小笠原 智子さん/フライブルグ音楽大学/ピアノ科専任常勤講師

東京出身の小笠原氏は、東京芸術大学を卒業後にドイツに留学。ベルリン芸術大学、フライブルク音楽大学にて学び、在学中に全ドイツ音楽大学コンクールで優勝を果たします。演奏家国家資格を取得し、両校を首席で卒業すると、数々の国際コンクールで入賞。レパートリーはバロックから現代まで幅広く、ウィーン古典派、ロマン派、印象派、近代曲を中心に定期的にリサイタルを開催。また、ソリストとして名門オーケストラと共演し、そのキャリアを積み上げてきました。モーツァルト生誕250年記念祭では、ドイツ各都市でピアノソナタ全曲演奏会を開催し、耳の肥えた聴衆を魅了しました。フランスの新聞は、「ドイツ的厳格さにも関わらず、無重力とも言える軽々とした演奏は、モーツァルトそのもの」と絶賛。技術だけでなく、音楽の本質を探求し、それを演奏に反映させるピアニストとして、音楽界で高く評価されています。教育者としてもドイツ・フライブルク音楽大学で教鞭をとり、豊富な経験を持ち、多くのコンクール入賞者を輩出。子どもから高齢者まで、ひとりひとりのモチベーションを高め、能力と個性を最大限に引き出す、包括的なアプローチに定評があります。国際室内楽コンクールも審査員も務める同氏は、日本でも音高、音大生、受験生、留学希望者やコンクールの準備を対象にレッスンを行っています。 -まず簡単にプロフィールを教えていただいてもよろしいでしょうか? 小笠原様: ドイツ留学生活: 私は芸大ピアノ科で辛島輝治先生に師事し学部を卒業しました。その時点でとにかく外国に出たいと思っていたのですが、今のようなインターネットなどの情報網がなかった当時は全く雲をつかむようでした。偶然に先輩の方が一人ベルリンにいらしたのでその方を頼り、テープをゲオルグ∙サヴァ氏、〜85歳の今でも現役で教えていらっしゃいます〜 に送り、入試で取っていただけたのが私の人生の分岐点となりました。 ベルリンでの音楽学生生活は国際的で刺激があり本当に素晴らしかったです。 2年の間、サヴァ先生には毎週2回のインテンシヴなレッスンの他、すべてをサポートしていただき感謝にたえません。そして毎晩超一流の音楽家のコンサートに格安で通い詰め、(ベルリンフィルも当時500円、オペラも1000円)それで耳がすごく肥えました。最高に幸せでした!やっぱり本場との違いはそこですね。西欧クラシックの正統な趣味、センスは最高のものをじっくり味合わないと体得できないと実感しました。 ところが2年後にベルリン芸術大学を卒業したときに、これで日本に帰ったらせっかく見えてきた道がまたわからなくなってしまうというのではという危惧に悩まされ、迷いました。 その時ベルリンとスイスのマスタークラスでジョルジュ∙シェボック氏にお会いしたのが私の音楽人生に決定的な影響を与えたと言えます。どうやったらあんな吸い込まれるような音!が魔法のように簡単に鳴らせるのか?あの当時、先生はアメリカ、ブルーミントンの教授でしたが、しょっちゅうヨーロッパに来て演奏、教育活動、またこれからフライブルグ音大の客員もなさるというところでした。先生にも ” 君、日本に今帰って何をするの?”と聞かれました。コストが高いアメリカに渡らずドイツ国内でシェボック先生のレッスンが定期的に受けられるというのは抵抗し難い魅力がありました。そこでドイツの音大の最高学位であるコンサート/ソリストExaminationを受けるべくフライブルグ音大に入学してVISAを確保し、ティボー∙ハザイ氏、シェボック氏の両先生に就くという大変贅沢な学生時代の最後の仕上げをさせていただいたのです。大都会ベルリンで思う存分外から吸収したものの消化しきれなかった、、、その後黒い森の懐に包まれた美しいフライブルグで自分ととことん向かい合うことができたのは試験やコンクール以上に貴重な期間でした。 偶然にも私がドイツでついた先生は3人ともルーマニア、ハンガリー系の方々です。東欧人はその人間性に西欧人とは別の独特な味があり、音楽的にもその抑揚と律動感は私の感性にピタッとくるものがありました。これも幸運のひとつでしょうか。 バンベルグ: この間に私は今の主人であるドイツ人チェリストと出会い卒業後、彼が入団し今はソロチェリストとなったバンベルグ交響楽団のあるドイツ屈指の古く美しい町バンベルグへ移りました。