを始めました。桐朋学園大学音楽学部を卒業しまして、ドイツの国立デトモルト音楽大学でディプロマを取得しました。卒業と同時にリンツ・ブルックナー管弦楽団、第二ヴァイオリンに合格し入団しまして、 翌年には、ウィーン国立音楽大学に入学し1年在籍しました。同じ年に、リンツ・ブルックナー管弦楽団第一ヴァイオリンに合格。さらに08年からは同楽団の第一ヴァイオリン首席奏者に就任して今に至っています。

-バイオリンを始めたきっかけは?

赤坂  兄がバイオリンをやっていまして、当時、兄のレッスンに連れて行かれていたんですが、そこで見たレッスンの様子が、とても楽しそうだったんです。そして、「あれをやってみたい!」と、母に言ったのですが、本気にされず、無視されてまして(笑)。翌週、先生にやらせてほしいと直談判しました(笑)。

-積極的というか、行動派だったんですね(笑)。

赤坂  そうなんです。

-お兄さんがバイオリンを習っていたのは、ご両親からの影響だったんですか?

赤坂  いえ、全然。母が小さい頃、バイオリンに憧れていたらしく、子どもがやってくれればいいな、という程度だったようです。でも、兄は男の子なので、すぐに別のことに興味が移って辞めてしまったんですけど。

-赤坂さんは、クラシックに興味があったんですか?

赤坂  当時は、音楽の入り口がクラシックだったので「音楽=クラシック」という感じでした。大きくなってからは、ポップスやジャズも聴いたりしましたけど、基本はクラシックでしたね。

-4歳で始められてから、プライベートレッスンでバイオリンを習い続けたんですか?

赤坂  そうですね、4歳から中学生くらいまで、定期的にレッスンを受けてました。でも、両親が、音楽の道に進むことを反対していまして。音楽の道でやっていくのは、かなり苦労するだろうと。それで、音楽高校はあきらめて、普通高校に行きました。その受験勉強があったので、レッスンは一時お休みしました。

-赤坂さんご自身は、いつから音楽の道に進みたいと思い始めたんですか?

赤坂  実際、普通高校に行ったんですが、やはり大学は音楽をやりたいと両親を説得して、桐朋に入ったんです。でも、桐朋って、小さい頃から専門的な音楽の勉強をしている方がたくさんいますから、カルチャーショックを受けて、自信を失ってしまったんですね。これでは、プロでやっていくなんて、到底無理だと思ってしまったんです。なので、実際にプロでやっていこうと思ったのは、留学を決めたあたりですかね。

Image-留学を考え始めたのは、いつくらいですか?

赤坂  大学在学中、仲間と室内楽を組んでいまして、ドイツでマスタークラスを受ける機会があったんです。そこで、自分は井の中の蛙だったんだと、ショックを受けまして、海外で勉強をしたいと考えるようになりました。その時、デトモルトとウィーンで教えられている先生と出会って、僕のところで勉強してみたらどうかとおっしゃっていただいたんです。ウィーンかデトモルトで教えていただくことになるわけですが、当時デトモルトってどこ?って感じだったので(笑)、ウィーンでお願いしますって言ったら、「ウィーンには日本人が多いから、キミのような人は日本人の少ない環境で、集中して勉強したほうがいいのではないか」と言われたんです。結果的にはそれが当たりで、ありがたかったですけど。

-ちなみに桐朋に入学された時の挫折感から、どう立ち直って、留学を決意するに至ったんですか?

赤坂  やっぱり、ひとつ大きな自信になったのは、卒業演奏会に選ばれたことですね。バイオリン科約30名の中から3人選抜されるんですが、それに入ったんです。当時コンクールなどは受けたことがほとんどなかったので、自分がどの程度の実力なのか分かっていなかったんですよね。

-それまでは、「自分なんてプロは無理」って思っていたんですか?

赤坂  夢物語でしたね。プロになれたらいいなというのは。自信がなかったんですよ。NHK交響楽団のエキストラとして演奏させていただいた経験があったんですけど、相当レベルの高い楽団ですし、自分がこういう中で、ずっとやっていけるなんて考えられなかったんです。なので、海外に出て世界を広げてみようと行ってみたら、海外の方が肌に合っちゃったんです。2年半では帰りたくない、こっちで働きたいって思うようになっちゃったんですね。

-日本と比べてどこが合っていたのでしょうか。

赤坂  東京の近くで生まれ育ったせいもあると思うんですが、ヨーロッパ全体として、時間の流れがすごくゆっくりですよね。それと、普通に生活している中で、ごく自然に音楽が身近にあるという空気がとても合っていました。

-デトモルトのような小さい街でも、やはり音楽にあふれているのですか?