ただそこは当時の私にはあまりにも刺激がなさすぎ、これでは先へ進めないなと困っていた頃、フライブルグ音大のピアノ科の教員に空きが出きたからオーディションを受けたらどうかと当時副学長だったハザイ先生から連絡をいただき、運良くその職を得ることができたのです。 それ以来私のバンベルグとフライブルグの2重生活が今もずっと続いています。 東西ドイツ統一後、西ドイツ(西欧)の東の端っこだったバンベルグもドイツの中央に位置する交通の要となり、国際的に著名なオーケストラを有する南ドイツきっての美しく古い町として外国人観光客も多くなりました。私はそこの素晴らしいオーケストラのメンバー達と毎年楽しくドイツ内外での様々な室内楽のコンサートに出演させていただいています。 フライブルグ音大での仕事: フライブルグの音大はまずその教師陣の素晴らしさがドイツの他の音大に抜きん出ていると思います。各科の横の交流も活発で私自身ピアノ科のみならず特に音楽理論の同僚からインスピレーションを受けサポートされることがしばしばです。フライブルグはドイツの西南端、スイスとフランスの国境まで30分ほどのところに位置します。そのためフランス、スペイン、イタリア等からの留学生も多く、自然に恵まれた大学街の雰囲気はアカデミックながらもオープンで活気があり、ヨーロッパで最も人気がある音大の一つです。 私自身について言えば、これだけ長くドイツで演奏にも教える方にも深く関わってきてようやく!”自分”が教えたい、教えられると思ってきたことが熟してきた感じです。クラスも大きくなりレヴェルも上がり、大学の重要な運営組織に関わることも多く大変やりがいがあり満足しています。 現在西洋人と東洋人がほぼ半々に混じっているクラスを教えています。彼らの弾き方、感受性、音楽の捉え方に現れる国民性の違いを観察、比較しつつ教えるのは興味の尽きないクリエイティヴな仕事です。特に日本人についてはここは早くからしっかり教え込んであり素晴らしいなというところと、楽譜の読み方が甘く大事な点を見逃したままさらいこんでしまっていて勿体無いというところがはっきり見えてくるようになりました。 -具体的にはどういった感じですか? 小笠原様:日本人は右手でお箸を使っているせいなのかはわかりませんが、まず目立ったところ(大概右手が多い)、音が多く込み入っているところをさらい、それを技術的にパーフェクトに弾きこなすことに焦点を当てていることが多いようです。その上で旋律も歌い感情を入れて聴かせようとする。どの音もバリバリと聞こえはするのだけれど立体感が少なく中身がスカスカ抜けているように聞こえる場合がしばしばです。それは音楽の根底にある和声(特に伴奏形ー概して左手)をあまり聴いていない。すべての音には縦(和音)と横(旋律)の線が交わるところに独自の場所と方向性があり、それが和声と旋律との響き全体を決定するわけです。旋律の土台への意識が低いと立体感を損ない、バランスが悪くなり音楽全体が不安定になります。さらに各音の意味が不透明になり、響きが融合しにくくなります。それはフレーズの流れにも当然影響します。こう言うととても難しく聞こえますがわかってみるとああ、なんだというぐらい簡単明瞭なことです。呼吸も楽になり自然と弾き方にも無理がなくなるのですから。 また音楽自体が国際言語と言えますが、そうだとすると西洋の音楽を学ぼうとする日本人にとってネックになるのはまさに日本語です。日本語は抑揚が少なく平坦な言語ですよね。母音と子音の差を濁したまま話すこともよくあります。また文章構造も関係代名詞で次から次へと副文が重なる論理的ではあっても複雑で長〜いドイツ文!よりは簡潔で短いです。だから日本人が西欧のクラシックを弾くと自ずと平坦でこじんまりとしてしまう場合が多いのは当然かとも思います。そうなると先ほど述べた和声感の弱さと相まってフレーズの息が短くなり、和声の拍の取り方を誤解したり、旋律の歌い方も何か不自然になっているのに気がつかない。 また日本人は総して全体像を大きくつかむことがイマイチ苦手です。部分を切り離して細かいところから綿密に仕上げていくのは得意なのですが。でも音楽はパッチワークではないですから。細部にこだわりすぎ、全てを一辺倒に真面目に取り、それを頑張りでさらい込もうとすれば不必要な緊張を体に強いることになります。音も硬く伸びなくなり音楽の流れに乗りにくくなりますね。 日本人の演奏が概してそつなく綺麗にまとまっているが今ひとつインパクトに欠ける、眺望が狭いと向こうで思われがちなのは言語のギャップだけではなく、その辺のメンタリティの差もあるかと思います。 楽譜の読み方で言えば、譜面上記されていることは鍵盤に正確?に移せるけれど、書かれていない(西洋人の作曲家ー母国語ーから見れば書かなくて当たりまえ)ことが読み取れない。だからどうしてもそこでずれちゃったり、その辺りの音楽的文法の間違いを犯しがちなんですね。それがおかしいとはすぐにはわからない。でも私が比較して説明したり弾いてみるとどちらがいいかは即、納得がいくわけですから音楽的センスが足りないわけでは決してないのです。 私は日々ドイツ語ばかりに接しているのでこちらの本を読むように楽譜を読むことに慣れてしまっています。とはいえ日本語を忘れているわけではないので、、、例えば外人が意味は全くわからずに日本語の発音のみパーフェクトに真似して話したり歌うのを聞くと何か変だと思うでしょう?日本人の演奏を聞いていてこれと似たようなことを感じることがあるというわけです。 演奏のレベルがかなり高い場合を言っているのですが、特に間違ったことをしているのではないけれど、なんか足りない、変?と本人も何となく感じている場合が多い。でも何となくではまずいのです。また日本人が情感を大事にするのはいいのですが、この場合本人の感情とイメージだけで好き勝手に弾かれてはもっと困る。こぶしを利かせてここぞとばかりに歌いまわしたり、ひたすら自分に酔って弾いたりと。単に感情移入、歌い心といっても自然なクラシックのセンスから外れてしまっては話になりません。各作曲家の持っている凛とした独自の話し方、言語があるわけですから。これは絶対に無視できない。 同じドイツ人でもハイドンとベートーヴェンとでは、フランス人でもラヴェルとプーランクとでは随分違う。そういう意味で、私はフランス人やイタリア人やロシア人の学生を教えていると、ああ、母国語ではそういう感じでそういうふうに語るのね、なるほどと、こちらが学ぶ時もよくあるんです。フランス人がフランスものを弾くと、先程言ったような文法の間違いはまず犯さない、彼等は母国語で話しているわけだから。逆にドイツ人がブラームスを弾くとピアニスティックな問題は山積みであっても文法の間違いはそう簡単には犯さないんですね。 微妙なところなんですけども。その辺りが長年の経験と観察で明確になってきたので、そこを東洋人の方にお教えするのがヨーロッパと日本の間にいる私の役目だと思っています。 ただ日本から留学志望の方は語学の障壁、必要性を軽視して、ただ西洋に行って西洋人の(有名な)先生につけば何かが得られる、上手くなれると単純に夢見ている方がまだ多いように見受けられます。でもちょっと考えてみてください。ドイツ語、少なくとも英語で会話ができない留学生には教える側にも限界があり、そのためにある一定以上の突っ込んだレッスンは不可能になるのは当然だと思いませんか? 日本語を理解し、今まで申し上げてきたような日本人特有の問題点を考慮に入れてレッスンする西欧人の先生はまずいません。そしてドイツの音大でピアノ専攻科を教えている日本人は非常に少ないのが実状です。 もちろん本人の才能と知性、それまでの教育がすべての土台となります。今まで受けてきた教育や努力が間違っていたわけでは決してない、ただそこでまだ見えていなかったことに焦点を合わせ、私が間違いを直すというのではなく、根本から、または違った側面からのアプローチで(そこはじっくり日本語で)その疑問の解決に少しでも近づけたらと思っています。 -弊社のお客様でもフランスに行きたいという方とドイツ系に行きたいという方と、いろいろ分かれるので、その辺はドイツならではの特徴があったりしたら教えて下さい。 小笠原様:そうですね。ヨーロッパ人から見ると、日本人も中国人も韓国人も十把一からげなんです。こちらから言うと失礼な話ですが。でも日本人から見れば(昔は私もそうでしたが)西洋人は白人十把一絡げでどっこいどっこいですよね。 ところがゲルマン民族とラテン系民族の国民性は呆れるほど異なります。 ドイツ人は論理的思考を好み、自己主張が非常に強い。ですからとても討論好きでテレビのトークショーの多さ(料理番組ではなく)がそれを物語っています。そしてドイツの政治、外交手腕の巧みさにも表れています。自分の意見を相手に納得させるためには明確に話せないとダメ、黙っていれば意見を持っていないと誤解され、下手をすると無視されかねません。ドイツでは沈黙は断じて金ではありませんし、空気を読む?とか謙譲の美徳もまず通じません。適当に譲って丸く収めるというのは大の苦手、私から見ると柔軟性に欠けると思われることもしばしば。