赤坂  デトモルトは音楽大学でもっているような街だったので、学生も多かったですし、音楽会もありました。ただ、有名なオーケストラは来ないので、演奏会などは、近くの大きな街に行くという感じでしたね。
 

リンツ・ブルックナー管弦楽団
リンツ・ブルックナー管弦楽団

-音楽をする上での違いはありましたか?

赤坂  日本では全く接することがなかった、いろんな国から来た音楽家の方々との出会いが、とても刺激になりましたね。

-渡航されてすぐの時、戸惑いはありましたか?

赤坂  ありましたよ、最初は。お友達もいないし、食べ物も違いましたし、ホームシックになって、日本に帰りたい!って思っていました。

-語学の面では、いかがだったんですか?

赤坂  私は、日本で2ヶ月くらいしか勉強して行かなかったので、すごく大変でした。これから行かれる方は、語学は勉強してから行ったた方がいいと思いますよ。

-デトモルトは、入学の時、語学の証明書は必要なかったんですか?

赤坂  私が入学した頃はありませんでした。今はあるみたいですけど。

-2年半で卒業されて、リンツに移動されたんですよね。 ブルックナー管弦楽団に入団されようと思ったきっかけは?

赤坂  留学して1年半くらい経った頃、こっちでチャレンジしてみたいと考え始めるようになり、先生に相談したんです。先生は、「ぜひ挑戦しなさい。いったん帰ってからだと、戻ってくるきっかけを失ってしまうよ。」と背中を押してくださいました。専門雑誌に、オーケストラの募集広告が出ているので、それを見てセカンドバイオリンの募集に応募してみたんです。でも、ヨーロッパでは、オーディションを受けるのに招待状を受け取らないといけないんですね、それがなかなかもらえなかったんです。
(編集注:ヨーロッパの中で、国により、招待状が不要な国もあります。)
 

ゲネプロ中の赤坂さん
ゲネプロ中の赤坂さん

-オーディションを受けるのに招待状が必要なんですね。

赤坂  はい。現地のオーケストラで活動した経験という基準がないとだめなんですよね。なので、プロではないのですが、ユースオーケストラがあったので、まずそこを受けてみたんです。大きな基準になりますから。幸い、約100人中10人の合格者に入って、ドイツ国内外での演奏の機会が与えられました。そういう経験をしていくうちに、少しずつ招待状が来るようになったんです。でも、その招待状も、エキストラや研修性のオーディションだけでした。私は、絶対にヨーロッパでやって行きたいと思っていたので、先生に相談し、国は変わりますが、先生の出身地である、リンツのオーケストラの正団員募集の空きを見つけて応募したんです。

-ドイツとオーストリアの違いはありましたか?

赤坂  入団オーディションで言うと、オーケストラスタディの課題曲が違います。もちろん、オーケストラによって少しずつ違いますが、ドイツの場合は、ファーストでもセカンドでも大抵の場合ファーストのオーケストラスタディが出るんです。オーストリアは、セカンドならセカンドのスタディが出るんです。なので、急いでそれを勉強し直しました。それから国の違い、ということではありませんが、ブルックナーオケは大抵課題とされるロマン派の協奏曲でなく、バッハのソロソナタが課題だったので、バッハも急いで勉強し直しました。

-オーディションの様子はいかがでしたか?

赤坂  1次予選がカーテン審査でした。45人いて、1次予選を通ったのが8人でした。2次通過が4人で、そのまま4人で4次審査まで続きました。

-最終的には、赤坂さん1人合格だったんですか?

赤坂  そうです。

Image-受験者は、現地の方が多かったですか?

赤坂  私が受けた時は、日本人も何人かいました。オーストリアで勉強されている方達でしたね。あとは、やはりドイツの方も多かったですね。全体的にはヨーロッパ人が多かったです。

-45人中1人選ばれたわけですが、合格の秘訣みたいなものはありましたか?

赤坂  ひとつは、無欲だったということですかね。絶対受かるわけないと思ってなかったというか、力試しって思っていたので、上手く力が抜けてたんでしょうね。緊張はしてましたけど、挑戦でしたからね。私のモーツァルトは、どういう風に評価されるのかなっていう程度で。

-変に力が入ってなかったんでしょうね。他には?

赤坂  やっぱり、無欲だったと言う中で、音楽がとても楽しめたんです。全部で3回オーディションを受けたんですけど、初めのオーディションが一番楽しかったですね。

-面接はなかったんですか?

赤坂  4次予選が終わってからありました。一人ずつ呼ばれて、いつくらいから仕事できますか?という程度のものでしたけど。

-結果を聞かれた時どう思いましたか?

赤坂  やっぱり嬉しかったですね。これでヨーロッパで、プロとして仕事していけるんだ!っていう喜びは大きかったです。

-第二バイオリンにも試用期間はあったんですか?

赤坂  はい、半年から1年ありました。

-実際に入ってみて、改めて発見したことはありましたか?

赤坂  最初は、外国人として西洋音楽を演奏していくことにコンプレックスを持っていたんです。でも、皆さんの日本人に対するイメージや、接し方が良い意味で違ってたんです。東洋人だからというマイナスイメージではなくて、むしろ、「日本人は的確に仕事をする」というように、評価が高かったんです。

-日本人だから不利と言うことはなかったんですか?

赤坂  今だったら全くないですね。もちろん、ウィーンフィルなどは、オーストリアの伝統を守るために、オーストリア人の男性、もしくはオーストリアの音楽教育を受けた者でなくてはいけないとかありますけど。他は一次予選はカーテンが多いですし、実力主義ですね。日本人だからといって不利になることはないです。むしろ、同じ点数なら、日本人は的確に仕事をする、というプラスの評価をもらえることも意外と多いのではないでしょうか。

Image-オーケストラでやって行くときに重要なことは何でしょうか。

赤坂  首席奏者になって勉強したことですが、あえて我が道を行くべきですね。日本人って、どうしても周りを気にしがちですが、それをしているとダメになってしまうので。良い意味でマイペースに、自分がやることをやる、自分の音楽を確立することが重要だと思います。

-首席となられた今と、第二バイオリンをやっていたときとの違いはありますか。

赤坂  まずは、コンサートマスターに代わって、皆を引っ張っていかなきゃいけない責任ですね。また、団員に代わって、指揮者に意見しなきゃいけない場面もありますので、語学がより重要になってきましたね。あと細かいことで言うと、大きめに動いて引っ張っていかなきゃいけないとか、準備なくして仕事に行けなくなったことなど、いろいろありますね。

-ご自身の音楽に対する意識は変わりましたか?

赤坂  以前より、もっと世界を広げたいと思うようになりました。日本人としてオーストリアで働いていますから、日本とオーストリアをつなぐような演奏をしたいと思うようになりました。以前は全く思いませんでしたけど。

-話は戻りますが、第二バイオリンをしていたときにウィーン国立音大に入られたんですね。

赤坂  はい。普通科ではなく、仕事をしながら通えるコースですけど。それまでドイツで勉強してましたから、ウィーンの空気も勉強したいと思いまして、1年間通いました。

-どのくらいの割合で通っていたんですか?

赤坂  レッスンだけなんですけど、仕事の関係で1ヶ月全く行けないときもありました。そういう時は、翌月に1週間ごとに通ったり。そのへんは臨機応変でした。先生も理解がありましたし。

-ウィーンとドイツの違いはありましたか?

赤坂  音楽の違いとはあまりないですけど、国民性がだいぶ違いますね。ドイツ人の方が日本人に近い感覚で、生真面目というかピリッとしているという感じです。オーストリア人の方が和やかで穏やかな感じですね。

-どっちが合っていますか?

赤坂  私はオーストリア人のほうが合っていますね。
 

リンツ
リンツ

-リンツの街の様子はどんな感じなんですか?

赤坂  2009年に芸術文化都市に選ばれて、芸術面で活気がありますね。街自体はこじんまりとしています。空気の流れがゆっくりで、とてもいい環境ですよ。

-リンツには音大がありますよね。レベルは高いんですか?

赤坂  以前に、ここに通われている方のレッスンさせていただいたことがありましたけど、ウィーンと比べて、絶対的に生徒数が少ないですから、そういう意味で、切磋琢磨している感じはなかったですかね。

-赤坂さんは、このまま首席バイオリニストとして、活動を続けていかれるのですか?

赤坂  そうですね。おこがましいようですけども、コンサートマスターの席に空きが出たら、モチベーションがあるうちに挑戦してみたいと思います。

-オーケストラの団員としてのやりがいは何ですか?

赤坂  一人で演奏するのとは違って、「みんなでひとつのものを作り上げていく」という感覚が喜びですね。同じ目標に向かっていく感覚というか。

-難しい質問かもしれませんが、赤坂さんにとって音楽とはどんな存在ですか?

赤坂  私にとっては、心に感ずるままに表現できる、魂の叫びみたいなものです。そして、もう一方では、お薬のようなものですね。精神的につらい時も、音楽があったから立ち直ってこれたし、喜びなどを表現できる道具でもあるので。生きてきた半分が音楽ですから、私から音楽を取ったら何もなくなりますね。

Image-赤坂さんのように、将来、海外で活動したいと思っている方に、プロとして活躍する条件や秘訣を教えてください。

赤坂  秘訣は、あったら教えてほしいくらいなんですけど・・・(笑)。あきらめない気持ちでしょうかね。絶対に夢は叶うんだ!って、強く思い続けている人が成功すると思います。あと、オーディションで審査させていただく立場からすると、音楽って繊細な感性が必要ですが、もう一方で、絶対的に強い神経を持っている人でないといけないんです。家で練習して上手にできても、オーディションでも演奏会でも弾けなかったら、プロとしては残念ながら難しいですね。なので、図太い神経が必要なんです。そうでないと、外国でやっていく上で病んでしまいますからね(笑)