ですがお互いの意見をはっきりさせてこそ相手を理解し協調の為に不可欠な尊敬が生まれる。 ドイツは9カ国もの隣国に囲まれ、西欧と東欧の境で絶えず切磋琢磨されつつ、2度の世界大戦での最悪なダメージを克服し、現在では世界で最も信頼されている経済大国の一つで外交の要です。ラテン民族ほど明るくエレガントで軽やかとは言い難いし、融通はあまり利かないけれども素朴で強靭、徹底した論理的思考に裏付けられた行動力、持続力には驚嘆させられます。実際生活していて大した国だとつくづく感じます。そしてそれは文化、言語、芸術にも当然反映しているわけです。 私は子供の頃から西洋文学、特にドイツ文学が好きで読み漁っていましたし、クラシック音楽もドイツものに惹かれていました。やはりその辺りが、私がドイツに行きたいと思った最初の理由でしょうね。でも日本でいくら努力してピアノが上手くなれても、私程度の才能では実際に母国語を話しているところで生活しないとつかみきれない。私はそれを芸大に入る前からこのままだと肝心なところは目隠しされたままだろうとウスウス感じていました。 そしてそれはどこからも誰からも教えてもらえないだろう、向こうに行くしかないなと思ったんですね。そうして行ってみたら、なんのなんの4、5年ぐらいではそう簡単にわからない、 もっと深く理解したいと思って、まだやっているわけです、もう何十年もいるのに。本当に奥が深いし、幅も広いし、長い道をここまで来て、でももうこれでいいということはない、これからはもっと力を抜いてさらにシンプルに。そして私よりも何十年も後に生まれた若い世代にもっと的確に伝えたい、私が回り道してきたことを、もう少し楽にクリアできるように、ピアニストに最も必要な柔軟性と忍耐を培いつつ、、、 -留学を現実にするために、先生の観点から日本で出来ることはなにになりますか? 小笠原様:留学したいなら、どこへ行くにしても当然のことですが入試を突破するための専科の技量を磨くこと、バッハなどポリフォニックな曲、ウィーン古典派、エチュードが基本的にどこでも重視されます。そして肝心なことは自分にあった先生を探すこと。サイトや口コミだけではなく実際にその先生とコンタクトを取りレッスンを聴講、受講してみないと。 あとは語学が決定的になりますね。ドイツでは願書申し込み前にドイツ語の語学証明のB1か音大によってはB2を前提条件にしています。筆記試験が入試当日に加わる音大もあります。どこへ留学するにせよ、向こうで意思の疎通に会話能力は欠かせないし、個人レッスンのみではなくセミナーなどの講義もある程度までは理解できるようにしておく必要があります。また国際言語である音楽そのものを理解する上でも語学は不可欠ですから早く習い始めるに越したことはありません。これだけは一夜漬けは利かないですから、、、 あと音大によっては入試で初見試奏を要求するところもあります。楽譜を一目で包括的に読み取ることはピアニストの最も大事な能力の一つだと私は思っています。入試にあるなしに関わらず日頃から訓練をしておくべきでしょう。 また日本は師弟関係、また親子の関係が、よく言えば礼儀正しく緻密なんでしょうけども、それゆえにどちらの側からも自立することを困難にしているように思えます。例えば中国人の留学生の大半は15、16歳で親もとを離れ西洋に来て留学の準備を着々と始めます。英語は日本人よりずっと達者だし自立心が強く個性的な子達が多いです。大陸的なヴィジョンを持つグローバルな国民です。何をするにしても独立独歩することでしか精神の強さは養えません。 -先ほどの先生のレッスンを拝見していて、まず弾いて、あなたどういう感情で弾いていますか?と質問を投げかけましたよね。日本の先生ってそれはされていますかね? 小笠原様:さあ、日本の先生方の教え方をすべて把握している訳ではないのでそこはわかりかねますが。でも例えば向こうで日本人の学生を教えるとしますね。一体どういう教わり方をしてきたの?と尋ねると、大概の学生、生徒は、自分が上手く弾けないところを、先生にそれじゃダメ、こうしたら、ああしなさいと言われ、その通りにすると良くなった、という感じのレッスンだと言うのです。じゃあ、自分では試行錯誤したり、先生に何か質問はしないの?と私。結局そこです。さっき言った自立させるか、できるかどうかということは。お手本がないとわからない、不安なのはまだ甘えているということです。 最初、幼い時は真似、コピーから入るのはある程度当然でしょう。