-持って生まれたものでしょうか。

赤坂  それも、もちろんありますし、周りを気にせず、意識して我が道を行くということで養われることもあると思います。

-海外で勉強したいと考えている人にアドバイスをお願いします。

赤坂  目標は漠然としたものではなく、明確な目標を持つことが必要です。近い目標と遠い目標を両方持ちましょう。あと、海外に行くのは語学が大事ですよね。英語が出来ることも有利ですが、音楽の世界の共通語としてはドイツ語。英語以外にも勉強していると楽しくなると思いますよ。

Image-赤坂さんは2ヶ月の勉強だけで渡航されたそうですが、渡航後、どうやって語学を身につけたんですか?

赤坂  てっとり早くお友だちを作ることですね。語学学校にも通いましたけど、それより、おしゃべりしていく中で覚えることが多いですからね。

-そういう交友関係の中から、すぐに上達しましたか?

赤坂  普通に生活する上では徐々に楽になりましたけど、結局は、仕事を始めてからだいぶ上達したのではないでしょうか。まだまだですけどね・・・(笑)

-首席で意見を述べるときに語学力は絶対必要ですもんね。

赤坂  きちんとした言語を話さないと、馬鹿にされますからね。あとは、外国人としてやって行く中では、ある程度、力を抜いてやっていくことが大事というか、切り替えが大事ですよね。私も、最初それがすごく苦手で、失敗すると引きずりましたし。ただそれをやっていると、病んでしまうんですよ。あとは、たまに日本に帰ってきて、家族と過ごすことなども、エネルギーの補給として必要でしたね。

-赤坂さんの今後の目標を教えてください。

赤坂  日本人としてオーストリアでやっていく上で、ウィーンワルツですとか、日本の方にもっと聴いてもらえたらいいなと思っているんです。企画・構成・演奏に携わって、日本とオーストリアの両方でやっていけたらいいなと思っています。

-来日コンサートの予定などはありますか?

赤坂  オーケストラで日本のツアーは、2~3年後にありますけど、個人としてはまだ全然実現できてないですね。

-今後のご活躍をお祈りしています。今日は、音楽を志す学生さんにとって、素晴らしいお話をたくさん聴かせていただきました。本当にありがとうございました!
 

井上智さん/ジャズギタリスト/アメリカ・ニューヨーク

「音楽家に聴く」というコーナーは、普段舞台の上で音楽を奏でているプロの皆さんに舞台を下りて言葉で語ってもらうコーナーです。今回はニューヨークでトッププレーヤーとしてご活躍中のジャズギタリスト/コンポーザーの井上智(イノウエサトシ)さんをゲストにインタビューさせていただきます。「ニューヨーク・ギタリストが歩む道」をテーマにお話しを伺ってみたいと思います(インタビュー:2005年9月)。

ー井上智さんプロフィールー

ジャズギタリスト井上智さん
井上智さん

神戸出身。同志社大学在学中から関西を中心にライブハウスやコンサートで活躍。1989年、ニューヨークへ渡りニュースクール大学ジャズ科でジム・ホールに学び音楽的・精神的に影響を受ける。同校卒業後、ニューヨーク市立大学院でロン・カーターに学ぶ。以後、ニューヨークのジャズシーンで、ジム・ホール、ジュニア・マンス、フランク・フォスター、バリー・ハリス、ジョン・ファディスなどのトップ・ミュージシャン達と共演。教則ビデオ「ジム・ホール/ジャズギター・マスタークラス」全三巻、「マジカル・ギター・テクニック/ビル・フリーゼル」の音楽監督を務める。現在、ニューヨークで最も注目されているギタリストの一人として活躍中。ニュースクール大学ジャズ科講師。ジャズライフ誌に「毎月増えるスタンダード」を好評連載中。現在までにリーダー・アルバムを 4枚発表。


—  最初に、音楽に興味をもったきっかけを教えていただいてよろしいですか?

井上 家に音楽が、レコードが普通にかかっていて、兄貴がフォークソングを聞いたり、親が音楽好きだったので普通に家に音楽が流れていたんですね。それで普通にレコードを聞いたりしていました。オルガンは習いに行っていたかな。ヤマハ教室に。そんなにまじめにやって無かったですけどね。

—  勉強みたいな感じでしたか?

井上 お習い事という感じ。子供の頃に。小学生三年の話ですね。すぐやめちゃったけど。

—  すぐやめちゃったんですか (笑)

井上 ほんま二、三年で辞めたかな。それから、高校行きだしたぐらいでやっぱりロックに目覚めたかな。親戚のいとこが同じ高校に行っていて、僕が一年の時、文化祭の体育館でロックバンドとして演奏したんです。それがすごくてがーんとショック受けて。それ結構大きいですよ(笑)。

—  本当ですか (笑)

井上 それで高校二年の時ロックバンドやりはじめたんです。

—  音楽に目覚めたけれど、井上さんは音大とかではなく、いわゆる総合大学に行っていますよね。

井上 同志社行きましたね。

—  その時は音楽のプロになる気だったのですか?

井上 全然、そんなまさに今自分がやっていることをやろうという計画は全然無くて。

—  本当ですか。

井上 なんか僕らの頃って、勉強させられてとりあえず大学行けみたいな感じあるじゃないですか。あまり将来の事考えずに。まあ行ってから考えろみたいな。で、同志社行ってそこで軽音楽同好会に入りました。そこでロックやりだして。

—  そこでもロックだったんですか?

井上 ロックですよ。

—  ずっとロックですね。

井上 ずっとロックです。ロックなんですよ。

—  それは面白いですね。

井上 面白くないですよ。昔はもう大体一緒。ロックからみな入ります。ロックギタリストが多かったんです。今はそんなにロックギターは人気ないかもしれないけど。その頃は若者がバンドやるし、ハードロックとか。まあぼくがやってたんはブログレ。

—  ブログレですか。

井上 ちょっとクラッシックも入ってたり、ジャズの要素も入ってたけどいろいろ面白い感じで。

—  なるほどなるほど。その時も作曲とかもされていたんですか?

井上 いや。してないですね。

—  じゃもう完全にコピーバンドという感じですか?

井上 コピーバンドですね。

—  でその後にずっとこうだんだんジャズに興味をもっていくと思うんですけど。

井上 ええ。それでなんか大学四年ぐらいの時かな。なんか音楽やりたいなというのがあって。

—  それは、プロとしてですか?
 

ニューヨーク・ジャズギター
音楽でささやく

井上 プロとしてです。普通に就職したくないなというか、反抗期がその頃から。なんか、ちょっとこのまま就職してはいかんのではないかなと思って。そして、まじめに音楽やギターをやってみたいなと思って。で、その頃にジャズスクールに行きだしのかな。

—  そうですか。

井上 なぜジャズスクールかというとやっぱりその頃クロスオーバーが、今でいうフュージョンかな。クロスオーバーが流行っていて、興味をもったんです。それは結局ロックとジャズのクロスオーバー、ロックとジャズのフュージョンだった。それで、これはちょっとジャズを勉強しなきゃ理解できないと思ったんです。京都のジャズスクールに行きだして、そうこうしているうちになんか演奏の仕事が入ったんですね。

—  いきなりですか。相当優秀ですね。

井上 とんでもないです。ジャズスクール一年くらい行って、その一緒に行っている人がキャバレーで演奏してて、ちょっとやると言うので僕が一緒について行ったら、君明日からおいでって他のバンドで言われてしまって。そのまま就職せずに大学は卒業してしまったみたいな感じですね(笑)。

—  就職活動もせずに。

井上 全然してないです。そのまま卒業してしまった。

—  その後、どのように渡米しようと思ったんですか?

井上 京都でいろいろライブハウスみたいなところでやったりしてて、まあジャズに、フュージョンよりもジャズそのものに興味を持ったんですね。まず25歳くらいのとき1ヶ月だけニューヨークにひたりに行ったんです。

—  音楽にひたりにですか?

井上 音楽にひたりに行ったんです。ジャズを聞こうということで友達と行きました。30日滞在のうち毎日毎日、よなよな出かけてのジャズ三昧でした。それはもうジャズクラブとかコンサートとかいろいろです。

—  毎日。30日間ですか?

井上 30日あったから、40回くらい聞きにいきましたね。昼間もライブ聞けたりするから。観光客ならではのパワーですね。

—  どうでした?その時。

井上 いやもうすごかったですよ、カルチャーショックが。結局外国も初めてだったからそういうのも全部含めて文化の違い、言語の違い、音もすごいし。

—  それはやっぱりもう自分には持ってないというものがやっぱりあったんですか?

井上 いやもうそれは全然持ってない。

—  なるほど。

井上 すばらしいプレイでしたね。

—  本当にそうですよね。すばらしいプレイヤーが目白押しでいますもんね。ニューヨークというところは。

井上 日常でやってますから。

—  なるほど。

井上 まあショックを受けて帰ってきたんですね。

—  その後どういうふうに?

井上 また関西でずっと演奏ライブやってましたね。また、ギター教えたりしながら。その後再度、ニューヨークに6ヶ月行ったんですよ。4年くらいたってからかな。

—  ずいぶん時間があいたんですね?