ただ、コピーすることに依存したまま大人になってしまうのは非常に残念だし、危険だと思います。自分で見つけ出すには楽譜の”意味”を正確に読みとることから始まり、音にする際の手指だけでなく身体全体の使い方を探り、そして自分の音、タッチにもっと耳を傾けるようになる事が大事です。そこをうまくサポートするのが私たち教師の務めです。 また例えばモーツァルトのピアノ曲を学ぶにしてもYouTubeで他のピアニスト達の解釈を比較(真似?)するだけではなく、彼のオペラや、室内楽、交響曲などの他のジャンルを聴いてもっと幅広いところからも入っていかないと。その作曲者の音楽、人間像を理解するために。全ては一つにつながっているのですから、、、 また日本では音大ですらピアニストのアンサンブル教育にあまり力を入れていないのは全く理解に苦しみます。ピアニストはソリストの方がアンサンブル奏者や伴奏者よりも上だと思っているとすればそれは大きな間違いです。私は学生時代から今までなんと多くの楽器奏者や歌手と音楽を分かち合う喜びを得、楽しみ、かつ学んできたことでしょう。これより豊かな音楽的人間的財産があるでしょうか?一人だけでピアノと格闘していてもいつか頭打ちになることは請けあいです。他の楽器(意見)を聴き、自分を主張すると同時に全体に融合させる。呼吸を合わせることから弾き方も柔軟になり、音色のパレットも豊かになる。それが自ずと独奏の際の音楽の幅を広げることにもつながります。ピアニストとしてこんなに醍醐味があってうまい話を見逃す手がありますか? すべての器楽奏者、歌手が良い耳を持つピアニストをパートナーとして必要としているのに。 ーレッスンはピンポン? 日本の小さい子供は ”今私ー先生ーがここにいないと思ってさらってみて”と言われると、えーっ?ということになるんですね。でも私はその子が一人でピアノに向き合っているところを見たいなと思っているわけ。どう練習するか、これほど個人差がありまたそれを正しく必要とするものはありません。ところが生徒は(ちゃんと?)さらってある曲を先生の前で弾いて教えてもらう、先生は”直す”立場、また教える方も言ったことを来週までに直してきてね、と思っている場合がとても多い。それでは一方通行でイマイチつまらない。 レッスンはcritical thinking (批判的思考), communication(対話), creativity(創造性)が双方にあってこそピンポンができて面白くなるのです。面白くないものは長続きしないし上達につながりませんよね。 単に真面目に、キチンと言われたことを守って、間違わないように、頑張る、、、だけでは自発的な本当の愉しみは生まれてきにくいものです。 だからそ私はレッスンの際、そこにも焦点を当てているつもりなんです。日本人の倫理、美的感覚は西洋とはかなり異なります。ですからそれをそのまま当てはめようとするととんでもないことになりかねない。決して良し悪しの問題ではないんですけど。 でも西洋クラシック音楽を本気でやろうとするんだったら、他人からどう見られているかなどというつまらない自意識は捨てて、自分がどうありたいかを探さなくては。自己を確立させるにはもっと早くから自由な視点、観点に立つ勇気が必要です。 純粋単一民族で島国の日本からでは展望がなかなか掴みにくいのは当然です。ただ最初に言った通り昔とはちがい(特に)日本で情報は今や過剰なほど溢れています。 しかし肝心なのは全ては ”百聞は一見にしかず” の一言に尽きますね。 最後に: いろいろとお話しましたが、メンタリティも言語も全く異なる私たち日本人がこれほど熱心に西洋クラシック音楽に傾倒し、海外でも素晴らしい活躍をしているのは普通の西洋人には理解し難いようです。なぜなら彼らは東洋の歴史、文化をほとんど知らない、習っていない!(何たる片手落ち!)その上日本語は全く理解できないからです。日本人は未知でも真に美しいものは受け入れ、理解し徹底して学ぼうとする飽くなき探究心がありますね。西洋人もその素晴らしいメンタリティと日本固有の文化にもっと真の興味を持って欲しいと切に思います。そうすれば私たちと彼らとのピンポンもバラエティに富みさらに楽しくなるでしょうから。 -貴重なお話をありがとうございます。

海外国際音楽コンクールのご参加をアンドビジョンがフルサポート!

03-5577-4500

info@andvision.net

Join Us On

アンドビジョンからのニュースレター