井上 そうですね。85年やったかな。日航機が落ちたときかな。阪神が優勝したときです。その頃だと思います。その時に当時の観光ビザで最高が6ヶ月だったかな。ちょっとまあ6ヶ月だから生活になりますよね。

—  ええそうですね。

ニューヨークでひた走るジャズギタリスト
ニューヨークでひた走るジャズギタリスト

井上 その6ヶ月でまたいろんなハプニングがあったというか。1回目行ったときはわりと聞くばっかりだったけど、2回目は実際、ブルーノートで演奏する機会とかあったんです。

—  へえー。

井上 ストリートミュージシャンをやったり。ブルーノートにちょっと日本人フェスティバルみたいなのやっていたり、ハーレム行ったり、いろんなところで演奏で花開いたというか。

—  それはどうやってこう、なんと言うんですかね。自分を…

井上 売り込んでいったかということですか?それはもうジャムセッションとかありますから。当時ブルーノートのジャムセッションに入っていましたしね。特に楽器を持ってジャズをやる、そういう場所が今でもありますけども、今より多かったかもしれませんね。そういう所に行くと同じ志の人達が集まっているわけですよね。世界中から。で、いろいろ情報交換して、そしてまた仕事でギターが要るからお前やれとか、そういうことが結構ありました。それでなんか俺ひょっとしたらニューヨークでいけるかも。なんかいけんじゃないかな、みたいな、そういう幻想をいだかせてくれたというか。

—  へえー。すごい。

井上 ラッキーだったんです。

—  ラッキーだったんですか?

井上 はじめに一ヶ月行ったときの下見があったから立ち回りもよくて、それなりにできましたしね。最初の1ヶ月、その後の6ヶ月のニューヨーク滞在の間に京都で自分でも演奏していましたからね。

—  それをニューヨークで再現ですか?

井上 ニューヨークで通用したこともあるし、通用しなかったこともある。まあそれでもいろいろ演奏の機会はあったんですね。

—  それで音楽でいけるなというふうに思ったんですね?

井上 通用するというか、まあ、ここで何とかアルバイトしたりとか、何とかなるんじゃないかみたいな感覚でしたね。生活して音楽勉強していくことが出来るんじゃないかみたいに思っていました。ただ、6ヶ月行って帰って来た時は、そんな計画は無くて、またやっぱり行きたいなというだけでしたけど。

—  そうなんですか?

井上 ニューヨークで生活しようなんか、そういう発想はなかった。

—  そうなんですか。

井上 ただ6ヶ月行って、なんとかなりそうなんかな、とかそんな気がしたんですね。そしてその後やっぱり関西に戻って演奏してました。しばらくして、もう一度、行こう。アメリカに行くなら今のうちだぞ、みたいな。どんどんいろいろ関係が出来てきてだんだん動きにくくなってくるでしょ。若いうちかなということで。

—  渡米をしたいと決めたのはどんなことですか?

井上 やっぱり6ヶ月のニューヨーク滞在がすごい自分の中にあったんやろうね。そこでいろいろな何かがパンと開いたんです。チャクラが開いたというか。やっぱり自分を鍛えたいというか、多分6ヶ月いたときに、短期間の6ヶ月しかいないというふうに自分で決めているから、すごい自分で動き回ったんだと思う。

—  生活でだらだらするのではなくて、音楽活動することを決めているから。もうがーんと来たわけですね。

井上 さあ行くぞ。やるぞ。みたいな。気合が入ってたんでしょうね。結局そういう新しい自分を見たのもあったのかもしれん。自分で自分に驚いたというか。自分がそういう環境にあると頑張る。ニューヨークで頑張る。ちょっと逆境といったらおかしいけど、言葉もそんなに流暢に通じるわけじゃないし。そういうところに自分を置くと、逆にこう頑張るというのがあるのかみたいな。そういう性格というかね。そんなこともあって、ニューヨークにもう一回行きたいというのは持ってたわけです。行くのだったらはやめに2、3年行って勉強して、帰って来ると。2年という事やったんだけど、これが今引き継いで16年(笑)

—  なるほど。最初は音楽学校に行かれたんですか。

井上 いや。それが行ってないんですよ。

—  音楽学校に行ってないのですか?

井上 行ってない。一年くらいは。ビザが丁度、切れる頃にやっぱりこれは音楽学校でビザ出してもらおうかということになって、ニュースクールに行ったのですね。

—  ジャズを学ぶには非常にいい学校ですよね。

井上 ビザだけのためにいったんですよ(笑)。

—  ビザだけのためとは思えない位、いい学校ですけどね。

井上 僕も良く知らないから(笑)。行ったらとても良かったですね。それでこれはもう卒業しようと思いました。

—  そこで恩師に会われたわけですか?
 

ジムホールと井上さん
ジムホールと井上さん

井上 そこで恩師に会いました。ジムホール大先生に。

—  なるほど。そうやって、だんだんアメリカ人を中心に外国人と演奏活動を主にやり始めるわけですよね。日本人と演奏する場合と、外国人と演奏する場合の違いはありますか?

井上 あんまり違いないですよ。

—  ないんですか?

井上 ない。相手が日本人だったら日本語でコミュニケーションするだろうし、アメリカ人だったら英語でする。それだけの違い。

—  ニューヨークに住んで、一番受ける音楽的な影響というのはどういうものでしたか?

ジムホールと井上さんの打ち合わせ
恩師ジムホールとの打ち合わせ

井上 いい影響も悪い影響もあるでしょうね。都会ですから。結局たくさんミュージシャンが集まっている所でやるわけですよね。他の分野のアーティストも含めて、結局層が厚い。たくさんのミュージシャンが切磋琢磨しておる。となるといろんな所でいろんなミュージシャンがいて、又レベルも高いし。まあ低い人もいるんですけれども、結局上から下までのレンジが広い。層もジャンルも。本当にそこらじゅうで日常に音楽が溢れているというかね。だからそういうところに自分を置くことによって、自分で自分のケツをたたくことが出来るかなみたいな。もともとレイジーな性格ですから。それに、学校に行って、ジャズギターだけでなく総合的な音楽の歴史とか、理論もそうですけれども勉強しなさいと言われないとしない科目ってありますよね。例えばコンポジション(作曲)だったり、イヤートレーニングだったり、ミュージックヒストリー、ジャズヒストリー、アンサンブル、アレンジメント、編曲ですね、そのような科目も良かったですね。ジムホールとかそういういい先生に出会えたというのも、ニューヨークでないと実現しない影響というのでしょうか。それと、もっと練習しないといかんなみたいな(笑)。

—  ニューヨークに行くミュージシャンの方はもっと練習しなきゃいけないと思うようですね。

井上 なんかミュージシャンは一日じゅう音楽の話をしてるみたいなところがある。人のライブ聞きに行ったりとか、自分で演奏したり。歴史的にジャズの大きなムーブメントが起こった町ですからね。そういうのが残っているんでしょうかね。雰囲気、空気がね、ジャズの。

—  日本にいたら受けにくい刺激ということはあるのでしょうか?

井上 わかりやすい話で言えば、アメリカ人がお琴を学ぼうとしたら、たぶん日本に行くみたいな。アメリカでも邦楽は学べるやろうけど、日本にいったらその周りにある文化や背景や歴史もね。

—  なるほど。文化とか言葉とかそういうもの全部すべてを一緒に学びに行かないと分からないということですもんね。

井上 そうですね、ジャズの場合アメリカで生まれた音楽ですし、まあ層が厚いですよね。層が厚いというかほんと豊富ですよね。そこらへんにあるわけだから。そういうところにミュージシャンが集まるし、世界から集まってくるし、そこでこう刺激を受けるんかな。

—  一番影響を受けたのはジムホールですか?

井上 いやもうジムホールのレッスンは目からうろこですね。もともと自分がジャズ、やりだすようなきっかけになった人ですから。

—  井上さんは、音楽というもので自分を見出していったと思いますが、その音楽やジャズというのは井上さんにとって何でしょうか?
 

ニューヨーク・ジャズギター
さまざまな思いを胸に。

井上 自己表現の手段。自己表現の手段やし、それはまた自分が演奏したり作曲したり演奏する時にミュージシャン、他のミュージシャンと美の追求を楽しむというか、何かを作りまたオーディエンスとも一緒に作り上げるという楽しみでもありますよね。いまや自分にとってそれが生活の糧でもありますけど(笑)。

—  そうですよね。

井上 そうはいっても結局、音楽に出会えてよかったと思いますね。ジャズに出会えて。

—  音楽は言葉で言えるようなことではなく、お客さんに聞いていただいて、こういうことを自己表現したいんだなというふうに分かって欲しいということですよね。

井上 そうですね。結局メッセージがあっても音で伝えるわけですから。小説家は小説で表現するし、ミュージシャンは音楽で表現するんですね。

—  一流のプロになられて、今後の人生まだまだありますけれどもどういうような夢をもっていらっしゃいますか?

井上 ミュージシャンとして、ギタリストとしてもっともっと成長したいですね。あと作品発表したいし、アルバムも作りたい。今の自分のバンドでもっと活動したいですね。

—  なるほど。海外でミュージシャンをやって活躍する秘訣、成功する秘訣ってあるとお考えですか?

ニューヨーク・ジャズギター
ジャズギターにかける思い。

井上 成功する秘訣があったら教えて欲しい(笑)。まあ自分がやっている経験から言うと、そうですね、いいものをよい形でプレゼンし続けたらいいんじゃないですかね。結構、日本でもそうだと思いますけど、頑張るというか、すぐ結果は出ないけども、やっぱり長く続けることじゃないですか。長く長く続けられるような環境に自分を置くことが大事ですね。あとやっぱり、実力社会でははったりのないところでの実力がいるし、また一人だけでは音楽はできないので人間関係もあるし、そのへんをクリアしつつ、自分を積極的に動かす。特にニューヨークなんかでは積極的に動けば割とレスポンスがあると思います。なんかいっぱい若い人が来て、まあ僕もまだまだ若いと思っているんですけど、いっぱい20代の人が来て良く相談や、ギター教えてくれとか来るんですけどね。でも頑張って自分の殻打ち破ってそこに行こうという人はやっぱり、そういうパワーを逆に俺がもらっている気がする。友達ばかりで集まってしまってなんかするんじゃなくて、知らない人とも出会って新しいネットワーク作ったりすると良いでしょう。

—  なるほど

井上 やっぱりニューヨークは人に会う場所でありますよね。僕も学校に行ってよかったのは、同じような事考えているいろんな人に会うことでしたね。

—  なおかつその学校以外でもいろいろな所にジャムに行ったりですよね。

井上 そう。ジャムに行ったりとかね。学校に行っていると、まあ忙しいですけどね。宿題とか。それに、秘訣というのは多分自分のスペシャリティーというのを知ったらいいんやろうね。

—  スペシャリティー?

井上 自分しかないこととか、自分の切り口といったらおかしいけど、そういうのあるでしょ?

—  他のミュージシャンと差別化するということですか?

井上 差別化というかミュージシャンだけではなく、例えば自分が映像の得意なミュージシャンだったらそういう切り口とか流れとか、コンピューターの操作が得意とかそういう自分のスペシャリティーを何かみせれるということだと思います。

—  海外で勉強したい留学をしたい、短期も長期もいらっしゃると思うんですけど、そういう方に何かアドバイスみたいなものがあれば教えていただいてよろしいですか?

井上 すごい応援しますよね。やっぱりいいことだと思います。見聞を広めて。アドバイスとしては、その留学する国の言葉を事前に出来る限り勉強しておくと、時間的に得なんじゃないかな。行ってからね。英語だけを学びに行く人は英語を学ぶだけでいいのかもしれませんが、音楽を学びにいく人でも英語はいるわけだし、例えばクラシック音楽をドイツに学びに行くのであればドイツ語をしゃべったほうがいいだろうし。言葉でコミュニケートするわけだから。それが苦手で引っ込み思案になりたくないよね。それに出来が悪くてもやたら先生に食ってかかるとか。お前もういいというような(笑)。日本の子はおとなしく聞いてる。まあ今の日本知らんけども、やっぱりクラスルームをアクティブにしたほうが先生も喜ぶし。意味の無い質問することは無いけど、やっぱりなんか食い込んだほうがいいんですよね、アメリカの学校は。

—  日本人って授業では結構おとなしいですか?

井上 かもしれませんね。

—  言葉ももちろん出来ないでしょうし。

井上 相手が私のこと見てくれないの。みたいに待っている場合があるから。待ったら駄目ですね。

—  実際井上さんもニュースクールで教えている立場としてそういうことを感じるということですね。

井上 そうですね。やっぱりインパクトを先生に残す生徒はなんとなく分かりますよね。気合出しているなと。

—  そうするとやっぱりこいつはかわいがってやろうと。

井上 かわいがってやろうかというか、まあなんでしょうね。やっぱりインパクト残したほうが得やろうね。何かとね。

—  そうですよね。頭に残りますもんね単純に。

井上 先生もうれしいしね。

—  やっぱりうれしいですか?

井上 そりゃやっぱり授業終わって話しかけてきてくれるとね、質問とか。

—  いわば質問はどんどんしたほうがいいと言うことですよね。意味の無い質問は先ほど言ったように止めた方がいいでしょうけど。

井上 質問だけじゃなくて積極的に参加するとかね。クラスルームをアクティブにすることが大事ですね。

—  わかりました。本日はありがとうございました。

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【井上智カルテット~メロディック・コンポジションズ・ツアー 2007】

6月11日(月)京都:ルクラブ 075-211-5800
6月12日(火)神戸:サテンドール 078-242-0100
6月13日(水)大阪:ロイヤルホース 06-6312-8958
6月14日(木)石川:西田幾多郎記念哲学館 076-283-6600
6月15日(金)福井:響きのホール  0776-30-6677
6月16日(土)鈴鹿:どじはうす 0593-83-5454
6月18日(月)今治:ジャズタウン・プレイベント 会場ジャムサウンズ 0898-33-3023
6月20日(水)大分:ネイマ 097-567-1517
6月21日(木)熊本:エスキーナ・コパ 096-322-5353 
6月22日(金)宮崎:Cafe B-flat 0985-28-8456
6月23日(土)東京:金魚坂  03-3815-7088予約制 
6月24日(日)甲府:コットンクラブ 055-233-0008
6月25日(月)東京:Body&Soul 03-5466-3348
6月26日(火)舞浜:イクスピアリ 047-305-5700
尚、詳しい時間や料金などは各会場に直接、お問い合わせ下さい。
ツアー全体のお問い合わせはS&J ASSOCIATES(076)222-5960

 

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